ピンク・レディーの曲


ファン層の幅を広げる勝負曲2012.7.7

本題に入る前に、オフィシャルHPでも告知されていますが、発売中の「家庭画報8月号」にお二人の写真・記事が3ページずつ掲載されています。ケイちゃんは、お気に入りのランバンの衣装ではじけた感じ。一方、ミイちゃんは、しっとりした感じですか。
ファンの方は一冊お手元にいかがですか。世界文化社より定価1,100円。


さて、本題です。本日のタイトルを見て何の曲かすぐ分かった方は、相当のPL通でしょう。そうです、「マンモナ」のことですね。昨年発売の「Singles Premium」のDVDには「紅白歌のベストテン」で披露された「マンモナ」が1曲だけ収録されています。徳光アナによる曲紹介のナレーションが入るのですが、そのナレーションが「ファン層の幅を広げる勝負曲」なんですね。1979年9月当時、この番組はリアルタイムで見ていたのてすが、このナレーションまでは記憶に無かったのですね。今改めてDVDで聞いたこのナレーションが耳にこびりついて離れないわけです(笑)

「ファン層の幅を広げる勝負曲」このナレーションを入れるに当たっては、当然、レコード会社か事務所にお伺いを立てたうえでと思われます。スタッフの意向として、明確にPLの方向転換を意図していたのでしょう。しかしながら、結果としては、その目論見通りにいかなかった、と言うか歌う期間が1か月未満と短かすぎました。9月下旬には「マンモナ」から「KISS…」に変わってしまったわけです。このへんの経緯としては、「スタッフの評判が良くなかった」という話も聞きますが、当時私個人としては大変残念なことに思いましたし、今もって不思議というか不可解なんですね。

「ピンク・タイフーン」「波乗りパイレーツ」の次が「マンモナ」なわけですから、相当な方向転換なわけです。何ごとも方向転換するには、それなりの時間を要するわけで、1か月も歌わないで次の曲へ行ってしまうというのは、あまりにも拙速な感じがするわけです。まあ「マンモナ」と「KISS…」は4日違いでほぼ同時発売ですから、切り替えは簡単にできるわけですが。当時のスタッフは、なぜかくも「マンモナ」を簡単にあきらめてしまったのか、今でも不思議なんですね。
レコードの初動売上が良くなかったからなのか。もし、そうだとしても、歌う期間が1か月未満というのは、「あきらめが早いのでは」と思うのですね。「ファン層の幅を広げる」ことを意識したならば、それ相応の時間が必要でしょう。ファン層の低年齢化が進んでいたPLなら、なおさらです。それを許さないほどスタッフがあせっていたのでしょうか。

1979年と言えば、「ジパング」から「マンモナ」まで、従来の3か月毎の新曲が、2か月毎に短縮されてしまいました。このへんにも、当時のスタッフのあせりのようなものを感じるのですが。前年にレコード大賞を獲得しているわけですから、「もっと大きく構えてほしかったな」と今でも思うのですね。そんな「マンモナ」ですが、昨年のツアーでは、オープニングの曲として披露されたわけで、もはや充分に名誉回復?となったわけです。ですから、もう過去の恨みつらみを書くのはやめましょう(笑)
「Singles Premium」のDVDは黒衣装ですが、その他にも「紅白歌のベストテン」では白衣装の披露もあったようです。その時の徳光アナのナレーションがまた感慨深いものなので、ちょっと以下に紹介しますね。(正確ではないかも知れませんが、だいたいこんな感じ)
「都倉俊一さんが、また新たなるピンク・レディーの魅力、可能性を引き出しました。ミイとケイもこんな曲が歌いたかったそうです。『ディスコでヒットしてくれれば』と言っておりました。しかし『これまでの13枚が無ければ、この歌は歌えなかったと思う』とも付け加えてました」

どうですか。明確な方向転換を意識させるナレーションですね。そして、お二人のコメントも意味シンですよね。
そんな「マンモナ」ですから、これからも大事に歌い続けていただきたいと思います。そして、「ファン層の幅を広げる勝負曲」は「解散やめ」をした今のPLにこそ、是非新曲として披露していただきたいものですね。では。


