-中学生のための-

ニンゲン講座

「普通」になりたい盛りのアスペの皆さんへ

いつもいつも、過剰適応の危険だけを強調する"オバさんトーク"ばかりしていると、「普通」に成りたい盛りのお年頃の方々に多大なご迷惑がかかってしまうので、今日は、「世の中」に円滑に生活するために"ほどほどに「普通」になる"にはどうすれば良いか検討してみます。(注:「普通」になるのはゴメンだという方々と、体の芯から「普通」になりたいと思っている人は、読まないで下さい。)

最近の子どもの中には、ちゃんと「診断」されているケースも多いので、ちゃんとしたトレーニングを受けている人もいるだろうし、ろくでもないトレーニングしか受けられていない人もいるだろう。しかし、「診断」かついていて、家族がそれなりの対応をしてくれている(アスペだということが判っている)だけでも、問題の半分は解決している。と言っても、「普通」に解釈されて勘違いで怒られたり・誉められたりする危険がちょっとばかし減るという程度だが…。少なくとも、「関係障害」がこじれることだけは防止できる。

アスペといっても、自分の「身体」や「物」との関係につまづいている重度の人は、それでもやっぱりそれなりの介助は必要だけれど、自閉度が高くなくてどう見ても「普通」の人は、人間関係の中に放り込まれる可能性が高くなるので、どうしたって"それなりの人付き合い"をしなければならなくなる。その時に、そこら辺に売っているありきたりの「人生論」や「人と上手くやる方法」を書いた本を買って自己啓発に励んだり、学校の先生や同級生に言われたことを真に受けて実践してしまったりしている人も多いと思う。

そこで、一般の人類向けに書かれている「人生訓」を、アスペ流に翻訳してみることにします。だいたい、心理学者というものは、ちょっと名が売れて来たり教授の肩書きが付いたりすると、「ニンゲンのことは全てお任せ!」の心境になって一般向けの「○○の心理学」みたいな本を書きたがる。人付き合いの技術だけで事業に成功した全くのシロウトではないので、カウンセリングの経験に裏付けされ、ちゃんとした心理学用語を駆使して、非常に説得力のある指南書を書いている売れっ子心理学者というのもいる。

ただ、こういう人たちはアスペの専門家ではないので、そこに書かれている例の中には、「この人って、もしかしてアスペじゃないの?」としか思われないような人を散見することが多い。(逆に言うと、「そんなに嫌われてるのかよ〜!」と叫びたくもなるのだが…。)まっ、とにかく、誰の何と本を槍玉に挙げるということでもなく、一般向けに書かれている「人間関係のハウツーもの」をアスペ流に、実害なく実践できる範囲に"翻訳"しようと思う。

たまには、〈本人〉も努力しているんだゾ!というところを見せねば。


以下、一般向けに書かれている部分は黒字/アスペ流の注釈は青字で、表示します。

それから、灰字は私の"心の声"なので、「普通」になりたい盛りの人は読まないように!


1、「得体の知れない人」は嫌われる。

相手がどういう経歴を持ち、何を考えているのか判らないのは、どうやって付き合えば良いのか見当がつかないので、"当たらずさわらずのまま"別れることになる。その前に、「つまらない人」として、敬遠される。自分の感情を表に出したり自分の価値観を表明する、つまり、「自己開示」しないというのは、非常に恐がられる。しかし、「自己開示」しようとして努力しても、自慢話・相手の身になって考えずにしゃべる・状況判断が悪いというのは、致命傷になる。

相手が急いでいるとか何かしている時にしゃべり始めるのは、間が悪い。かといって、こちらに話を振ってくれるまでいつまでも待っていると、何もしゃべれない。この辺のタイミングは、つかみ難い。けれど、(怒られながら)場数を踏んでいるうちにイイ線までいけるかもしれない。ただし、逆に、気を遣いすぎて、相手が「もっと聞きたい」と思っているのに、パタッと話すのをやめて帰ってしまったりすることもある。

