記事タイトル:2002年3月の「日記」 


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テーマ: 病院にて。   
口腔外科の医者の心配をよそに鎮静剤の効きはすばらしく、点滴を始めた直後に寝てしまい、な
ーんにもわからないままに手術が終っていた。
↑
だから〜、「薬が効きすぎる」と何度も訴えたのに〜。確か、酔っ払っているみたいにモウロウ
トするだけでしゃべれる、とか言っていたのに〜。やっぱり、効きすぎじゃん!

一度、点滴の打ち損ねで一時間ほどめちゃくちゃ痛かったけれど、歯茎の痛みもそれほどでなか
った。それに、CDを持って行って不快な触覚をその場で完全消去したお陰で、余分な疲れを持
ち越すことなく帰って来れた。(その間、ADHD状態を見ずに済んだのが、精神衛生上良かっ
たのかも?)

病院で発見したこと。

(その1)テレビを見ていて思ったこと。
 ○何かのイベントの後でインタビューを受けた参加者のコメントは、礼儀で決り文句を言って
  いるのではなく、本心で言っているらしい。
 ○男らしさ・女らしさがぷんぷんしている人(芸能人・一般人問わず)は、他人に向けて“ら
  しさ”を演出しているのではなく、本心からそうしたいと思っているらしい。
 ○髪の毛を長く伸ばしていつも顔にかかっている人は、髪の毛が顔にかかる不快感を、オシャ
  レのために仕方なく我慢しているのではなく、そもそも不快感を感じていないらしい。

(その2)同じ病室にいた小学生を見ていて思ったこと。
  それほど痛い思いもなく元気なのに長期入院が必要な病気だったせいもあるのだろうけれ
  ど、新しく子どもが入って来ると必ず様子をうかがっては友達になれそうか試してみる明る
  い子がいた。その子は、仲良しになれそうな人とそうでない人を見分ける達人だった。
  それだけではなく、仲良しになれそうな人と友達になる達人でもあった。決してしつこくも
  一方的でもなく、持っている玩具やマンガを切り口に話し始め、自己紹介し(どこの学校か
  ・何の病気か・どれくらいいるのかなどという野暮なことは言わない)、名前を聞き合って
  すぐにあだ名で呼び合っていた。しかも、会話やゲームが長く長く続くこと続くこと(そ
  の中で、病気の話は自然に出てくる)。治療やスケジュールでさえぎられなければ終らない
  し、何かやって帰って来た後も、「なにをやって来たか?」とか「痛いか?」などという見
  れば判ることは聞かない。
  ・・・小学生で既にこれだけのソーシャルスキルを身につけている人と、対等に渡り合える
     わけないじゃん!!!
[2002年3月29日 17時9分38秒]

テーマ: 三歳児、恐るべし。   
そういえば、昨日の法事で、あと数年で小学校に入ってくる健常な(自閉症でもADHDでもな
い)子どもの様子には驚かされた。

おじさん・おばさんがトイレに立った時、来なくていいと言われたにもかかわらず一緒について
来て、「だって、ボクがいないと寂しいでしょ!」と言っていた。
もし、おじさん・おばさんが寂しそうだから(或いは、そう言われたのかもしれない)ついてい
ったのだとしたら、おじさん・おばさんの「心」を読んで、おじさん・おばさんのためについて
行ったことになる。
もしかしたら、本当は自分が置いていかれたくなくてそう言ったのなら、人のためではなく自分
のために言ったことになる。けれど、そう言われると置いていけなくなる人の「心」をうまく読
んでいることに、変わりはない。
どっちにしても、普通の子はすごい!
・・・こういう子どもや人に、対等に渡り合っていけるわけないじゃん! と思った。
[2002年3月25日 16時13分25秒]

テーマ: 昨日のこと。   
やっぱり、たっぷりあった休憩(雑談)時間に、食器棚と壁の間の直角のかどにはさまっていた
ら、「こっちに来て、すわったら。」と呼ばれた。「自閉症なので、こっちの方がいいので。」
と言った。

「えっ、いつから?」と聞かれたので、「生まれた時から。」と答えておいた。「へえ、いろん
な人がいるんだねえ。」という結論になった。

さて、どういう人のことだと思ったのだろう???
[2002年3月25日 16時2分21秒]

テーマ: 4年前。   
ここに引っ越して来る前は、ご近所様はそれほど恐ろしいものではなかった。(ただ、何故がわ
からないが、どこかが違うというだけだった。)

