『しかし、痩せた裸子には身に余り―――』
*
翌朝、朝食後の扉番の騎士団員が右の持ち場に立つと、足元に石で書いたような落書きを見つけた。きったねえ字だな、と呟いてよく見ると、靴底で擦って消してあるようだが、無秩序に並ぶ単語の中に、人の名前がいくつか読めた。
「騎士様、おはよう!」
親と一緒に今朝の二便で出航するらしい子供が、小さな荷物をしょって、目の前を通った。
「ああ、おはよう」と返事をすると、騎士が今見ていた落書きを、子供も見ている。
「騎士様が書いたの?」
違う、と首を振ると、子供は安心したように笑った。
「だよね、きったない字だと思ったんだ!」
「こっちの字は、まだましだぞ」
左に立つ騎士が、笑いながら足元を指した。そうして苦笑して、しかし落書きはいかんなあ、と付け足した。
「後で、きちんと消させよう」
「消すの? じゃあ、ついでに少し書いていい?」
子供は返事も待たず、転がる小石を拾った。落書きを見つけてからきっと、ずっと書きたかったのだろう。淀みない筆運びで、一際大きく書かれた男名と女名に、相合傘を被せた。
スノウは、昨晩久し振りに帰宅した自宅で朝食を取ってから騎士団の砦に出向いた。領主である父、フィンガーフート伯に、君から話してもらえないか、と上官に頼まれた用件のついでに、羽を伸ばしてきたのだ。
宿舎のベッドは、どうも硬くて狭い。
砦の前では、なにやら掃除の最中だった。バケツで水を撒いて、敷石をごしごしと硬いブラシで擦っている。
「……あっと、すみません、坊ちゃん、水、かかりませんでしたか」
「いや、大丈夫さ」
軽く微笑んで、騎士団に雇われている男を安心させてやる。その笑顔が、足元を見て固まった。
「……ああ、どうも、昨日の扉番が落書きしたみたいですね。騎士さまっていっても、訓練生は、まだまだ子供ってことですな。……あ、坊ちゃんは違いますよ、勿論」
お追従笑いなどスノウは聞いていない。
「こっちも頼むぞ」
左側から声が飛ぶ。はい、と答えて、男はブラシを持っていく。目だけで見ると、避けていたのか、右の当番の騎士も、左番の騎士と一緒に立っていた。その足元には、ヒルダの字。
(……昨日の立ち番は、彼じゃなかったはずだ)
それに、眼下の品のない落書き。
「すんませ~ん!」
今思った相手の声が、扉を抜けて響いてきた。ぎくりとして見ると、デッキブラシを担いだ、
「たっはは、今すぐ消しますんで!」
(―――やっぱり、君か!)
タルはがっしがっしと地面を擦りだして、それからスノウに気が付いた。
「……お? よう」
にかっと笑う。
「……そうだと思ったよ、このレベルの低い落書きは」
うん? とタルは改めて半ば消えている落書きを見る。悪筆を言われたと思ったのか、字は苦手なんだと言う途中で首を傾げた。
「……?……いや……俺だけど、俺じゃない」
そして、ぷっと吹き出した。
「こりゃ子供の書いたもんだな!」
(――君がそう評されていたんだ!)
スノウは拳を握り締める。タルは知らずに、相合傘か、久し振りに見たな、と笑っている。おい、こっちの落書きをしたヤツは、と立ち当番の騎士に聞かれて、今団長に呼ばれてます、とタルは答えた。団長じきじきに叱るのか、と驚く騎士に、いやもうカタリナさんに叱られたっすよ~、とタルは頭を掻く。そりゃ怖かっただろう! と騎士二人は大笑いする。
スノウは彼らを置いて、扉を中へ潜った。バカに付き合っている場合じゃない。自分も、団長に報告することがあるのだ。
騎士団の館の、塔に通じるドアを入る。途端、今朝のフィンガーフート家の食卓ほどではないが、いい匂いがした。騎士たちはもう朝食を済ませたようだが、下働きの者などは、これから食事なのだろう。
食堂の手前にヒルダに宛てがわれた部屋がある。スノウはそこを素通りして、食堂の向こうの階段を上った。そこに見えるドアが、海上騎士団団長の部屋だ。
「スノウです」
ノックして名乗ったスノウに、入れ、と団長の声がした。
案の定、ヒルダがそこにいた。タルの言った通りだ、というのが、少し面白くはなかったが。
部屋に歩み入り、敬礼を取る。グレン団長も軽く返し、報告を促した。
「は! 父……ゴホン、フィンガーフート伯は、今まで通り、訓練大会など、直接対外戦備に関わらぬイベントであっても、騎士団の経営にスポンサーとして資金提供をすることは吝かでない、との返答をされました。いつものことだし、そのつもりだし、と」
