いったい、何をすればいいのか分からない!

 

「自閉症」であることが問題なのだろうか? それとも、「自閉症」であるが故にしてしまう「社会的に好ましくない行動」とか「他人が聞いて誤解されるような発言」を繰り返すことの方が、問題なのだろうか? しかし、社会的に好ましくない行動など起こさなくても、だんまりを決め込んでも、そのこと自体が問題行動になってしまう。でも、「共感」するセンサーと「接触」する回路を持っていないのに、「共感」しろとか「接触」することを要求すること自体が矛盾している。

発語がなかった人は、しゃべれるようになれば喜ばれたかも知れない。出来ないことが多かった人は、些細なことでも出来ることが増えれば喜ばれるかも知れない。でも、「自閉症」であることには何の変わりもない。なのに、「自閉症」を克服したと賞賛される。

本人は、「自閉症」であることが苦なのではない。だって、そうでない状態を知らないから。でも、「自閉症」仕様になっていない「世の中」には、「自閉症」でいられない場面があまりにも多い。だから苦しいのだ。

普通、人がしないことをしてしまい、人が言わないことを言い、人がしない態度をとる。その原因が「自閉症」だと分かったからといって、「ああそうですか」ではすまされない。「理由」を説明するつもりで言ったのに、「分かっているのにできないのはオカシイ」ととられてしまう。だったら、「言葉」など持たずに、単に「分からない人だ」と言われる方がマシかもしれない。まず、その「説明」を聞いてくれる人が少ない。しかも、たとえ聞いてくれたとしても、分かってくれるとは限らない。

音楽やゲームは裏切らない。いつも同じだし、私がやった通りの結果が出る。それらの「知識」なら、人に語ることが出来る。しかし、その体験を人に話すことはしても、その楽しみを「言葉」を介して人と分かち合おうという気持ちがない。だって、それは「体感」するものだから。しかし、それが木の葉のきらめく様子だとか、天井の照明の光やろうそくの炎の揺らぎだとか、音の波形や上がり下がりになると、その「場」を「共有」する以外に伝える方法などある訳がない。

トモダチが欲しいのにトモダチが出来ない、という失敗経験を繰り返したからトモダチを求めなくなったのではなく、もともとトモダチになれる人が少なくて求めようがないのだ。たとえ、二三言は言葉を交わせたとしても、関係を維持できないのだ。たまに、今度こそと思って始めてみるけれど、やっぱり敢えなく玉砕してしまう。

社会にアピールするために、「障害」を乗り越えて社会的にご立派になった「自閉症」者を前面に押し出そうとすることの意味は十分に分かる。けれど、下手に適応して潰されてしまった人とか、ちゃんとやれていない人には、本当に行き場がないのだ。だって、自分一人の中を堂々巡りするだけだから。そのことを伝える「言葉」さえも、持たないままに。

まるで、他の病気になってでも、「自閉症」でいることだけはやめろとでも言いたげ。だって、人との接触が苦痛だというのは、救われることさえも拒絶してしまうということだから。それとも、「高機能自閉症者」の手記から知覚過敏のことが知られるようになって、逆に、「身体」という障壁さえなければ中身は「普通」の人だと思われてしまっているのではないだろうか?

しかし、「自閉症」者本人の語る「言葉」は、「自閉症」者の意識は普通の人と変わらないことを表わしているに過ぎない。やはり、その「言葉」は自分自身の「身体」についての説明がスッポリと抜けたままの、「意識」としての自分自身でしかないのだから。その「主体」の在り方こそが「自閉症」だ、というのに。しかもそれが、実際に対面して見ないことには伝えることのできないものだということさえ、伝わっていない。

「自閉症」者の一人一人が、違う「身体」を持った違う「主体」であり、それは完結した一つの「世界」である。とすれば、一人の「自閉症」者が語る「言葉」には、いったいどれほどの「意義」があるのだろうか? そして、その「言葉」の「意味」するものは、本当に伝わっているのだろうか? 「言葉」によって語れ得ない事柄の方にこそ真実があるとすれば、いったい何をすればいいのだろうか?


                               

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