『果肉を持たない種子は、それを持つものよりも、他者の手助けを得られない。
凍えるしか術のない赤子は、ただ波間に漂う他なく―――』
*
会いに来るぜ、そう言って別れた。
それから彼は、ラズリルに来なかった。
忘れられたと思うのが嫌で、家や仕事が大変なんだと思うことにした。
付いて行きたかったのかもしれないと、時々考えた。
―――たった二日の出会い。
拾いっ子の僕を、最初に拾ってくれた彼。
名前も知らない。
彼は、僕を思い出す時、僕の名前を思うだろうか。
それとも、約束と一緒に、全部忘れて。
彼の乗る船を、見送りはしなかった。
お使いから戻った僕を、お屋敷の坊ちゃんは、おかえり、と抱きしめた。
雑多な日常の中で、そのうち彼のことを考える時間が減った。
8年、経った。
お屋敷の坊ちゃんも17になり、ラズリル島の中核をなす、ガイエン海上騎士団に入団が決まった。
坊ちゃんは当たり前のように、お前も一緒に来て世話をしろ、と告げた。
お蔭様で、ついでに僕も、入団を許された。
騎士団員は、全員、家を離れて、宿舎に入る。
僕にも、部屋が一つ宛がわれている。
お世話がしにくくなるというのに、よかったじゃないか、と坊ちゃんは笑った。1人部屋だよ、嬉しいだろう? と。
本当は少し淋しいのだと、僕は言わずに、ただ肯いた。
領主様のお屋敷から出かける朝は、きっとこれが最後になるだろう。
坊ちゃんの後について、騎士団の館に向かう。
入団式は、訓練場で行われる。
そこに、
―――彼はいた。
*
『波間の裸子は、やがて気紛れに打ち寄せられ―――』
*
朝の日差しは然程強くもない。中庭の少ない木陰を取り合うこともなく、入団式を待つ訓練生達が屯している。
肩で風を切り、すれ違う人々全てと挨拶を交わしているスノウの後ろに、影のように付き従って歩いていたヒルダは、初々しい一塊の鎧たちの中に、他と同じく新入生同士、多分他愛ない会話を交わしていた1人の背の高い訓練生が、どうやら自分を向いて手を挙げていることに気付いた。
(………?)
あんな知り合いなどいない。
フィンガーフート家の小間使いとして、よく街に買い物に出ているヒルダは、手を挙げて笑っている彼が、ラズリルの者ではないと結論付けた。
自分の後ろの誰かにしている挨拶かもしれない。そう疑って、しかし、後ろを振り向いて確かめるまでもなかった。
……笑顔が。笑う顔が。
ぱっと、稲光のように、閃く。
(………――――)
彼、だ。
思い出せる彼は、11の子供だ。けれど。だけれど。
(また、会えるといいな)
そう言って、笑った彼。
思う間に、目が見開かれた。
(ドックン……!)
途端、ヒルダの心臓は、ヒルダから独立した。
(ドクン、ドクン、ドクン!)どんどんと鼓動は激しくなる。
心臓が、走れと命じる。まるで、走った後の動きを先取りしたように、早鐘を打つ。
ヒルダの体は、不恰好にも縺れそうだ。
足が、心臓に遅れて動き出した。
体にまるでまとまりがない。けれども、なされなければならない動作だ。
心臓の命令には、そう信じるに足る強制力がある。
従わずにおこうと、ほんの僅か、頭は考えたかもしれない。
しかし、足も、腕も、心臓を囲む胸も、命令に従いたがっているのはわかった。
『走れ』
「ヒルダ……?」
スノウが怪訝に尋ねたのは、ヒルダがととっと自分の前に出たからだ。
今までにないことだ。ヒルダはいつも、スノウの少し後ろを付いてきた。自らが前に出ることなど、例えば、何かの危険が前方から迫っていて、それからスノウを守ろうとした、という理由でもなければ、スノウには考えられないことなのだ。
だが、すぐに訳はスノウにも知れた。
自分を追い越して行ったヒルダの先を、見やるだけで済んだ。
スノウは、目を眇めた。
ヒルダの足は、笑う訓練生の前で止まった。
(8年も前のことだ)
(彼はラズリルに来なかったのに)
人違いかもしれない。ほんの僅か擡げた疑問は、瞬時に消し飛ぶ。
「よ。でかくなったな!」
笑顔と、その声。
8年前、この調子で、可愛くなったな、とヒルダを評した。
(……――――)
ああ、彼だ。
幾つか、彼のが年嵩だろう。8年前も、彼はヒルダより大きくて、その手でポンポンと頭を撫でてくれた。
それにしても、目の前の彼はまたうんと大きくなっていた。ヒルダも成長していたが、ヒルダは今、彼をただ、阿呆のようにじーっと見上げて立っている。
(きみこそ)
でかくなった、という感想を、ヒルダは心の中でそのまま返す。
「髪切ったか? いいんじゃね?」
「………」
「うん?」
ヒルダは気付いてなかったが、彼の周りにいた同じく入団式を待つ新人訓練生たちも、駆け寄った後のヒルダが余りに反応しないので、自分たちの会話をやめて、見守っていたのだ。彼らの何れも、ラズリル出身者ではないと、後になって認識することになる。
彼は、ヒルダの頭をくしゃくしゃと撫でた。
ヒルダはそれで、息を吐き、口を利くことができた。
「……き、……ききたいことが、あったんだ」
「? おう」
不思議そうに、けれどヒルダが口を開いたことが嬉しいとよっくわかる笑顔で、彼は応える。
ヒルダはごくりと、唾を飲んだ。
「……きみの、なまえ……」
「……おお! 名乗ってなかったか俺! ははっ!」
弾けるように笑ったかと思うと、にっと口を横に引いて、右手を出した。
「タルってんだ。よろしくな!」
だがヒルダは、反応できなかった。握手だとはわかったが、それを求められるのは初めてで、応えることは、自分には分不相応だと思ったからだ。
「……?」
タルはちょっと瞬いて、それから自分でヒルダの手を迎えに行った。ぎゅっと右手を、大きな手が包む。
着慣れない晴れ着を着せられて、表舞台に連れ出されたような。
恥じらいと歓喜。ヒルダは赤面しそうな予感がして、つと俯いた。
「……入団式が始まるぞ」
後ろからかけられた声は、スノウだ。
握手は、するりと外れた。
「お、スノウだっけ。同期のタルだ、よろしくな!」
タルは、右手を挙げて、ヒルダにしたように、よ、とばかり挨拶をして、右手を伸ばす。
ああ、とスノウは軽く流して、「行こう、ヒルダ」ヒルダを促し、すっと行く。
タルは握手し損ねた手をもてあまして、ふうん? と何かを思うように首を傾げた。
ヒルダは、離れ際にタルをちらと見た。申し訳なさそうに、未練あり気に。しかし、先を行くスノウの後を、小走りについて行った。
(続く)