「そうか。了解した。ご苦労だった」
グレンに労われ、は、とスノウは敬礼を取る。そして、スノウの隣で待つ形になっていたヒルダを見た。
「実はな」
話しかけたのは、スノウへだ。
「君たち二人に、来週行われる、騎士団全体の訓練大会での、新人代表挨拶を頼もうと思っていたのだが。ヒルダが断ってな」
「えっ」
スノウは、ぱっとヒルダを振り向いた。
「どうして? 一緒にやろうよ、ヒルダ」
ヒルダは首を横に振る。団長の前ということを半ば忘れて、スノウは熱心にヒルダを説得した。
「年に一度の、団員全てが参加する訓練大会だよ。その新入生挨拶は、ほんとに、入団したその年しかチャンスはない。卒業の火入れの儀式ほどじゃないけど、これも名誉なことじゃないか」
それでもヒルダは横に首を振る。スノウは、ああ、と思い当たったように声を上げた。
「そうか、大勢の前で話すのは嫌なんだね。大丈夫さ、全部僕が話す。君は、僕の後ろにいてくれればいいから」
ヒルダは、僅かに眉を寄せてスノウを見た。
「ね。ヒルダ」
「…………」
ヒルダは、こくりと肯いた。
満足そうに、うん、とスノウが返した時に、団長の声が、ゆっくりと続けた。
「……では、新人代表挨拶は、君たち二人に任せる。追って、副団長から詳細を伝える」
スノウとヒルダが、揃って姿勢を正し、敬礼する。それに返しながら、グレンは渋い顔で付け足した。
「一つだけ言おう。ヒルダ。代表は二人だ。話せずとも、せめて横一列に並べ。わかったな」
「…………」
「復唱」
「……代表挨拶では、横一列に並びます」
「よし。行け」
団長室のドアを出たところで、「ヒルダ、」とスノウは、俯くヒルダを優しく見下ろし、声をかけた。
「僕が全部ちゃんとやるから。君は、何も心配しなくていいんだからね」
「…………」
うん、とばかり、ヒルダは肯いた。
*
『過酷さが適度だと、裸子は滲(し)みて信じている―――』
*
午前の学科授業で、机間を巡回していた教官が、タルの机でピタリと止まった。
うげ、と思ったのが顔に出たか。しかし教官が口にしたのは、タルのノートに綴られている設問の写しの悪筆でもその答の不出来についてでもなかった。
「正式な下達は午後の訓練時にあるだろうが、来週の訓練大会、特別仕合の新人代表をお前にもやってもらう。心しておけ」
え、と思って顔を上げた。教官は既に離れており、暫く目で追っていると、少し離れたケネスの机の横に止まった。ケネスが同じように、え、と言う顔で教官を見た。
授業が終わると、タルは荷物をがばっと抱えて、一目散に食堂に向かった。なにせ、頭を使うと腹が減るのだ。
食堂に突っ込む直前に、タルは踏鞴を踏んで立ち止まった。ヒルダの部屋の前だ。
こんな場所に、1人で。
さっきの授業に、ヒルダの姿はなかった。同じくスノウも。二人、副団長に呼ばれたのだと聞いた。
食堂からのいい匂いは殺人的であったが、タルは、先程聞いたばかりの特別仕合の話をネタに、訪ねてやれ、とドアをノックした。
「よう、いるか?」
ガチャリとドアを開けると、ヒルダはいた。驚いたようにこちらを振り向き、脱いだばかりらしいシャツを、ばっと胸に当てた。
「っと、わり……鍵かかって……て、この部屋鍵かかんねえのか?」
改めてドアを見て呆れた。ここまで待遇が違うと思わなかった。
ヒルダは体を服で隠したまま固まっている。持つ服は、どうやらスープを零したか。替えのシャツが、ベッドの上で待っている。
「メシ、済んだのか?」
ヒルダは首を横に振る。そうか、と思った。ヒルダは団長の食事を運ぶ手伝いをしている。きっとそれを零したのだ。
だがタルはそれには触れずに、にっと笑った。
「んな恥ずかしがんなよ、男同士だろ!……ま、昔は気付かなかったんだけどよ、ははは、ずぶ濡れのあかんぼ着替えさせたら、ふつー気付くよなあ……!」
ぱ、と口を塞いだ。またやった。
ヒルダは、自分が拾われっ子だと知らないかもしれないのに。
「……」
ヒルダは、ちょっと笑ったようだ。
「……タル、だろ。ぼくを助けてくれたの」
「え……」
「知ってるよ、拾われっ子だってこと。有難う、助けてくれて。……ちゃんと、お礼、言いたかったんだ」
――育ててくれたばあちゃんの本当の孫ではないと、いつから知っていたのだろう。
「だっ誰かに聞いたのか?」
それとも俺のへまで。
ヒルダは、こくんと肯いて。