昨日の通夜の様子から、ここに来て何が変わったか分析できた。
○以前いたところでは、元々、よそ者扱いされる状況にあったこと。しかも、公的な役職につい
 て活躍している人がいて、行政への要望などが話題の中心になることが多く、下世話な世間話
 で盛り上がるようなことは少なかった。
○以前いたところでは、隅っこにいたり、壁際や柱に寄っかかっていても、そのままにしておい
 てくれたこと。
○以前いたところでは、そういう場を仕切る人がいなかったので、自分のやり方でやっていても
 良かったし、むしろありがたがられていた。ところが、ここには仕切り屋が何人もいること。
 しかも、不満があるとわざわざワタシの真後ろに座ってわざわざ大声で文句をたらたら言い、
 その上何人もの人に自分の意見が正しいことを吹聴してその場の話題にされてしまったこと。
○ワタシは一番最後がいいのに、ここにはものすごく遠慮深い人がいて人に気遣いをするため、
 後からついて行くことができなくなってしまったこと。
○ここでは、昔ながらの一人一人に対するご丁寧な接待を強いられること。

「気の利く人」がたくさんいるお陰でワタシのままでいられなくなったのだから、ワタシに“気
を利かせない”ための「目印」をつけなければいけなかったのだった。


ところで、法事でワタシがいない間、二人で興奮しまくってそこらじゅうがADHD状態になる
ことが予想されるので、今日一日遊ぶ部屋を一つに決めている。
それから、式をやっているまっ最中の時間帯はアスペの奇声を上げないように、午後は「お絵描
き」をする約束をしている。なにしろ、すぐ斜め向かいなので、音が筒抜けだから。
[2002年3月24日 8時1分38秒]

テーマ: お葬式。   
明日、近所のお葬式の手伝い。
以前は、お茶出しや会場設営や片付けなどの仕事がたくさんあって、忙しさに紛れていればよか
った。でも、最近はそういう仕事があまりなくなって、ほとんどおしゃべりと接待(する方なら
良いのに、される方)の場になっている。
時間がたっぷり、余るほど人がいる、その間ずーーーっと世間話。しかも、田舎。

で、この日のために作った缶バッヂをつけていく。
(それで、障害児教育の話題に持っていければ、もうけもの。)
人の真似して、無理な会話には乗らない。
天敵とは、徹底的にすれ違いにする。
席は、端っこの壁や柱のきわにする。

断固、決行する。
[2002年3月23日 22時8分54秒]

テーマ: 集合確認。   
今日の子供会の奉仕活動でもそうだけれど、バス旅行の時に気がついたことがもう一つ。

ワタシは、子どもや参加者が全員集合しているかどうか確認できない。何故なら、指さししなが
ら一対一対応で数を数えられないから。
実際に触ったりできれば、ちゃんと一つ一つを指せるのだが、空間の中に配置されているモノを
指でさすこと自体が難しい。数えたか数えていないかわからなくなってしまう。触覚を感じるこ
とができれば数を数えるタイミングがつかめるのだが、空間を指さした時は自分の腕を上下させ
る感覚しかなく、下げる動作が同時に上に戻す動作になっているためにどっちだか判らなくなっ
てしまう。
(そういえば、以前 仕分けの作業をした時に、ワタシは終ったモノとこれからするモノを別の
場所にどけたり箱に入れたりしていた。でも、他の人はそうしようとせず、逆にうさんくさがっ
ていた。普通の人は、こんな風にしないらしい。)

しかし、それ以前に、たかだか二十数名の子供会なので、数など数えなくても誰某が来ているい
ないなんてことを把握するのは簡単なことらしい。たとえ顔と名前が全部一致しないにしても、
“人”というのは知識や情報として考える必要のある対象物ではなく、自然に“わかる”ものら
しい。
ワタシが係をやった時、バス旅行の時には各班の係の人に、それぞれ自分の班の参加者が全員来
ているかどうか数えてもらったし、全員いるかどうかの判断もしてもらった。
が、先日のバス旅行では、数はバスガイドさんがカウンターで数え、役員は「隣りの席の人がい
るかどうか確認してくださ〜い!」と一声かけるだけだった。どうやらワタシは、ガイドさんが
「人数は○人ですね!」と確認のために言ったのに、「人数は○人ですね?」と聞かれているの
だと思ってしまっていたらしい。

こういう些細なところに“文化摩擦”がいっぱい。
[2002年3月21日 16時43分54秒]

