新年度を迎えて

一年分のお詫び

季節の変わり目の不安定な時期を通り越し、前年度の仕事が片付いて区切りがついたので、やっと「明けまして、おめでとう」の気分になれました。と言うより、学校の年度替りが私にとっての年明けに相当するので、前年度と今年度の境目の、"何も考えなくていい"時間のはざまにスッポリはまっているところです。(今、放送されている『にんげんゆうゆう』の「病気をわかってもらえない」のシリーズが終わると同時に、また現実世界にモードを切り換えなければなりません。)

本当に、去年はいろいろありすぎました。あっちこっちに振り回されて、その度に思いもかけない出来事が起こりまして、悪あがきばっかりしていました。とにもかくにも、「ごめんなさい!」。でも、「二度としない」という保障はできません。なにしろ、毎日毎日同じパターンの人形遊びを繰り返し、かろうじてマトモに生きている心地のしていた10歳を過ぎて以来、延々と生き延びて来た"余生"だったはずのものが、多少なりとも価値のあるものだった反面、れっきとした病的状態でもあったと知って、何だかわけがわからなくなっていました。治療の過程で、一時、完全に退行していた時期があり、そこから改めて時間の針を戻す必要もありました。

去年は、いろんなことに一喜一憂の連続でした。たくさんの人に、迷惑をかけてしまいました。本当に、申し訳ありませんでした。自分が生まれた家では、何一つ教わらなかった「ニンゲンになる方法」を寺での修行という形で身に付けて、「ニンゲンになれていた」と思っていたものが、実は単に「普通・人は・・・するべき」という強迫観念のカタマリでしかなかったこと。生身のニンゲンたちについて、実は何も知らなかったこと。それらをすべてご破算にして、「元の自分を解凍する必要があった」なんて言い訳を、今頃しても遅いんでしょうね。


さしあたって、この一年の間に見えて来たことはこれくらいなものです。


最近になって、やっと関係者の間で認知されつつある精神的な障害については、全人的な臨床像を知っている人とチェックリストを読んで項目をチェックしているだけの人との間にはギャップがあり、それを言葉で説明するのは難しいということ。

精神疾患による身体症状が出ているのか、身体的な疾患で精神状態が異常になっているのか判断がつき難い「心療」的な観点で「診断」する必要から、「基準」を判り易くしようと努力した。そうしたら、本当の臨床像を知らないのにチェックリストで採点した人たちが、本当には解かっていないのにいかにも知っているような顔をしてそういう患者に対応する羽目になっている医師たちの元に殺到し、両方が右往左往している。

更に、子ども時代のチェックリストしかできていない発達障害となると、「かつて、私はこういう子どもでした。でも、今は違います。」と自己申告すると、「現時点で困っていないし、適応できているのなら、良いんじゃないですか?」と返答される。それで、喜ぶ人もいれば、自分の苦労を正当に評価されなかったことを嘆く人もいる。こういう医療の現状は、もうしばらく続くでしょう。(なにしろ、「基準」を作った人達自身が、検討中だと明記しているぐらいだから。)


そして、個人的に変わったのは、こんなことぐらいです。


まず、社会的に要求されていることでも、「できないことはできなくて当然だ」と思えるようになったこと。社会的に好ましくない行動でも何でもないのに、自分自身の思い込みから自制していたことは「していてもいいのだ」と思えるようになったこと。誰もいない場所で、手を振ったり・首を振ったり・手摺りや壁を叩いたりするのは「悪いことでも何でもない」、ただ、それが「私にとっての自然な在り方」だと思えるようになったこと。

次に、元々持ち合わせていた合併症の部分も含めて、それが、「本来の自分自身の姿」だと認められるようになったこと。軽躁状態を、"調子が良いのだ"と勘違いしないこと。鬱状態を、"情けない"と思わないこと。疲れたら、堂々と休むこと。

ただし、そのことを人に向かって話さないこと。こちらは、「自閉症者は、この時期に不安定になる」という事実を知らない人たちに教える義務があるからと思って報告したつもりでも、人に心配をかけてしまうから。そして、人が気を使ってくれればくれるほど、自分が悪いことをして"叱られた"のだと思ってしまうから。いや、まだ、世界中の人は私のことを"怒っている"と思っているから。(これだけ、できそこないの部品ぶりを発揮したら、ますます"何の役にも立っていない"に違いないし…。)

それから、「何故、トモダチという概念が理解できないのか?」と考えてみて、分かったことがあります。それは、どんなアニメやドラマでも、「仲間だから」とか「トモダチじゃないか」と言う前に、必ず、競い合ったり・外見や持ち物の品定めをしたり・性格や評判を判定したりする段階があって、時には、意地悪したり喧嘩したりする仲でもあることが多いということです。自分にとって価値のある人物であるかどうかというだけではなく、自分とは違う面を持っているけれど、話ができる・付き合ってくれる・解かってくれる・何かをしてくれるということが大事なのかもしれません。「自分と同じか・違うか」の1か0かの二者択一のアルゴリズムの世界には、およそ存在することのできない概念です。

きっと、そういうものが、他にもいっぱいあるんでしょうね?


この一年の間に、今まで「知らないでいて損をしていたこと」がたくさん分かりました。でも、その反面、今まで「知らなかったお蔭で、幸せだった」ことも、たくさん知ってしまいました。

最近、日本人がよく罹患する「対人恐怖症(社会不安障害)」の実際の症例を読んで、はっとさせられました。「初対面でもなく・よく知っている仲でもない、中間の"ちょっと知っているだけ"の間柄の人に対して、"恥をかくのではないか"という過剰な恐怖心を持ってしまう。」と書いてありました。「初対面の人に対してはごく一般的な会話で済むし、良く知っている人ならば話すことに警戒しなくていい。でも、顔馴染で・全く知らない人でもない人に、こんなことを言うとバカにされるのではないか・恥をかきたくないという心配から、極度の不安状態に陥ってしまう。」そうです。

確かに、私も「全くの初対面の人」か「よく知っている人」ではない「中間の状態の人」が苦手だと書きました。でも、別に話題に困るわけでもなければ・恥をかいたりバカにされることを恐れているわけではないのです。私は、ごくごくありふれた一般的な挨拶や決り文句と、自分が興味&関心を持っている唯一の話題以外には、話すことを持っていません。かつては、時と場合をわきまえずに、ベラベラしゃべりまくっていました。しかし、相手の心情に対応する感情を持ち合わせていないことを知ってしまった今では、逆に、何もしゃべれなくなってしまいました。(ただし、決り文句は、以前より以上に上手に言えるようになりました。何故なら、一時は、それさえも"嘘"だと疑って言えなくなってしまったから。)

「全くの初対面の人」ならば、普通でも「顔のない人」であって構わない。けれど、「よく知っている人」でもない「中間の状態の人」は、「顔と名前を覚えていないと失礼にあたる人」なのでしょう。でも、私にとっては、「話の通じない人」は全て「理屈の通らない人」「間違った考えを持った人」であり、その人たち全員が「顔のない人」になってしまう。一見、"お裁き"をしているのはこちらです。しかし、本当は、私の方こそ「人の気持ちの分からない人」「考えのオカシイ人」「期待された反応をしない人」だった。それが分かって、恐くなってしまった。

こういうところ、字面だけ見ると、全く同じ状態だと思われてしまっているのかもしれないと思うと、それも恐い。

というわけで、まだ、しばらくしゃべれません。

わがままばっかり言って、ごめんなさい!


              

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