「ばあちゃん、ちゃんと話してくれてたから」
「…………」
なんだ。知っていたのだ。初めから。
自分が、どこの何とはぐれたかも知れない、一つっきりの、流れた実だということを。
「……いや……あー……まあ……うん」
ポリポリと頭をかいた。照れと、憐憫と、いろいろなものを隠して手を振った。
「ま、いいってことよ、ほら、服着ろ」
「うん」
汚れたシャツを置いて、替えのシャツを手に取った。――タルは、瞠目した。
初めて目にした。大きな傷。露なヒルダの背中に一つ、腹に一つ。細かな傷が……判別が付かない。
「……なんだそれ」
声に怒りが含まれた。
「……え……あ」
話すうちに、自分が何を隠していたか失念したものだろう。ヒルダははっとして、大急ぎでシャツを着た。どこか怯えて口を開く。
「……痛くないんだ」
意を決したように近付くタルに、ヒルダは言い募る。
「痛くないんだ」
「誰にやられた」
「古い、傷だから」
「……まさか」
「違う、スノウじゃない」
タルを真っ直ぐに見た。
「スノウは、こんなことしない」
「………じゃ誰だ。スノウの親父か」
「……………ち、が」
目が泳いだ。
「じゃ誰だ」
「……平気なんだ、もう、誰もしないし、痛くないし、……領主様が悪いんじゃないんだ、ぼく、が、仕事遅くて、怒らせたから、だから、もう今は誰も」
「……スノウの親父なんだな。スノウは知ってんのか」
タルの声が、どんどん低くなる。ヒルダは、ただ首を横に振る。
「……」
「……知らない。絶対、知らない。……知ってたら、……きっと……助けてくれた、はず、だから」
「…………そうかよ」
ばっとタルを見上げて、ヒルダは叫んだ。
「……本当に! 叱られてたぼくを、スノウは助けてくれた! ヒルダは、僕のだからって、街に連れ出してくれた……」
タルはこれ以上ないほどに眉を寄せる。歪んだ信頼が悲痛だ。どこがどう歪んでいるのか、タルは上手く指摘できない。
――昔、スノウと連れ立って歩いていたヒルダを思い出す。
赤いリボンをひらひらさせて。
「……それ」
「……え」
ひょいっと、髪より長く垂れる、ヒルダの赤いリボンの先を摘んだ。
「ずっとしてんのな」
「……スノウがくれた」
「……そっか」
薄く、にっと笑った。ベッドに転がる鎧を拾って、ぱしん、とヒルダに押し渡した。
「メシ、行こうぜ」
明るく誘う。ヒルダは、汚れたシャツを見下ろした。
「……洗ってから行くよ」
「洗濯くらい、任せて出しときゃいいだろ」
「……乾くの、間に合わないから……」
「……」
替えが、一着しかないのか。
「……んじゃあ、オレ、先に飯と場所、とっとくからな」
うん、と肯くヒルダは、それでも嬉しそうに見えた。
赤ん坊のやわらかい感触。
タルは、食堂の椅子に座って、二人分の昼食を前に頬杖を付き、思う。思い出す。
(あかんぼのほっぺって、やーらけえなあー)
拾った赤子を、潰してしまわないように気を付けながら、抱きしめて、頬擦りをした。ふにゃふにゃの頬に、ちゅ、ちゅ、と口付け、指でつつき、また頬を擦り付けた。
(……俺が拾った命だ。なんて考えんのは、スノウの奴と、大差ねえんだろうなあ……)
食事を前に手を付けないタルを、何人かが気味悪そうに眺めていった。
(ヒルダの親父みたいな気になってんのかな?……あかんぼのヒルダを抱いて、離れてもずっと気にしてきたから……5歳ほどしか違わねえけど)
後が閊えてるから早く食べてよ、とフンギに怒られ、タルはようやく皿に手を付けた。食べ始めると、腹が減っていたので、あっという間に平らげる。タルの食事が終わっても、ヒルダは食堂に来なかった。フンギに追い出されるのを堪えていたが、ヒルダに取っておいた皿が冷め切る頃に、ヒルダは用事を言いつけられて町へ出たのだと、人づてに聞いた。
*
『裸の身には、陽は熱く―――』
*
午後の訓練場には、訓練生の全員が、整然と並べられていた。来週の訓練大会で行われる特別仕合の各ペアが発表され、当日までなるべくそのペアで練習しておくように、と通達された。
発表で名前を呼ばれた他の代表達同様、周りに立つ訓練生たちにどかどかと祝福の肘打ちを喰らっているタルに、いつぞや夜中の扉番を交代した先輩が、走り寄るなり大声で叫んだ。
「ばあちゃん、助かった!」
ぱああっと、タルの顔が輝く。
「やった! 良かったじゃないすか!」
二人は抱き合い、跳び上がって喜んだ。