テーマ: 不思議な光景。   
病院の待合室・・・大きな水槽が置いてあって、キレイな色の熱帯魚がたくさんいる。見る角度
         によっては、光の七色が見える。この水槽を凝視しているのは、ワタシ
         だけ。どうして、みんな見ないの?
伊東家の食卓・・・いつもいつも、ゲームが苦手でうまくできない人がいる。分かり切っている
         ことなのに、毎回毎回ゲームをやって、いつもいつもできない様子が放送さ
         れる。どうして、それを平気で見ていられるの?
[2002年3月20日 17時9分25秒]

テーマ: 危険な交差点。   
最近、立て続けに交通事故が起きた交差点がある。そのことは、ちょっと前に、子供会の役員打
ち合わせで話題になった。どうも気になって仕方がなかったことが、今日、やっとわかった。

ワタシが、「あの交差点では、よく事故が起きる。」と言ったのは、あの「場所」からの連想だ
った。が、他の人たちは、交通事故に遭った「人」について話し始めた。
そういう話題になると、それが誰か・どういう人か・その後どうなったか…と、そこから盛りあ
がるものなのに、ワタシは簡潔に「知らない」と言ってしまう。そこで、一瞬、空気が凍る(ら
しい)。その凍った瞬間の人の「声」だとか「目」だとかの印象が、やけに強く残る。
もし、ワタシが交通安全に関する役職についていて、今から「くだんの交差点の構造や周辺環境
の問題」を検討するのなら、とっても立派な仕事ができるかもしれない。でも、そういう場面に
なると、被害者を気遣う一般論は述べられるけれど、それ以上の言葉がない。

そういえば、家の真ん前でバイクの転倒事故があった時のことが思い出される。その時、ワタシ
は家から一歩も出られなかった。(もっとも、ツレの人がすぐに携帯電話で救急車を呼んだり介
抱したりしていたから、ほぼ全員が野次馬という状況だった。田舎の人は、ご近所様はほとんど
顔見知りなので、いろいろ詮索するのが大好き。そういう状況は、ワタシにとっては恐怖以外の
なにものでもない。)
もし、ワタシが都会に住んでいて、周りは誰も知らない人ばかりだったら、ものすごく親身にな
っていろいろ心配したりしたのだけどなあ。
[2002年3月20日 16時49分6秒]

テーマ: 例えば。   
行為障害的なエピソードが、ニュースとして報道される。国民感情としては、「ひどい」「むご
い」「こわい」「悪い人がいる」といった受け取り方をして、「身の毛もよだつものを見たよう
な」顔をして訴えたりすると、「共感」を呼び「好感」を持たれる。
ほぼそうした国民感情にかなう解釈をして国民の精神を安定させるために、タレント精神科医な
んてものが存在しているのかどうかは知らない。何故なら、週刊誌もワイドショーも見ないの
で。

一般の精神科医が、診察室で、沈着冷静に分析しながらそうなった心的な経緯などを考えながら
本人の話を聞いていたとしても、怒る人はいないだろう。
しかし、世の中のほとんどの場所では、そういうことをすると「冷静」が「冷酷」に受け取られ
てしまう。
[2002年3月19日 18時37分53秒]

テーマ: 黒巫女・椿。   
昨日の『犬夜叉』で、黒巫女の椿が言ったセリフが気になった。「桔梗、あの冷酷な巫女!」

常に「冷静」で迷わないことが、感情的になっている相手にとっては「冷酷」に感じられてしま
うということ。
それから、日ごろ「感情」を現わさない人が「感情」を表出すると、元々感情的な人の感情を刺
激しすぎてしまうということ。(やっぱり、桔梗も言っていた。「私らしくない」と。)
[2002年3月19日 14時36分25秒]

テーマ: ↓の↓の続き。   
ワタシのような存在を容赦なく切り捨てて、「ご近所様のお付き合いをうまくやって行きたい」
と言った人のことだから、社会生活にモノの見事に適応している。
しかし、社会生活に適応するということは、家庭・職場・地域のそれぞれで人間関係の悩み・葛
藤・不満を持つということでもあるけれど、鬼の居ないところでその愚痴をお互いにしゃべって
共感し合い、ストレスを解消できる仕組みになっているようだ。

あっちでもこっちでも愚痴や不満を打ち明け合っているので、ワタシはてっきり「みんな、こん
なところから出たいと思っている」のだと考えていた。が、そうではなく、「そこから外される
ことの方が恐ろしく、ちょっとでも疎外感を感じただけで居ても立ってもいられないような不安
に陥る」のが、社会的動物であるニンゲンのサガというものらしい。

