ジョン・アーヴィング年代記 Chronicle
〜アーヴィング誕生から処女長篇『熊を放つ』発表まで〜



  • 1942.3.2  

     ニューハンプシャー州エクセターに生まれる。
     アーヴィング゙の母、フランシス・ウィンスロウが23歳で彼を生んだあと
     彼の物心つかぬうちに実父と別れたため、エクセターのフロント・ストリート
     にある母の実家で育てられた。

  • 1948

     アーヴィング6歳のとき、母がフィリップス・エクセター学院の教師コリン・
     F・N・アーヴィングと結婚、学院内の職員住宅へ移る。

  • 1955

     母フランシスはアーヴィング13歳のとき、小柄な彼に向くスポーツとして
     レスリングをすすめる。

  • 1957

     地元の学校を経て、15歳のとき父の勤めるフィリップス・エクセター学院に
     入学。レスリング部主将として活躍。文学にも旺盛な興味を示し、在学中
     短篇の習作をいくつか書く。

  • 1961

     19歳でフィリップス・エクセター学院を卒業。単位不足のため留年している。
     レスリングの腕をかわれ、ピッツバーグ大学に入学するが1年足らずで選手
     としての将来に見切りをつけ退学。

  • 1962

     ニューハンプシャー大学に再入学。

  • 1963

     大学をドロップアウト。ハーヴァード大学の夏期ドイツ語集中講座を受講して
     いる間に、パーティで妻となるシャイラ・リアリと知り合う。
     同年、単身渡欧。ウィーン大学ヨーロッパ研究所に在籍。

  • 1964.8.20

     旅先のギリシャでシャイラと結婚。秋にはニューハンプシャーに戻り、大学に
     復学する。

  • 1965

     同大在学中に、長男コリン誕生。
     秋には同大英語科を優等で卒業。短篇『冬の枝』が雑誌に掲載。特別奨学金
     を認められてアイオワ大学創作教室に参加。カート・ヴォネガットとヴァンス・
     ブアジェイリに師事。

  • 1966

     ニューヨーク、ハロルド・マトスン社のピーター・マトソンとエイジェント(代理人)
     契約を結ぶ。

  • 1967

     ヴォネガットの指示の元に長篇第一作『熊を放つ』を完成。この作品により、
     アイオワ大学から修士号を授与される。

  • 1968

     「ボストン・リヴュー」誌春夏号に短篇『疲弊した王国』掲載。(執筆は1965年)
     同年末、ヴォネガットの推薦により『熊を放つ』をランダムハウスから刊行。
     実売部数は6,228部で、純文学の第一作としてはまず満足すべき数字だった。


※この年表は「ユリイカ」1989年12月号評伝ジョン・アーヴィングを参考にして作成しました。


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