タルは、誰とでもこうして喜び合えるのだ、と。
8年前に他界した、自分を育ててくれた祖母を思い出した。あの時傍にタルがいたら、一緒に悲しんで、泣いただろうか。
「ヒルダ?」
知らず俯いていた顔を上げると、いつの間にかタルがすぐそこにいた。
驚いた顔は、今考えていた悲しい出来事と相まって、何かを責めるように見えたかもしれない。
「……助からないより、助かる方がいいよな」
タルの声は優しい。
「……うん」
答えたヒルダの頭を、微笑んでぐしゃぐしゃと撫でた。ヒルダは、尋ねてみる。
「……頭撫でるのは、くせ?」
「ん?……そっかな? ちっさい弟たちいたし。あ、嫌か?」
嫌なものか。嫌じゃない。
伝える前に、元気なジュエルの声がした。
「タルの兄弟って、うるさそー」
いつの間にか近くに来ていたジュエルに、おう、うるっせえぞ~、と笑ってタルは応える。よく見るとポーラも、他の訓練生に叩かれながらケネスも、傍にやって来ていた。
「お前ら、兄弟っているのか?」
タルの、ヒルダ以外に投げかけられた質問。ジュエルは顎に人差し指を当てて空を見る。
「うーん、いるかも」
「かも…?」
「勝手に島を出てった人のことってさ、あんまり話さないし。あたしもナ・ナルで生まれ育ってさ。つまんなくってさー」
ジュエルも、出てきた口らしい。ポーラが口を開いた。
「私は兄弟はいないと思います。生まれた土地はわかりませんが……出身というなら、母の暮らしたエルフ村が、ナ・ナルにあります」
「え、なんだ、近いじゃん!」
「はい」
女同士、笑い合う。笑い合いたくて、ポーラは出身の村まで話したのだろう。ケネスは? とジュエルが訊いた。
「生まれは知らないが……出身ってことなら、ガイエンの孤児院にいたな。だから、親兄弟はわからない」
「……」
「そうなのか?」
「こないだいわなかったじゃん!」
「そこまで聞かなかっただろう」
ケネスが隠し事をしたかのように責めるジュエルを窘めておいて、ケネスはヒルダに、ちょっと笑った。
「ヒルダと一緒だな」
「……」
こくりと肯く。親近感に似たものに、胸がうずいた。
「タルはー?」
ジュエルの問いに、タルは片眉を上げる。
「兄弟は、だからいるって、たくさん」
違う違う、とジュエルは手を振る。話はいつの間にか、生まれについてになっている。
「……生まれたのは船の上だっつってたかな。ちょうど時化で、大変だったつって」
タルは思い出すように、空を見て、顎を擦った。それをケネスが混ぜっ返す。
「なるほど。揺れで、頭の味噌が流れ出てしまったんだな。気の毒に」
タルは目を眇めて、反撃した。
「……知ってるぞ。お前の脳みそは実はこのちょんまげに入ってるんだ」
指された結わえた髪をばっと庇い、ケネスは叫んだ。
「なっなんでそれを……!」
「……っえ、マジ?!」
「そんな訳ないだろう」
驚くタルに、ケネスは、フン、と鼻を鳴らすのだ。
「っ騙しやがったなー?!」
「お前が最初に馬鹿なことを言い出すからだろ」
「そりゃお前だろー!」
罵り合いの始まった仲間を眺めて、ジュエルは尤もな感想を漏らす。
「あんなので、来週の特別仕合、だいじょぶなのかな~」
「大丈夫ですよ」
ポーラは微笑んで請け合う。
やがて、上級生に声をかけられ、罵り合いは止んだ。彼らも、特別仕合に名を挙げられた者たちだ。練習仕合の申し込みだった。確かに、本番前に相手の戦い方や癖を知っておくのは悪くない。
練習仕合のための場所を確保すると、すぐに回りに人垣が出来た。2対2。向かい合って構える。上級生が審判を務めてくれることになった。
構えながら、ケネスはタルに方針を伝える。
「余り手の内は見せたくないが、長引かせてデータを取られることこそ避けたい。先制で行くぞ」
「おう、勝ちゃいいんだろ?」
ケネスは溜め息を吐く。
「なんだよ、さっさと勝てば、長引かねえだろ」
「頭も筋肉だな」
「……とうとう口に出しやがったな?」
ポイント先取制、または二人ともが立てなくなった時点で終了とする。審判が声を張り上げる。怒った様子もない相棒に、ケネスの口元は笑っている。
「さっさと決めれば、こっちも情報が取れないのは同じだがな。お前の感覚は信用できる。後で感想を聞かせろ」
「……誉めたのか?」
「ああ、一応な。珍しいだろう?」
「雷が降るぜ」
「降らせるさ」
始め! の声が先だったか。ケネスの雷の紋章が発動している。詠唱が短い!