そういう人は、社会生活に適応できない人のことなど、考えたくもないらしい。「ただただ、あ
の人はオカシイ」とボロクソに言われているのだろうけれど、「家に引きこもっていられるなん
て贅沢だ」とか「苦労がなくて楽でいい」という観方もされているだろう。
日常的に、あっちこっちの人間関係の中で直接相手に対して怒るに怒れない立場にあり、ひたす
ら我慢に我慢の毎日を強いられていても、「そこからはじき出される苦痛よりは愚痴をこぼして
解消できる程度の苦労の方を選択し、そこから得たことを宝や財産にできる。」ことが、あちら
にとっては大事なのだろうなあ。

でもまあ、「理屈」がいくら分かっていても、こちらとしては、そういう「普通」とか「健常」
にあれだけの時間さらされて(つまり、被曝)しまったことによる「不快感」をリセットしよう
とする防衛反応が、自然に発生している。
頭の中には、鬼束ちひろの曲の一節がぐるぐる回っているし、知らず知らずのうちに手や指を上
下にずーっと振っていたり…。で、午前中は「休み時間」にした方が良さそうだ。
[2002年3月19日 9時47分32秒]

テーマ: 小学校低学年。   
一般の子どもたちより発達が遅れていたりアンバランスのある軽度発達障害の子どもは、3〜
10才頃には際立った特徴があっても、小学校中学年頃からだんだんに落ち着いて来たり会話に
困難がなくなったりするもの。けれど、普段はそういう子どもばかりを見ているし、他の子ども
もやっぱり子どもらしい幼さがあるので、子どもの集まりではさほど違和感を感じない。
ところが、一昨日のような集まりに行くと、子どもはいつも通りの子どものままなのに、それぞ
れの親子ごとの一単位にまとまると、随分と違うことがよくわかる。自分自身が大人である健常
な親が子どもに対して行っている教育的指導の内容が、ウチとは全然違っている。
ウチでは、ADHDの多動・衝動性のコントロールや、LDの言葉・社会性(ものの考え方)の
指導が中心で、偏食や姿勢などの生理的なものはそういうものだと思っているから、何も言わな
い。ところが、よその家の人たちは、そういうところに強気だし、子どもの方もただの好き嫌い
とか気分が乗らないだけのような様子。でも、こちらからすると、随分と威圧的で恐かった。

現在、ウチでは、現在小学校低学年の子ども(次男)と早期発見型の子ども(長男)を相手にし
ている。ワタシはどこの団体にも属していなくて、あらゆる親子にも適用できるような一般的な
方法論ばかりここに書いているわけでもない。特に、行動障害と学習障害があるにもかかわらず
「療育」のベースに乗らずに思春期を向かえて、心理的・精神的な問題(二次障害)を発症して
しまった場合には、そのまま当てはめられないこともある。

まあ、超個別対応が必要な子どものことなので、どっちに行ってもどっちつかずになる。
[2002年3月19日 8時29分24秒]

テーマ: ↓の続き。   
昨日、小耳に挟んで、何となく気になっていた「言葉」が、一夜明けたら消化されて「意味」が
分かって来た。
職場の同僚に、“いくら指導しても、全然改善しない人”がいて、経験年数や年齢には全く関係
なく“ダメな人はダメ”だという流れの中で出た、「まあ、向こうもそう思っているかもしれな
いけど…。でも、理解できるとうれしい。」という発言。

あれだけ長いこと、自分のことやら家族のことやら仕事で係わりを持った人たちのことをしゃべ
って「共感」し合えるような“人との係わり方”ができることが「豊か」であって、それができ
ないのは「不幸」である、或いは、“係わりたくない人”であるなんていう考えから、改善要求
を突きつけられるのは、たまったものではない。
でも、あちらが嫌悪感を示す原因には、「自分たちとは違った考えを持った人がいること自体は
仕方ないけれど、基本的な何かが違うためにコミュニケーションができない」ことが不愉快の原
因だったり、「頭ではわかっていても感情がついていけない」ことにあり、それは非常に重大な
問題になるらしいことが覗えた。
つまり、「基本的な何かが永遠に違い・実質的なコミュニケーションは永遠にとれず・頭で分か
ることが全てである」ような人は、あちらにとっての「不安」を喚起させる存在であって、排除
したくなってしまうのが普通の感情であるようだ。

世の中には、自分の気持ちを代弁してくれる人をカリスマとして崇めるグループが、いくつもい
くつもできている。そうやって、人は「安心」を得、「安定」をはかる。
それらが、上手に住み分けて共存できている限りは、世の中、平和でいられるのだろう。しか
し、一つの聖地を多くの宗教や宗派で奪い合うような状況が、あちらこちらで発生している。