だいたい、アスペの人がしゃべり出すと、自分が極限的に興味を持っている事柄とか、どうでもいいような細部までを、事細かに際限なく一方的にしゃべり続けることが多い。注意されても注意されても、これはなかなか止められない。それで、選択的場面緘黙で対処しようとするようになる。しかし、元々がカナ−タイプで、言葉がなかなか出てこないタイプの人は、「えーと、えーと…。」と言っているうちに流れに乗り損なってしまうことになる。どっちも、アタリサワリのない「日常会話」のパターンを習得して、そのパターンにハマッている範囲内でなら、対処できるようになるかもしれない。また、自分を護るために、「その場にふさわしい・説得力のある言い訳」を、きちんと言語化して伝えることも必要。

それから、相手が聞きたいと思っている以上のことまでしゃべったり、その場の状況や相手の立場に考慮できないでいると、自分では全然そのつもりはないのに、「自慢話をしている」と受け取られてしまうことが多い。感情を表に出せと言われても、無いものは出せない。で、無理して芝居をすると、後が続かない。それから、人前で過度に興奮したり癇癪を起こしてしまうと、たいへんにマズイことになる。

中には、「自分も同じ体験をした」とか「相手に役立つ情報を、相手が知りたがっている目的に合わせて提供する」ことができるような、優れたコミュニケーション言語能力を持っている人もいる。スゴイ!とは思うが、それはその人の島状に突出した部分であって私にはできないので、清々と諦めました。その方が、人に好かれることは間違いないけど…。


2、「非言語的コミュニケーション」が下手な人は、嫌われる。

立ち居振舞い・服装・声の大きさ・顔の表情・姿勢や体つき・視線・人との物理的距離と身体的な接触の仕方・相手に負担がかかったりタカラレない程度に物の遣り取りができること…。こういう、非言語的なコミュニケーション能力に恵まれている人というのは、人に対する好感度の点数を稼げる人だ。(俗に言う、「要領のイイ人」だったりもするが…。)

その場にふさわしい立ち居振舞い・姿勢や体つきは、できるようになる人もできない人もいる。それは、各々の運動障害の程度によるので、個人差が大きいところだ。服装も、触覚の知覚過敏や服への「こだわり」の程度が違うので、いつも同じ服ばっかり着ていたり、服装によって「人格」を変えることができる人がいたりと、千差万別だ。ただ、人から見てダラシナイ恰好だけはしないようにした方がいい。

声の大きさが調整できるようになる為には、"自分が発した声の内部知覚"と"耳から入ってくる外部知覚"との区別がつけられる身体的な発達の時期を待たなければならない。顔の表情筋は、動きが良い人と悪い人がいる。視線回避がはなはだしい人もいれば、逆に人を睨みつけ過ぎてしまう人もいるが、これは、相手が「無視された」と感じない程度にそっちを見てやればいいと思う。人との物理的距離は、触覚系の知覚過敏があったり接触防衛反応が強かったりすると、どうしても遠くなりすぎる。が、逆にそれがなさ過ぎて、やたらと人に触りまくる人もいる。ま、無理するとカラダに悪いが、全く我慢しないのも差別やイジメに繋がるので、精神的に良くない。

しかし、相手に負担がかからない程度・タカラレない程度にプレゼントをするというのは、非常に難しい。やり過ぎたり・やりな過ぎたりしてしまうのが常だから。まず、人の真似して「慣習に従え」と言われても、そういう情報を教えてくれるニンゲン関係のネットワークがないと、わからない。しかし、そういうネットワークを作るためには、適切な物の遣り取りが不可欠…。というわけで、堂々巡りを繰り返す。ということは、物を遣り取りするというのは、金銭的な遣り取りをしている場合と「気持ち」を遣り取りしている場合とがあることを、知っていなければならないのではないだろうか。

だいたい、こういうのは、「相手に不快感を与えないように」と言ってしまうと無理するしかなくなってしまうので、相手の不快感が多大にならない範囲なら相手に我慢をしてもらって、自分は多少の不快感を感じても我慢できる程度ならこちらが折れるしかないのではない。それが、アスペ流の"ぎぶあんどていく"だったりして…。