見て取ったタルは、すぐに飛び出した。相手のどちらに雷が落ちるのか、まるでわかっているようだ。
雷の一撃が、向かって右の上級生に落ちる。違わず、タルは左の上級生の剣を弾き、がら空きにした左脇を痛打する。薙ぎ倒す勢いで、タルは右に体を捻る。打ち込んだ1人目が倒れるのを確認する間もなく、もう1人に大きく踏み込むなりの、正面からの叩き込むような胴払い。喰らったら、立てない。
雷を受けて、しかしかろうじて立っていた上級生は、どさりと仰向けに倒れた。
見事、圧勝。
審判が、終了の声を上げるまで、誰も何も言わなかった。
ワッと、訓練場が揺れた。
歓声。
「やるじゃねえか、新入りども!!」
拍手と口笛と。
ヒルダは、自分で気付かずに、素直に拍手を送っていた。他の観戦者に混じって、物凄い勢いで両手を動かした。
(かっこいい! すごい!)
タルとケネスが、ヒルダを見た。そして、互いに顔を見交わして、ニイッと笑った。
ヒルダの顔が、今随分生き生きしていると、拍手を続けるヒルダ自身は、わからない。
「どうだー見てたかヒルダー?!」
手を振り上げて、タルがこちらへ走ってきた。
「すごい! ふたりともかっこいい!!」
答えて、自分の興奮した声に驚いた。
「おーもっとほめろー! はっはっはー」
剣を収め、ヒルダの元へ駆けて来たタルは、目の前にきても止まらず、そのままヒルダが反る程にぎゅっと肩を抱き、ちゅうーと音を立てて頬にキスした。
「――――」
「……あ」
硬直したヒルダをタルはすぐに放したが、ヒルダは息をするのも忘れていた。
タルは懸命に行動を説明しようとしているようだ。
「あ~これは、その、母ちゃんがチューしまくる人で兄弟多くって、癖が外ですんなって父ちゃんもちゅー」
「わかんないわよ!!」
ジュエルの拳が容赦なくツッコむ。脇腹にドン!
「ぶほ! ってえー!」
「どうすんのよ! バカタル! 見なさい、固まっちゃったでしょ! あんたは何がしたいの! ていうか、ナニがしたいの?! ダメ! ヒルダはダメ!」
意味がわかったらしい上級生が何人か、赤くなったり青くなったり。
「落ち着いてください、ジュエル」
「ポーラ! だってなんか腹立つ!」
「……だ、だいじょぶか? ヒルダ。ご、ごめんな?」
脇腹を擦りつつ、タルは固まったヒルダを伺う。ヒルダはようよう、声を出せた。
「…………び」
「あ、うん、びっくりしたよな」
こくんと肯く。
「ごめんな」
こくんと肯く。タルは首を捻った。
「っかしいなー、今までこの癖でなかったのになー」
「癖?! ナニ癖って! あんたキス魔?!」
「ジュエル」
「いや、だから、母ちゃんが子供らに、よく、ちゅーってさ……」
呆れて眺めていたケネスは、ふーと息を吐いて、評した。
「そりゃお前……家族認定してるんだろ。ヒルダを」
「……ああ」
タルは得心したようだ。
「……確かに『兄ちゃんカッコイイー』って喜んでる弟見てる気にはなったなあ……」
カッコイイつもりー?! と吼えるジュエルを、ポーラは抱きかかえるように宥めた。
訓練生全体の前で、一体何をやっているのか。
ケネスはタルを指差して、ヒルダに言った。
「許せないなら、代わりに殴るが」
ヒルダは思いっ切り首を、横に振った。
練習仕合の見物が思わぬことになって、未だ取り巻く人垣の中。
その外れの方に。
余りのことに動けない、スノウがいた。
(続く)