自己効力感

自己効力感とは、「自己に対する有能感・信頼感」のことを言う。

自分で、自分自身の価値を認め何らかの生甲斐が持てなければ、生きて行く意欲など持てるはずがない。しかし、人が一人前の社会生活を送れるようになるためには、文化的・社会的に必要とされる生活態度や技能を身に付けて、環境に適応しなければならない。高度な文明社会を築き上げてしまった人類の子どもは、社会の成員となるために十数年もかけなければならなくなった。とはいえ、生後5年目には5年目なりの要求水準があり、その時期に応じたハードルをクリアーしながら、最終的なゴールと言うか、社会人としてのスタート地点に立つわけだ。

一般的に言うと、それに適応できない人が陥ってしまうのが、"適応障害"という状態だ。

適応障害というと、不登校・対人恐怖症・拒食症・ひきこもりのような「不安」「うつ」傾向になる場合もあれば、破壊的・暴力的になったりする(「行為障害」のような)場合もある。一般的には、友達や先生と上手くいかないとか、親の養育態度の問題とか、家庭不和とか、本人の性格というような、心理的・情緒的なストレスが原因になって起きるものだ。〔同じストレスを与えられた条件下では、男子は暴力的になりやすく、女子は「うつ」的になりやすいという実験結果もあるそうです。〕

しかし、生まれつき、言語能力・運動能力・学習能力・行動特性・社会性に何らかの「障害」を持っていたり、神経症・不安&過緊張・心身症状態にある「発達障害児」は、始めから"適応障害"状態にあると言っても過言ではない。要するに、始めから"できないことだらけ"だったり、できないことがあってもなくても"集団に帰属していない"ために、社会の成員として必要な自覚や価値観を持てないのだ。始めから集団生活ができないこともあれば、二次障害で途中から逸脱してしまうこともあるけれど、何らかの異常行動や不適応症状を起こしやすいことに変わりはない。

また、「発達障害」児は、不安・怒り・衝動性などをセルフコントロールできないので、薬物療法が必要になることが多い。でも、薬が解決するのは、基盤となる気分や情動を落ち着かせるだけで、やはり、本人へのカウンセリングや周囲の人々の理解が必要なのだ。とは言え、もともと欠陥や不足のある人に、「"ありのままの自分"を受け容れて、環境に適応して行けるように働きかける」ことがまた、至難のワザなのだ。「無いモノは無い」「できないコトはできない」というのは自明のことだけれど、それを本人も家族も納得して、"無いモノ・できないコト"を諦め・補っていくこと自体が難しいのだ。そうして、時間だけが空しく過ぎて、取り返しがつかないところまで行き着いてしまう。

「障害」を持ちながら、精神的な健康を保つのは難しい。だって、目に見えるマイナス要素を中立的に受け留めることができないから。たとえ、本人と家族が認めても、社会が許さない。

ネガティブな感情を経験しやすい人は、状況とは関係なしに、不快、苦痛、不満などを報告する傾向がある。その条件は状態不安に関連しており、内省的で、良心的な人に多い。また、他人や環境のネガティブな面に注意を向ける傾向がある。それに対し、負の感情を経験することの少ない人は、自己に満足しており、自己欺瞞的である。行動する時自己について多くを考えることなく、結果に満足する傾向がある。また、他人についてポジティブな見方をする。ワトソンとクラークはネガティブな感情傾向の低い人には2つのタイプがあるという。一方は真実自己満足できる人で、よく適応し、楽しい。他方は不愉快であったり、望ましくない自己についての知覚を否定するタイプである。感情の障害はネガティブな感情を経験しやすい人に生じやすい。

『感情の発達と障害』高野清純著(P125)より

「発達障害」者は、適切な"自己認知"を持つことに障害があることが多い。それは、あまりにも多くの失敗経験をしているからでもあるし、どんなにたくさんの成功経験をしていても本人が自分にとっては何の価値も見出せずに無視していることもある。しかしそれ以前に、知覚や認知の歪みがあるために、通常では何でもないことに苦痛・不快・不満を抱いてしまうので、不安や怒りを余計に感じてしまっていることが多すぎるのだ。また、"自己有能感"を抱いている場合は、現実感がない"単なる思い込みである"(もしかしたら、傍目には、"妄想的"であるとさえ見えるかもしれない)ことが、ほとんどなのだ。