3、「優柔不断な人・自信のない人」は、嫌われる。

いつまでもダラダラと的のえない話を繰り返したり、時間や期限を無視する人というのは、健常者の中にも結構いる。こういう人は、間違いなく嫌われる。かと思いきや、結構な社会的地位についていたりすることがよくある。よく言われているけれど、結婚式のスピーチで長々と自分の姿勢方針演説をしたり自己の業績を延々と語ったりする政治家なんかが、その例だ。何故、こういう人種が世に栄えているのか?・・・答えは簡単。「自分にできること」「自分のしたいこと」を人にアピールする能力というのは、信用に繋がるからだ。

「自分はダメな人間だ」と思わずに育つアスペなんて、いるのだろうか? だーいたい、できないこと・まちがったこと・人を怒らせることのオンパレードで、良いセルフイメージを持つことは非常に難しい。いや、アスペなのに「自分は非のうちどころがない」と思っているのは、逆に、とっても危険だと思う。(そういうパターンだと、気づいた時には「犯罪者」になりかねない。)

まず、「あれができない・これもできない」のに「あれもこれも・できている」と思い込んでいる時期というのがある。そういう時は、自分では「できている」と自己流に思っているのに、客観的にはできていない。また、自分の「こだわり」を通すことが至上命令としてあるので、その場に「決まり」があることに気づくはずもない。しかし、「心の理論」なんてものを獲得すると、周りの様子が見えて来て、人間関係についてもこう思うようになる。

あれができない・これもできない⇒あれもこれも、できるようにならねば!

あれができない・これもできない⇒あれもこれも、できるはずがない!

まあ、「人並みにならねば」と思って「できること」が増えてくれば、周りも大喜びだし自分も万々歳だ。しかし、それにも限界がある。文章化されている規約なら守れても、集団内での取り決めや暗黙の了解なんてものがあることには全くお構いなしだ。しかも、「やりたいけど・できない」か「やれないのに・しなければならない」ことが多いと、「あれもこれも・しなければ」という命題と「自分自身の実力」との間でパニックを起こしてしまう。

「自分にできること」と「自分のしたいこと」を素直に表明しろと言われて、「自分のすべきこと」しか答えられなかったり「自分にできないこと」しか頭に浮かばないのは、困りものだ。・・・こんな時には、やっぱり「葵の紋所の印籠」が欲しい。


4、「役割を果たすことと、感情表現をしていい場を使い分けられない人」は、嫌われる。

早い話が、公私を使い分けろということだ。自分の肩書きやアイデンティティ(社会的人格)にふさわしい行動をしなければならない場面では、自分の感情を顕わにしてはならない。しかし、プライベートな場面では、腹を割ってホンネを話し、人情に背かず、人の気持ちを大切にして「仲良く」お付き合いすると、"良い人"と呼ばれる。

アスペの人たちは、ほぼ間違いなく、公私問わず社会的な(人が二人以上いるところで、その場にふさわしい)振る舞いをしなければならない場面で、「言ってはいけないこと・やってはならないこと」をしてしまった経験を持っていると思う。しかも、それは「恥ずかしさ」の感情ではなく、フラッシュバックという形で突然襲いかかって来たりもする。そうして、自分がなすべき振る舞いや果たすべき役割が判るようになると、今度は逆にそれに固執して、カンペキを期そうとするようになってしまう。

それで、アスペらしいことを、自分自身から完全に駆逐してしまおうと思う時期がある。自分が担うべき「役割」を完全に果たすことで、人に認めてもらえるし、仲間にも入れてもらえる。これは、とっても解かりやすい原理だ。しかも、24時間の自分の行動を、そうやって決めることができたなら、自分は完全なニンゲンになれるような気がする。いや、「そうなれる」と信じてしまう。しかも、プライベートな場面でも、トモダチやカゾクの要求に応えなければならないと思ってしまう。

