2005.2.6
報道によりますと、先日、PL育ての親として有名な相馬一比古氏が逝去されたそうです。当HP管理人として、ご冥福をお祈りいたします。
通夜・葬儀の模様がテレビの情報番組で、かなり大きく取り上げられていました。PLのお二人は勿論、有名芸能人の方が多数参列されたようです。相馬さんは芸能事務所の方ですから、どちらかというと裏方的なイメージが強いのですが、それでも、これだけテレビで大きく取り上げられたという事実が、そのお人柄そして多くのタレントを育てた手腕・実績を示しているように思われました。ミーちゃんケイちゃんの憔悴した表情を見て、お二人のなかで、いかに相馬さんの存在が大きなものであるかを再認識、実感したところでもあります。お二人には、どうかこの試練を乗り越えて、またお元気な姿で・・・と願わずにはいられません。
当HPをご覧の皆さんは、私よりも相馬さんにお詳しい方も多いかと思われますが、よくご存じない方のためにちょっと偉そうに私の知っている範囲でご紹介しますね。
(以下、一部私の推定・思い込みもありますので、間違っていたらご指摘ください。)
PLに関して言えば、スター誕生の決戦大会で、一番前のスカウトマン席に座っていて、一番最初にプラカードを上げてPLを熱烈にスカウトしたのが相馬さん。「アメリカで勝負させたい」この言葉が、お二人の心をとらえ、相馬さんの事務所(アクト・ワン・エンタープライズ、後のT&C)に所属するきっかけにもなったのです。昨年末の「キンスマ」再現ドラマにも、相馬さんの名前こそ出ませんでしたが、明らかに相馬さん役の方が登場していましたね。当時のT&C幹部には、相馬さん以外に芸能界に精通している方はいなかったようで、相馬さんがファンに見える部分のPLをプロデュースしていたのです。ある意味「T&C=相馬さん」と言っても過言ではないと思います。私が知っているT&Cにおける相馬さんの肩書きは制作部長でしたが、その他にもあったのでしょうか。
PL以前にも、いしだあゆみさん、西城秀樹さん、浅田美代子さんなど、多くの有名タレントを育てたそうです。西城さんは、PLがデビュー当初下宿していた家(相馬さんのお母さんの家、別名:呪いの館?)に、以前下宿していたそうです。また、浅田さんは「『赤い風船』が1位になった時に、相馬さんが泣いてくれて・・・」とテレビインタビューで語っておりましたが、PLの芸名が最初「白い風船」になりかけたのも、この浅田さんの歌「赤い風船」がきっかけのようです。ということで、相馬さんを介して、PLと西城さん、浅田さんと、関係があったのですね。西城さんに関して言えば、私はPLがデビューした時のイメージ「激しく踊って歌う」というスタイルを初めて見た時に「西城さんの女性版」という感じを抱いたのですが、PLと西城さん、両者とも相馬さんプロデュースという共通項があったんですね。
さて通夜直後、ミーちゃんのインタビューが相馬さんの全てを象徴していると思います。
「PLは相馬さんの夢だったと思います。相馬さんが持っている夢・・・どこまで相馬さんについて行けるかっていうところで、頑張っていた・・・(PLプロジェクトは)相馬さんの情熱が周りの人達を動かしていた。」相馬さんの夢これが原動力。PLプロジェクトの扇のかなめとしての相馬さんの位置。では、相馬さんの夢とは何だったのでしょうか。
私には長い間、疑問がありました。なぜ、相馬さんがまっ先にスタ誕でプラカードを上げたのか?今回のテレビ報道で、初めてこの疑問が解けました。相馬さんは「背が高くて歌って踊れて姉妹でない女の子二人組み」をミーちゃんケイちゃんに出会うまで2年間捜し求めていたそうです。スタ誕でお二人を初めて見た時に「理想的」と思ったそうです。ということは、あのスタ誕決戦大会で、女性デュオを求めるスカウトマンが、少なくとも二人いたのですね。相馬さんと、もうお一人は「ザ・ピーナッツさんが引退して寂しい」と感じていた当時ビクターのディレクター飯田さん。相馬さんと飯田さんにPLがお世話になったのも、ある意味必然であったわけです。
話を相馬さんの夢に戻しましょう。明確に相馬さんが語ったかは知らないのですが・・・
「背が高くて歌って踊れる女性デュオ」「アメリカで勝負させたい」から想像すると、今までの日本には存在しないタイプの斬新な女性デュオ、世界に通用するような・・・そんな夢を相馬さんはPLに託したのではないでしょうか。当時、女性アイドルと言えば、背が低くて、ロングの衣装で、踊りもいわゆる「アイドルの振り」が主流でした。PLのような本格的な踊りは本当に斬新だったんですね。しかも当時としては背が高くて、かっこ良かったですから。ミニルックも相馬さんのアイディアだったのでしょうか。これも背が高くなくては、さまになりません。当時のミーちゃん談で印象に残っているのは「うちの制作部長(相馬さん)によると、歌をやっている以上ずっと(衣装は)ミニだと」ということで、ミニ衣装へのこだわりも相馬さん強かったようです。
さて、相馬さんはスタ誕の時の約束どおり、アメリカ進出を実現させました。これについて、相馬さん、数年前、雑誌で語っていたのを覚えています。こんなことを・・・「当時マスコミでアメリカ進出をあれこれ(酷評)言われて、やる気が落ちていた面もあった。ケイちゃんに『アメリカでもっとやる?』と聞いたら『やだ!』と言われた。・・・マスコミがあれこれ言うのは、つきものだし、もっと数年アメリカで修行して、その成果をもって日本で・・・」と相馬さんの構想・夢を語っていました。本当に壮大ですね。もっとも、ケイちゃん、この点(アメリカ進出を打ち切って、相馬さんの夢が道半ばになったこと)については「相馬さん、ごめんなさい」と生前の相馬さんにも伝えることができたし、弔辞でも触れていたようです。
ケイちゃんの弔辞から・・・「『相馬さん』そう声をかけたら、いつもの憎めない笑顔で『おう、ケイ、どうなのよ』と言って、ひょっこり現れそうな気がしています。でも、これは夢ではないのですね。こんなにも早く、お別れの言葉を述べなければならないなんて・・・」
相馬さんの訃報、そしてお二人の悲しみを見て、ショックを受けたファンも多かったと思いますが、以下のケイちゃんの弔辞は、せめてもの救いになります。「相馬さんの残したものは、私の、私たちの、そしてファン一人一人の胸の中に刻まれて、けっして消えうせず、永遠に輝き続けることを確信しています。」
4年7か月のPL解散後も、T&Cサイドで唯一PLの語り部であった相馬さんが旅立たれ、また、当時のPL事務所T&Cも今や存在しません。にもかかわらず、ミーちゃんとケイちゃんのPLは、いまだに大活躍ですし、ファンも熱烈に応援し続けている現実があります。
相馬さんの見た夢、PLに託した夢、それは、今後もしっかりとPLお二人の心の中に生き続けるでしょう。また、相馬さんの夢それは、相馬さん、PLお二人の独占物ではありません。PLが前人未踏、今後もおそらく誰も越えられない真の国民的アイドルになったという事実、これは、相馬さんの夢が、時間も空間も世代も超えて、普遍的に受け入れられる広がりを持つことを意味しているのだと思います。
コンサートVol3そしてPL30周年を目前にして、旅立たれたのは本当に残念なことですが、相馬さんの夢、精神は永遠であると、私も確信している次第です。