まあ、{差別化が好きで・コミュニケーションが成立している人が非常に少なく・共感を誘う感
情語を持たない人}は嫌われ者になり、現実はどうであれ{同一化が好きで・言語によるコミュ
ニケーション能力が高く・共感を誘う感情語を豊富に持っている人}は人気者になるというの
は、あの世界でもこの世界でも同じらしい。
[2002年3月18日 8時14分16秒]

テーマ: エイブル(able)   
この映画の素晴らしいところ。と言っても、ワタシは観ていない。

それは、製作者が、障害者への注目を集めるために、「できる=able」が一目でわかるような
際立った能力を持った登場人物を配することをやめ、どこにでもいる少年の「可能性=able」
の物語を作ったということ。

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その、どこにでもいる凡人自閉症者は、本日、子供会の親子遠足に行って来た。アスペの長男は
中学生になってお留守番なので、次男のADHD君と二人での遠足。まあ、何でもかんでも「警
戒」し、不安と緊張いっぱいで出発し、帰る頃には「興奮」しまくった長男と比べ、出発前は緊
張のカケラもなく現地ではおおはしゃぎの次男は、一人で何でもやれるようになった今では、非
常に楽。(随伴行動で、全部付き合わされるとなると文化摩擦に耐えられない。) 

それはそうと、こういう親子活動になると、子どもしか相手にできないワタシに対する皆さんの
反応が両極端であることが、とってもよくわかる。
大人と会話できるのは、子どもを交えている時と、子供会の行事や運営といった仕事に関する話
題のみ。それがないところでは、こっちも話しかけなければあっちも話しかけない。(最近ご不
幸があった家が二件もあったので、亡くなった人の思い出話なんかをしていた。これは、完全に
緘黙分野。)

ワタシと一緒に役員をやったお陰ですっかり絶交状態になってしまったらしい(ワタシはよく分
からないが、会う度に視線をそらし何も言わないので、そう解釈される)人が、バスではたまた
ま後ろの席に座っていたので、しゃべっている様子がずーっと聞こえていた。
まあ、以前なら、まず「どうして、こんなことを思うのか?」「どうして、こんなことを人に話
すのか?」「どうして、そんな風な答え方をするのか?」と思いながら聞いていて、関心のある
話題が出たら横(いや、前だ)から口を挟むなんてことをしたものだった。そして、ワタシが話
すと、それまで盛りあがっていた会話がバタリと止まるので、「???」状態になったところだ
った。
が、今日は、会話の様子をじっくり聞きながら、「その人には、ちゃんとした人間関係があるこ
と」「その関係は、どこにでもある普通の人間関係で、日本のこの地域に住んでいる人にとって
はありふれているものであること」「そういう人間関係の中で、日頃思っていることを人にしゃ
べり、そして、共感し合っていること」が、よくわかった。

これらのことは、ワタシにとっては不可能なことで、そういうところまでできなくてはならない
と思ってしまうと、ワタシの「可能性=able」を奪うものであるとの明らめがつくと、このす
れ違いの並行状態こそが、平和共存の最良の在り方であることも、とってもよくわかった。
[2002年3月17日 22時50分44秒]

テーマ: 前門に虎・後門にライオン。   
一つには、知的障害のない発達障害を認めず、性格・人格・養育の問題という旧態然の解釈しか
できない成人精神科医との闘いがある。それは、外国で“児童青年精神医学”を学んで育った先
生方が、第一線で活躍するようになったからこそ、やっとそれだけの実力を持てるようになった
ばかりの段階ということ。
今までは、主に外国へ行くしかなかった“児童青年精神医学”を国内で学び、自前で“児童青年
精神科医”を養成するためのシステムを、これから作っていこうとしているのが、医学界の現
状。(『子どもの精神医学』河合洋・山登敬之編集/日本評論社 を参照のこと。)
しかし、国内の大学病院には、“児童青年精神科”の「医局」すらない。(注:医師は、全く独
立して診療行為をしているわけではなく、どこかの医科大学の「医局」に所属し、そこから派遣
されたり連携協力している。)そもそも、発達障害の専門家の先生で大学にも籍を置いている人
のほとんどは教育学部などであって、医学部ではない。それでは、後身は育つはずもない。

もう一つには、もっと深刻な問題がある。
それは、「こういう発達障害を知ったからといって、必ずしもそれが本人の幸福に結びつくとは
限らないこともある。」という「現実」の問題。
頭では分かっていて「受容」しなければと思いながらも、知ってしまったが故に目について仕方
がなくなってしまうことが「虐待」に発展してしまったり、「期待」が「憎しみ」の感情に反転
する(感情の境界性の問題)ことも考慮しなければならなくなっている。
「気づき」と「対応」は、早いに越したことはないのだが、誰が気づき・どういう人が対応する
かで、全く逆効果になってしまうこともあるということ。
[2002年3月16日 8時10分28秒]

