記事タイトル:2001年6月の「日記」  


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テーマ: 気になること、あれこれ。   
1、ほとんど不断の闘い。
   ○何もかもイヤになって、投げ出したくなる衝動。←CBZが闘ってくれている。
   ○自分の身体に対する不快感。←SSRIが闘ってくれている。

2、一般的な感情で、周囲が「いじめ」「いじめ」と騒ぎすぎると、本人にとってわけのわから
  ない指令が増える。
  それが、本人にとっては、逆に"心的外傷"になっているということ。まず、一般人が感じて
  いる感情を"同じようには感じていない"という大前提を理解してから始めて欲しい。

3、「親ごころ」の交流は、親たちに任せるに限る。
  最近は、一般的な「親ごころ」があって、尚かつ、「自閉症」の「こころ」を解説できる人
  が増えた。もう、放っといても大丈夫(?)←早く、本当に放っといても大丈夫、になって
  欲しい。(出番がなくなれば、書き込み新人の"「自閉症」に困ってます"発言を読まずに済
  んで、精神衛生上も良い。)

4、全国各地で、「高機能自閉症」のセミナーが開かれている。でも、本当に解かってやってい
  るのだろうか?

5、もう、後がないこと。
[2001年6月29日 8時2分42秒]

テーマ: 当たり前のことに大騒ぎしないで欲しい!   
 世界的な「自閉症」の研究者でさえ、テンプルさんが「すぐに"牛"に話を戻す」のは「まだ自
閉症の痕跡を残している」なんてなことを書いている。
 「自閉症」者が自分の「こだわり」を語ること、と言うより自分の「こだわり」を通してしか
語らないことは、当たり前のことです。

 それから、今朝、余所の掲示板に、自分の子供の様子が「自閉症」児の行動そっくりなのを見
て「これは まずい」と思って慌てて児童精神科にかかった、という人の書き込みがあ
った。
 「これは まずい」のではありません。「自閉症」児なら、「それで 当たり前」で
す。それから、「自閉症」であることは、そんなに特別なことではありません。
[2001年6月28日 7時50分42秒]

テーマ: 分かっているのに、敢えて言う。   
 これを『挑戦』という。でも、一方的に言わせておいて、良いのか?

 「いじめ」を受けやすい、被害者になりやすいというところを、強調する必要性があるのはよ
く分かる。でも、「いじめ」られたからPTSD的になった、という公式に当てはめようとしてい
る傾向がありはしないか?
 「いじめ」られなくたって、「自閉症」という"特性"を無視されて受ける処遇は、ほとん
ど"外傷"になるのではないのか?
 それに、あちらが「いじめ」という概念でくくっていることの全てが、こちらにとって「いじ
め」として認識されているとは限らないのではないのか?

 そりゃあ、身体的・物的に損傷を受ければ分かりやすいけれど…。からかわれたって、何を称
して"からかい"と言っているのかわからなければ、からかわれたことにはならない。それなの
に、「そんな恥ずかしいことをやるから、からかわれるんですよ!」なんて言われたって、どう
いうことに「恥ずかしさ」を感じるのか、どういうことが「恥」なのかがわからないのに、何
を・どうやめたらいいのか?
 そういう表現をする前に、「自閉症者にとっては何とも思わないかもしれないけれど、一般的
にはそれは恥ずかしいことで、そういうことをするから余計な手出しをされる。それで損をする
のは自分の方だ。」と言わなければ、何のことだか分からないではないか!?

 でも、あちらが気づいていない事の方こそが、(こちらにとっては)本当の意味での"外傷"に
なっているのではないのか?
 そもそも、「自分の感覚世界にいた頃は楽しかった」と本人たちの多くが言っているのに、何
故それを無視して、「ニンゲンの世界に引っ張り出してくれて、ありがとう」と言っているかの
ように受け取れる部分だけを取り上げるのか!?
 確かに、テンプルさんは言っている。「こちらの世界にぶっとんでしまった時に、母が呼び戻
してくれた」と。でも、これは読字障害を克服するための勉強をしている場面でのことで、大枠
のところでは、"締めつけ機"への「こだわり」、"牛"への「こだわり」には理解を示してくれ
ているではないか?

 何だか、これって「御都合主義」じゃないの?・・・まあ、一般人の教師や親向けに、そう言
わざるを得ないというのなら、わかるけど。
[2001年6月27日 15時46分37秒]

テーマ: いろんな闘い。   
 何だかんだ言って、やっぱりCBZ:25mg×2/SSRI(fl):25mg×1で、常用と
いうところで落ち着きそうだ。
 SSRIを常用するのは「抗うつ剤」としてではなく、いろんな過敏症を抑える作用が必要だ
から。「音」の余韻が切れてしまうのは残念だけど、空間に光の筋が見えるのは邪魔くさいし、
いろいろとスッキリする。でも、増やすことを迫られるのは、「抗うつ剤」としてのSSRI。
これがまた、些細なことで必要になる。

 何かに憑かれたり、追い立てられているわけでもないのに、1日中活動できるようになっても
なお、突然「何もかもイヤになる」発作的な衝動が何度も起きる。それから、重力に逆らって立
っているのも辛くなる。
 そういう衝動を抑えるのと、次から次へと振りかかってくる外界からの指令に対応するために
頭を切り替えるのと、加工されていない原体験の際限の無い繰り返しとそれへの注釈の繰り返し
を止めること、これらのすべてが自動で行われるようになった「脳」って、素晴らしい!
 その一番の効能は、「自分を苦しめること」「自分を辛くさせること」「自分に無理を強いる
こと」から回避するのに役立っていることかな?

 ただ、ワタシが気に掛けているのは、可愛い受動型でもなく、恵まれた環境にいて才能を十分
に発揮できている人でもなく、サヴァン能力のある人でもない。いつもいつもこっちから切って
しまって、いつもいつも『要らない部品』になってしまう人たちのこと。
[2001年6月27日 11時52分29秒]

テーマ: 希望を与える人・絶望する人。   
※「しゃべりたくない」と書いておきながら、やっぱり書かずにはいられなくなった。

 "希望を与える人""絶望する人"そのどちらもが「同志(こう書くと何か妙な連帯感があるみ
たいだけど、実際の繋がりは無い)」なのだから、今から書くことはそのどちらをも責めるもの
ではない。
 最近、「高機能自閉症」や「アスペルガー症候群」という名前が知られるようになって、世間
が騒ぎ出している。でも、あちらの都合でいろんな解釈をされることに、こちらも免疫をつけて
おかなければいけない。だいたい、今まで、"何も分からない・しゃべれない"ということで、研
究者たちが一方的に言いたいことを言って来た分野だから、用心してかからないといけないこと
もたくさんあると思う。(実際、専門書を読むと、かえって滅入ってしまうこともある。)

 元々、誤解が多かった「自閉症」だけど、近頃では「早期発見・早期診断」によって随分と経
過が違うことが明らかになっている。
 でもそのためには、子どもが「自閉症」と診断された家族が「自閉症」を理解して、それなり
の処遇をすることが何よりも大事。それで、まずは成功者をモデルとして呈示して、「自閉症」
児の家族に希望を与え、これから成長する本人にも「目標」を持たせることが、非常に重要にな
ってくる。
 だいたい、専門の研究者は「こうすれば、こういう成果が上がる」という方法論を研究してい
るので、実際の統計調査では"上手くいっている例"の方がごく稀だと分かっていても、"上手く
いっている例"ばかりを何度も何度も話したがる。しかし、ウイング派の先生方(ハウリンやア
トウッドなど)は、良く行っている例もそうでない例も「事実は事実」としてちゃんと
載せている。元々の状態と家庭環境の組み合わせでいろんな症例が有り得るので、読む人にとっ
てはこちらの方が親切だ。

 しかし、何の適切な対応もされずに成長してしまった青年や成人の場合、心理的なこじれから
二次障害を起こしてしまっていたり、自ら孤立することで身を守ることが固定化してしまってい
ると、もはや「療育」すること・されることさえ受け容れられなくなっているかもしれない。
 たとえ、これから何とかしたいと思っても、そういうケースの方法論は現在では確立されてい
ない。身辺自立や生活改善にはTEACCHが役立つかもしれないけれど、軽度の場合だとその辺の
必要性がない。いずれにしても、周囲の人の理解・支援と社会的な認知が不可欠。でも、これが
最も難しい。

 それから、ずっと不適切な扱いをされて来たばかりでなく、自分でも自己否定を繰り返してき
てしまった場合では、自分が「自閉症」であることを確認したい時期がある。そのために、他の
「自閉症」者の自伝や、本人の記述したものをできるだけ生のまま読んで、自分も同じだと確か
めたい。そうしないと、「してはいけない」「いてはいけない」という罪悪感で凝り固まったま
まの、凍りついた「こころ」は解き放たれないから。
 ドナさんが取り戻した「こころ」というのは、正にそれ。つまり、「自閉症」児は、元々、自
分にとって何の意味も価値も無い「世の中」の出来事から、必死に意味や価値を見出して、それ
なりに歩み寄ろうとしていた。でも、そういう水面下の努力は全く無視され、時には踏みにじら
れて来た。その、「世の中」のどこかに帰属しようとして芽生えた「こころ」は、「自閉症」と
いう自分の状態を知ることなくしては、決して花を咲かせることができない。

 そういう、「自閉症」という「事実」を知りたい人たちにとっては、社会的に成功し
た例ばかり取り上げられることは好ましくない。
 何故なら、「自分はそうでないこと」「自分がそうなれなかったこと」「自分にはそうしても
らえなかったこと」という社会的な「事実」ばかりの列挙になるので、社会的な無価値
さを再認識させられることになってしまうから。
 特に、本人が見るかもしれないドラマで、「要らない部品はありません」などというセリフを
言わせるなんて、言語道断。あんな風に、健常者が「そう言って欲しい」と思うような状況で上
手い具合に遅延エコラリアができるくらいなら、こんなに生き難くはならない。しかも、健常者
は「ありません」の方にアクセントを置くのかもしれないけれど、本人は「要らない部品」だと
念を押されたように聞いてしまう。

 で、もはや"手遅れ"になってから「自閉症」だと知った場合、二次障害などを治療する医療ス
タッフに恵まれ、自分を取り戻すための時間があり、心気一転して新天地でやり直すことができ
るか周囲の人の理解と支援をとりつけることができるという好条件が、全部揃うなんてほとんど
有り得ない。
 そういう人たちは、これからどうすればいいのだろうか? でも、待っていたんじゃ何も起こ
らない。・・・さしあたり、こんな社会情勢に、失望しても絶望しないようにしておこう。
[2001年6月25日 14時46分47秒]

テーマ: しばらく、しゃべりたくない。   
 その理由を書いておく。

 脳ミソの中身を実況中継すると、角が立つ。
 それよりも、紙に描きつけたい「音」がたくさんある。
 (なんのことはない、「音」の"色・形・奥行き"を「絵」に変換するだけ。)
 しばらく、それだけ見ていたい。
 (ちょっともう、ニンゲンにはウンザリしている。)

 どうやらワタシは、精神的に破綻した後で思いっきり「自閉症」に戻ると、突然こういうこと
が起こるようだ。
 15年ほど前、オフコースの曲を聴いていて、絵が描きたくなったことがある。それで、何枚
かの切り絵ができた。でも、その時は、何故こんなことをしたのか、自分でも解からなかった。
しかも、衝動的に描き始めて、「次の日に続きから」ということができなかったので、すぐに疲
れてしまった。

 今回も、いつまた突然「おわり」が来るか分からない。そんなものを美術館に展示するなん
て、無謀すぎるかもしれない。まあ、ワタシには「おわり」が来ても、子どもたちは「おわり」
にならないだろうから、気紛れの足跡だけでも残しておこう。そんなところ。
[2001年6月24日 11時57分3秒]

テーマ: 「普通」になっちゃった場合は…。   
 未診断・未治療の成人で、社会生活・身辺自立ができている人にもいろいろある。元々の、極
限した興味や島上に突出した能力を社会的に認められる技能に結びつけることができていて、自
分の能力を越えた人間関係を要求されていなければ、事実上の不都合がかなりあっても何とかな
っているかもしれない。・・・アスペの子どもがいる、ほとんどカンペキなアスペ父なんかによ
くあるパターン。かなり積極奇異だけど、「あの人はああいう人」で通っていて、苦手な場面に
は絶対に出てこない。それも、一つの「普通」の形かもしれない。

 でも、適切な処遇を全く受けずに経過した場合、たいていは逆のことをされ続けてしまう。
○極限した興味や島上に突出した能力を評価されることが無くて、本人が"悪いもの"と思い込ん
 でしまう。
○それが「こだわり」という特異性に由来するものだと知らずに、性急に社会的に認められる技
 能に結びつけようとされて、かえってその芽を摘まれてしまう。
○自分の能力を越えた人間関係を要求され、さらにその先までも求められている。

 このような"普通になる"方向しか知らず、なおかつ"普通扱い"に耐える能力があったばっか
りに"普通になってしまった"場合、いつしか破綻をきたす。
 しかし、その負担が身体症状に転換されたって、身体的な疾病としか見られない。精神症状を
訴えると、他の疾患に誤診される。明らかな二次的な精神疾患があって、急性症状への応急的な
対応をした後に本線の「自閉症」が現れることもあるかもしれない。でも、それが「自閉症」だ
と見極めることなく次の治療方針が立てられてしまったら、とんでもないことになる。また、外
見上に現れる症状がなければ、「気にする必要ないじゃないの」と言われてしまう。

 だから、"普通になってしまった後"の方がタイヘンなのだ。"普通"なのに「自閉症」だと、
本人が言い張るしかないから。
 しかも、"普通になる"ために闘ってきた後に、今度は「自閉症」に戻るために闘わなければな
らない。その相手は、まず自分自身。次に、社会や周囲の人々。

 ぜーんぶ独りなのは、別に良い。けれど、時々、自分が何者なのか判らなくなる。これが、け
っこう辛い。それで、自分の所在を明らかにするために、自分の「自閉症」らしさを確認したく
なる。でも、それをすればするほど、他の「自閉症」者を傷つけてしまうことになる。そのこと
を考えると、もっと辛くなる。本当に申し訳ない。
 各々の、自己実現のベクトルが違う方向を向いている人たちを同席させて、それぞれの要望を
聞くのは、お互いにとって禁忌なのだ。
[2001年6月23日 14時21分37秒]

テーマ: 安らかな週末〜週の前半を過ごすために。   
 やっぱり、「抗うつ剤(SSRI/デプロメール)」を飲みました。頓服で(「泣き発作」を止
めるため)。

 「軽度発達障害」の存在すら認められていない環境にいると、ワタシは「無」だから。なにし
ろ、わけのわからないことばかり言って癇癪起こしているだけに見えている。更に、余計なこと
をたくさんしゃべるけれど、誰もが聞きたがっている個人的な感情や建設的な意見はしゃべらな
いと、きている。本当は、同時に「抗そう剤」不足も感じたので、砂嵐も消したかったのだが在
庫少々につき、ガマン。

 でもそうすると、元々「行動障害」が無くてどこもオカシクは見えないし、普通の日常生活を
送れているのに、長年悩まされ続けてきた身体症状も無くなっている状態で、それを維持するた
めに薬を飲んでいることに罪悪感を感じてしまう。薬が効いているから落ち着いていられるの
に、何も症状がないのに薬を飲もうとしているような錯覚に陥ってしまうから。しかし、薬が切
れると、主観的には明らかに困ったことが発生しているのだから、そうするしかない。
 ワタシの症状はずーっとあって、ワタシにとっては当たり前過ぎていた。確かに、転換された
身体症状の方は、実際問題 困っていた。けれど、本体の「自閉症」の方は、なんとなくオカシ
イという違和感があって、わけがわからない事件が起きる度にそのまま記憶されてフラッシュバ
ックを繰り返していた。合併症の「双極性障害」もまた、DSMの「診断基準」を読むまで全く
異常なことだと思わなかったものだ。薬を飲んで、楽になった状態を知るまでは…。
 こうして、そこらへんの相談機関なんぞで打ち明けたとしたら(行くわけないけど)、「気の
せい」「アンタが悪い」としか言われないようなことで医療のお世話になっていると、保身のた
めには自分の実感だからといって大きなことを書いてはいけないのではないか?と思う。なの
に、やっぱり書いている。不安感がつのる。発作起こしてひっくり返ったり、大声で泣き喚いた
りして人に迷惑をかけるわけじゃないので、自分のことは自分で心配するしかないというのに。

 ぜーんぶ借り物でニンゲンやっているのに、「自閉症」らしくもない。・・・その筋の関係者
にさえ、「だったら、良いじゃないの!」と言われる。
 確かに、ワタシみたいに軽度になると、「自閉症」を認めるよりも「普通」になる方を選ぶ人
の方が多いかもしれない。
 でも、ワタシは、「自閉症」の方の存在根拠を置けなくなると、本当に「無」になってしまう
のだ。「普通」に見えるのは、自分自身を自分で消し続けた成果なのだ。「自閉症」であり続け
ることは、ひっそりと取っておいた最後の砦なのだ。

 やっぱり、自分の居場所は、自分で造るしかない!
[2001年6月23日 8時23分9秒]

テーマ: やっぱり、「名札」も必要です。   
 テレビ(番組名を伏せることはないか、いつもの『にんげんゆうゆう』の再放送)で、東大附
属病院での院内ボランティア活動の話をやっていた。
 ワタシは、大学時代に、長年続いていた胃腸症状を解決しようとしてこの病院に行ったことが
ある。東大の医学部の先生なら、何でも知っているだろうと思ったから。しかし、「胃に、潰瘍
とまではいかないほどの小さな傷が三つできていて、気になるようなら薬を出しましょうか?」
と言われただけだった。その薬を飲んだけど、原因不明の胃腸症状は何一つ改善しなかったばか
りか、胃薬だったのに胃腸にきつくて飲めなかった。
 それはさておき、ワタシの行った当時は、ものすごーく古くて、増築の繰り返しで迷路みたい
な建物だった。それに、医者はそれほどではなかったが、他のスタッフの態度は高飛車でひどい
ものだった。けれど、番組で放送されたのは、7年前に建て直した新しい病棟に青いエプロンの
医療ボランティアが働いていて、まるで違う様子だった。

 まあ、当時のように、病気で困って行っている人に対して、何を聞いてもほとんどまともな答
えが返ってこないようなのは人道的にもどうかと思うけれど、接客のプロであるデパートの店員
がやっている医療ボランティアに親切にされるのは、ワタシ的には好ましくない。
 それは、人に気を遣われることに気を遣う負担がいやだとか、気を遣ってくれる人の気持ちを
感じるのがイヤというわけではない。確かに、事務的な案内以上の会話になってしまった時に、
どう応えていいか分からないということもあるけれど、人に好意や気持ちを向けられること自体
が負担だから。
 困ること・聞きたいことがあったら、こっちから聞く。それまで放っといてほしい。だいた
い、ワタシは初めての場所に行くと、いろんなものをスミからスミまで観察して⇒自分のやるこ
ととその手順を決め⇒自分の居場所をどこにしようかと探索する。それで、キョロキョロしてい
るのであって、迷っているわけではない。それに、今からの行く先だけを教えられても、全体と
の位置関係やシステムが分からないと落ち着かないのだ。
 まあ、こういう時のためにも、「名札」は必要だと思うな。しかし、「高機能自閉症」なんて
書いた「名札」見せても、どうすればいいか解かっている人がいなけりゃあ仕方ないか!?