岩波新書「歌謡曲」2011.2.27

岩波新書2月の新刊「歌謡曲」(著者 高 護 氏)にPLについての記載がありますので、ご紹介いたします。
この著作は1960年代から80年代の日本の歌謡曲について、年代別に紹介したものです。この種の本は過去にもありましたが、類書には見られない著者独自の視点で書かれており、大変興味深い内容となっています。「総合的に歌謡曲という音楽の全体像をまとめあげていく」というねらいは十分達成されていると思われます。


PLについては、第2章「歌謡曲黄金時代1970年代」に「ペッパー警部」の見出しで、5ページほど記載されています。内容は読んでのお楽しみですが、音階の分析やお二人のハーモニーについて語るなど、かなり濃い?ものでファンなら興味深いものとなっています。岩波新書と言えば過去に、作詞家の阿久先生の著作もありましたが、また違った視点からの著述となっています。
写真はモノクロで小さいものですが、シングルレコードのジャケット数点の他、PLのお二人(私服)・阿久先生・都倉先生が並んだものが1点となっています。考えてみればあの岩波新書に写真が掲載されることじたい、スゴイことだと思いますが。まあ、「あの岩波新書」と言っても、今の若い人には?でしょうが(笑)

ところで、皆さん、著者の高 護 氏について見覚えはありませんか?そう、30周年のBOXに「We Love PinkLady!ピンク・レディーの魅力」のタイトルで紹介文を書いた方ですね。当時もそのBOXの文章を読んで、思わず引き込まれた記憶があったのですが。BOXでは監修者にも名前があがっています。一連の文章を読んでいくと、このお方、仕事という面を離れても結構PL好きなのではと思えてくるのですが、どうなのでしょうか。ご年齢はPLより3つほど上ですが。


新書にはPLについての事実関係で若干気になる部分もありましたが、大勢には全く影響ありません。具体的には「『DO YOUR BEST』までの阿久悠・都倉俊一の11連作でスロー・ナンバーが一曲もない」とありますが、「阿久悠・都倉俊一の11連作」を生かすとすれば「DO YOUR BEST」でなく「ジパング」が正解でしょう。そして「DO YOUR BEST」の作詞は阿久先生でなく伊達歩 氏です。また、「スロー・ナンバーが一曲もない」を生かすとすれば、「『DO YOUR BEST』までの都倉氏作曲14曲にスロー・ナンバーは一曲もなく、ラスト『OH!』はPLとしては異色のスロー・ナンバーとなった」とでもなりますか。この場合、間に「ピンク・タイフーン」や「KISS…」が入るので、都倉先生の連作とはなりません。阿久先生とのコンビは「マンモナ」までで一旦中断し、ラストのスロー・ナンバー「OH!」で復活します。著者がかかわったBOXのディスコグラフィーに作詞・作曲・編曲者一覧がありますので、それで確認していただければと。
PLに関する記載は5ページほどですが、その他にも歌謡曲について鋭い分析がありますし、巻末の曲目・人名索引(ミイちゃんケイちゃん別に生年月日付きで掲載!)も便利ですし、興味あるPLファンはお手元に1冊いかがですか。お値段も税抜で800円とお手頃です。・・・と、岩波書店の回し者じゃないですよ(笑)


阿久先生とPL2007.8.5

報道により、偉大な作詞家にしてPLにも多くの曲を提供された阿久先生の逝去を知りました。ご冥福をお祈りいたします。
マスコミ報道が大きかったことから、マイナーな個人HP(笑)である当HPにもその余波は、ここ数日アクセス数の急増(検索サイトで阿久先生関連からPLと検索される方が急増?)という形で押し寄せ、その影響の大きさを改めて実感しているところです。阿久先生の業績やPLとの関係は、マスコミ報道や当HPの過去記事で周知のところであり、ここで詳しく振り返る必要はありませんが、今回のマスコミ報道で「阿久先生の作品に占めるPL曲の大きさ」について改めて浮かび上がったような気がします。