テーマ: 新たに出て来た問題。   
最近、発達障害のことが知られるようになって、そのために生まれてしまった新たな問題にも直
面しなければならなくなった。

最も大切なのは、発達障害というモノが「ある」か「ない」かを決めることではない。

それをどうとらえるか・そういう子どもをどのように見つめていくか、ということなのだ。

つまり、発達上の障害がありながら発達する子どもの「育ち」を、どのように見守っていけるか
ということ。

しかし、今や、障害を知ることが「受容」に結びつかず「虐待」に走る危険をも考えなくてはい
けなくなってしまった。
[2002年3月15日 17時42分34秒]

テーマ: おかしい。   
世の中全体が、ムネオのアラを探している。
自閉症児の親が、よってたかって誰かのアラを探そうとしている。

こんなのおかしい。こんなものに、加担させられてしまっていたのか!?

自閉症が世の中に知られるとか、無知と闘うというのは、こんなことだったのか!?

それなら、ワタシは消える。黙って、自分のライフワークに専念する。

あまりにも、哀しすぎるから。
[2002年3月15日 11時27分24秒]

テーマ: 9時に梅茶漬け。   
42年目にして、やっと分かったこと。

息が苦しい・目が回る・吐き気がある・暖かいのに寒気がする…。
こういう時は、単純明快。全身の筋肉疲労。
これらの症状は、午前9時頃に消える。体温が上がり始めるからだ。
すると、お腹がすいてくる。永谷園の梅茶漬けが食べたくなる。
それで、9時に梅茶漬け。
昨日、本をどっさり背負って病院に行ったので、今朝はいつもよりひどかった。

それから、耳鼻科でもらったアレルギー性鼻炎の薬も、通常の半量にしないと目が回る・起きら
れなくなる・手が震える。

そういえば、12日に口腔外科の医者に言われたことにはいくつかの間違いがあったことに、今
になって気がついた。この医者、「薬が効き過ぎてしまうこと」をいくら説明しても、全く聞く
耳を持たない。
歯根炎を放置しておくと、顎の骨にまで達してしまうことを教えてくれた人はいなかった。ワタ
シがかかった歯科医は、「まだ大丈夫だけれど」とは言ったが「いずれは処置が必要だ」とも
「顎の骨が腐る」とも「定期検診しなさい」とも言わなかった。
「歯茎から出られずに止まってしまった親不知を放置しておくと、炎症を起こして、バイキンの
巣になる」なんて、言われたことはなかった。


まあ、周りは全員自閉症でないので、「筋肉が弱くて辛いこと」「薬が効き過ぎて辛いこと」
「あっちこっちの骨ができそこなっていること」なんて、分かってもらえない。だから、動ける
うちにここに書くぐらいの抵抗しかできない。
[2002年3月15日 9時8分7秒]

テーマ: 感情がわからない人は…。   
感情がわからない人は、何かの方向に向かって感情が高ぶっている人たちの集まりには見て見ぬ
振りをし、だんまりを決めている方が良い。

自閉症ならこれだ当たり前だと思っているワタシは、「親の愛情不足」なんていう言葉にはいち
いち反応しない。例えば、ウチの長男は、毎日ほぼ同じ中身の弁当を持って学校に行く。しか
も、冷凍食品。何故なら、これしか食べないから(ちなみに、次男は、こういうことをすると怒
るので、ちゃんと毎日変えなければならない)。きっと、普通の人は、こんな弁当では「親の愛
情不足」だから子どもがああなったのだと思われることを恐れて、ここまではできないのだろう
なと思う。
自閉症児を育てている普通の人は、世間とだけではなく、自分自身の「感情」とも闘っているの
だろう。

ワタシは、ずーっと、どうして「こんな簡単なことが解からないのか!?」と思っていたが。お
互いに、「最も簡単なことが理解できない」し、「最も簡単だと思うことこそ、一番難しい」こ
とが、つくづく分かった。
だから、もうワタシは何を言ってもいけないのだと思う。自閉症児の親たちからは、最後には必
ず切り捨てられる。あっちでもこっちでも、同じことばかり繰り返される。
[2002年3月15日 7時51分22秒]