 こんなところでワタシがボヤいたって、何も変わらないとは思う。でも、何だかんだ言って
も、専門家の先生は「社会の側の味方」だし、"誰にでもできる上手な取り扱い方"だの"行動障
害があってコミュニケーションがとれない場合の対処法"ばっかし研究している以上、自分にと
って本当に必要なモノは、自分で創るしかないよなあ!
[2001年6月22日 15時17分32秒]

テーマ: ???な『仮説』。   
 なにやら最近、ワタシが「全体として統合されている」という妙な感覚になっているので、こ
んなことを思っている。

 健常と呼ばれる人類は、生まれつき脳ミソ全体がそれぞれの機能を分担しつつ一塊になって外
界の情報を処理し、外部の事象やニンゲンたちに対処するようにプログラムされていて、成長と
共に社会的人格をいくつも持ち合わせながらも一つの人格としてまとまっていくことができる。
                     ↓
 その機能を評価する指数(IQ)の高低にかかわらず、生まれつき脳内諸機能のバランスが悪
いことがある。その中で、一定の基準(IQ=70)を超えたものを、便宜上「軽度・発達障
害」と呼んでいる。
                     ↓
 どこかの部分(注:発達検査の下位分類のことではなく、脳内領域の部分)の機能だけが著し
く低いとか、どこかが過剰に機能して制御不能なほどに暴走してしまうものが、ADHDやLD
なのかもしれない。
 積極奇異型の「自閉症」って、脳内の部分部分(注:発達検査の下位分類のことではなく、脳
内領域の部分)がバラバラに稼動していて、或る部分が自分の身体や脳内を観察・監視・支配し
ちゃっている状態なのではないか?という感じがする。
 で、それが統合されれば「自閉症」が治って、「かかわり方の特異性」「コミュニケーション
の特異性」「情動交流のなさとこだわりの特異性」がなくなるのではなく、各機能の能力的なバ
ラツキは変わらないまま、全体としての統合機能が働くようになるのではないだろうか? それ
が、受動的な「自閉症」の状態なのでは?

 受動型の「自閉症」というのは、統合機能の障害が比較的軽く、初期段階から全人として外部
環境と交渉をしている人たちなのではないだろうか? それで、時には間歇的な発作を起こしも
するし、衝動抑制困難な状態に陥ることがあり、いかにも「自閉症」らしい「こだわり行動」を
しているけれど、受動的な対人関係を持つことが可能なのでは?

 元々が積極奇異型の場合は、「自閉症」の特異性を理解している周囲の人々に持続的に支持さ
れることによって「愛着」が形成され、受動的になるのではないだろうか?
 「支持」されるというのは、自分では自覚のないままに行っている「自閉症」らしい行動を好
意的に解釈して、社会的な軋轢から守ってくれること(言葉が通じる場合は言葉で説明されるこ
と)や、欠けている部分を補ったり目立たなくするように配慮してくれる安心感を味わうこと。
それを繰り返し経験することで、押し付けでない"人の気持ち"を受け取ることができ、自分から
も還そうと思うようになる・・・のでは?

『仮説』だから、「?」が多いです。でも、これはワタシが"現在感じている事実"=実感です。

※「行動障害」「認知障害」がなく受動的だったお陰で、「愛着」もないワタシには解らない話
 です。これから、解るようになるのかなあ?←もう手遅れだから、解らない方が良いと思う。
[2001年6月22日 11時31分33秒]

テーマ: "間違っている"のは、どっち?   
 最近、この国の小市民の生態を直視するようになって思うのだが…。どうやら、心底からこの
国の価値観に染まった「良い人」に成り切っている人と、人前では常に「良い人」を演じている
けれど実は負担に感じている人と、目上の人がいるところではものすごく「良い人」で状況によ
ってあからさまに態度を豹変する(発散しているとも言う)人とがいるらしい。
 最初のタイプの人は、「軽度発達障害」の存在すら認めようとしない。こういう人は、良く見
てくれれば、ちょっとやそっとの問題行動があっても気にしないでくれる。けれど、悪く見られ
ると、悪い・ダメだ・イケナイの一点張り。真ん中のタイプの人は、いろんな意味で「共感」し
てくる人。最後のタイプの人は、天敵。まあ、大人も子どもも変わりませんなあ。
 これが事実であろうとなかろうとどうでもいいのだが、このタイプ分けはワタシにとって有意
義で、身の安全を守るために必要なことなのだ。(しかし、このことをここに「公開」している
こと自体が、非常に危険な行動である。でも、いいのだ。どうせ、元から「関係」なんかないん
だから。)
   ・・・でも、こういうところ、「間違っているのはどっちなんだ?」って言いたくなる。


 でも、最近の、人類のヒト以外の生物との関係の在り方ってどうなんだろう? 昔は、そこら
じゅうに虫やらカエルやらがいたので、子どもが虫や小動物を捕まえていじくりまわしたりした
って、そんなに目くじらを立てられることもなかった。
 といっても、「行為障害(注:何らかの問題行動を持っている行動障害のことではない。診断
名としてのもの。)」によく見られる、温血動物(犬や猫など)への虐待のことではない。昆
虫・魚類・両生類・植物などを採って、外から見えない部分を見ようとしたり、仕組みをおもし
ろがったりするのは、ヒトの本能だ。
 ただ、ADHDの子どもは、狩猟採集民族の生きた化石のようなものなので、その度合いが並
外れているだけだ。自然破壊と環境汚染が進んで、生き物は全て観察するもの・採取したら飼う
ものでしかなくなっている昨今の社会状勢は、ADHDの子どもの行動を際立たせるし、息苦し
くさせている。
 それで、この田舎の小学校でも、生き物を平気で触れて捕まえることができるのはウチの次男
だけ。生活科の"生き物探検"では、リーダーを仰せつかったほどだ。(採る方は申し分ないけれ
ど、その後の処遇の仕方を考えると、サブリーダーぐらいにしておいた方が無難だと思うのだ
が…)。
     ・・・こういうところも、「間違っているのはどっちなんだ?」って言いたくなる。


 それから、ここ数日の朝のワイドショーをちらっと見る限り、時代が変わってきたなあと思う
ことがある。
 それは、先日起きた大事件を巡って、犯人の人物像を探ることよりも、被害にあったり現場に
いた子どもたちのPTSDへの取り組み方に重点が置かれていることだ。それは非常に大切だ
し、素晴らしい。(タレント精神科医ではなく、PTSDに詳しい人がゲストに呼ばれるように
なっていることも含めて。)
 でも、ここではその件について触れようというのではない。「この方面の後進国である日本で
は、大都市・大事件の事件直後の対応が取れるようになったばかり。精神科医のいない田舎・報
道されないような小事件では、初期のフォローすら全くない。また、たとえ初動は良くても、法
的根拠・財政面でのバックアップ体制がないので、長期にわたる支援ができるかどうかが問
題。」と結んでいたのを見て、ちょいと思った。
 これは、全くその通り。しかも、阪神地区で大震災の教訓が活かされているし、同系列に大学
病院があるというのも、不幸中の幸いだったと思う。⇒しかし、もっと些細なことで心的外傷を
受けていて、しかも外見からは全然そう見えず、逆の対応を受け続けている人のところに援助の
手が差し伸べられるのは、いつのことだろう?(こういうところに便乗すると、ヒンシュクを買
うカモ〜?)
  ・・・こういう事件に関連してこんなことを考えている方が、明らかに「間違って」ます。


 ところで、超・極少量から始めた「薬」のことだが、副作用が収まり先行していた他の系統の
薬が抜けて、どうやら量を増やした方が良い感じになって来た。
 この薬の場合は、以前から、血中濃度が下がる(と思われる)と、頭の中に安物のオーロラが
発生して(いる感じがして)、キーンと耳鳴りがする。しかも、時々、ザザーッという音ととも
に、左前頭葉上部から右側頭後方に向けて砂嵐が発生して(いる感じがして)、非常な不快感と
ともに一瞬ボーッとなった。それを追薬の目安にしていたのだが、最近その回数が多くなった。
 しかし、通院している病院が遠いのと、アクシデントが発生すると行けなくなるし、しかも代
替の病院がないという不安感があるので、そうそうガバガバ飲めない。前の処方なら、もっと一
般的なので、心療内科でもなんとかなりそうだった。「てんかん」がないのに「抗てんかん薬」
が必要なことがあると知っている医者なんて、日本に何人いるのだろう?/その前に、「高機能
自閉症」の存在を知っている人すら、なかなかいないというのに。
 一時的な体調不良だとか気圧の関係ならば良いのだが、これだけ楽していると、薬が切れたら
オーロラと耳鳴りと砂嵐がひどくなるばかりでなく、元にも戻るのだと考えただけで頭が痛くな
る。いや、いくら自分で代金を払っている『日記』だからといって、こんな個人的な薬理情報を
公開してしまって良いのだろうか?という心配もある。それで怒られて、処方してもらえなくな
ったらどうしよう!とか。(←前回そのことを尋ねたけれど、特に何も言われなかった。そうな
ると、ワタシは「していい」と解釈してしまうのでエスカレートする一方。)
・・・こんなことをしているなんて、明らかに「間違っている」と思う。(罪悪感も感じる。)
[2001年6月21日 11時28分5秒]

テーマ: 「パニック人生」いろいろ。   
 今日、大パニックを起こしたのは、長男。今日は、期末テスト前日のテスト休み。
 午後から、授業を受けただけではチンプンカンプンな英語を基礎から勉強することになってい
た。にもかかわらず、「午前中一緒に勉強をした友達に引きずられて、遊びに行きたい」でも
「英語で良い点を取りたい」という二つの命題を両立できなかった。

 こういう時は、「まず勉強をして、息抜きに遊ぶ」とか「みんなと一緒に行って、早めに用事
だけ済ませて帰って来る」というような折衷案を呈示しても、無駄である。「どちらかにした
い」「どちらかにしなければならない」と、本人が決めたがっている。また、実行能力障害が重
いので、"短時間で集中的に学習をする""途中で頭を切り替える""ほどほどに遊ぶ"ということ
自体ができない。
 それで、大パニックになった。室外退去を指示したら、むこうの部屋で、泣き・喚き・のたう
ちまわっていた。でもまあ、ウチの系統は、自傷・他害や交感神経亢進による発作を起こさない
(いや、起こせない)タイプだし、ワタシはこういう時は放っとけばそのうち収拾することを知
り尽くしているので、「収まったらこっちに来るように」言い渡して放置する。
 と言うのは、こういう時に構ってしまうと、本人の思うツボにはまってしまうからだ。なにし
ろ、「泣き発作」を起こしている最中というのは、「混乱の大元になった原因」を思い起こそう
思い起こそうと自分で自分を追い込んでいるので、その状態にある人にその「原因」について話
しかけることは、火に油を注ぐようなものなのだ。
 ただし、完全に一人にさせずに、収拾がついたら本人が納得するまで説明し、最後は必ず本人
自身が決断するように仕向けなければならない。最初から最後まで一人きりで完全放置してしま
うと、ワタシみたいになる。(こういう時に、問題解決の手助けをして安定した二者関係を築い
ておかないと、一切の人間関係を持つことができなくなるということ。)
・・・約2時間かかって収拾し、その後は何のわだかまりもなくスムースに勉強が出来た。

 さて、昨夜、「癇癪なき泣き発作」を起こしたワタシの方は、午前中、「抗そう剤」だけで
「抗うつ剤」なしの状態で買い物に出かけた。
 一度、「抗うつ剤」のお陰で恐怖心と混乱の少ない状態を知ってしまった後なので、今日の世
の中は怖いものだらけで、びっくりすることが多かった。けれど、ワタシの場合は、少しはニン
ゲンを用心しておとなしくなった方が良いのではないかと思う。
 少なくとも、「世の中」の理屈を周知している⇒ニンゲンの全てを熟知していると思い込んで
いて(究極の「観念肥大」状態で)、「怖い」ということを知らなかった3年前よりはずっとマ
シ。ただし、限度を超えた時は、抗うつ剤も必要だとも感じた。
[2001年6月20日 16時23分22秒]

テーマ: 「感情語」がないことは、とんだ災難。   
 現在、明らかな「うつ」状態。(活動性が低下しているので、主観的なものではない。)
 でも"抗うつ剤"は飲まない。だって、鎮静作用で眠ってしまったら、絵を描く時間がなくなっ
てしまうから。
 葉っぱを描いている間じゅう"泣き発作"を起こしていたのだから、本当は飲んでも良かった。
けれど、原体験とそれに関連する類似体験が再現された(フラッシュバックした)わけではな
く、ただただ「罪悪感」だけだったので、「ここから逃げてはいけない!」と思ったのだ。(通
常の意味での、「後悔の念」にさいなまれた状態を紛らわすために「薬」に頼るようになった
ら、薬物中毒ではないか!)
 それに、明らかな「うつ状態」に突入して活動性は低下しているけれど、「癇癪発作」は起き
ていない。「行動改善」という面から見ても、"抗躁剤(アメリカ流の処方では「癇癪発作」の
薬でもある)"の効果の方が大きい。(いや、"抗うつ剤"は「うつ状態」の改善には役に立った
が、元気になったと同時に癇癪はひどくなってしまった。いや、元に戻っただけだが…。)

                          ・・・というわけで、このまま行く。

 しかしながら…、ADHDの子どものいる家族にとって、雨の日は本当に災難だ。
 わざと泥んこを歩く(幼児ならともかく、小学生が)、傘を振り回す・風に飛ばして遊ぶ・一
回使ったら壊してくるのが当たり前…。この様子を見て、"躾ができない子ども"だとは誰も思わ
ない。必ず、"躾のなっていない子ども"と判断されて、なっていない親の代わりに躾ようといろ
いろ言われたり、悪い子扱いされてしまう。
 それで、ワタシはその「事実」だけ書いて、「これでも、可愛い我が子です。」とか「こんな
子だけれど、愛してます。」などという(書くだけでも気持ちが悪くなるような)「感情語」は
絶対に書かない。それで、ADHDの敵みたいに思われる。

 使うだけでも良いのだと分かっているのなら、使えばいいのだろうけれど…。「感情語」を使
わないというだけで、あっちもこっちも大嵐がふきまくる。それで、どこに行っても、"誰一人
として味方のいない敵地"だらけになる。

        ・・・わかっちゃいるけど、"できないものはできない"から、このまま行く。
[2001年6月20日 8時10分32秒]

テーマ: 届かない声。   
せっせっせっせと「事実」を述べ立てることは、不服を申し立てること。
週末の会合を受けて決まったことの連絡が来た、いつの間にかワタシは不満分子になっていた。

こちらからは、「和解」のしようの問題。

だから、もう「絶対に、しゃべるのはやめよう!」と思う。
しかし、しゃべらないこともまた、新たな戦線布告ととられてしまう。

正気のままこんな「事実」に対峙するくらいなら、わけがわからないままに"死ぬ方法"をあれこ
れ考えていられた時の方が、ずーっと"楽"だった。
思考回路が切断されるまでの待機時間、約30分。空白の「うつ」状態・・・なんだか、もっと
解かり難い人種になってしまったような気がする。(癇癪起こして騒いでいる方が、分かり易か
った。)まあいい、今に、考えたくても何も思い浮かばなくなる。それまでの辛抱。
[2001年6月19日 20時51分42秒]

テーマ: 幼稚園からやりなおそう!   
 と言っても、再入園するわけではない。←当たり前だ!
「おえかき教室」に入れられる前に、戻してみたくなったってこと。

 なにしろ、ワタシは、歩くより先に一歳前からしゃべりだし、身体移動ができて手が自由に使
えるようになったと同時に神社の境内で地面に絵を描いていたぐらいだから、本当は絵が得意な
のだ。しかし、その"才能"を伸ばそうというモクロミによって、幼稚園の「おえかき教室」に入
れられた時に、ワタシの「形」への「こだわり」はつぶされてしまった。
 その頃のワタシは、自分の身の回りの物体を、や◇などの対称図形に変換しては「色」を塗
ったくっていただけだった。なのに、ちゃんとした"おえかき"なんぞを、しかも、人に指図され
るのが大嫌いな子どもに習わせるなんて、愚の骨頂だった。それで、絵を描くことがキライにな
った。
 しかし、「形」への固執は続いていたので、図画工作や美術の成績は良かった。それに、家に
帰ると、『世界の美術』を食い入るように見たり、四角形を組み合わせた電車のイラストを描い
たり、カエルのマンガを画いたりしていたものだった。
 なのに、何故、美大に行かなかったか?・・・そりゃあ、人と温血動物と動いている物体の絵
が描けなかったから。

 それから、もう一つの「こだわり」の聴覚過敏も、間違って解釈され続けてきた。子どものこ
ろのお気に入りは、時計の音だった。と言っても、カチカチのあとの余韻の響きを聴いていたの
だ。でも、ハト時計の振り子の音は嫌いだったので、止めてしまって怒られた。とにかく、「こ
の子は、耳が良い」ということになって、「音楽教室」に行くことになった。
 しかし、「耳が良い=音の識別能力が高い耳を持っている」からといって、「音楽」に向いて
いるとは限らない。確かに、ちょっとした「音色」や「音程」の違いを聞き分ける能力を買われ
て、発表会の指揮者をおおせつかったりもしたし、ソルフェージュ(転譜)をやるように言われ
もした。けれど、協調運動障害があるだけでなく身体を操作するのにいちいち言語化した命令を
手足に送らなければならない(しかも、指が短く指先に力が入らない)ワタシが、ピアノを弾く
楽しさを味わえるはずもなかった。それで、「音楽教室」卒業と同時にスライドして入った「ピ
アノ教室」は、一年も経たないうちにやめてしまった。
 それでも、その後、無意識のうちに風鈴やら鐘やら金属のぶつかる音を聴き続けて、命(と言
うか「生きた心地」)を繋いでいた。しかし、自分では気づかずにいた。一方、お気に入りの
「音」要素の入った音楽を聴くと他の身体の動きが全て止まってしまうのは、「悪いこと」だと
思って"禁音"してしまった。(こちらは、両方ともここ数年で取り戻した。)