象徴的なのは新聞報道です。一般の全国紙でも阿久先生の訃報が大きく取り上げられ、先生の代表曲が2曲ほど大きく見出しに出ているのですが、私が見た2紙にはどちらも「UFO」が掲載されていました。先生の代表曲としての扱い、その意味するところは大きいですね。中身的にもPLに言及しているものが多かったようです。また、ある全国紙では、阿久先生の真骨頂として山本リンダさんの作品と「一連のPL物」をあげていました。「一連のPL物」という表現もすごいですが、阿久先生の作品においてPL作品が占める位置というものが、こうした一般紙にも認識されているのが、ファンとしては嬉しいところでしょうか。

ここ数日テレビでも、阿久先生の訃報が大きく取り上げられていました。
私が一番最初に見たのは当日夜のニュース番組でした。翌日朝の情報番組芸能コーナーから大きく放映され、金曜日には早くもNHKで追悼番組がありました。PLのレコードジャケットが大きく写されたり、過去の歌う模様が写されたり、PLの出番は予想通り多かったですね。ミーちゃんケイちゃんへのインタビューもありました。ミーちゃんは番組への直接出演もあったのでしょうか、私は見られませんでしたが。ケイちゃんは単独記者会見という形で情報番組でOAされ、スポーツ新聞にもかなり大きい記事で紹介されていました。憔悴した表情のなかにも「PLのケイちゃん的な」美しさかわいらしさが出ており(こうした場で不謹慎かも知れませんがケイちゃんファンとしては…)、「UFOにのっていってほしい」というケイちゃんらしい表現が心に残りました。お二人のマスコミ登場の多さから、改めて阿久先生作品に占めるPLの大きさを再認識させられました。

PLにとって、阿久先生と並んで曲作りでお世話になったのが都倉先生。その都倉先生が、阿久先生の語り部として、今回多くのマスコミに登場されたのも特筆すべきことです。言ってみれば、阿久先生と最も近い位置の作曲家・編曲家ということでしょう。NHK追悼番組では唯一のゲストとしてご出演、PLについてはスタ誕登場時のエピソードから紹介されていましたね。そうそう、この番組で司会者の方がPLのことを「伝統芸能?」と紹介されてました。
都倉先生によると、阿久先生は大変照れ屋だそうです。先ほどのケイちゃんの単独記者会見で、PL時代、阿久先生が目を合わさずに「寝てるか?ごはん食べてるか?」と声をかけてくれたことが紹介されていましたが、これも先生が照れ屋だからでしょうか。
阿久先生特有の美学?というかスタンスとして歌手と一定の距離を置くということがあったようです。ですから、PLのレコーディング現場にも現れることは無かったようです。そう言えば、当時のレコーディング現場写真に写っているのは、ミーちゃんケイちゃんの他、都倉先生と当時の飯田ディレクターが多かったですか。

さて、某全国紙では都倉先生による追悼記事も掲載されておりました。ここでは、「UFO」レコ大受賞時の阿久先生の様子が紹介されていました。この記事で興味深かったのは、都倉先生が作曲家になることに迷いがあった時期に背中を押したのが、阿久先生だったというエピソード。いわば阿久先生は都倉先生の生みの親なんですね。多くのPL曲が阿久先生・都倉先生のコンビによるものであることを考えると、このエピソードは興味深いですね。PLにとって阿久先生は曲の面で生みの親であり、都倉先生にとっても…
PLファンにとって阿久先生は、いくら感謝してもしきれないほど、大きな位置を占めているのですね。

考えてみれば、PL現役時代のシングル22曲中、阿久先生によるものが14曲で、その割合は6割を超えています。これだけ特定の作詞家に集中した歌手も珍しいのではないでしょうか。再結成時も1990年の「ジンクス」と2003年の「テレビが来た日」が阿久先生と都倉先生のコンビ。私としては、もし次の再結成があったら是非また…と思っていたので、それが叶わなくなってしまったのが残念です。
今後年末にかけてテレビでも様々な追悼番組が企画されると思いますが、是非PLのお二人が復活PLとしてご登場いただけたらと思います。阿久先生の作品に占めるPLの大きさを考えると…


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