社会性ってなに?
『アスペの会』(と言っても、アスペの成人の会ではありません、アスペの子を持つ親たちの支援組織の勉強会)に行くと、たくさんのアスペの子どもたちがいる。そういう子どもたちを見ていると、私はとっても嬉しくなる。・・・何が嬉しいかって、別にそこでおしゃべりが弾むとか、悩み事を打ち明け合うというのではない。私と同じようなしぐさで首を振り、私と同じように当惑してフリーズし、私と同じような話し方をする子どもや青年に会えるからなのだ。で、私は、もっぱら、親たちに子どもたちの行状について解説するだけで、子どもたちの中には入らない。絶対に、こちらから声をかけることもないし、向こうからの問いかけにもあまり応じない。だって、下手に話しかけたって話題が合うかどうか分からないし、第一、無愛想な口の利き方をされるから、恐いのだ。でも、それでいい。いや、それがいいのだ。
そもそも、アスペ同士なら気が合うだろうという幻想は抱かない方が良い。まず、それぞれか「こだわっている」分野が違う。そして、もし分野が同じでも、ちょっとした違いでイチャモン付け合ったりするし、一方的に自分の「こだわり」についての講釈を始めるので、聞いている方はうんざりしてしまう。それに、もともと話す能力はあるのにコミュニケーションに難がある同士だから、下手に係わるよりも、何かを並行的に行う「場」を共有して、一緒に"そこに居る"ことが大事なのだ。そういう、直接的な係わりのない「かかわり」を繰り返しているうちに、そこはかとない"親しさ"のようなものが生まれて来る。それは、そこに会話があるとかないとかいう尺度では計れない「親和的な空気」のようなもので、お互いに強制もしなければ義務もないというのが、いいのだ。そして、そういう束の間のひとときが終われば、またみんなバラバラになって帰って行く。だが、それぞれの戦場に帰還した後も、「ひとりじゃない」安心感に包まれる。「また、会いたい。」と思う。そんなものだ。
人が「自閉症」なのは、「自閉症」の身体を持っているということで、「自閉症」の人と似たような経験をしているかどうかではない。だから、実際に会って見ないと分からないものなのだ。と言っても、一人一人みんな違うというのが「自閉症」の共通点なので、本当にさまざまな人がいる。見るからに「自閉症」らしい人・見た目では全然わからない人、やっていることや好みは「自閉症」だが普通に近い「感情」を持っている人・全く普通に行動しているのに「自閉症」の感性がプンプンしている人…。そして更に、いつの時点で「診断」され、どんな対応をされて来たか、ちゃんとした「療育」を受けたかどうかで状態は全く違うし、物事の考え方まで違っている。
では、こういう「かかわりかた」をするのが自然な人たちにとって、「社会」って何なのだろう? そして、こういう人たちにとって、「社会性」を身に付けると言うのは、どういうことなのだろうか?
基本的に、人間は一人では生きられない。まず、「生理的欲求」を満たすためには必ず誰かの世話にならなければならない。その状態の関係は、「依存」と呼ばれる。しかし、人と人との関係は、それだけにとどまらない。「自分が発するサインに対して何らかの応答があり、その働きかけに応じる」という相互作用のある「愛着関係」を特定の個人に対して結ぶことで、自分が護られているという「安全感」が生まれ、そういう愛着対象者に感謝し、期待に応えようと自己の行動を統制して行くことが出来るというのが、一般的な「愛着理論」である。
子どもが「自閉症」であった場合、多くの親には全く不可解な生き物であるために、どう係わっていいか分からないし、お互いの間で本当の意味の「共感」も生まれない。しかし、もし、親の方が「自閉症」について熱心に勉強して、受容して育てる覚悟が十分にあって、「社会」との闘いの連続にも果敢に立ち向かったとしたら…。恐らく、その自閉症児は「親に感謝できる」自閉症者になれるかもしれない。実際、そうなった人がいる。テンプル・グランディンさんである。仮に、テンプルさんのような自閉症者になることを目標に掲げるのなら、まず最初に親自身がテンプルさんの母親のようにならずして、子どもにだけそれを要求しようというのは、安易過ぎる考えである。
だが、テンプルさんは、普通の人になったわけではない。「自閉症」の基本構造のまま、社会に適応しているということを忘れて欲しくない。
では、いったい、どこがどう違うのだろうか?