 昨日から解凍し始めたのは、「視覚」の方だ。急に、葉っぱの絵が描きたくなった。実は、日
曜日に、子ども会の用事で或る「作品展」の会場かたづけに行ったのがキッカケだ。作品の題材
になっていた、葉っぱやら花やらの「形」と「色」が頭にこびりついて離れない。
 ワタシは、こういう「衝動」に駆られないと「行動」することができない。でも、「気分」の
双極性が解決する前までは、その日のうちに書き上げないと気が済まないくせに身体に持続力が
なくて、途中からおざなりになってしまうことが多かった。動機になる「衝動性」は、あった方
が良いとは思っていたけれど、その同じ「衝動性」によって衝動的にやめてしまうのは、困りも
のだった。

 今回は、何日もかけてじっくり描きます。ただし、今現在、視覚だけでなく痛覚も過敏になっ
ているので、肩が痛い。(インドメタシン漬けになってでも、やり抜くぞー!)
[2001年6月19日 9時2分41秒]

テーマ: 「洞穴」の存在価値。   
人との係わりが、一対一の対人関係の集積でしかないワタシにとって、いろんな立場の人がゴチ
ャゴチャになっている所に置かれるのは、やっぱりしんどかったのだと思う。
そして、「連続している」と言いながら、「アンタじゃ比較になんないよ!」と言われる度に、
せっかく落ち着きかけた身の置き所がなくなって、奈落の底に突き落とされた。

ワタシが「洞穴」を作ったのは、その混乱状態の苦痛を吐き出さずにはいられなかったから。

ワタシを「辛くさせること・苦しませること」に、自ら首を突っ込むことはないと解かった時、
自分で自分の首を締める原因を除去すれば良いのだと悟りました。(そして、「主訴」を鬱から
躁に変えました。)

というわけで、「手も足も口もない感覚器官と言葉の集合体」だった、元の状態に戻ります。
こちらからは動かない・働きかけることもしない。去来する物事を、処理するだけ。
目の前にタイトルのついた座席がいくつかあって、去来する人はそこに配置させていく。
[2001年6月18日 15時14分43秒]

テーマ: 「発達障害」児の「道徳教育」。   
まず始めに、一言、断わっておかなければならない。

 と言うのは、今までの「障害」の概念では、「言語化できない」「明らかに常軌を逸した行動
をする」「本人にはほとんど自覚がない」ことが「障害」だった。
 しかし、「言語化できる」「言語によるコントロールが可能、いや、どのように言葉かけをし
ていくかが重要」「本人に自覚があるため、逆に二次的な障害を起こしやすい」。これが、「知
的障害が軽度な発達障害」だということ。
 今までの「障害」概念しか知らない人にとっては、「だったらいいじゃないの!」「それがで
きないから、私たちは苦労しているんじゃないの!」と言われてしまうところだ。
 同じ「自閉症」でも、「言葉」を獲得し「コミュニケーション」を取ることが目標になる時期
もあるし、それができれば解決することも多い。その課題をクリアーした後に、新たに生じる困
難があることもあるし、ないこともある。それは、人それぞれ。(元の状態が一人一人違うの
で、到達目標も一人一人違う。一つの概念で汎化ができない、そういう「障害」だから。)

 また、ここは日本だ。「発達障害」という生まれつきのものであろうと、情緒的なこじれであ
ろうと、人格形成上の問題であろうと、痴呆のような病気であろうと、目に見えないハンディを
持っていることを素直に認めようとする人が極端に少ない。それについて学ぼうと思う人はチラ
ホラいるけれど、「国家体制」がそうなっていないので必ず大きな壁にぶつかってしまう。そう
いう環境だ。
 知的障害が軽い「自閉症」児は、「興奮」や「パニック状態」になってしまうと、全く収拾が
つかなくなってしまう。けれど、決まりに「こだわる」ことで、正しい行動をしようとする。
 知的障害が軽い「ADHD」児(注:一般には知られていないが、精神発達遅滞児で同時にA
DHDの基準を満たしているケースも多い。)は、物事の分別がつくようになっても、強い「衝
動性」を抑制できずにトラブルを起こしてしまう。

 最近、ウチでは、やっと「読み聞かせ」や「人の話」を聞いて理解することができるようにな
った「発達障害」児たちに、「道徳教育」をしている。と言っても、市販の"道徳教育"用教材
を、ダラダラと読んで、「ああしろ・こうしろ」と説教しているわけではない。
 なにしろ、そういう"教材"に書かれている事といったら、ほとんどが「発達障害」のためにで
きないことだらけなのだ。かたづけをしなさい・人の話を聞きなさい・けじめをつけなさい・き
ちんとした生活をしなさい・自分の言いたいことを人にわかるように伝えなさい・明るく爽やか
な人になりなさい・物の扱いを丁寧にしなさい・持ち物管理をきちんとしなさい・こういうこと
に感動しなさい…。しかし、世の中が本当にこうだったら、随分と暮らしやすくなる反面、もの
すごーく窮屈になるだろうと思う。それよりもなによりも、こんなご立派な人格者など実在して
いないし、もしいたとしたらどこでどのようなウサ晴らしをしているのか気になってしまう。
 それはさておき、一番の問題は、それらがすべて「善悪」のモノサシで測ろうとする観点しか
ないことだ。こういう「善悪」の分別を、ぎゅうぎゅう押しつけることが「教育」だと思ってい
る人は、街で良く見かける。「それは悪いことでしょう!」「良いことと悪いことが分からない
の!」「あやまりなさい!」とヒステリックに叱っている親はたくさんいる。
 では、「どうして、そんなことをするの?」とか「何を思ったの?」という「原因」を探ろう
とせずに「結果」や「行動」だけで人を評価しようとするのは、「結果」や「行動」や「成績」
だけで人から評価され続けて来たからなんでしょうね。
 
 だから、ウチでは、そういう"教材"を読んで、どうして「こうなってしまうのか」を教える。
もちろん、それはそれぞれの「障害特性」の説明をするということだ。しかし、その「結果」や
「行動」や「成績」が悪くて良いとは絶対に言わない。
 そして、「自閉症」という「脳の機能特性」、「ADHD」という「脳の機能特性」を持った
ままで、物事を理解したり整理するには「どうすれば良いか」と考える。

※一般的な意味で、我慢することと、子供のうちに挫折体験(注:外傷体験ではない)を味わっ
 ておくことが必要なのは、健常と呼ばれる子どもたちの方です。
※ワタシはよく、アニメなどを見て「みんなで仲良く」を押し売りされるのはゴメンだというよ
 うな事を書いていますが、感動的な場面展開で演出をされることがダメなのであって、身体的
 に不調でない限り愛他的行動をするのは好きです。人に世話をされるより、「人の世話を焼く
 方が、性に合っている」ので。(基本的に、生きていること自体がボランティア活動。)
[2001年6月18日 10時16分26秒]

テーマ: 週末は、いつも「×」。   
 週末には、行事やら集会やらが多い。しかも、年度が4月から始まって夏休みの計画を立てな
ければならないこの時期は、"初対面をピークにだんだん疎遠になっていく瞬間"をたくさん感じ
る時期でもある。(これを過ぎると、呆れられてあまり係わりがなくなるので、楽になる。)
 「天敵」と遭遇してしまった場合の不快感はなかなか消えないけれど、「腑に落ちなかったこ
と」が解決すると一種の爽快感を感じたりもする。(当然のことながら、これは「うつ」の前兆
でもある。)

 昨日は、「最も卑近な共通認識ほど、持つのが不可能である」という不文律を再確認した。
{ニンゲン一般<この国の常識<この地域の価値観<特定の個人}という順序で難易度が高くな
ることは、以前から判っていることだ。でも、「その違和感は埋められないし、埋めなくてい
い」と確信した後に行われた最初の会合だったので、不安感ではなく爽快感を感じて来た。(か
といって、傍若無人にふるまってきたわけではない。いつもと同じことをして、自分と他者との
両方を責めるのをやめただけだ。)

 もう一つは、「公私を使い分けてしゃべる」ことに関する大発見だった。
 以前、「小学校高学年頃になって、言葉使いの乱雑さが目立って来るのはどうしてか?」、と
いう質問に答えたことがある。「健常児は、幼稚園に入りたての頃に他の子どもの崩れた言葉使
いを真似て、口が汚くなる。けれど、アスペの子は、その頃には周りの子どもに全く関心がなく
て過ぎてしまう。心の理論を獲得する小学校高学年になって、子ども言葉を覚える。けれど、そ
の頃、周りの健常児たちは、大人言葉と子ども言葉の使い分けが完璧にできていて、公共の面前
とか大人がいる場面では敬語や丁寧な言葉使いをしているけれど、子ども同士ではかなり恐い表
現を平気でしていたりする。そういう使い分けを全く知らないので、いつでも・どこでも・誰に
でも乱雑なモノの言い方をしてしまう。」というのが答えだった。
 それが、今、ワタシにも起きている。・・・これは、大発見だった。なにしろ、ワタシは3年
前まで、人を意識して話す時にはずーっと「です・ます」調の文章体でしゃべっていた。崩して
良い時は、「ねえ」をつけた(今現在、長男は「ポ」を付けている)。他に、ネコ語(ニャ〜を
つける)を使ったりCMやアニメのシーンで使われた語尾(のだ・カモ…)をその画像付きで想
起しながら使っていた。つまり、ワタシ自身の口語体というものが全くなかった。だから、「先
生」や「医者」といった役職に対する言葉使いはあっても、スーパーのレジ係に対する言葉使い
はなかったので、困ったりしたものだった。
 今、やっと「自分流にしゃべること」ができるようになったところで、それがうれしい。だか
ら、どこでも使ってしまう。

 しかし、昨日、同じ近所の寄り合いでも、妙にくだけた集まりとやたらとしゃちほこばった集
まりがあることに気が付いた。で、こちらにはまだ、言葉使いの使い分けを判断する余裕がな
い。と言うか、それどころじゃない。
[2001年6月17日 8時15分18秒]

テーマ: 進化の証。   
 「衝動性」がおさまり、気分(「感情障害」の気分の双極性=躁鬱)が安定して⇒考えが極端
に走らなくなったら⇒余計な騒動を起こさなくり⇒それに伴う不都合が減った。
・・・こういうところは、自分ではコントロールできないので、「薬物療法」が必要なところ。

 しかし同時に、「こだわり」も強くなり、自分で定めた「取り決め」にないことと「できない
こと」はキッパリと切り捨て、興味関心のない事柄には「無理して応えない」ことにした。
こういう書き方をしてしまうと、退化したような印象になってしまうけれど、実は「自分は・こ
ういう人である」と明言できるようになったのであって、"成長"の現れだと思う。
・・・ここは、それに伴う「罪悪感」から逃れるために、補助的に「薬」の力を借りた。
   けれど、支持的な人的支援なしにはできなかったことだ。

 「こだわり」といっても、オリジナル版ではなく改訂版であり、荒削りな原型から角を落とし
て(と言うか、川を流れて行くうちに削られて)丸くなったり変形させたものであり、場所柄を
わきまえて使い分ける「分別」もついたものだ。
 「あまりにも社会的に妥当性を欠くもの」とか「本人は良くてもとんでもない誤解の火種にし
かならないようなもの」でなければ、ある程度の頑固な「こだわり」があった方が、才能を開花
させる可能性が高くなるし、それが天職に結びつくことにもなると思う。
 ただ、持って行き方が難しい。本人は、大得意で夢中になっても、それが必ず「仕事」として
価値を持てるようになるとは限らない。それに、「これしかない」と自他ともに認めるような際
だって突出したものがない場合や、「発想は良くても、それを活かす技術がない」というような
場合だと、「生活」は別のことで維持して「趣味」として持ち続けるしかない。

 それに関連することでもあるのだが、「できないこと」や「興味関心のない事柄」には"無理
して応えない"ことも、ある程度は必要だと思う。と言っても、あからさまに無視したり、わざ
わざ「興味がない」ことを表明するというような、いかにも「自閉症」らしい「原型」のままで
は、やはり火種にしかならない。
 ただ、「人が話をしている時には、聞き上手になりなさい。」とか「相槌を打つことが、良い
聞き手の態度です。」とか「相手の言ったことを繰り返すと、話している人は話を聞いてもらえ
たと思うので、気分が良くなります。」というような「オコトバ」を真に受けてその通りにする
こともまた、間違っている。
 そのまんま実行することによって、こちらは「ちゃんと聞いている人」になるつもりしかない
のに、あちらは「分かってくれる人」「その話題に興味のある人」と受け取るので、とんでもな
い方向に話が発展する。そして、その結果、得られるものはほとんどない。逆に、失うモノの方
が多い。(例えば、近所のオジサンが趣味の園芸について語り始めたので、ものすごーく"ちゃ
んと聞いていた"ら、「一鉢あげる」という展開になった。正直に、「要りません」と答えた。
それ以来、そのオジサンはものすごーく遠い人になった。)
 
 このように、「関わりを持たなくて良いこと」と「関わりを持ってはいけない人」に、余計な
口を挟まないことも、とっても大切なことなのだ。
 しかし、「自閉症」児にとっては、この見極めを習得することがいちばん難しい学習課題だ。
でも、この件に関しては、「できないことはできない」と諦めてしまうと、身の安全にかかわる
大問題になる。(この「課題」をクリアーするのは、30歳過ぎだという説もある…同感!)
[2001年6月16日 17時41分41秒]

テーマ: 「注意事項」をいくつか。   
※何に基づいて「天敵」と察知するか、についての説明を忘れていました。このままでは、"ズ
 ルサ"を感じて、「嫌い」になるようになってしまう。
 しかし、"何が"というよりも、生理的な反応としか言いようがありません。とにかく、「考え
 方がまるで正反対」「何を言っても突っ掛かってくる」「良かれと思ってやったことが、すべ
 て裏目に出る」「あからさまに攻撃して来る」「何やらわけのわからない"正義"を押し付けて
 くる=その"正義"の伝道師気取り/同じような"正義"教の信者仲間がいて人気者」…。
 あとは、アチラに聞いて下さい。(これ以上続けると、精神衛生上よくないのでやめます。)


「自閉症」に関する専門書を読めば、本人にとっての参考になるとは限らないこと。

◎最近出版されたものは、「高機能自閉症」や「アスペルガー症候群」の成長過程を追跡した成
 果で書かれています。実際に、多数の「自閉症」児に接して、本人の意向や気持ちも反映され
 ています。
 ただし、その多くは早期診断・早期療育の成果や必要性を説くもので、その期を逃してしまっ
 た場合にはどうすればいいかということは、未だ研究されていません。また、現時点では良好
 な状態にあっても、最終的にはどのようになるかも、未だ分かっていません。

◎また、薬物療法などの医療的な対応を受けたり、心理検査の結果に基づく方法論を知ることよ
 りも、身近な人たちの日常的な接し方を改善することの重要性の方が遥かに大きい。にもかか
 わらず、「診断」や「投薬」で全てが解決するとは、決して思わないで下さい。

◎ウイング派の研究者たちは、「自閉症」という「特性(個性)」を持った人たちという見方を
 します。しかも、「自閉症」の程度や合併症の有無にかかわらず、「自閉性障害」を広いすそ
 野を持った・連続性のある・多様なものとしてとらえています。
 TEACCHは、「自閉症」をひとつの「文化」と認めています。でも、本来、「広汎性発達障 
 害」の中での、狭い意味の「自閉症」を対象とした方法論です。
 しかし、他は、「自閉症」に関連して発生する「問題行動」や「コミュニケーション障害」 
 に、いかに対応するかという観点しかないものが多い。これは、「接近する方法がわからな 
 い」「話しが通じない」「身辺自立ができない」…などの特徴のある、知的障害を伴った・孤
 立型の「自閉症」児・者を対象とした研究の方が圧倒的に多いからです。

 「自閉症」の専門家でない人が、明らかに間違った「感情」的な解釈を加えて、あたかも「自
閉症はこうだ!」と断言している論文もあるようです(注:精神衛生上よくないので、ワタシは
絶対に見ないようにしている)。そういうものを読んで、鵜のみにしないように!
 ただし、「自閉症」の専門家でも、健常者のモノの見方・考え方で、何かが「欠けている人」
だとか、何とかして健常側に「近づけよう」とか、健常側に入った方が「シアワセに決まってい
る」とかいうようなことを書いていることがある。全面的に明言しているものもあるし、大筋で
はイイ線いってるのに、部分的に本音をちらつかせてガッカリさせてくれるのもある。

 しかし、ワタシは思う(個人的に)。

できるだけ波風を立てずにすむ「方便」を習得することと、多少の波風は立てても
生きる「覚悟」を持つことを両立させる、うまい方策はないものか?と。
[2001年6月16日 11時0分28秒]

テーマ: 「天敵」は「天敵」。   
 "良い子"を演じ過ぎる人は、「自閉症」者ではなく「天敵」の方だということ。(そして、恐
らくあちらにとっても、「自閉症」者の存在は、うざったいことこの上ないのではないかという
こと。)
 確かに、↓の"良い子"に関する話題の続きなのだが、今日は朝からそういう人に遭ってしまっ
た(注:一歩外に出ると、遭遇する確率は非常に高い)ので、収まりがつかないからでもある。

 ちなみに、"良い子"を演じ過ぎる人というのは、目上の人や他人のいる所では過剰に気を使っ
て、実際に良い評価を得ている。が、そうでない場面や酒の席では、極端に豹変する(本当にそ
うだったので、びっくりした)。更に、群れるのが好きで「ねっ、私、間違ってないよね!?」
を連発して、絶えず仲間からの承認を求めるタイプは、「天敵」の中の「天敵」である。

 今までと違うところは、そんな「天敵」に出くわす度に、「躁状態の時は癇癪発作を起こし・
鬱状態の時には泣き発作を起こしている」ことがつい最近判明したので、今日はちゃんと応急処
置(追薬)をとったこと(家に帰って長男に説教―それに関連する別のことをダラダラと―を始
めた時に、ハッと気がついた)。そして今日は、今までと違って、その状態で「自分から招いて
しまう不都合」を予防できた。
 そもそも、常日頃から「言わなくていいことをワザワザ言ってしまう」だけならまだしも、
「その場で言ってはならないことをズケズケ言ってしまう」ことで余計な火種を作っているとい
うのに…。そういう状態で、ダラダラと想起の連鎖を繋げて行くこと自体が攻撃的に映ってしま
って、「どうしてパニくっているのだろうか?」と考える人はほとんどいないと判ったから。
 書き方だけでなく表現が恐いし、そこから発展してとんでもない・いわれのない非難をしてい
るとしか思われない。
 まあ、悪口雑言をしまくったり他害をする傾向のある全国の「自閉症」児が、本当は窮地に追
い込まれて苦しくてあがいていて助け舟を出してもらいたいところなのに、その攻撃性に気を取
られて攻められる一方になっているのと同じですな。それで、思いもかけない反応が返って来る
から、反発する。今度は、反省がないと言われる。

