今日は、暇つぶしの戯言ですので、お気軽にどうぞ・・・
今でも25年前の初期のPLの姿を時々思い出すことがあります。
25年前の今頃というと、ちょうど「S・O・S」が1位になった頃でしょうか。PL旋風が吹き始めた頃ですね。当時(1977年初め)のテレビで、何故か頭に残っているシーンがあるのです。北海道か日本海側か忘れましたが、屋外のスケートリンクのようなところで、お2人がスケート?をしていて、その後その場所で「S・O・S」を歌い始めるというシーンです。「寒いのに屋外で大変だな。」と何故か記憶に残っているのです。おそらく雪祭りのようなイベントのゲストだったのでしょう。
さて、私は初期PLに大きな想い(あこがれ)を持っています。(いつ頃を初期PLとするか難しいところですが、一応「S・O・S」の頃まででしょうか)今でもネット上で初期PLの画像(屋外でホットパンツ姿が多い)が紹介されたりしますが、「静岡から出てきたいかにも素朴な女の子」といった感じが漂っています。私が初期PLにあこがれるのは、単なる「懐かしさ」ではありません。「まだ色々な可能性を秘めた等身大のお2人」といった感じが好きなのです。
他のぺージで書いていることに矛盾するかも知れませんが、今でも時々こんな馬鹿なことを思うのです。「(歴史にIFは禁物ですが)もし、PLが大ブレイクでなく、初期PL程度の売れ方(中ブレイク=並のアイドル)が続いていたら・・・」ということです。
もし、そのような展開だったなら、おそらくレコード大賞受賞も、PL伝説化も、アメリカ進出もなかったでしょう。そして、解散後の再結成も皆無だったかも知れません。そうであれば、当HPの開設もなかったでしょう。
でも、中ブレイクであれば、ミーちゃんケイちゃんにとって、睡眠時間伝説ができるほど過酷な労働?でなく、PLの方向性についてもゆっくりと考えられる余裕があったのでは・・・とも思えるのです。
数年前にOAされた「驚きももの木」ではデビュー時のPLについて「周囲(レコード会社)の期待度はCランク、だからこそ(作家陣が)自由にできた。」とPLの成功要因を総括しています。この分析は、なかなか示唆的です。とすれば、PLが大ブレイクすれば、逆に当然「周囲の期待度はAランクになり、自由にできない。」ということになりますね。
1978年に都倉先生があるPL本で、こんなコメントを寄せています。
PLの大ブレイクについて「大変に誇りを持つことのできる嬉しい事実なのだが、それと同時に、内心では大変なことになってしまったぞ、という気がしないでもない。」そして「モンスター」が1位を獲得したことについて「今後発売される新曲は、常に第1位を獲得するビッグヒットであることを要求され続ける・・・これはPLにとっても、私にとっても、またスタッフにとっても、実に苦しいことであるには違いないのだが、・・・努力のしがいもある・・・」
この都倉先生のご発言は本音でしょう。(デビュー当時の周囲の期待度Cランクが)Aランクに変わったということが、作家陣の活動にとっては(自由にできたから)桎梏(しっこく=束縛)になったと言ったら、大げさでしょうか。PLの曲に関して言えば、当時低年齢化路線の真っ盛りでした。
PLの解散に関して、よく「PLP(PLプロジェクト)が方向性を見失った」とも言われます。
もし、中ブレイクで常にPLの方向性について、見直す余裕があったら・・・PLも別の展開があったのでは・・・
と、初期PLの素朴なお2人を見るたびに思うのです。