自閉症者の宗教観

何でもただ信じていることだけを基礎に受容するなんて、私には理解できない。なぜなら、私の思考は感情ではなく理性で抑制されているからだ。

私の宗教が、彼らの宗教よりも優れているという考え方が、私には理解できなかった。私の思いでは、どんな宗教の儀式も同じ程度に妥当であったし、今でもこの考えを持っている。さまざまな宗教的信仰は、すべて神とのコミュニケーションを果たし、倫理的原理への指導を含んでいる。たくさんの自閉症者がこうした私の考えに同意するのだ。そして、その多くが転生を信じている。なぜなら天国と地獄の観念よりも、転生のほうが彼等にとってはより論理的に思えるからである。

多くの自閉症者にとって、宗教は感情的なものではなく、知的課題なのである。しかし、音楽は例外である。ある人たちは、音楽がふんだんに演奏される儀式では、より宗教的感覚に包まれる。

テンプル・グランディン著『自閉症の才能開発』/第十一章「天国への階段−宗教と信仰」より

 

今日は、テンプルさんこの文章を転記してこのまま終わってもいいくらいです。これは正に、私がずっと抱いてきた宗教観そのものです。ただ、転生が、魂がそのまま生まれ変わるのではなく、粒子(と言うよりライプニッツのモナド=精神的な要素が内在する粒子)に還元してから再生する考え方だということを説明に付け加える必要があるだけです。

具体的なOO教・OO派とかいうのではなく、生活・習慣・文化という要素の無い"ただの宗教"。世界のどんな宗教も包括してしまうような、宗教の中の宗教。いや、単なる理論ではなく信仰の対象となる、宗教のような哲学。どうして、人類全体がこの究極の宗教に至らずに、いつまでも個々の宗教に執着して殺し合いや戦争までしているのだろうか? 私はず〜っと、そう思っていました。

私が入った寺門は、確かに、曹洞宗という禅宗の一つの宗派でした。道場内では決められた型にはまることで人間関係が済んでしまうというのは、居心地の良いものでした。が、私の念頭にあったのは、現在の曹洞宗ではなくイデアとしての"禅"でした。

もっとも、この宗教観はありとあらゆるタイプの自閉症者に共通するものではなく、ごく一部の、物事の関係づけと抽象化を趣味とする(得意とする)タイプの人に限られたものだと思います。あくまでも具体的なモノの羅列と記憶が趣味(得意)なタイプの自閉症者は、特定の宗派の寸分たがわない儀式の繰り返しと経典の文句に執着するでしょう。

このテンプルさんのこの文章を読んだ時、それはそれはショックでした。その前の、感覚や感情についての記述の中にも自分とそっくりの人が何人もいたし、テンプルさん自身の失敗談や行動のいくつかと同じことを自分もした覚えがあって、ただ手放しで喜んでいられたのでしたが…。さすがに、この宗教観を目にした時は笑えませんでした。なんだ、私はずっと、こんな特殊なものをたいそうなものとして信じてきたのか!って。

 

そして、さらに

また、別のケースでは、頭の中を駆けめぐっていたいやな想念を、集中的な祈りでコントロールできた若い自閉症男性がいる。

テンプル・グランディン著『自閉症の才能開発』/第十一章「天国への階段−宗教と信仰」より

となるとこれは、まるで私そのものです。ただ、「祈り」の代わりに「坐禅」だったこと、「若く」もなく「男性」でもないという点が異なるだけです。確かに、私が坐禅を始めたきっかけは哲学でした。しかし、20年も続けてきたのは、過去を切り捨て、≪フラッシュ・バック≫を封じ込める為に他ならなかったのでした。

そして、この≪フラッシュ・バック≫。30年以上に渡って、人知れず悩まされてきたことでした。が、こんなことにまで名前がつけられていて、けっこう一般的な(自閉症者に)現象だったなんて! しかも、その対処法まで、先日の「軽度発達障害学会」で森口奈緒美さんが私とまるで同じ方法をとっていると語っていたのは、さらなる驚きです。

他にも、学会で会ったアスペの人達とは、私がしてきたことと同じような体験談に花が咲きました。それから、私がテンプルさんのベルトの牛のレリーフに注目したのは、本に「自分を象徴するものとして、必ず牛のブローチをつけていた」と書いてあったのを思い出したからではなく、私もつい半年前まで、「自分を象徴するものとして数珠を持ち歩いていた」のと同じだと思ったからでした。(誰か気づいた人いたかな、ベルトの牛に。)

それじゃあ、いよいよ、"私"って何なの?


        

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