 これは、待合室で喚き散らしている躁状態の人を見ていて、気がついたことでした。あの人、
怒っているんじゃない。人を攻撃するようなことを言っているけれど、本当は苦しくてたまらな
いから吐き出しているだけなんだ、って思った。・・・苦しいことは、思い出せば思い出すほど
苦しくなって、一刻も早く吐き出したくなるから。

 う〜ん、やっぱり、「天敵」に遭遇した日は、まる一日つぶれることを覚悟しておいた方が良
いかも?
[2001年6月15日 14時38分5秒]

テーマ: お詫び。   
※↓の例の話ですが、番組中では診断名については触れていません。
 番組を見ての感想だけに留めておけば良かったのに、常々思っていたことを書くために、安易
 な"まとめ"をしてしまいました。ごめんなさい。

 しかしながら、ここのところは実によく誤解されます。現状では、元々の「自閉症」という
「障害」特性を理解されないまま育った場合の、周囲の人々との間で生じる対人関係障害によっ
て強化されてしまった病態=「自閉性」の本態的な症状だ、と思われていることが多いからで
す。
 「自閉症」の外傷体験というのは、「心の傷」や「見捨てられ体験」を持っているということ
とは違います。当然、「"良い子"を演じる努力」をしすぎて「誰かに対してぶつける怒り」を封
じ込めてしまうわけでもない。従って、「"良い子"を演じる努力をやめる」とか「本来向けるべ
き相手に怒りをぶつける」というような方法では解決しません。

 まず、根本的に、人に対して良く見せようとして「涙ぐましい努力をする」のではありませ
ん。言われたことを真に受けて、「しなければならない」「してはならない」と思い、強迫的に
固執してしまうのです。
 人に言われたことは「なにがなんでもしなければならない」と思い込んでいたり、できないこ
とでも無理してやってしまえる(受動的な)場合だと、他の考えや方法などは一切浮かばない
し、自分が固執していることにも気がつかない。だから、全く苦痛も感じていない。しかし、限
度を越えて他者の「コトバ」一色になってしまった重圧に耐えかねて、突然、猛烈な跳ね返しが
来る。それを何度も何度も繰り返す。
 人から何かを言われた時点で、言われたことの意味が解からなかったり、能力的にできそうに
もないことだったり、自分の「こだわり」に抵触して絶対に譲れないことだったりして苦痛を感
じてしまう場合だと、衝動的にその場から立ち去ったり・暴言を吐いたりというようなことをす
る。こういうのは、一見、反抗しているようだけれど、実は言われたことを真に受けて、「応え
なければならない」「応えられない」⇒「どうしよう」という生真面目さからの行動なんです。
 また、外傷体験の記憶は、その「理屈」が分からない内は、類似した事柄をきっかけにフラッ
シュバックして「あの時、僕はこう思っていたのに、どうしてあんなことをしたんだ。」と他者
に食って掛かったりします。が、「理屈」が分かった時点で自己消化されて、「笑い話」になる
ことも多かったりもします。

 ただ、言語理解の障害が重い場合だと、本人に納得のいく説明がなかなかできません。それ
で、突然のタイムスリップによる想起パニックが起き、しかもその根本的な治療法がなかなか見
つからないことが問題になっていたりします。

 このようなことを書きたかったのであって、↓のような要旨から外れる判断はする必要のない
ことでした。本当に、ごめんなさい。
[2001年6月15日 10時51分51秒]

テーマ: 「自分らしさ」を取り戻すこと。   
なんて、実は、今日の『にんげにゆうゆう』(再放送)を見ての感想です。

 児童虐待を、依存症(=本人は止めたいと思っているのに、やめられないことに苦しいでい
る)の視点から考えようというもの。
 前半は、よくありがちな「育児ストレス」によるもの。「良い母親になろうとしているのに、
そうなれない」「子どもも、なかなか自分の思い通りの良い子にならない」ことがストレスにな
り、虐待が始まる。そのことで、自分は「悪い親なんだ」という罪悪感に苦しむ。しかし、やめ
られない。社会との繋がりのない「家」という密室の中で孤立しているために、虐待は逆にどん
どんエスカレートしていく。で、育児の悩みを打ち明けられる友人ができたことで、ピタリとや
んだというケース。
 後半は、自分自身が被虐待児だった例。虐待といっても、暴力によるものではない。たまたま
目撃してしまった母親の浮気のことが、ずっと気になっていたのだけれどなかなか言えずにい
て、(5歳の時に)思い切って問いただしたら、母親は「恐ろしい子だ」と一言吐くように言っ
てその場を去ったことがトラウマになったそうだ。「自分は母親に嫌われた」「自分は悪い子な
んだ」と思い、それ以来、「母親に好かれよう」と必死に"良い子"を演じた。なのに、母親はそ
ういう自分の努力を全く分かってくれなかった。いわゆる、「見捨てられ体験」のある人が子ど
もを持った時、自分の子どもを虐待してしまうという話。
 上の場合と大きく異なるのは、子どもを虐待している時には「罪悪感」がなく、どこからか自
分ではコントロールできない「怒り」がどんどん涌き出て来るというところ。その「怒り」の元
にトラウマがあったことを知って、本来の「怒り」を向けるべき相手だった相手(=母親)に向
けたら、子どもへの虐待が止まったそうだ。そして、母親に「怒り」の感情をぶつけ切ったとこ
ろで、「感謝」することができるようになった。しかし、現在でも、時々「うつ」に襲われるの
で、月に一度カウンセリングを受け続けている。

 ここはPTSDのことを書くところではないのに、長々と書いてしまって良いのかどうか分か
らない。(このことで、傷つく人がいるかもしれないというのに…。)
 ただ、この番組を見て「ワタシが思ったこと」を書きたいがための状況説明です。他意はあり
ません。
 以下、「自閉症」のワタシが「精神的な安定」を取り戻すことができた「理由」を書きます。
「精神的な破綻」をきたしてしまった「自閉症」者の「治療過程(注:「自閉症」を治すという
こととは違います)」は、2番目(PTSD)の例に似ています。(しかし、「見捨てられ体
験」と「"良い子"を演じる努力」と「誰かに対してぶつける怒り」という部分で、では全くあり
ません。)

 或る意味では同じというのは、「自分と同じ体験を持つ仲間の存在を知り、その体験談を聞く
こと」によって救われたという点です。番組中では、「自分自身が被虐待児で、自分の子どもに
虐待をしてしまっている仲間」の集まりに参加すると、よそでは言えないような内容のことを話
しても非難されないし、自分一人ではないと知って安心できた、自分が「悪い子」なのではなか
ったと分かったと語られていました。
 自分が、「自閉症」だと「診断」されただけでは救われない。自分と同じような、「自閉症」
らしい行動をしている人を見、自分と同じような「自閉症」体験のある人の存在を知って、"自
分らしさ(アイデンティティ)"を取り戻すことができたことの方が大事なのです。
 と言っても、他の「自閉症」者のやっていることを見て、それを真似することで自分を取り戻
すのではありません。自分にとって意味があり、かつ、人に迷惑をかけない(社会的に容認され
る範囲の)「自閉症」らしい行動ならしていても良いんだ。そして、こういう人がいても良いん
だと確認するのです。
 ただ、そういう人たちに出会って、「体験をお互いに話し合うこと」「仲間との連帯感を保ち
つづけること」ができるかどうかという点では、「自閉症」という「障害」の特性と個人差があ
るので、一概には言えないでしょう。

 しかし、「自閉症」者でも、最終的に「ココロの安定」のために必要なのは、自分の「仕事」
が成果をあげられることだったり、その仕事に「社会的な価値」を認められることだったり、現
実の人間関係の中で「自分らしくいられる」居場所を確保していることだったりします。
 つまり、やはり「社会」との繋がりなしには、真の安定はなかなか訪れない。・・・ここのと
ころが、これからの課題です。
[2001年6月14日 17時7分13秒]

テーマ: 「愛着」が繋ぐもの。   
最近、次男は、"耳そうじ"をしてもらうことがマイブームになっている。「気持ちいい」から
と、しょっちゅうご褒美としての"耳そうじ"ワタシにせがむ。
長男がその遣り取りを見て、羨ましがっている。「いいなあ、俺、触覚過敏(しかし、この単語
が覚えられなくて、いつも"ちょーかくかびん"と言う・・・場所が耳だから間違うのではない)
があって、人に触られるのがキライだから、その気持ち良さが分からないんだ。」なんて言う。
 その長男には、現在、"憧れの人"がいる。・・・学年主任の理科の先生で、情報技術部(パソ
コンいじりの部活)の顧問でもある同性の教師だ。更に、(友達に影響されているので)意味が
分かっているかどうかは疑問だが、好きな女の子もいるらしい。

まあ、いずれにしても、ワタシにはとっても考えられないことだ。「一緒に遊べるだけではな
く、助けたり競争し合ったりする友人関係があること」「同性の、モデルになる社会人がいるこ
と」「異性に、性的な欲求ではない恋心(?)を抱くこと」、しかも、それを「家族に、堂々と
話せること」…。
出来ない事だらけ・理解不能なことだらけで、身辺自立や生活能力という面では一人前になれる
かどうかアブナイところ(ボーダー域)にいる長男だが、「社会的適応」の状態がまるで違う。

長男に対しては、ワタシは(恐らく非常にアスペ的な視点から)、ハッパかけたり・説教した
り・モノの見方を修正したり・説明したりし続けている。
それを、とってもよく守っているところもあるけれど、友達から仕入れた情報と照合して自分な
りに消化できるので、さほど杓子定規にはならない。(しかし、「目上の人には敬語を使いまし
ょう」などの、中学生としてのマナーを真に受けているところなどを見ると、やはり「アスペの
血」は脈々と継承されていると思う。)

最近は、青少年の起こした事件に絡んで、それこそ"杓子定規"に御上(文部省)が通達を出す。
その忠心な従僕(教師)たちが、口々に「友達を作りなさい」だの「悩みを何でも人に話しなさ
い」だのと言う。
でも、普通と違う感覚−知覚/認知様式を持ち、普通と違う感じ方・考え方をして、同じ「場」
に居ながら違う世界に住んでいる「自閉症」の人たちにとっては、「人と居る」こと自体が既に
外傷体験になっていることがあるし、普通の人にとっての「楽しみ」が「苦しみ」であったりす
る。そういう人たちに、「トモダチ関係を押しつけること」「集団行動にはまるように強要する
こと」は、"百害あって一利なし"だと思う。
が、上の長男の様子を見れば明らかなのだが、こういう「障害」を持っているからといって「友
達が作れない」とか「悩みを人に打ち明けられない」のでは決してない。

では、その"違い"を作るにはどうすれば良いか?・・・今現在のワタシと長男を隔てているもの
は、やはり「愛着」形成の有無だということは、間違いのないことだ。

では、その「愛着」はどうして生まれたか?・・・それこそ、「自閉症」体験を素直に語ってバ
カにされない「場」があり、「自閉症」特有の行動を受容しながら社会化する「介助者」がい
て、自分の身に振りかかる非自閉者の常識で成り立っている"日常"という"災難"から護る「庇
護者」がいて、「自閉症」の論理で説明する「解説者」がいるということなのだ。
普通は、その逆をされ続ける。「自閉症」者にとっての唯一の体験である「自閉性世界」のこと
を語っても、信じてもらえない。「自閉症」者にとっての唯一の真実である「こだわり」を披露
すると、叱られる。
そして、「質問に答えなさい」「もっと、ちゃんとした話を聞かせて」だのと言われて、"ココ
ロにもない・お決まりの模範解答"を丸暗記させられる。確かに、そういう「問答」を覚えるこ
とは、処世術として必要だ。でも、いつしか本当のココロまで乗っ取られて、本当の自分を抹殺
してしまう。

テンプルさんが社会的な成功者になれたのは、そういう人たちに恵まれ続けたからでもあるの
だ。そして、テンプルさんは、「牛に同化する能力」と「締め付け機へのこだわり」と「人より
優れた視知覚と、それをそっくりそのまま記憶し再現する能力」をいかんなく発揮し、動物行動
学の第一人者になった。違いますか?
[2001年6月14日 10時33分7秒]

テーマ: 昨日は、なんでもなく一日が過ぎた、   
始めての日だった。

とにかく、体が良く動いた。かといって、焦燥感や切迫感に突かれてバタバタ・セカセカしてい
たのではない。
まる一日元気でいられたことは、今までにも何度かある。けれど、時間や物事の手順を何度も確
認して落ち着かないこと(要するに強迫的に追い立てられている感じ)もなく、かといって自分
の「こだわり」である「順序固執」はしっかりとこだわり通していられたのが不思議だ。
今までは、特別に企画されなければ何かを始められず、常時自分自身による監督&指導つきで全
てが実行され、自分自身にとってそういう自分自身が不自然で、違和感なしには人といられなか
った。常に、不安や恐怖や自己否定といった心理的な問題が伴い、身体的な問題(恐らく、精神
状態が転換した症状―眠気・だるさ・疲労感・倦怠感など)が派生していた。それらがこうじ
て、完全な躁鬱病エピソードに発展したんだ!と思った。

今までは、自分自身の内的な思考・自分自身の身体感覚・外界で起こっている事象・感覚器官を
通じて知覚される情報・自分の外に実在する人々の存在が、直接的・侵入的に影響して来た。
"ワタシ"は乗っ取られ、それらの表象と"ワタシの心的状態"との間には距離がなかった。
なのに、今はありとあらゆるものにフィルターがかけられて、少しボケたようになっている。入
力情報の衝撃を和らげるクッションと、表出される反応を穏やかにする変換装置のようなものが
働いている。
衝動的に書きはじめた当初はかなり攻撃的なことを考えていたのに、出来あがった文章はものす
ごくマイルド(これでも?)になっていたりする。

午前中、療育関係の掲示板でパニックのことを書いた弾みで「パニック」についてまとめをした
くなって、↓にあれこれ書いた。直後に、ちょっと「爽快感」を感じた。とたんに、躁状態にな
らないように自主的にブレーキがかかった。

午後には、午前中にしてしまった↓のことに「罪悪感」を感じた。そのとたんに、鬱状態になら
ないように自主的にブレーキがかかった。(いや、ここは、本当は「罪悪感」を感ずるべきとこ
ろなのかもしれない…。)

その後、「今日の朝」という言い方しか出来ずにいたワタシに、誰かが「今朝だよ、今朝って言
うんだよ、それは!」と指摘した時のことを思い出した。
「今日の朝だから今日の朝なのに…」と思ったワタシは、あくまでも「今日の朝」と言い続けて
クラス中が大笑いになったのは、中学何年生のことだったかな?(確かに、周りのみんなが制服
を着ていたから、中学生時代に違いなかった。)
・・・などと想起したりもしたけれど、思い出している自分を眺めている感じで、フラッシュバ
ックと言うより「想い出」みたいだった。そんな様子だから、再現された教室の情景に入りこん
で、そのままタイムスリップするなんてことが起こるはずもない。

でも今、内容はともかく、すごーく普通の、いや、すごーく普通"に"「日記」を書いているよう
な気がする。

※テグレトールの副作用を予防するために飲んでみた漢方薬の説明書に、「胃内停水を取って眩
 暈を止める」と書いてあったことから、現状が「二日酔い」のフラツキとムカツキ状態と同じ
 と判断して(これは、漢方医学の薬理理論です)、ふらついた時に普通の吐き気止めの健胃薬
 を飲んでみたら、これが当たったみたい。
(どうやら、「泣き発作」が起きた時に、頓服で追薬した方が良いらしいことも判った。)
[2001年6月14日 0時47分24秒]

テーマ: パニックいろいろ。   
「自閉症」のパニックと言うと、ドラマになるのはだいたい自律神経(交感神経)の亢進による
神経発作。・・・じゃないと、パニックらしくないので、「絵」にならないから。

原因もいろいろある。

『天使が消えた街』の輝さんは「強度行動障害」と呼ばれるような「こだわり」の非常に強いタ
イプなので、外出時に持ち歩いていたラジオを落とされた時には「同一性保持」のためのパニッ
ク発作を起こした。それから、不安障害の「特定の恐怖症」があるので、エレベーターの中でも
パニック発作を起こした。

『君が教えてくれたこと』の繭子は、「知覚過敏」が重いためにパニックを起こす。カメラのフ
ラッシュでパニック発作を起こしたのは、視覚過敏。赤毛男に触られてパニックになったのは、
触覚過敏。

週刊誌に載ったリンコさん(すいません、公になった記事なので引用させてもらいます。後輩の
為に。)は、自分の頭の中では"昨日の取材時の画像と音声の続きのシナリオ"が出来あがってい
たのに、記者の方はそうではなく"既に自明のものとなっているはずのこと"を聞き返してきたの
で、「自傷パニック」を起こしたことが記事になっている。後半の方では、聴覚過敏でパニック
を起こしたエピソードも書かれている。

NHKの教育テレビ(タイトル忘れた)で、(運動企画と身体操作性の障害のために)マット運
動になかなか取りかかれずに泣いていた女の子が起こしたのは「泣き発作」。

ウチの長男がよく起こすのは、「癇癪パニック」。今では精神安定剤(セレネース)が効いて、
多少軽くなった。けれど、幼児期のひどかった時には、ブロックが思い通りにはまらないとか、
(家中のミニカーをかき集めたり絵に描いたり写真を切り取っても)見た通りにパワーショベル
を再現配置できないということで癇癪を起こした。まず、手に持っていた物を放り投げ、次に、
できかけの作品をぶっ壊し、手足バタバタ&体を後ろに退け逸らして&ギャーギャーわめきちら
す式のパニック。←("だっこ"で触覚的な拡散感を抑えて鎮静させたのは、この場面でのことで
す。)
ワタシがよく起こしていたのはこれの軽症ので、一瞬「フリーズ」した後、「ああでもないこう
でもない」とブツブツつぶやきながら行ったり来たりして、どんどん自分で自分をドツボにはめ
て行くパターン。これは、SSRI(ルボックス)で、かなり改善されました。

ワタシはあまり騒がなかったけれど、たま〜に、町内中に響き渡るほどの大声をあげた。一番ひ
どかったのは、狭い路地に駐車していた車に乗ろうとした丁度その時、対向車が来て移動したの
に、「置いて行かれた」と思ってしまった時。
・・・まあ、この程度のものはADHD児でもよく起こします。ただ、ADHD児だと、「大声
を出すんじゃない!」と叱られた後に、言い訳や理由を述べ立てて弁明できるのに、「自閉症」
児だと「置いて行かれたと思った」を連発した後「泣き発作」になだれ込むところが違いますか
な?(この辺、AS&ADHDの長男とADHDの次男を比較対照すると、よくわかります。)


