謎解きの旅

この日記を警告ととるか単なる自己満足ととるか、それはその人の感性と人間としての豊かさの問題だろうから、私の知ったこっちゃありません。ただ、私は、自分自身が長年抱いていた疑問について完璧に謎解きをした、とっても幸せな人だということだけは、解って欲しいのです。

以下に掲げるような疑問を、くだらない些細なことだとか、贅沢な悩みだとか言うのなら、それでもいいと思います。

などなど

不思議なことに、これらの疑問の数々は、すべて「自閉症」に係わったことで解決したのでした。

もっと大きなところでは、例の茶色のサングラス。これはもう、感謝感激としか言いようがありません。今では、片時も離せない必須アイテムになっています。ちょっと本で見かけただけで鵜呑みにするなんて、人に影響されやすい単細胞の思い込みと言われようが、ぜ〜んぜん構いません。

このお陰で一日しゃんとしていられた日がどれだけあっでしょうか。どこに行っても疲れなくなったし、目を開けているのも辛いなんてこともなくなりました。「ただの弱視だったんじゃない?」と疑ってみたけれど、私の持っている眼鏡は既に弱視仕様になっているし、同じ紫外線カットでもグレーだと効果がありませんでした。第一、学生時代から何か楽だというので屋外で本を読んでいたのはどうしなのでしょうか。弱視なら太陽光線の方が悪いはずなのに(眼鏡を作ったときに、野外でかけるように言われました)。それに、中心近くが浮きあがって見えて目が回りそうになることもなくなりました。みんな、こんなに楽な世界にいたのかと思います。

それに、つい最近、もっと重要なことがまたひとつ明かになりました。それは、言葉と経験の乖離ということです。

どうして私はあっちこっちのホームページでみかけるような、今日OOがどこで何をしてどう思ったという具体的で分かりやすい文章が書けないのでしょうか。また、そういう文章を読むのが苦痛なのでしょう。そして、抽象的な結論めいたことしか書けないのでしょう。普通ならこういう文章が書けるのは"とりえ"かもしれないけれど、日常会話に苦労しているこの状況は普通ではない、これは一体なんなんだろう?

私は経験を言語化することと、言語から経験を再現する能力に欠けていた。

一口に言えばこういうことです。経験はあくまでも感覚的に体感されるだけ、言語はあくまでも言葉と言葉の関係の中で使われるだけで、両者が結びついていなかったのでした。これは、どこに行って何を見ても、そこで食べたラーメンのことしか覚えていない息子の抱えている問題と、同質のものです。確かに、ラーメンのことしか記憶できない息子は、生活に必要な情報のインプットもなくそれを整理し・理解する能力にも欠けているくらいだから、学習に支障をきたす困難があると誰しも認めるでしょう。でも、ラーメンが言葉に置き換わったから上等だということは決してないのです。

どうも、私の頭の中では、経験されたひとつひとつの場面が独立していて、それぞれにタイトルをつけてどこかに保存してあるみたいなのです。

例えば、ある人がいつも怒った顔をしていると、「悪い人」というタイトルがつけられて、一枚の映像が記憶されてしまいます。でも、その同じ人がニコニコした瞬間に、急に私の中で「良い人」に豹変します。で、あの顔がこの顔にどうして変わったかというと、よく知らない人なら好意的になったと勘違いするくらいですみます。でも、どういう状況で・どういうメカニズムでそうなって、その人の性格はどうで・今度あった時に何に注意すればいいか考えて行くと、「うらおもてのあるイヤな人」「私の仲間ではない人」に分類されてしまうのです。結局、その"人"に関する情報はそこで終わってしまいます。

私にとってアナログ的な経験というは、あくまでも漠然とした"感じ"でしかないのです。言葉にすると嘘になってしまうからというのではなく、置き換えることができないのです。同様に、感情についても、私は言葉では表現しないけれど、背景の壁紙で象徴的にちゃんと表わしています。その為に見にくくなっても、尚、人に伝えることより自分の"感じ"を表現したい衝動が優先しています。(本当に、すみません)。

そうした経験や想い自体を言語化して人に伝えることはできないから、一緒に経験して"感じ"を共有することを要求するのです。経験や自分の意思をその場にいなかった人に伝える=コミュニケーションの媒介となる言葉を持っていない、これは、高等なクレーン現象と言っていいかもしれません。そして、そういう記憶を引き出すには、場面・状況ごとにデジタル化して仕分けされた文章に出会わなければならないのです。だから、ついさっきのことを話すのにも、誰かの言葉を引用しなければ自分のことを語れないのです。


こうして、私は私の謎を一つ一つ解いていきます。これはもう、ひとつの趣味です。こうやっていろんなことが解っていけば、私自身は大満足です。こういう状態のニンゲンのあり方を他人がなんと言おうと、本当はどうでもいいことなのです。

それをわざわざこんな風に公開しているただ一つの理由は、子供の頃の一時期に「高機能自閉症」や「アスペルガー症候群」の特徴を顕わしていて、今は普通・あるいはある意味ではそれ以上にしている人が、どういう風にモノを見たり感じたりしているか知ってもらいたいからです。決して、自分を自分で障害者に仕立てようというのではありません。ただ、このことを知って始めて解決した数々のことがらと、似たような経験をして来た人との間でだけ感じられる連帯感、そのお陰で随分と楽になり、生きる力を与えられているという事実。これを警告ととるか単なる自己満足ととるか、それは私が決めることではありません。

でも、できれは何かの役に立って欲しい、それから私のしてきたような勘違いの人生を歩む人が一人でも減るように願っています。私にとっては「茶色のメガネ」ひとつでも、進路を狂わせるような大問題だったのですから。


          

「自閉症者の宗教観」へ   「ペンギン日記」へ   「ASAS」へ