まず第一に、能力的な緒問題によって阻害されてしまっているので、「人の期待に応えられない」「相手の注文に応じられない」「社会的・文化的に価値のある仕事ができない」というのは、実際的に"外されている感じ"(疎外感)や"自信喪失感"(無力感)に直結する。しかし、「感情」で繋がっている人々のネットワークに入れないことは、健常者や「自閉症」でない「発達障害者」にとっては、それだけで自己の存在基盤を失わせる重大な危機になる。

なぜ感情は、自己志向的・他者志向的行動のための設定条件として機能するのであろうか。定義によれば、負の感情は自己と他者の間の心理学的距離を拡大する。トムキンスによれば、負の感情は対人恐怖をつくり出す。負の感情状態のもとでは、自己報酬を高めることによって自己を慰撫し、報酬を減じることによって他者を罰するという自然な傾向が生じるとする。この見解によるならば、それが負の感情の一般的傾向であるということになる。すなわち、その先から一般化された他者への置き換えである。反対に、正の感情は自己と他者についての好ましい感情を醸成することによって、心理学的距離を縮める。トムキンスの用語を借りれば、正の感情は“他者愛”をつくる。ここでもまた、この感情の元の源から高度な汎化が生じる。自己と他者間の心理学的距離は減少するので、自己に対するのと同様な感情を他者に対しても抱くことになる。自己に寛大であるように、他者にも寛大になる。

『感情の発達と障害』高野清純著(P108)より


それに対して、「自閉性障害者」は、いじめや排除を受けなくても、他者との"違和感"だけで十分に「外傷体験」になりえる。なにしろ、意識していられる脳の稼動容量が非常に小さいため、自分の価値体系の中に位置付けされていない事柄には注意が向かない。特定の形や音などの要素に魅入ってしまうと、他の活動が止まってしまう。環境の影響を受けて、身体的な不快感を強く感じてしまったり、神経症的な発作を起こしてしまう。重力に抗して立っていることが辛かったり、身体を操作するだけで手一杯なのだ。非・自閉性障害者とは違って、他者の感情に対する適切な反応ができないことが原因で「抑うつ状態」になるのではない。それ以前の問題なのだ。だって、自己を肯定的に受け容れられられず、自分に価値を見出せない人が、積極的に生きられるわけがない。

なにしろ、基調となる感情が「不安」「恐怖」「自己否定」なのだから、鬱病で活動性が低下したり・自信喪失したり・罪障感に囚われたり・無価値観にさいなまれたり・食欲不振や睡眠障害(不眠・過眠)になるのではないのだ。基本的に、負の感情状態であるために、そういう情けない「自分」にムチを打って無理やり社会化しようとした後に、本当の「うつ」の波がやって来る。また、自己の有能感を見出して、積極的・強迫的に何かに向かって暴走してしまうと、自己の現実と他者から期待されている自己像との乖離がはなはだしくなりすぎて、ある日突然、気力の糸がプッツリと切れてしまう。今まで積み上げて来たモノを、自分であっさりとぶち壊してしまう。それをまた、自分で情けなく思う。この悪循環の繰り返しなのだ。

知的障害や行動障害がなくても、そういう適応力の悪さと、それが非常に「自閉性障害」に本態的なものだということが解かっていないと、本当の"自己効力感"にはつながらない。

そういうところまでひっくるめて、「障害」として認めることが必要だと思う。できれば、社会的に認知される必要がある。でも、少なくとも元々の身体的・精神的な虚弱さに対しても適切なカウンセリングをして、「それもまた、"ありのままの自分"の姿なのだ」ということを了解した上で、「では、何ができるのか?」と考えていかないといけない。


      

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