※余談ですが、最近は、学校の先生にADHD児の対処法を聞かれる事が多い。
 相談相手が学校の先生だと、ワタシが直接 親御さんや本人に接触しなくていいから、安全に
 「注文」に応じられる。
 それにしても、ADHD児も一人一人違いますなあ。
※やっぱりワタシは、何人もの人が同時に出入りして意見を述べ合う「場」にはいられない。個
 別対応、しかも、「感動的な感謝の言葉」があまりない方がいいみたい。(業務連絡的な方 
 が、圧倒的に楽です。)
[2001年6月13日 8時47分51秒]

テーマ: 手遅れにならないために…。   
もともとは、「自分がオカシかったから、子どももきっとオカシイだろう」という予感があっ
て、「自分にはしてもらえなかったこと」の全てを子どもにしていた。
たまたま、この分野の不毛遅滞に住んでいるお蔭で、子どもの療育は全部自力でやった。当時、
まだLDに関する本が出始めたばかりで、その中から「自閉症」「ADHD」「学習障害」「知
的ボーダー」についての記述を選り分けで読んでいたことと、生物化学的な研究が主流になる前
で「感覚統合訓練」などの本も同時に書店に並んでいたことが、大きな財産になった。
その頃は、「アスペルガー症候群」や「高機能自閉症」なんて用語は影も形もなかった。ただ、
LDの原因となる一要素として、「自閉症」が挙げられているだけで、単独の「障害」として認
知されていたわけではなかった。だから、「自閉症」児の療育に関することと、「軽度」の「自
閉症」の「診断」については、平均的な医療機関の水準よりも一歩前に進んでいた。なにしろ、
自分がそうだという確信があったから。

それで、ずーっと、井の中の蛙で窒息しかかっていた時に、この分野の研究をしている人たちが
いることを知った。よーく考えてみると、ワタシが子どもの療育をしていた時期(ほぼ10年
間)と完全に同時進行だった。(しかし、自分の「自閉症」歴は、40年もある。)
そこで、「軽度の自閉症の存在」と「子どもの療育」に関して、まだ世に知られていないことを
知らしめるはずだったのに、「もう、全部判っている人たちがいる」という現実に面食らうこと
となった。「教える」つもりだったのが、いきなり「教わる」側になったのだから。(でも、当
時はまだ、自分の抱いていた確信が"正しかった"ことは証明されていなかったし、どっちの立場
で召喚されたのかも曖昧で、めちゃくちゃ混乱してしまった。)

しかし、実はワタシは、「青年期以降に・二次障害の治療のために・始めて臨床的関与を求めて
来た・愛着形成のない・積極奇異型が孤立して一匹オオカミになった」クチだった。
言葉の遅れ・行動障害・学習障害がなく、「こだわり障害」が軽いという意味では「軽度」。し
かし、感覚的な刺激にのめり込んで人との係わりを持とうとしない、タチが悪い面もある。アス
ペルガー症候群によくみられる、多動などの問題行動があり・認知障害があって生活自立に多少
の構造化を必要とし・頑固な「こだわり」を持ち・人付き合いは極端に悪く・「会話」もほとん
ど通じない、しかし、体系的な知識を習得できてオタクや専門職の路に進めるというタイプでは
ない。
パニック発作・癇癪パニック・自傷他害といった派手な症状がなく、「泣き発作」を人のいない
ところで頻繁に起こし続けて来たこと。躁(興奮)状態にあると、積極的に人に接触してしま
い、その反動で鬱状態に陥ってはフラッシュバックを起こしていた。こういう、双極性(気分)
障害合併の、"隠れ"アスペでした。

「治療室」という臨床場面でも、なかなか自分の本性を表わせなかったのは、「自閉症」らしさ
を封印して来続けたことで「精神的な歪み」を生じてしまっていたからだった。けれど、逆にそ
のことが「精神療法的な介入」を可能にした。(いかにも「自閉症」らしい人で、「コミュニケ
ーション障害」が重かったり屈折した対人関係様式が固着している場合だと、治療的介入を始め
ることから困難になるだろう。)
 未診断・未治療のアスペは、普通、こんなに物分かりが良くない。ワタシの場合は、自分で解
説をつけながら子どもの療育をやった後に、「アスペルガー症候群」について書かれた専門書が
雨後のタケノコのようにボコボコ出て来たので、自分に関する謎解きがほぼ終わりかけそれを
「承認」してもらう段階だったから、始めから話が通じたのだった。

そういうわけで、"ほとんど手の施しようのない患者"ではありませんでした。

だから、成人後に初めて臨床的関与を求めた典型的な例でもありません。

ただ、自分では知らなかった本当の気持ちを見抜かれて「言いたくないことは言わなくて良い」
と言われたこと、侵入的にならずに黙って話しを聞き発作的になっても少しも慌てずに「解釈」
してくれたこと、「どうして知ってる?」と思わず聞き返してしまうくらい「自閉症」者のモノ
の考え方を知っていたこと…。
こうした"初めて"尽くしの人に逢えたのは、やはりウレシイものでした。(ただし、「愛着」は
ありません。)まあ、やっぱりこのまま、積極奇異に行くんでしょうね、これからも。
[2001年6月12日 23時28分30秒]

テーマ: あらまぁ!   
午前中は、「自分にできないこと」ばかり考えて明らかに悲嘆にくれていたのに、午後になった
ら「自分にできること」を考えている。

この間に、なにが起きたか?・・・オクスリノンダ。

「てんかん」でもないはず(脳波とったことない)だし躁状態でもなかったのに、「抗てんかん
薬」で「抗躁剤」でもあるオクスリが効いて、衝動的な自己否定や自己攻撃などの「鬱症状」が
収まった?・・・ワタシの鬱は、フラッシュバックを伴う強迫的な"隠れ"発作カモ?
[2001年6月12日 15時44分30秒]

テーマ: 「できることからコツコツと…。」   
『五体不満足』の著者の乙武さんは、自分自身はごくごく普通に生きてきて、そのことを素直に
本に書いたつもりだった。しかし、「世の中」の人々に、"「障害」を克服して前向きに生きて
いる姿に感動"したと言われて、意外だったと述べていた。
確かに、自分のちょっとした不完全さやコンプレックスに悩んだり、それから目を逸らして何か
の"せい"にしたがっている人たちよりは、「障害」を「障壁」と思わずに、「自分に欠けている
もの」を素直に認めて生きている人の生きざまの方が、よっぽど真摯だと思う。

「障害」というのは、克服するものではない。だって、本人自身は、「障害」と切り離しては生
きられない。他の状態を知らないのだから、「障害」と闘ったって仕方がない。本人は、「障
害」と共に、世間や健常と呼ばれている人々と闘っているのだ。身体的な不足だろうと、精神神
経的な不均衡だろうと、それは同じなのだ。
「障害」と共に生きている状態に対して、「がんばって」だの「たいへんだね」だのと言うの
は、意味がない。闘っているのは、厄介払いしたり気の毒がられる「差別意識」や、誰にも(時
には本人自身にも)知られることなくやっている「欠損を補うための膨大な努力」を評価するこ
となく「同じに出来て当たり前」「どうしてこんなことができないの」と言われてしまうことに
対してなのだ。

世の健常と呼ばれている人々は、「障害を克服した人の姿」「障害があっても前向きに生きてい
る姿」を見たいのだろう。また、肩書きのある人たちは、本当の専門でない領域の事柄であって
も立場上何かしらの教示をしなければならないし、自分が係わった成功例を掲げて研究の成果を
業績として発表する。
それが、社会的な要請なのだ。社会的に認められる仕事をするというのは、そういうことだ。
(そう、"社会的に"が主であって、"本人"の心情を叶えるのは二義的なことなのだ。)

「期待に応えることができる」「注文に応じられる」ということが、どこに行っても、やっぱり
社会と繋がる橋梁になるのでした。

だから、「応じられないこと」にいつまでしがみついていても「できないことはできない」の
で、「できることからコツコツと」やっていくしかありません。
自分にできる「仕事」の現場は、自分で作るしかありません。そのことについて、人からとやか
く言われようと、初めから"自分にできること"だけを「お品書き」に書いて、その中から注文し
てもらうように制限すれば良かったんです。

医者は薬を処方する、心理学者は心理検査をし統計を取る。それが「お仕事」。
でも、ワタシは、「薬」の効かない「モノの考え方」の部分や、「統計」に表れない「主観的な
こと」を言うのが「お仕事」。
どうやら、お客さんは、「発達障害児を抱えて、理解する方向で対応に苦慮している人たち」か
な?(小学校の先生が多いみたい。)
[2001年6月12日 15時2分22秒]

テーマ: さて、では、何をすればよかったのだろうか?   
「学校へ行ったら、先生の話をよく聞いてちゃんと勉強しなさい。」と周りの大人たち(親とか
幼稚園の先生とか)が口々に言うので、その通りにした。
ワタシは、本当に先生の話だけを聞いた。授業中や学活の時間に同級生たちが交わしている議論
や、休み時間のおしゃべりなんか聞いていなかった。先生が「結論」とか「問題の解き方」や
「今日のまとめ」をするまでの間は、ずっと校庭の木の葉が風で揺れるのを魅入っていた。(と
言っても、当時は「詰め込み式」授業の最盛期だったから、子ども同士で話し合うことより先生
の指示に従うことが重視されていた。それに、話し合う前に、多数決で全てを決める時代だっ
た。)
中学生ぐらいになると、同級生のほとんどは大人に反抗したり、恥ずかしがって意見を言わなく
なった。それで、先生が、「話している人の目を見なさい。」とか「思ったことを何でも発言し
なさい。」言うようになったのだと思う。
当然、ワタシはその通りにした。人の目を睨むようになった。それから、(恐らく、人気のない
先生の授業だとか、つまらない内容の日だとか、主要5教科ではないという理由で)、同級生た
ちのほとんどが授業に参加しようとせず、シーンとしていた中、「なんで、みんなこんなに情け
ないんだろう」と思いながら、いつも一人で発言していた。しかも、思った通りそのまま言っ
た。こんなことを言ったら、恥ずかしいとかカッコ悪いとか思うこともなく、或いは逆に、カッ
コつけてると思われるのではないかとためらうこともなく…。

当然、先生からは「いい子」に思われていた。けれど、全然そうじゃなかった。

中学生の時には、同級生たちがしていた「先生の品定め」を真に受けて、(この頃になると、寄
ると触るとみんなが先生の評価をするので、てっきり、民主主義の原理にのっとって、非難され
た先生は更迭されるものだと思ったから)、「クラス担任を、あっちの先生に変えるべきだ」と
担任の先生(つまり、当の本人)に言いに行ったりなんかした。
高校時代に、一度、「どうして勉強なんかするのだろうか?」と思って、宿題以外の一切の勉強
をやめてしまったことがあった。当然、成績はガタ落ち、担任から「信頼していたのに、ガッカ
リした。」と言われた。でも、ワタシは、好きで面白かったから勉強をしていただけで、人の期
待に応えようとか、いい大学に進学しようとしてやっていたわけではない。それなのに何故、そ
んな風に「勝手に決めつけておいて、勝手に裏切ったなどと言うのか?」と思った。
しかし、社会性が正常に発達した子どもなら、先生よりも同級生に顔を向けているのが当たり
前、人によく見られようと装い・人の期待に応えようとするのが当たり前、社会人としての目標
を社会の中に見出そうとするのが当たり前だと知ったのは、つい最近(半年ほど前)。「社会
性」を中心に書かれた最新の発達心理学の教科書や、「社会性」の発達障害について書かれた本
を読んでのことだ。
そう、同級生たちは、ズルイのでもキタナイのでスレテいるのでもなかったのだった。それが、
ニンゲンという生き物の正常な有り様だったのだ。

人が(転任する先生にプレゼントの金額を決めるというのならともかく、子どもの"こづかい"を
いくらにすれば良いかというようなことで)議論しているような現場にいると、ワタシは今でも
苦しくなる。「なんで、こんなことをワザワザ人に言うのか?」「なんで、自分で決めれば良い
のに、イチイチ人に聞くのか?」と思うことだらけだ。「ワタシの考えは決まっているのだか
ら、放っといて欲しい!」「なんで、そんなことに統一した見解を出そうとするのか!?」「も
う、どうでもいいから、早くどっちかに決めて!」と、逃げ出したくなる。
どうやら、余所の家のこづかいの額を探り出して、それを楯に子どもの言いなりにお金を渡すこ
とをやめるための"有益な情報"を引き出そうとしているらしかった。・・・みんながそう言って
いたから、ワタシはそう思った。でも、どうして児童心理学の本を読んで、「子どものココロ」
を研究した理論に基づいて子どもを説得しようとせずに、たまたま近所に住んでそこに居合わせ
ているだけの人の意見なんかで、物事を決めようとするのか?
しかし、「世の中」を構成していたのは、実はこういう会話だったのだ。そして、ほとんどの人
は、その会話を「あと何年かすれば確実に終わる災難」だと思って我慢しているのではなく、本
当に価値あるものとして楽しみ、自分の発言が"誰かに承認されている"という確実な証拠を得る
こと(つまり、返事や反応をしてもらうこと)で救われているのだった。

ワタシはただ、「言語理解」がやたらと早過ぎたために、「言われたこと・書かれたこと」を守
らなければならないと思い込んでいたし、「正しいこと・決定されたこと」は必ず実現すると思
い込んでいただけだった。けれど、「関わり方」は終始一貫、"積極奇異"だった。
ワタシはずっと、社会的に妥当でない行動をすることもなかったし、"受動的"だった。けれど、
実は「その場に居ながら、そこに帰属しないで済む方法」に長けていただけだった。辞める時
も、いきなり無断欠勤・逃亡という手段をとらずに、正当な理由でちゃんと退職願が受理される
まで待っていただけだった。

「お客の注文に応じた料理が作れない料理屋」は、永久に"まかない料理"専門店にしかなれな
い。「自分で注文し⇒自分で作り⇒自分で支払い⇒自分で食べる」ことを繰り返すだけ。
[2001年6月12日 10時24分52秒]

テーマ: 「読字障害」は大問題だ。   
現行の「診断基準」では、「自閉症」と診断されると、明らかに他の発達障害があっても診断か
らは除外される。でも、実際的には、明らかに合併しているものとして対応した方が良い。
ここのところ、内山先生は「自閉症に学習困難があっても学習障害とは言わないけれど、ADH
Dには学習障害が合併していても良いことになっています。」と表現していた。(それで、診断
名を告知するのに、「ASとADHDで、ADHDにLDが合併している。」という裏ワザ的な
言い方をしたりもする。しかーし、テンプルさんは日本での講演の中で、ディスレキシアという
単語を連発していたぞ。)
まあ、「診断」するのは医者の仕事で、そのことについて議論するのはそちらにお任せする。
・・・こっちは、そんなこと言ってられない。

ただ、ワタシは"ディス"ではなく"ハイパー"の方(失読じゃなくって、過読です)なので、完
全に客観的に書いています。(この障害のある本人にとっては、「耳が痛い」と思われるので、
「目をつぶって」下さい。)

単に、「読字障害」というと「読み」の障害でしかない。(器質的なものではない)聴覚系・視
覚系の混乱があれば読字能力の障害が生じるのは当たり前なので、原因がADHDだろうと「自
閉症」だろうと、合併していたってオカシクはない。(上に書いたように、それを「診断」にす
るか、個別に対応すべき「課題」にするかどうかを議論するのは、ワタシの仕事ではない。)
で、「字を読むこと」だけが障害されているのなら、「語あるいは語音の省略・置き換え・歪
み・付加をする」「読みの速度が遅い」「読み始めを誤まる・読んでいる箇所を見失う」「文章
の中での単語、あるいは、単語の中での文字の反転」といった音読の誤まりが問題となる。(こ
こでの引用は、『ICD−10/臨床記述および診断ガイドライン』による。)
こういう「読字」の障害があれば、「読みの理解力・読みによる単語認知・声による読字力・読
みを必要とする課題の出来ばえがすべて障害される」ことがあっても当然。また、単語や文章の
理解が困難だったり、単語を思い出したり文章を作ることが困難だったりという、「言葉の遅
れ」があっても当然。
(注)ただし、こういう間違いをよくするとかこういうことが苦手という程度のものは誰にでも
   あること。実際にLDの子どもの様子を見て知っている人は分かっていると思うけれど、
   「障害」と言われるからには、そういうレベルのことではない。

ただ、「読解力」の障害として挙げられている「読んだことを再生できない」「読んだ素材から
結論や推論を引き出すことができない」「背景的な情報としての一般的知識を使用すること」に
ついては、原因がADHDなのか「自閉症」なのかによって事情が違ってくる。(「自閉症」だ
と、共通認識の欠如・場面や状況ごとに独立している・同化するか理論的に考えるかのどちらか
になってしまう・物事を理解するために視覚的&聴覚的記憶を駆使しているという戦略の違いな
どがあるため。だから、読字障害がなくても「読解力」は低かったりする。)
・・・おっと、これはここでは余談。

このような、「字」と「語音」を置き換えることの障害があると、話し言葉・書き言葉から「有
意義な情報」を得ることができなかったり、身の回りで起きている森羅万象の仕組みを学習する
ことができなかったりする。
単なる「読み」の障害でしかないのなら、ワタシは、長男と次男の「読字障害」に、こんなに真
剣に取り組まない。
[2001年6月11日 10時51分43秒]

テーマ: でも、恐くなったのでやめます。   
「注文に応じた料理の出せない料理屋は潰れる」ことが判っているのに、こうやって自分で自分
の「退路と活路を自ら閉ざしてしまう」ことに"恐怖"を感じたので、これ以上この問題に首を突
っ込むのはやめにします。(と言いながら、性懲りもなく同じことを繰り返している…。)

この恐怖心は、鬱病相(自己否定)によるものではなく、これ以上の躁病相(自己肯定)に突っ
走る"危険"を感じたことによる混合状態なのでしょう。

一般的な「自閉症」の鬱状態に合併するのは不安障害やパニック障害のことが多いのに、ワタシ
の場合は強迫性障害だけで、どちらかというと躁状態になった時に「まずい結果になる可能性が
高い活動に熱中してしまう」こととその反動で陥る鬱状態との変動が激しい。
だからこそ、躁病相の予防薬が効いたのでしょう。(恐らく、これは一般的な例ではない。)
[2001年6月10日 16時55分42秒]