テーマ: しゃべれるということ。   
近日中に、顎の骨をいじる手術をすることになった。もしかしたら、しばらくはしゃべれなくな
るかもしれない。

で、「しゃべれないこと」で悩んでいたり、そういう障害や病気で困っている人には不謹慎な話
しなのだけれど、実はワタシは喜んでいる。

「自閉症」でしゃべれるなんて不幸でしかないことを、いっぱい体験して来たから。

普通の人が言わないことをいっぱいしゃべって、突っ込まれてしまったり、騒動の種になってし
まったことが、たくさんあるから。その度に、しゃべらないようにしようと思ったし、「今日は
一日黙っていよう」と何度も試みたものだった。
・・・しかし、この地に来て、本当に、こちらに何の言葉も用意されていない状況に直面して緘
黙せざるを得なくなるまで、何かしらの「しゃべれる場面」のキッカケを作っては、やっばりた
くさんしゃべりっていた。(それまで、けっこう上手くのらくらやって来ていたし、隙をついて
しゃべり出すのは得意だから。まあ、その場の状況には合っていなかっただろうけれど。)
[2002年3月13日 21時58分54秒]

テーマ: こんなのはおかしい!   
こんなことに魂を奪われているのは、ワタシらしくない。
[2002年3月13日 16時57分31秒]

テーマ: 4年前…。   
4年前に、ここに来る前は、ワタシはもっと正常だった。しかし、今や、周り中、肉の塊のよう
なスーパー日本人に囲まれてしまった。
かつてのワタシは、人の体調にそれはそれは気を使ったし、病気の人の身は我が事のように案じ
たものだった。しかし、ここでは、低俗な欲望語か感情語満載の社交辞令だけが飛び交ってい
る。ここでは、どんなに人に気遣おうとしても、ワタシの言葉は通じない。それよりも、この人
たちの話し声が聞こえただけで戦々恐々とし、姿を見かけただけで全身が硬直してしまう有り様
だ。
その、スーパー日本人の一人が、ガンで入院した。規則で行くことになっている「ご近所様のお
見舞い」は、子どものインフレエンザで免除になった。お世辞でも、様子なんて聞けはしない。
今日は、資源ゴミを出すために外に出なければならなかった。そこにその家の家族がふらふらと
歩いて来たので、さっそくご近所様が集まって道傍で患者の様子を聞いたりなんかしているとこ
ろを、何度も通りすぎなければならなかった。(今思えば、家族の姿を見掛けた時に、ゴミ出し
を止めればよかったのだが、そんな急な予定変更はできるはずもない。)

ここには、ワタシは「無」になるしかない。ワタシらしさを活かせるのは、子どもだけが集まる
子ども会の場くらいなものだ。それで、パソコンの中に逃げる。身体不要の言葉の世界。(で
も、その言葉から人間が現れた途端に、ワタシはそこも逃げ出してしまう。)
[2002年3月13日 16時54分8秒]

テーマ: 一般の医者。   
昨日は、いつもワタシのことを「しょうもない患者」と、うさんくさがる大嫌いな歯医者の診察
日だった。何故、わかっているのに行くかというと、近くでかかることのできるたった一箇所の
総合病院・口腔外科だから。
相変わらず、新薬に過敏なため、薬が効き過ぎることを「大袈裟なだけの精神症状」だと思って
いて、そのために抗精神薬でさえごく微量に処方してもらっているのに「こういう人は、鎮静剤
の効きが悪い」と力説していた。

まあ、一般の成人精神科医にとってさえ、「アスペルガー症候群などというのは作られた概念で
あって、そんな人は存在していない」という考えが主流だそうなので、一般の医者なんてそんな
ものだと思っている。

期待していないから、失望もしない。
[2002年3月13日 10時21分37秒]

テーマ: さっき、   
息子に用を頼んだ。「それは、ボク、パニくっちゃうから、できない。」と答えた。

それでいい。コイツは、けっこう大丈夫かも。
[2002年3月8日 22時1分34秒]

テーマ: もう、我慢するのはやめたい。   
ワタシは、もっと人の役に立つことをいっぱいしたかった。
ワタシは、社会に出られなかったただけで、社会に貢献したいという“社会性”は人よりもあっ
たはずだった。
しかし、ワタシの現実は、欲情のはけ口として利用され、回避性人格障害者の楯として利用され
ているだけだ。ワタシが社会のために何かをしていることは全く評価されず、抵抗といえば、た
だ壁を叩くことしかできない。

こんなもののために、鬱病を治したのか!? 
こんなもののために、生きようとしていたのか!?

社会的でないということと、社会性がないということは、違うのだ。

こういう人が、世の中にはたくさん埋もれている。犠牲者は大勢いるのだ。
なのに、「存在」を「証明」するところから、取りかからなければならないなんて!