そういう場所では、「普通」の人は自分の「感情」を開放しているのに、それもまた演技しなければならない。自分には元々、全く同じ動機がないのに、「そうしなければならない」ものとして「学習」対象にしてしまう。いつしか、自分自身の本当の気持ちさえもあるんだかどうだか分からなくなって、鬱病になったり社会的な逸脱行為に走ってしまって、やっと表面化する。そうなるまで、自分では気づかない。しかし、そうなってからでは遅い。

しかし、社会的な場面なのに、規則を忠実に守って自分の役割分担を遂行すると同時に、温情を示したり臨機応変な対応を求められたりすると、お手上げだ。また、社会的に上手くやっていくためには、「プライベートな場面で付き合いを求められたら、それに応えること」とが、セットになっていることが多いのには驚かされる。「役割」を演じなければならない場所でだけ、それにふさわしい演技をしていれば良いと思うのに、社会的な場面での人間関係を円滑にするために、時間外には「感情交流」をせよと言われるのは理不尽だ。


5、「自分のことしか考えない人と、ワンマンな人」は、嫌われる。

要するに、「ワガママ」と「ワンマン」は、日本では完全な悪とされる。国民的な人気を得るアイドルは"おばあちゃん子"だったりするし、全国的に放送されるアニメのストーリーは「一人一人は非力でも、みんなで力を合わせると凄まじいパワーを発揮する」という骨子が、必ずと言っていいほどある。しかし、何故か、大ヒットする映画は、「たった一人で敵に立ち向かう」洋画だったりするのは、何故だろう?

日本民族は、「人と違っていること」を非常に嫌う。恐るべきことに、小さな子どもまでもが「みんなと同じ」がいいと主張する。それで、世に流布している「人生訓」には、「和をもって尊しとなす」とか「仲良きことは美しい」と書かれているし、トモダチが多いことを「シアワセ」の証だとする意見も多い。それから、凶悪犯罪が起きると、「トモダチがいなかったから、いけなかったのでは?」とか「悩みがあったら、トモダチに打ち明ければ良かったのに!」という、同世代の人々の街頭インタビューが放送される。それで、心理学者が書く「人間関係の指南書」には、「人に好かれよう・人に嫌われまいとすることで、自分を縛ってしまってはいけない。」と、必ず書かれている。

「自閉症」真っ盛りの時期には、全く人とコミュニケーションがとれなかったり、あまりにも行動が奇妙過ぎたり、能力的な欠陥が目立つので、無理な要求をされる心配がなかったりする。ここで心配されるのは、「差別」されて人のいないところに追い遣られることだ。しかし、言語能力があって「普通」の行動ができるアスペになると、それでもまさか「自分以外の存在を、実感として感じることができない人」だとは思えないので、どう見てもただの"超ワガママな人"や"超ワンマンな人"にされてしまう。

それから、「身近なトモダチがいないから、こんなになった」とか「誰にも合わせようとしないのがいけない」と言われるばかりで、本当にトモダチと呼べるほど「共感」できる人を探そうとはしてくれない。元々、人と違っているのに、"人と違っている"ことを本人に対して批難するのは、お門違いと言うものだ。

確かに、あまりにも常軌を逸しているのは、本人にとっても不都合が多いので、行動は「普通」に近づくに越したことはない。差別されたりイジメられたり仲間ハズレにされるなんてことは、無い方が良いに決まっている。一緒に遊びたいと思う相手に、邪険にされるのは辛い。かと言って、共通項が何もなく一緒にいて楽しくもない人に、強制的なニンゲン関係を迫られる必要もない。

「かかわる」ことが苦になるだけの人間関係がいくらあっても、本人にとっては害になるだけだ。生活のため、日常的には耐え忍ばなくてはならないけれど、本当に「共感」できて自然体でいられる「場」を、必ず確保しておくべきだ。(それなりに、価値のある情報・技術を習得できるのなら、オタクの道でもいーじゃん!)


      

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