テーマ: と、ここまでクドクド書くと…、   
今をときめく大先生にイチャモンをつけたことにされてしまうのだろう。(実際に、"怒ってい
る"と思われているので、そういうことにしてもらっても結構ですが…。)

その大先生がよく「テンプルさんを目指せ!」と言われているので、その"テンプルさんのよう
になる"にはどうすれば良いか説明します。

まず、テンプルさんはかなりの行動障害児で読字障害もあったので、ハッキリ言って相当の問題
児でした。しかし、両親〜親戚ともに"そのケのある人"たちだったということもあったのか、始
めから(平均が100、85〜115が標準偏差である)IQが135もあることが判っていた
からなのか、母親によって理解され「愛着」形成もできています。
ただし、テンプルさんの幼少期は、「自閉症」児の内的世界について全く知られておらず、「自
閉症」児療育の方法論も全く無かった時代なので、行動障害と読字障害についてはただひとえに
「"理解ある人"に恵まれ続けたことが幸いした」と言う他ない状況でした。それで、かなり受
動"的"にはなったけれど、相変わらずの行動障害児でい続けました。
「愛着」形成が出来たからといって、ただちに行動が改善されるわけではありません。しかし、
テンプルさんが社会的成功者になれたのは、「愛着」が形成されたために自己存在の基盤にしっ
かりとした根を張ることができ、精神的に安定していられたことが大きかったのではないでしょ
うか?
(テンプルさんが「抗うつ剤」の効能を力説するのは、「自閉症」の本態的な状態を改善するた
めに「抗うつ剤」が有効なことを自己の感覚と化学的知識に基づいて実証したからであって、実
際にうつ病になったわけではない、と認識しています。)

テンプルさんの現在があるのは、「理解者」への「愛着」形成が幼児期からできていて「精神的
に安定」していたことは、確かに大きい要因でしょう。
しかし、元々恵まれていた「才能」と視覚で考える「自閉症の特性」を活かすことができ、常に
「自閉症者に決定的に欠けている部分」を補助してくれるスタッフや助言者に囲まれ続けている
という「環境因子」による部分も非常に大であると思います。


余談だけど、ついでに…。
よく言われる、アスペの子どもを持つ"そのケのある母親"たちの多くが、かつて「受動型の自閉
症(恐らく、ほとんどが非定型)」児であったという可能性を、ワタシは否定しているわけでは
ありません。
「幼児期に、空中の空気の粒子が見えていた」というような「自閉症体験」を語っている人も、
実際にいます。また、本人は自分には"全くそのケがない"と言っているけれど、傍からは"かな
りそのケがあるように見える"人もいます。そういう人たちは、ずっと「友達が少ない」「一人
遊びばかりしていた」「変わり者といわれていた」「社会に出るとトラブル続き」というような
エピソードをたくさん持っています。
でも、今現在の様子は、ワタシとはかなり違っています。近所付き合い・子どもを通じた父兄同
士の交流でのトラブルが全く無いわけではないけれど、親しい友人がいる・人の噂話を情報源と
するネットワークにちゃんと入っている・「○○の会」といった集まりに参加できる・普通とほ
ぼ同じような夫婦関係を維持している(夫の浮気を疑ったりもする)…などなど。
ただ、「そういう人たちと自分との差異性」を強調するようなことばかり言って来たのは、自分
自身が「何者であるか?」探究していた途上だったのに、「仲間である」という前提で接近され
過ぎてしまったために起きた回避反応でした。それから、実際に「うつ病」だったので、精神的
に非常に不安定だったということもあります。
(たまたま薬がヒットして、稀にみるというより自分史上かつてない初めての安定した状態にな
っている"今にして思えば"、ですけど。ごめんなさい。―でも、"交流"はしません、いや、で
きません。そのために必要な、接続回路を持っていないので。―)
[2001年6月10日 10時55分26秒]

テーマ: 愛着問題が「?」な理由の結語。   
>果たして「人との係わり方」を「受動型」にすることを「目的」に療育することイコール、本
 人にとってのシアワセ?という疑問も…。
(の部分について書く前に、尻切れトンボに終わってしまった昨日の続き。)

その内容は、以下の通り。
1、たとえ、本人の強い要望であったとしても、出来もしないことに深く首を突っ込ませること
  が、最終的にはどういう転帰をもたらすのだろうか?(逆に、「ここまで!」というブレー
  キをかけないと、とんでもないことになりはしないか?)
2、初めから「受動型」だった人と、元が「積極奇異型」で受動"的"になった人とでは、はたし
  て全く同じか?ということ。
3、「受動型」だからといって順風満帆になるわけではなく、それ以上に自分自身が「自閉症」
  だと判って始めて解決する問題の方が実は多いのではないか?ということ。
4、子どもの頃から「自閉症」の「診断」がついて、良い意味でも悪い意味でも「自閉症」児と
  しての処遇を受けて来た人と、成人後に自ら探究して"自分が「自閉症」であること"を知っ
  た人とでは、固着している防衛機制が違うので、今現在育ちつつある「自閉症」児にはそれ
  なりに別の課題があるのではないか?ということ。
5、高機能で・注意の障害がなく・学習困難もほとんどないような場合ならともかく、トモダチ
  関係を形成できるようになって、「皆と同じようにやりたい」と言い出した「自閉症」児が
  "出来もしない"約束をしてきた時(もちろん、本人には自分自身にその約束を果たす能力が
  備わっているかどうか・その約束を実行するにはなにをしなければならないか、わかってい
  ない)、それをフォローする方がバテてしまう。そういう補助がなくなった時に、どうなっ
  てしまうのか?ということ。
[2001年6月10日 8時7分50秒]

テーマ: しかし、未だ残る疑問。   
「積極奇異型の自閉症は人の指示は通り難く、自分だけの独自な方法で人と関わりを持ち、集団
行動は著しく苦手であり、パニックが多く、時に攻撃的であることもある。」

とあるのに、外観上のワタシは全然そうじゃないのは何故か?ということ。
             ・・・一口で言えば、「自閉症」の程度が「軽度」だから。です。

それは、「人に指示される前に自分でやってしまい、ちゃんと人に関わっているけれど実は非常
に自分独自の方法を駆使していて、集団行動はできるけれど全く帰属せず、ほぼ慢性的な"う
つ"状態にあり、常に攻撃的なへそ曲がり。」ということなんでしょう。きっと。
[2001年6月10日 0時5分52秒]

テーマ: 接続の都合で、二重投稿になってしまいました。   
他意はありません。

管理ファイルを書き換えると先月のようになってしまう危険があるので、このままにします。
[2001年6月9日 23時51分43秒]

テーマ: 愛着問題が「?」なわけ。   
(注)引用は後書の「解説」からですが、だからといって解説者に文句があるわけではありま
   せん。ただ、「解説」に書かれていることが気になって、考えてしまっただけです。

というのは、この「解説」を読んで始めて、これまで、身近にいる「受動型」の「自閉症」児と
ワタシとは、随分と違う印象を以前から持っていたのに、「では本当に違うのはどこか?」と問
われると"実は明確には判っていなかった"ことがよく解かったからです。
併せて、ウイングの「自閉症」の三つのタイプは、数奇モノ学者の研究上の意義しかもたないよ
うな瑣末な分類ではなく、本人自身のQOLのためにもけっこう重要な事柄らしいということ
も…。だが、同時に、果たして「人との係わり方」を「受動型」にすることを「目的」に療育す
ることイコール、本人にとってのシアワセ?という疑問も…。
問題行動や集団不適応が少なく、周りの子どもたちを模倣できるかどうかで「受動型」と「積極
奇異型」が分けられるのではなく、「人との係わり方」が根本的に違うのではないか?って。


〔引用〕受動型の特徴を持つ自閉症者は、戦略としてあたかも役者が役を演じるように、特定の
    他者を全面的に模倣をして他者とのやりとりを円滑にすることを目論むのが普通であ 
    る。
ワタシの実感:「特定の他者を全面的に模倣」がない。
〔解説〕特定のキャラクターを部分的に借りて」きて会話をパッチワークのように構成してい 
    る。中心核は、常にワタシ自身。
    ワタシ自身のままで人と接触してはマズイことになると解かった時から、場面ごとに 
    『対応マニュアル』を作成しようと試みるところまでは同じ。しかし、場面場面で自分
    の果たすべき"係"や自分の取る"スタンス"は自分で決めている。
    だから、時に、二つ以上の場面が交錯してしまうと、どのキャラを繰り出せば良いか分
    からなくなって混乱する。それで、そうならないように防衛手段として「逃亡」する。
    中心核を崩すところまでは、「人」に入り込まない。なんだかんだ言って、あくまでも
    自分自身を保っている。
    恐らく、自分の持っている役回りの選択に苦しんでいるのであって、本当の自分は何で
    あったのか混乱することはない。本当の自分は、ちゃんと"とって"おいて、いつでもそ
    こに繋がる「逃げ道」を確保している。


〔引用〕本書はとても平易な英語で書かれていて、分かりづらいところが一つもない。ここに既
    に、他者配慮に乏しい積極奇異型と、他者配慮が可能な受動型の特徴が現れてしまう。
    その結果、通常のわれわれに分かるように十分に配慮され、伝えようと意図された文章
    で、本書では自閉症体験が語られているのである。
ワタシの実感:難解で分かりづらい日本語で、他者配慮が一切なく、通常の人々に分かるように
       伝えようと意図したことがない。
〔解説〕滅入ってしまって返す言葉もないから、解説できない。


〔引用〕彼女は病気による入院の時に、初めての理解者に出会う。・・(中略)・・そして彼女
    は、この理解者に同一化し同じ職業を選ぼうとするのである。
ワタシの実感:まず、こういう人=理解者に、プライベートな場面で出会ったことがない。
       (「自閉症」を理解することを職業としてやっている人になら、あるけれど。)
       「この人のようになりたい」と思うような人物が、一人もいない。
〔解説〕逆に、「いかにすれば世の中から逃げられるか?」と真剣に考えて、世捨て人になっ 
    た。そして、それが不可能だと身に詰まされて以降、ニンゲンに化ける努力をした。
    しかし、常に「次の角を曲がったら、きっと終わりが来る。それまでの辛抱だ。」と思
    っていた。


〔引用〕知覚過敏のために気分が悪くなっていても、過敏性の中にずっと生きてきたものにとっ
    ては、それ以外の体験世界があることに気づくことは出来ない。
    取り分け受動型の自閉症者は、知覚過敏にもとづく強い体験世界ですら、自らの意思が
    弱いからこんなにだらしないのだと己を叱咤激励するようになる。
ワタシの実感:前半部分はその通りなのだが、後半部分が違う。
〔解説〕そう、たった1000円のサングラスで「世界」が一変してしまうことをテンプルさんの
    本で教わるまで、ワタシは40年間、光が交錯して奥行きの定かでない「視知覚」の異
    常さに全く気づかずに生きていた。
    でも、自分の体が虚弱だからだとは思ったけれど、自分の「意思」が弱いとは思わなか
    った。というのは、他の身体症状に転換されていて本当に体調が常に悪かったから。


〔引用〕受動型である作者は他の人に受け入れられようと一生懸命に、人の感情を読み、自分の
    感情を知ろうとする。・・(中略)・・さまざまなサインを読む方法を積み上げてさら
    に、彼女の行きついた戦略は、「自分ではわからないときには、相手に直接、今どんな
    気持ちなのかとたずねてみる」ということであった。
ワタシの実感:ニンゲンの一般的な「心理状態の法則」を知るために、哲学や心理学や精神病理
       学の本を読み漁った。文学作品の解説やあとがき、テレビの対談番組での司会者
       のまとめの言葉なども参考にした。しかし、目の前に対峙している人の「気持 
       ち」を読んでそれに応えようと思ったことはない。その必要も感じなかった。
〔解説〕実は、ワタシは「受動型」と呼ばれる状態のアスペは、人に「質問攻めをする」ことを
    よ〜く知っている。何故なら、今、ワタシの長男がこれだから。
    しかし、ウチの長男は中機能でADHD合併、学習能力が非常に低い、しかも、その聞
    き方がいかにも積極奇異型なので、うるさくてたまらない。いちいちいちいち「今、何
    を考えているの?」だの「何か役に立ちたいのだけど、今、どうして欲しい?」と聞い
    てくる。
    (もちろん、そんな時にワタシが「今、どうして欲しい」かと言えば、「その質問をや
    めて欲しい」だ。なにしろ、ワタシはそういう風に介入されることが一番キライだか 
    ら。)

恐らく、ワタシは「私のことを解かってくれる」と思った人に出会わなかったので「愛着」が形
成されず、「どうせ、誰も解かってくれない」という前提でしか本心を打ち明けることが出来な
い。
しかも、「自閉症」のワタシ自身の言葉で語ってもニンゲンの振りをしている私の言葉で語って
も、どちらも「人を怒らせている」という想念が固着してしまっている。
だから、人に向かって聞くことはいつもこれ一つしかない。「ねえ、怒ってない?」
[2001年6月9日 23時48分44秒]

テーマ: 愛着問題が「?」なわけ。   
(注)引用は後書の「解説」からですが、だからといって解説者に文句があるわけではありま
   せん。ただ、「解説」に書かれていることが気になって、考えてしまっただけです。

というのは、この「解説」を読んで始めて、これまで、身近にいる「受動型」の「自閉症」児と
ワタシとは、随分と違う印象を以前から持っていたのに、「では本当に違うのはどこか?」と問
われると"実は明確には判っていなかった"ことがよく解かったからです。
併せて、ウイングの「自閉症」の三つのタイプは、数奇モノ学者の研究上の意義しかもたないよ
うな瑣末な分類ではなく、本人自身のQOLのためにもけっこう重要な事柄らしいということ
も…。だが、同時に、果たして「人との係わり方」を「受動型」にすることを「目的」に療育す
ることイコール、本人にとってのシアワセ?という疑問も…。
問題行動や集団不適応が少なく、周りの子どもたちを模倣できるかどうかで「受動型」と「積極
奇異型」が分けられるのではなく、「人との係わり方」が根本的に違うのではないか?って。


〔引用〕受動型の特徴を持つ自閉症者は、戦略としてあたかも役者が役を演じるように、特定の
    他者を全面的に模倣をして他者とのやりとりを円滑にすることを目論むのが普通であ 
    る。
ワタシの実感:「特定の他者を全面的に模倣」がない。
〔解説〕特定のキャラクターを部分的に借りて」きて会話をパッチワークのように構成してい 
    る。中心核は、常にワタシ自身。
    ワタシ自身のままで人と接触してはマズイことに%A
[2001年6月9日 23時48分29秒]

テーマ: 「実験用ラット」からのお願い。   
つい最近まで、不快なこと・恐いこと・気になることがあると、むしろ自ら進んで想起しようと
し、無限連鎖をわざわざ永久に繋げていこうとしているのではないかとさえ思えたのが、嘘のよ
うに消えてしまった。
「抗てんかん剤」としてのテグレトールは、「闘値下の電気刺激または化学的刺激を反復的に与
えることによって、自律的なてんかん焦点を作り出すという、キンドリングモデルの発作の進展
をブロックするうえで最も活性が高い薬」だそうだ。"自ら進んで刺激を再生産する"ことを止め
てくれていると実感しているのは、そういうところと関連があるのかもしれない。

それに、一般には躁病相の再発防止に効果があって鬱病相には効かないと言われているのに、ワ
タシの場合一番変わったのは「死の想念」がピタッとやんだ。
恐らく、躁状態と鬱状態の両方の振幅が少なくなったので、最も目についていた症状が消失した
のでしょう。

このように、「抗精神薬」を本当に必要としていて、ちゃんと薬を飲んで、その恩恵を被ってい
る人もいるんです。いや、ほとんどの人がそうなんです。
国家的な「精神医療」に対する無理解と国民的な「精神」の健康維持に対する無関心という、精
神的な貧困状態が一刻も早く改善されることを願っています。

※「実験用ラット」なんていう表現は、穏やかでないかも知れない。
 でも、誰に頼まれたわけで はなく、自分で研究して話を持ち掛けてやっていること。
 「自分」のことを「この人」と呼ぶのが最もしっくり行く=≪自分自身(特に身体)≫が一番
 の≪他人≫という感覚でいるので、自ら命名したこと。
 (自分で自分を実験・観察するのは、ワタクシの趣味。)
[2001年6月8日 22時32分0秒]

テーマ: ところで、ワタシはどっち?   
どっちって、「受動型」なのか「積極奇異型」なのかということ。

問題行動なし・発作系のパニックなし、という点では「受動型」に近いけれど、"参加する方
法"は自分で決めている、人に係わられると受動的になることもあるけれど基本的には"逃げる"
というのは、やっぱり「積極奇異型」か?
・・・思春期以降「孤立」というスタイルが固着してしまったので、今現在は「一匹オオカミ
型」に落ち着いている。けれど、「受動型」か「積極奇異型」かという二択にすると、ワタシは
客観的な判断では「積極奇異型」になるそうだ。

でも、ずーっと一貫して、「どうしてワタシは、自分が興味を持っている特定の話題なら一方的
にベラベラしゃべるのに、みんなが井戸端会議しているような話題となるとこちらからは参加せ
ず、『こういう質問をしてくれたら、こういう答えを言うのに。』と思いながら傍観しているの
だろうか?」と思っていた。
でも、ワタシが考えているような「質問」をされたことは一度もなかった。別に、参加したいと
も、仲間に入りたいなんても思っていなかったから、「仲間ハズレにされている」とも思わなか
った。
・・・それで、自分ではてっきり「受動型」だと思っていたんだけどなあ。

確かに、小学生ぐらいまでは、「こういう質問をして」と誰かに要求して、予め用意しておいた
「答え」を言うことを繰り返していた覚えがある。けれど、うるさがられてから後は、自分の頭
の中で一人漫才をやって面白がっていたけど…。

まあ、「人との係わり方の障害」がある人が、自分の「人との係わり方」がどんなタイプなのか
判るはずがないから、本人にとっては永遠の謎だわな。・・・それでいいのだ。
[2001年6月8日 17時9分18秒]

テーマ: ↓への注釈。   
管理ファイルを書き換えるのはもうコリゴリなので、訂正。

「何故に、原題の“Life behind Glass”(ガラスのこちら側に生きる)を、オシャレに訳し
たタイトルにして欲しかったなあ。」という日本語としてオカシナ文ですが…。
ぶっちゃけた話、実は、「何故に・・・しなかったのか?」という意気込みで書き始めて、途中
で「それでは命令文になってしまう」と気がついて、願望文にトーンダウンしました。
「できれば、原題の“Life behind Glass”(ガラスのこちら側に生きる)を、オシャレに訳
したタイトルにして欲しかったなあ。」と読んで下さい。
※今回のお仕事について、邦題をつけたのが訳者なのか出版社のスタッフなのか知らないため。
 もし、訳者だった場合、まるで"自分を責められている"かのようにように思ってしまわないよ
 うに配慮したつもりです。