誰かが認めてくれれば、自分の価値を信じることができるような気がするからだ。
(パット・パルマー作『おとなになる本』P46)
というところは、自閉症者でも非・自閉者でも、あまり変わらないような気がする。
しかし、「誰かに愛されること」が必要だとしても、その「愛され方」とか「愛情の示し方」は同じではない。それに、「愛を利用して安心や自信を得ようとすることがある」つまり「わざと相手を傷つけたり、無理な要求をしたりして、愛をためさずにはいられない」というようなことを、果たして自閉症者がするだろうか? 自閉症者が「巻きこみこだわり」をエスカレートして行くのは、図に乗って要求が過激になっていくだけで、それで相手の愛情を確かめようというのではない。増してや、「自分のかけた愛情に見合うだけの見返りを人に要求する」とか「愛情が満たされないと、憎しみに変容する」ことがあるのだろうか? むしろ、全くそんな意図などないのに、そういう「愛と憎しみの理論」で解釈されることで、被害を被っているのではないだろうか。
確かに、自閉症者の主観的な感情と他者の感情が「一致すること」が有り得ないことはない。自閉症者でも、自分のしたことを誉められたり喜ばれたりすると、もっと誉められたい、もっと喜ばれたいと思うものだ。しかし、上手い汁を吸った最初のやり方と同じパターンで、あまりにも執拗に繰り返すので、終いには嫌われてしまう。
それから、「感情的な同化現象」というのもある。泣いている人を見ると一緒に泣いてしまったり、怒っている人を見ると一緒に怒ったりする。でも、それは「感情」を「共感」していると言うより、同じ状態になってしまっているのだ。しかも、(起きる頻度が多くなりやすい・パターンが読めるので深くなりやすいということは確かにあるが)愛着対象者にだけ起きるということもない。目の前にいる見ず知らずの人でも、テレビの出演者やアニメの登場者に対しても起きる。それから、困っている人や痛くて苦しんでいる人を見て、「おもしろい」と笑ってしまうのは、単に顔や動きの表面的なオカシサを笑ってしまうのであって、薄情だからではないのだ。
だいたい、自閉症者が、ニンゲンの真似をしてサル芝居を打つのは、「人に嫌われないために演出している」のではない。感じ方や考えていることが、基本的に人と違っているので、ニンゲンらしい行動・ニンゲンらしい所感・ニンゲンらしい意見・ニンゲンらしい感情を、演技しなければないからなのだ。ただ、学習能力が高いと、テレビのコメントや活字などの文字情報で知識を集積できるので、ニンゲンとしての共通認識を持つことにはさほど苦労しない。でも、そういう学習をするのは、人に好かれるとか嫌われることを気にしているからではないのだ。ニンゲンとして扱われるから、ニンゲンに"なる"ことが要請されるからなのだ。必要に迫られて、「教条的・教訓的な一般論」か「特定のキャラクターの所作」を真似して、技術として習得するのだ。が、現実の人間たちは、「理屈」ではなく「感情」主導で行動するので、自分が属している集団の価値観を理解するのは非常に難しい。従って、その「場」の状況に応じた振る舞いができないことになる。
だから、自閉症者の「コミュニケーション障害」というのは、こういうことではないのだ。
人に嫌われることを恐れて自分の意見を言わず、みんなが決めてくれることを期待する。そのくせ後になって悔やんだり恨んだりしている。自分の意見を言うときや、相手にものを頼むとき、必要以上に強い言い方をして、相手を傷つけてしまう。頼まれたことを断わるとき、なぜか不機嫌な口調になってしまう。(『同』P38)
自閉症者が、本当の自分の意見を自然に言えないのは、"学習によってパターン化された見解"しか持っていないからだ。或いは、自分の"本当の気持ち"を口にしてしまうと、ニンゲンの好みに合っていないから。いや、何度も何度もうっかり自分の"星流の考え"を口に出して「ふざけている」と思われてしまったり、"思考内語に声を付けているだけ"だということが分からないので批難されてしまった経験があるから。それで、自分では決められないのだ。そして、決まった内容に、自分にとって楽しめることがあったとしても、それは完全にみんなと同じだとは限らない。ましてや、どうしても妥協できないことには癇癪を起こしてしまうし、恐怖や不安が強ければパニックになる。いよいよダメなら逃げるしかない。それに、元々のものの言い方が「強くて・不機嫌そう」なので、知らない間に相手は傷つき、怒っている。
今、「自分がやりたいと思っていることを素直に言いなさい」と地球人に問われて、「オフコースの小田和正の声の余韻と、エレキピアノの響きを聴きたい」とは答えられないでしょ!
自閉症者は、同じ「場」にいても人と同じように情報を受理していない。一生懸命に自分なりの解釈で情報を処理しているけれど、的外れであることが多い。しかも、他者との関係は持てても、他者からの視点がない「自閉症」という「障害」を持っている以上、自分は自分の出来る範囲で完璧に出来ていると思っているし、自分自身の行動を自分でフィードバックできない。だから、代わりに第三者が、「他人からはどう見えているか」教えてあげるだけでなく、「そういうことをされると、ニンゲンはどういう気持になるか」解説してやらなければならない。また、「同じように認知していないのに、同じように知覚していないのに、同じような身体図式を持っていない」のに、同じ"言葉"を用いているというギャップを埋めてあげなければならない。「かかわり障害」を治療するというのは、「自閉症」の認知の仕方や知覚の特異性と安全な係わり方を教えるということなのだ。早期発見・早期療育が必要なのは、正にこのためなのだ。
自閉症者に「社会性」をつけるというのは、元々の係わり合いが既に外傷的である他者との間に過分な外傷体験を作らないということであり、地上で平和に暮らすためのマナーを身に付けさせることである。
自分の安全のためにも、普通の人と同じように違和感なく振る舞えるようになることは必要だとは思うけれど、脳ミソの中身まで汚染されてはたまらない!
「普通になるということ」へ 「ペンギン日記」へ 「成人の問題」へ