あっ、それから、↓の「実験用ラット」からのご意見ですが…。
この治療方針の変更は、あくまで「本人にとっての主訴は何か?」という方向にスライドしたの
であって、今までが間違っていたという意味ではありません。
※ずっと前に、テグレトールを一回量50mgと書きましたが、25mgの間違いでした。
[2001年6月8日 8時1分15秒]

テーマ: 『私の障害、私の個性。』 ウェンディ・ローソン著   
月に一度、大書店に行くので、欲しい新刊が出たからといって中書店に行かないことに決めてい
る。本日(おっと、昨日になってしまった)は、その仕入れ日。早速、表記の本を購入。

「まあ、同じような人がまたも現れた!」というのが第一印象。「古今東西、自閉症スペクトル
のどこかに位置付けられる人は、重度さやタイプが違っても感じていることは一緒だ!」と思っ
た。・・・「自閉」の程度が違うと、語られるエピソードの内容が違うだけ。
ところどころに、ワタシ自身が、(誰に影響されたわけではなく)自分の実感で書いた覚えがあ
る文とまるっきり同じ文章が散見されるので、思わず笑ってしまった。

著者のウェンディ・ローソンさんは、受動型の高機能自閉症者(恐らく、けっこう重い方)。
訳者は(書いとかないと、怒られそうだ)、いつものニキ・リンコさん。
ただし、「受動型」と「積極奇異型」の両者を分けるのは愛着形成の違い、とする解説にはちょ
っと「?」。←議論するつもりはありません。

本文から引用してしまうと、訳者に入る印税が減ってしまう恐れがあるので、(互助のため)や
めておく。で、差し障りのないところから…(やっぱり、書き写すのね〜♪)。

確かに私たちは、状況の判断が苦手だし、一般常識もなかなか学べません。でも、だからといっ
て、私たちが馬鹿だというわけではありません。非自閉の人たちとは考える道筋が違い、学び方
が違い、価値観や関心もちがうのだと思います。私たちは、非自閉者とは賢さの「形」や「向
き」がちがうのです。(P6「訳者、まえがき」より)
・・・そうそう、ワタシも子どもたちには↑のように言っています。癇癪起こすと「何でもア
リ」になって自分では言ってしまうけど、本人たちには絶対に「自分はバカだ」とは言わせな
い。「そんなことを言ったら、世界中のアスペの人たちに失礼だろう!」と(そこまで言うか
ぁ)というくらい、バカ呼ばわりはさせない。
けれど、状況の判断や一般常識を学べたワタシが、ワタシ自身に対してずっと「バカだ!」「死
ね!」と言い続けて来た。今、やっと薬がヒットして、お陰様で言わなくなった。その辺が矛盾
しているけれど、ある意味でこの「障害」の深刻さを表しているエピソードでした。

「レスリーは私の体に近づきすぎたりはしないので、そういう意味では怖くなかった。関心を示
すためには体に触れるのではなく、私に仕事をくれて、手伝わせてくれた。……何か失敗をして
も、レスリーは怒らなかった。声を荒げるのでもなく、仕事をとり上げるのでもなく、正しいや
り方を一歩、一歩、小分けして教えてくれた」ここには、自閉症への正しい接し方のすべてが書
かれている。(P218「解説者のおコトバ」より)
・・・そうです、そのとおりでございます。

ただ、惜しむらくは、この本の邦題。
何故に、原題の“Life behind Glass”(ガラスのこちら側に生きる)を、オシャレに訳した
タイトルにして欲しかったなあ。だって、これ、本当に実感なんだもの!

あっ、それから、9月に東京書籍から、「八歳で診断を受けたアスペルガー症候群の十歳の少年
本人(ケネス・ホール君)がアスペルガー症候群を語る書」の訳が出るそうです。

あっ、ついでに、「実験用ラット」からの一言。
実は、SSRIをやめてから、「二つ以上の命題が同時にある時に、どれを優先していいかわから
ずに起きる小パニック」や「順序へのこだわり」が少しひどくなっています。でも、ワタシの場
合はもともと混乱の度合いが軽いので、カワイイ程度のものです。だから、敢えて書きます。
こういうことがきれいサッパリなくなってしまうと、ワタシがワタシでなくなってしまうよ
うな気がします。
それに、せっかく「自閉症」ということに落ち着いた自己のアイデンティティが失われて、ま
た、自分で自分が判らなくなってしまう。だから、これでいいんです。
「光線の視覚過敏」や「奥行き知覚の異常」や「物体の連続性と恒常性への疑い」や「距離感が
わからなくて足元が常に不安」というような、自分にとって不利な特性を持ったままで、これが
ワタシなのですから。
(心地好い「音」たちと大好きな「形」さえ失わなければ、いいんです。・・・そういえば、ウ
ェンディ・ローソンさんも、似たようなこと書いてます。)
[2001年6月8日 0時2分15秒]

テーマ: 就労の問題。   
※今からここに書くことは、いったい誰が書いた何という本を読んで思ったことなのか?
 恐らく、この本の著者には解ると思う。(でも、敢えて書かない。)

一般に、「自閉症」者の就労支援の研究というと、認知的なトラブルをどう解消して、いかに仕
事や作業の手順を本人に解かるように教えるかとか、どのようにコミュニケーションをとって指
示を伝えるかということが主になっている。(TEACCHなんかもそう。)
しかし、認知の歪みの軽い高機能自閉症者の安定就労率の悪さが、大問題(といっても、一部の
専門家の中でだけど…)になっている。こういう人の多くは、認知の障害がほとんどないかちょ
っとした工夫で対応できる程度。就労挫折の原因もいろいろあるけれど、「仕事はいいけど、人
付き合いでNG」とか「仕事上の接客は何とかなっても、勤務外の個人的な付き合いを強要され
てNG」ということもある。

このような、何にトラブって仕事をやめたのかという理由を列挙するのではなく、「自閉症」の
タイプ別に就労から挫折までの経緯を観察している。〔書いた人、ここでクシャミ。〕
で、大まかに別けると、「パニックのある重い子(「自閉」の程度が、精神遅滞の程度ではな
い)」はよく働く、が、高機能の「積極奇異型」はすぐに職場放棄して・高機能の「受動型」は
かなり無理な我慢を重ねた上で適応障害を起こして、やめてしまうという話。〔ちょっと、まと
め方が大雑把過ぎますな。書いた人、苦情はメールで。〕
それをまたまた、↓の「躁」と「鬱」の観点で極論してみると、こうかもしれない?と思った次
第です。〔ここに矛先が向かうとは、青天の霹靂か?〕

「パニックのある重い子」
  まず、「自閉」の程度が重いと、周りの要求水準が下がる。
  パニックがあると、何らかの混乱状態になった時に交感神経の亢進とか実際に身体的な攻撃
  (自傷他害を含む)をするので、精神的な苦悩が或る程度そこでブロックされるのではない
  だろうか? そして、周りもパニックが起きると分かっている状況を起こさないように避け
  るので、過度な要求をしなくなる。
「積極奇異型」
  どちらかというと、「躁」の方に傾いていて興奮状態になっていることが多い。
  多弁でしかも攻撃的な発言をしたり、まずい結果になる(本人は社会的な状況に合わせなけ
  ればいけないと思っていないのでその自覚がない)衝動的な行動をとって、「自分から行か
  なくなる」。・・・だから、「積極奇異型」と言う。
  この状態は、躁病エピソードの「自尊心の肥大」とは本質的に異なるものではあるけれど、
  いかにも「自分の方が正しい」「正当なことを言っているのに、理解しない方がオカシイ」
  というようなモノの言い方をしてしまうので、それと通じるところがある。
「受動型」
  「言われたことは、やらなければいけない」「規則は守らなければいけない」「言われてい
  ないことはやらなくていい=言われていないことはやってはいけない」と思っているので、
  本人に自分が我慢しているという自覚が全くなく不利益があっても自分から言い出さないま
  まにかなりの無理を重ねてしまう。(とこう書くと、普通の人が「私のことだ」と思ってし
  まうけれど、こと「自閉症」者の話だと内容が違う。「水を飲んでいい」と言われていなか
  ったので、脱水症状になってしまったとかいうレベル。)
  気分の双極性が強く、「躁」的な活動亢進と自己否定の間を行き来した場合、自分自身を攻
  撃する方向に走って「うつ病」になりやすく、その過重が一定の闘値を越えると一気に噴出
  してしまうのでは?
[2001年6月6日 23時17分7秒]

テーマ: 遅ればせながら…。   
テグレトールの薬理情報を調べてみた。

(リンクの許可を取っていないのと医療機関従事者向けに公開しているという注意書きがあるの
で、あまり具体的なことは転記できない。それに、『薬事法』にも規制があるらしい。)

ただ、この部分は注目に値する。
 「扁桃核及び海馬の後発射はかなり抑制されており」
 「新皮質系よりも大脳辺縁系に対しある程度選択的に作用する」
主観的に「理性(と言うより、前頭葉)」がきちんとお仕事していると感じられたのは、こうい
うところなんでしょうかね。

※併用に注意が必要な薬物があるので、一度は見ておく方が良いな、こういう情報は。
 (確かに、「やめるべきだ」と実感した薬品名も載っていた。)
[2001年6月6日 14時47分26秒]

テーマ: 経過報告。   
引き続き、「実験用ラット=ワタシ」の観察記録。

【面白いこと】
空中に交錯する光がビンビン見えているのに、気にならない。外出時とパソコンのモニターを見
る時には不可欠だけれど、普段、家の中で何かの仕事をするのにサングラスをかける必要がなく
なった。
その光につられて奥行きや、物体を構成する一塊の線の連続性もめちゃくちゃ。でも、全然気に
ならない。それに、いろんな機械から聞こえて来るキーンという音も、それほど不快ではない。
まあ、そういう自分の外に実在する物体など、始めからどうでも良かったのだ。「それは、ワタ
シとは違うもの」だし、「それは、ワタシじゃあないから関係ない」、これが基本。
なのに、テレビでタレントがニコニコ顔で登場すると、知らないうちに自分もエコプラクシア
(動作のオウム返し)で、口がパカッと開いている。それから、ワタクシ的にオモシロイと思っ
た話題には、遠慮会釈なしに笑っている。
       ・・・「なんじゃこりゃあ、もしかしてワタシは退行したのか?」って感じ。

【フラッシュバックは起きても、タイムスリップしない】
どんなに理由の説明がついたって、不快体験は不快体験だからいつまでも記憶に残るし、ひょん
なことで思い出す。現場ではしゃんとしていたけれど、実は非常に不快で苦しかったことがたく
さんあるので、よくその時の情景やコトバの切れ端などが突然想起されて、苦しくなる。
ここまでは、いままでと同じ。でも、そのあと「うつ状態」に陥らないので、そこで止まる。

※ちなみに、現在、抗不安薬だけではなくSSRIもやめて、テグレトールを一日一回(昼)だ
 けにしている。テグレトールは、「感情調整剤」ではなく「精神安定剤」に分類されることも
 あるそうだ。しかも、構造は三環系抗うつ剤に似ているとか・・・なんじゃこりゃ?
[2001年6月6日 13時45分22秒]

テーマ: 「引きこもり」でもないのに出て行かない理由。   
引きこもっているわけではないのに、↓に「社会的ひきこもり」を挙げてそれが現在の状況だと
したのは何故か?・・・単に「出て行く余裕」「人のことを考えている余裕」がないってことも
あるけれど、皆さんの活動が活発だから「わざわざワタシが出て行かなくてもいいんだ」と思っ
て引退したのだ。

それにしても、↓に挙げた躁状態と鬱状態の表現は、ワタシの"主観的な感じ"をうまく言い表わ
している。もしかしたら、「愛着理論」で言う「接近−回避動因」を内側から言語化するとこう
いうことになるのかもしれないとも思う。外からは、説明のつかない理由で接近したり回避した
りしているとしか見えていないんだろうな?って。
ただし、ワタシの双極性はかなり極端で変動も小刻み。だけど、身近な「自閉症」児にこれを当
てはめてみると、基調感情が鬱の方に偏っていて単極に近いけれど変動の振幅が大きいとか、あ
っけらかんとして中間に落ち着いているとか、いつもいつも躁的で興奮しやすいとか、いろいろ
いるようだ。
人と係わることが出来て・人と会話できて・「こだわり行動」が強固でない=軽度の「自閉症」
で、TEACCHなどの特別なプログラムや身辺自立のための支援が必要でないからといって、決し
て野放しにしてはいけないのは、表面化されないこういう側面(精神的なこと)を見逃してはな
らないということなのだろう。

それから、最近つくづく思うのは、転帰が良くないとされている「折れ線型」と呼ばれている子
どもたちの方が、実は賢いのではないかということ。(まっ、「折れ線型」と一口に言っても、
自閉の程度が重い場合はそんなことを言っていられないか?)
ワタシみたいに、コトバを交わすことの真の意義も知らずに場面依存的オウム返しでベラベラし
ゃべっているよりは、本当に人を意識してしゃべれるようになるまで会話するのをやめてしまう
ことで、結果的には外壁は強固でも土台が軟弱な自己を護っているのでは?と思えるから。
[2001年6月6日 8時35分22秒]

テーマ: 本当は、ただいま「うつ」状態。   
ワタシの場合の、「抑うつ状態」と「躁状態」の症状を改めて並べてみる。

「抑うつ状態」
不安・身体症状・泣き発作・自信欠乏・自己評価の低さ・自責・否定的な予想・絶望・死の想
念・疲労感・食欲不振・不眠または過眠・価値がなく罪深いという想念・関係念慮・迫害念慮・
愛着の消失・社会的引きこもり

「躁状態」
爽快感・敵意に満ちた攻撃性・活動性の亢進・思考促進・音韻連合(新しい考えが意味よりも音
で想起される)・新しい活動や人への関心の亢進・他人との関わり合いの増加(しかし、他人は
恐れをなして遠ざかることが多い)・睡眠欲求の減少・誰かの助力を得ているという妄想・通常
より多弁

これを見ると、「自分で自分を攻撃するのをやめて、自分を護るようになった」だけで、今現在
は「気分循環性障害(数ヶ月単位の大まかな気分の変動)」の「うつ状態」のようだ。
テグレトールの効果で、「死の想念」と「切迫感・焦燥感」が消え、「急速交代型双極性障害
(日周単位の気分の変動)」のエピソードが全くなくなったところに、その副作用でボーッとし
ている(だけじゃないぞ、眩暈感はあるしチックも出ている)ので、動作はキビキビ−でも−心
理状態は淡々といったところ。
二次障害の「大うつ病」と「急速交代型双極性障害」が治って、もともとあった「気分循環性障
害」の状態に戻ったところにいるわけだ。
まあ、「興奮による活動性の亢進」と「罪悪感」の間を行ったり来たりして、常に「生か死か」
の二者択一を迫られているようでは、その間の「感情」など分かるはずもない。今のところは、
「死(に逃げること)」をちょん切ったら「悲しみ」だけが残ったということか。

しかし、根本の問題は合併症にあるのではない。
或る人といると「躁状態」になってベラベラしゃべりだし、或る人といると「抑うつ状態」に陥
ってしまう。
或る人が或る表情をすると「躁状態」になってベラベラしゃべりだし、その同じ人が或る表情を
すると「抑うつ状態」に陥ってしまう。
ある場面では「躁状態」になってベラベラしゃべりだし、或る場面では「抑うつ状態」に陥って
しまう。
或るモノを見ると「躁状態」になってベラベラしゃべりだし、或るモノを見ると「抑うつ状態」
に陥ってしまう。
人が一人でもいると「躁状態」になってベラベラしゃべりだすか「抑うつ状態」に陥るかのどち
らかになってしまうこと。
・・・この"対象依存的"な精神状態の変動、周期は分単位。このワタシ自身がクセモノなのだ。

ワタシの世界は、現在、とっても安定しているのに。
・・・鬼束ちひろのピアノの音と、犬夜叉の耳。
[2001年6月5日 23時31分48秒]

テーマ: 非常事態発生・・・でも冷静。   
ワタシの一番恐れていたこと(法事)が起きた。でも、不安感も焦燥感もない。
もしかしたら、ちょっとせん妄気味カモ〜?と思ったりもする。でも、必要な配慮はちゃんと出
来ているから、これくらいで丁度いいのかもしれない。(今までが、意識が鮮明過ぎた。)

こういう状態になっても冷静でいられる自分を観察していると、「脳裏に浮かんだ考えをストッ
クしておく場所が脳内にないこと」がよく分かる。しかも、一度思いついてしまうと、それをそ
のまま忘れ去ることが出来ない。だから、言うなり書くなりしないと気が済まないのだ。
それから、視点の切り換えが出来ないのではなく、「始めから視点は一つしかない」こと。切り
換えるのは視点ではなく、(構造的に並立な)モードであること。
世の中が不快刺激に満ちているから自分にとって安らぎである常同行動をするのではなく、自分
の感覚世界があまりにも快適過ぎるので、その「自分の世界を護るためには、なりふり構わな
い」のだということ、改めて思う。
[2001年6月5日 10時54分54秒]

テーマ: 反面教師。   
ワタシは成功者ではなく、失敗例の方だ。そこを間違えてはいけない。

[しゃべり過ぎること]―「自閉症」でしゃべれるのは、禍でしかない。
本に書いてあった教訓とか教えを遵守するので、基本的にはキチキチとした生活をしている。む
しろ、融通が効かないカタブツなのだ。そうした規範を守るべき場面で、人の行動を正す係を仰
せつかったら、きっと誰よりもしっかり働くだろう(アスペの人たちがコンピューター好きなの
は、論理的に整合的で規則的なコンピュータ言語の文法と相性が良いから)。しかし、普通の人
の心情がわからないから、事実は事実・決まりは決まりとズバズバ言ってしまう。
それともう一つ、「思考内語」をしゃべってしまうこと。これは決定的に立場を悪くする。なに
しろ、普通なら頭の中で考えている途中経過であるはずの思考を、全部口から出してしまうのだ
から。今・ここで・この人に「言ってもいい」ことだけを、言葉を選びながらしゃべることがで
きない。思いついたことをそのまま言う。しかも、言葉の字面の意味以上に重要なその言葉が言
外に持っている社会的な意味(「それを言う人は、こういう人だと思われる」とかいうこと)を
全く知らない。これは、危ない。
※よく、ものの本に書いてある、「成句の意味がわからなくて字義通りの解釈しか出来なくて、
 全く話しにならない」のは、主に子供時代の特徴。言語能力と学習能力が高いアスペなら、そ
 れは覚えられる。
 言葉の遅れや読字障害・学習困難のある人だと、一音一音確かめるような活舌の良いしゃべり
 方をして流暢にベラベラしゃべれなかったり、いつまでも字義通りの意味しかできなかったり
 する。

[表出された行動(アウトプット)は合わせられること]
威圧的な行動療法が一時的な成果をあげたように見えるのは、ひとえに「本人が大いなる勘違い
をするから」である。
ワタシが本当にしたかったのは、「自分に課せられた義務はしっかり果たすから、それ以上のこ
とは干渉しないで欲しい」ということ。それ以外の場面では「誰とも係わりたくなかった」の
に、言われるままに「かかわること」が出来てしまった。つまり、身体的な障害がないので、技
能を習得することと精神を犠牲にすることが出来てしまった。これが最大の過ち。
それに、こういう「自閉症」があってもいいと分かった後も、「人嫌いではない」とか「ひきこ
もりとは違う」ことをアピールしなければいけないと思って、本当に言いたいことがなかなか言
えなかった。でも、「自閉症」は「精神分裂病」とは違うという理屈が分かったから、もう遠慮
しない。アスペ全体のイメージを良くするのは、ワタシの仕事ではないから。

「死にたくなくなる薬」を貰ったのは本望ではなかったけれど、のちのちの苦痛の源でしかない
「躁状態をカットする薬」を所望したのはワタシの本心、というのはそういう理由。
[2001年6月5日 8時16分4秒]

テーマ: 楽しい余生の過ごし方。   
そうやって苦労してわざわざ作ったヌケガラを、薬二つ使ってぶち壊した。
その中でずっと死んでいたワタシが蘇生して、最初に知った感情は「悲しみ」だった。死の想念
なき涙・・・きっと、別の薬の作用で「死」の部分がカットされたから、ただの「悲しみ」だけ
を感じているのかもしれない。
この世の中全体が始めから「無価値」だからこそ、ニンゲン社会など何も恐くなかったのに、こ
の相対的価値の世界の中での「価値」の無さを知ってしまったここへ来て、初めての喪失感。
今までは、自分一人きりだったから、全てを自分自身で決めて全て自分自身だけで完結していら
れた。その、自分一人で追い求めて来たものが、元々「なにもない」ものだとなったら、もう本
当に「居場所」がない。
今からこの「社会」の中で生きて行くための「価値」は、ワタシには決して手に入らないものな
のだ。だって、もうこれ以上ワタシを壊さないように無理をしないことに決めてしまったから。
人々の「感情」のネットワークに引っ掛ることを、自分からやめてしまったのだから。

「自閉症」のままで生きようとしているとか、「自閉症」でも人々の「感情」に応える言葉を言
えるというのならイザ知らず、完全に「自閉症」を貫き通すこともできず完全に「普通」の振り
もできない―「自閉症」なのに「普通」・「普通」なのに「自閉症」というのは、どこに行って
も苦しいだけ。
もう、これ以上苦しみたくないから、どこにも行かない。
[2001年6月4日 23時43分57秒]

テーマ: 「呼吸法」の効能。   
ワタシが坐禅をやっていたのは、20〜25歳の5年間。表向きは思想的な理由だったけれど、
実は毎日起きるフラッシュバックを消すためだった。一時は、そのために不眠症になってしまっ
たほど毎晩襲ってきたので、坐禅してからでないと寝付けなかった。
それから、"災いの元でしかない口"を封じて「しゃべらない人」になるためだった。が、こちら
は実現せず、日中 人に会うとやはりペラペラしゃべってしまい、またまた違和感の元を生産し
ては自己否定を繰り返し続けることとなった。
そして、「社会人になれない」ことをカモフラージュする生き方として坊さんになろうと思った
のだが、現代の日本では[坊さん=修行者=世俗から隔絶して生きることで尊敬されている人]で
はないことを知らなかったのと、身体的な虚弱さからついていけずに挫折。まあ、元の動機が不
純だったから仕方がない。

よくヨーガや禅の呼吸法は、体にも精神にも良いと言われているけれど、それは確かにそうだ。
ワタシは坐禅をやめてからもずっと、[鼻で吸って口で吐く]呼吸法でしのいでいた。もしこの呼
吸法をしていなかったら、もっと早く精神神経科にかかることになり誤診されていたこと間違い
なしだ。
といっても、ワタシは精神分裂病にも躁鬱病にも見えないから、ごく普通の神経症にされた確率
が最も高い。しかし、一時期ちょっと妄想めいたことを口走っていたことがあるので、その時期
だったらまずかったかもしれない。が、それ以前に、転換された身体症状の治療の為に内科にか
かり、その度に「不定愁訴が多いのでいろいろ検査しましたが、どこも悪いところはありませ
ん。」としか言われなかったので、心療内科なるものが国内で認可された時も二の足を踏んでし
まった。まあ、今になって思えば、この程度で済んでいたのは呼吸法のお蔭だった。

ワタシは、むやみやたらと薬物療法に頼っているわけではないのだ。自力でできることは、全部
やって来たのだ。余計だったけれどムダではなかったことをいろいろやった後に、「診断」と
「自閉症」の精神療法に辿り着いた。自分のこの状態が「自閉症」であることを諒解して初め
て、それまで抱いていた疑問が解消したし、生き方の方針も立てられた。だからこそ、医学的診
断・薬物療法・精神療法について力説するのだ。
例えば、フラッシュバックが起きなくしたり、連鎖反応を止めるには薬の力が必要だ。けれど、
フラッシュバックが起きる原理を知らなければ、相変わらず不安の自己生産と自己否定の繰り返
しに終始して、苦痛を和らげるための対処療法に留まっているしかなかっただろう。

自力で出来ることはやった。けれど、自分ではどうしようもないところの先まで頑張ることは、
もうやめにした。それが、現在の位置。

それに、もし「診断」が下った後に「育ての親たち」に会っていたら、本当に必要なことを教わ
ることができたかもしれなかった。けれど、ワタシは育ての親の師匠の姉弟子と老師から、「子
供が来たら子供になり、老人が来たら老人になり、相手がしたいと思っていることを先にやる」
ように躾られた。
この「無私」ということは、ニンゲン化することを学ばなければならなかった私には必要なこと
だったけれど、本当は「もっともしてはならないこと」でもあった。
つまり、「自己中心的な我欲を捨て」て、「自分のことより他者の心境を優先にしなさい」「頭
で考えるのではなく、身体で覚えなさい」と言われてその通りにしてしまったのだ。が、その最
初の「我欲」を捨てるのではなく「自我」の構造と機能が違っていることに気づかずに、「相手
に合わせる」「行動を読み取る」「相手の望むことだけする」ことと解釈していたので、ワタシ
はヌケガラになってしまったのだった。

くれぐれも、順番は逆にしないようにして欲しい。
[2001年6月4日 16時7分58秒]

テーマ: 生き方のお手本。   
最近、気になって頭の中にチラチラと浮かんでくるのは、『自閉症とアスペルガー症候群』の日
本語版にだけウタ・フリスが書き加えた「伝統に生きるおばあちゃんのケース」。(P69〜)

日本の出版社に寄せられた「手記」をそのまま掲載しているのだが、その前にフリスが「アスペ
ルガー症候群を負う状態は、長寿で健康な、そして気高くさえある人生と両立しうる」なんてい
う解説がついていたのには、改めて驚いている。
             ・・・こういう生き方が、"気高い"と言われているということに。

 母はバカじゃない。健康で体力もある。体は小柄でやせているが顔のつやもいい。けれど表情
は乏しく、大声で笑わない。二反弱の畑の草刈りをし、いろいろな野菜を作り、食べている。い
つどうすればそれらが成長し、作物となるのか感心するぐらい知っている。学歴も女学校を卒業
している。新聞もよく読むが、一本調子で表情が変わらない。住まいは昔ながらの農家の家づく
り、戸を変えたりしていない。・・(中略)・・道路は右側を危なくないように歩く。毎日の生
活は、朝日が昇ると起き、朝食、畑仕事、家事、山にたきぎを拾いに行ったり、散歩に出たり、
昼食後、残りの仕事があればやり、新聞を読んだり和裁をしたり、毎日昼寝をし、その後フロを
沸かす。ゆっくり入った後夕食、寝るといったパターンをくり返す。自分の体は自分で守り、気
をつけ、疲れれば休む。暑い、寒い日は特に気をつけ、外に出ない。そうしないと落ち着かない
らしい。今は便利でもっと生活を楽しむことができるのに、毎日そうやって暮らしている。
 母はすべて一人勝手で、父がいて一緒に生活していても一切おかまいなし。人との付き合いが
出来ず、心の間に疎通がなく、話しもぶっきらぼうですぐ終わりになる。たとえばキャベツを切
っている母に「何作るの」と聞くと「かんらんを煮る」と言い、どう見られているか、気にする
様子もない。話の解釈も違う。昔、家族でインスタントコーヒーを飲んでいた時、姉が「コーヒ
ーもね、毎日何杯も飲むと毒だって」と言ったら、母は残りのインスタントコーヒーを全部捨て
てしまった。姉の言葉を「これは毒だと言った。体に悪い、捨てよう」と解釈したらしいので
す。普通の人なら一つの情報として受け取り、気にもしないのに、母は言葉どおり理解してしま
う。
 このような自分勝手で人とかかわることの出来ない母を(舅が)ほおっておくわけがない。や
ることすべて命令、強制、母は騒ぎ、怒り、たけって近所を回ったりしたそうです。見た目も仕
事も普通にできる母を異常、病的と疑わず、「おまえはわがままだ、甘えてる」と毎日争ってい
たと聞きました。
 昔、母の子供の頃、このような障害は一般に知られていなかったとしたら、変わった性格、お
となしいぐらいで解らないかもしれないし、隠していたかもしれない。


いやはや、現在でも、「変わった性格、おとなしいぐらいで解らない」のは変わっていません。

で、この人は、全体的に重度で「こだわり障害」が特に顕著、ただし身体−知覚の異常は少な
く、パニック・自傷他害・発作系の合併症がない。
・・・具体例を挙げる時には、このような「自閉症としてのプロフィール」を述べる必要があ 
   る。そうしないと、「自閉症」とか「アスペルガー症候群」とは"こういう人"のことだ
   と思われてしまうから。
ワタシも、ここまで重かったら中途半端に周りとの違いを感じてしまって悩むこともなかっただ
ろうし、合併症がなかったら随分と違っていただろうと思う。
まあ、こういう「本人は楽観的・周りがタイヘン」パターンと、「本人はタイヘン・周りは全然
気づかない」バターンのどちらが良いか?と世に問えば、断然「後の方が良いに決まっている」
ということになるのでしょうけれど…。
というわけで、これをそのまま「生き方のお手本」にすることはできないけれど、部分的に取り
入れて図太くなってもいいかな?と思う、今日この頃であった。


それから、ついでに、「多くのアスペルガーの人は法律侵犯どころか、正しい行為をなすことに
極度の関心をもっていることを述べておかねばなりません。彼らは、自分が違法と信じる行為を
不安に刈られて抑制し、他人にも法に反しない振る舞いを求めます。」(P58)と書かれている
ことを紹介しておきたい。(←誰にだ?)
これは本当にそうで、一昨年初めて「人付き合い」というものをさせられるようになって、世の
人々が"思っていること"が子供向けの絵本や人生訓の本に書いてある通りでなかったことに気づ
いた時には、ビックリした。普通のニンゲンは、心情・欲望・自己防衛が優先していて、「決ま
り」や「おコトバ」に依って生きているのではないということを全然知らなかったから。
[2001年6月4日 9時54分46秒]

テーマ: 絶対的「無価値」から、相対的「価値」へ。   
今日は、抗不安薬の離脱症状の(と思われる)頭痛と、テグレトールの副作用の(と思われる)
嘔気のために、完全にダウン。
不思議なことに、「自閉症」でいて"良い"と"悪い"が混在する場面を思い出したら、この頭痛
と嘔気と全身の硬直がひどくなる。これは、ものごとの両価性を目の当たりにすると、実際に頭
を引き裂かれるような感じがして踏ん張ってしまうことが、長年にわたってしみついた身体的な
慣習になっているからで、薬によって均衡が乱れている今日のような状態下では、如実に顕われ
るのだろう。
・・・このような精神−身体の図式は、たった一言の誰かのコトバで消滅してしまうほど、単純
   なものではない。

絶対評価で「価値無し・NO」だったものが、世の中から隔離・限定された「場」でのみ「価
値」を認められても、「相対的価値・SOME」である世の中全体の中に組み入れられた時に
は、思いもよらない評価をされてしまう。そのことに、耐えられるだろうか? これから。
その前に、今まで、死ぬことばかり考えて生きているのが当たり前だったのに、死ぬことを考え
ずに生きていられる状態になって、どうしていいか分からなくなっているのが現在の位置。
[2001年6月3日 20時18分18秒]

テーマ: なにもないのに、なにがある?   
なにやらわけがわからない状況に、独り置かれていることは、全然寂しくない。
引きこもっているどころか、人といると躁状態になり、言葉に反応して多弁。
さしあたり一人前の恰好をしているけれど、何となくおかしくて不安。
ところどころが恐怖なのは、きっとワタシが周りから浮いているために警戒されているから?

これらの不快感と、鬱状態になった時のフラッシュバックと、転換された身体症状を消すため
に、ほとんどの時間を費やした。それで、辿り着いた結論が「こんなに普通なのに、大騒ぎして
申し訳ない」では、虚しすぎる。

行動障害があるわけでもなく、できないこと・わからないことがあるわけでもない、けれど、立
派な感情障害と目に見えない「自閉症」(自己完結性障害とでも言うべき?)がある。これもや
っぱり、虚しすぎる。
[2001年6月2日 22時32分1秒]

テーマ: 簡単だけど、難しいこと。   
いろんな精神疾患が起きる仕組みを書いた本を読んでみて、気がついたこと。

どうやら、普通だったら、どれか一つがあっただけでも破綻してしまうような状態をいくつも抱
えたまま、ちゃんと、いや、"それなり"に成長しているのが「自閉症」なんだな。

普通の子どもがしないような奇異なことばかりやって、躾どころか身辺自立がなかなかできない
とか、全くコミュニケーションがとれないとかいう症状があると、周りの人にとっては一大事
だ。それから、特定の恐怖症や発作系の障害があるとなれば、そりゃあ大騒ぎになる。
でも、自分独自の感覚世界や極限した興味関心の体系をしっかり持っていて、そこに安住してい
る限り、本人はかなり安定している。ただ、そこから無理矢理引っ張り出されて、社会の中に布
置されるとおかしくなってしまう。

その「自分自身」の「世界」を保ったまま、いかに「社会」に係わって行かせるか。これが「自
閉症」児を育てるということ。
理屈にすると簡単だが、健常な親が実践するとなるととっても難しい。まず最初に、社会的な動
物であるニンゲンの本能が、社会の枠からはみ出ることに耐えられない。それから、感情が許さ
ない、「自閉症」の固有の「世界」が解からない、従って、その固有の「世界」に通じる言語が
読み切れない。
[2001年6月2日 8時3分12秒]

テーマ: 「用語」の使い方に気をつけなければ…。   
中学で、覚せい剤などの危険性について学ぶ「学習会」があったので、参観に行って来た。
それで、改めて、「フラッシュバック」という用語について調べてみた。
[幻覚剤持続性知覚障害]
 幻覚剤中毒中に体験した知覚症状(幾何学的幻覚・視野周辺部の誤った運動知覚・色彩の輝
 き・強烈な色彩・動く物体の映像の軌跡・強い残像・物体周辺のハロー効果・巨視症・微視
 症)を、使用中止後に追体験すること。
[心的外傷後ストレス障害(PTSD)]
 外傷的な出来事が再び起こっているかのように行動したり、感じたりする(その体験を再体
 験する感覚・錯覚・幻覚・および解離性フラッシュバックのエビソードを含む)。

まあ、他の人には知覚出来ない・実際にその場で起きていないのは事実だから、そういう意味で
「錯覚」とか「幻覚」と説明されるのは仕方がない。で、「自閉症」のフラッシュバックは、明
らかに後者の方。

覚せい剤の幻覚症状がどんなものかは知らないけれど、よくドラマやドキュメンタリーなどで映
像で表現されている通りだとしたら、かなり過激なものなのだろう。そりゃあ、ラリッたり現実
感を全く失ってしまったりするくらいだから。
「自閉症」の「知覚過敏」や「認知の歪み」を記述するのに、特定の形・色・物体の動き・残
像・ハロー現象・一部分だけに焦点が集中する・全体の場面そのままの記憶…なんて書くと、そ
れと勘違いされてしまうことがあるかもしれない。これから、特に。要注意。

ところで、実験用ラット(自分の身体状態)の観察経過だが、二週間たって血中濃度が安定して
来た(?)テグレトールの、他剤との競合による不具合だか副作用だか何だかよくわからない状
態になったので、不要と思われるものから止めていっている。(それこそ、「抗精神薬・鎮静剤
中毒」なんかになったらたまらない。でも、新薬に対する反応過敏があるので、身が持たなくな
って絶対に止めるから、中毒にはなれないはず。)

「知覚過敏」は、「不安」に比例して強くなると言っている専門家の先生もいるけれど、本当の
ところはよくわからない。
確かに、恐怖状態になると精神病様になることがある(いや、実際にあった)。それで、「抗不
安薬」を服用すると「知覚過敏」が軽くなるのか、それとももっと別の神経学的な要因によるも
のかは、ワタシは知らない。ただ、「抗不安薬」を止めてから、空中の光の筋だの眼球表面上の
何やらだのがビンビンに見え・奥行きがない、という以前の状態に戻った。
でも、ワタシと空間とは別物だという感覚があるので、ちょっと違う感じもする。それに、行事
の予定や時間なども気にならなくなっている(ボケたかも?)ので、過緊張にもならない。どう
やら、このまま止めても大丈夫そうだ。

それから、今日の参観授業に行って思ったのだが…。
かつて「強迫観念」に縛られていた時には、ワタシはそれだけを考えて・それだけやっていれば
よかったので、周りの人たちの様子なんか全然気にならなかった。その代わり、行事のない日
は、何となく感じた違和感と後で来るフラッシュバックの不快感を拭い去るためだけに、費やし
ていた。それが、一時、「オカシイのはワタシの方だ」ということになって、とても恐くなっ
た。
今日は、あの人たちとワタシとの違いは手に取るように解かった、けれど、「まあ、いいんだ」
と非常に冷静に傍観していられた。それでいいんだな。(ここまで来るのに、随分とかかったも
のだ、時間と経費。それから、知らずにしていた"わるあがき"。)
[2001年6月1日 17時57分14秒]

書き込み
テーマ



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