それでは、あまりにも遅い。
[2002年3月8日 19時49分21秒]

テーマ: 何故、「療育」のことにだけ、ムキになるか?   
「ワタシには実践が欠けている」と思った。だからといって、レインボーブリッヂをくぐってみ
たいと思わなかったけれど、その違いは紙一重だった。
しかし、「世の中のことは全て知り尽くしていて、後はそれを証明するための実行あるのみだ」
と思ってしまったことに、変わりはない。

ワタシみたいな一生と彼らみたいな一生が、繰り返されてはならない。その執念だけ。
[2002年3月8日 18時50分2秒]

テーマ: 話せることと会話できることとは違うこと。   
 ワタシは、しゃべることには問題が無いので、「心配した」と言われたら「大丈夫だよ」と答
えることはできる。しかし、人に「心配した」と言われたら、「心配してくれたことに対するお
礼」を言わなければ、本当のお礼にはなっていないことを知らなかった。(それどころか、人の
行動をいちいち監視しようとする、“井の中の蛙”根性に我慢がならずに怒ってしまったことさ
えあった。)
 もし、ワタシに“人と違う感情を持っているために、一般的な人の気持ちを知らない”障害が
あることを知っていて、人がそういうことを言う心情と、その心情に答える方法を教わっていた
のなら、こんな間違いを犯すことは絶対になかったと思う。

 ワタシは、人に関する法則でがんじがらめに自分を縛ってしまうほど、人のことをものすごく
考えた。人類の幸福の伝道師になろうとしたこともあったし、地球の環境問題に熱をあげたこと
もあった。
 「普通・人は・こうするものだ」といつもいつも考えていて、そうしない人にはズケズケと注
意していたものだった。しかし、普通の人は、「普通・人は・こうするものだ」ということを普
通に考えているわけではなく、まず自分自身の欲望・感情・自分なりの行動様式(アイデンティ
ティ)というものがあって、それを自制するための「価値基準」とか「規範」として「タダシイ
人のあり方」があるのだということを、誰からも教わっていなかった。

 「聞かれたことに対する正確な答えを返す正しさ」だけを追究し続けていたために、その行間
の「真意・心情・下心・嘘」などというものがあることさえ知らなかった。その結果、ワタシ
は、{自分だけが可愛くて・人を人とも思わない・薄情なニンゲン}の人脈の中に、自分から身
を投じてしまった。
 確かに、行間の読み取りを要求されない環境・実質的なコミュニケーションの不要な会話で事
足りる薄情さは、ワタシに合っていたのだろう。しかし、そこには「人」と「人」との関係もな
く、何の接点もなかった。

 ワタシがそれに気づかずにいた間は、何も問題を感じなかった。しかし、正直なもので、身体
はずっと危険信号を発し続けていたし、ついに、精神が参ってしまった。そのどん底の時に、ワ
タシはパソコンという道具を手に入れた。そこには、ワタシが封印してしまった本来の自分を活
かす場があった、救いの手を差し伸べてくれる人がいた。
 「パソコンを始めたら、ワタシがおかしくなった」と思われているようだ。でも、そうじゃな
い。「パソコンがなかった時のワタシの方が、よっぽどおかしかった」のだ。
[2002年3月8日 17時37分16秒]

テーマ: 絶対に、ワタシのようなはなってはいけない!   
ワタシが、子どもの「療育」の話しかしないのは、そのためだ。

誰一人として、ワタシや事件を起こしてしまった青年のようにはさせたくない。

でも、いつまで持つか、わからない。

本当は、ここから出たい。でも、出られないから、消えるしかない。
[2002年3月8日 14時52分41秒]

テーマ: こんなところに、いたくない。   
「スキルがないから、いろんなことができずにいるのだ」と思っていられる内は、幸せ。
「スキルを身につけさえすれば、一人前になれる」とか「スキルを身につけて、一人前になろ
う」と思っていた時は、楽しかった。
しかし、QOLの面から言えば、“スキルを身につけにない権利”を考えるべきだった。

スキルなんかを身につけてしまったお陰で、ひどい仕打ちを受けてしまった・・・一人前扱いと
いう。この星において、一人前というのは、{金を稼げること・感情のネットワークに入るこ
と・欲望の対象になること・自分の身体のレベルに見合うだけの価値しか付与されないこと}。

ワタシが、一生懸命に努力して身につけた“一人前”は、この星のどこにも無いものだった。
そして、言われた言葉は、「オマエの考えていることはわからない」「どうして、こんな簡単な
ことができない」だった。

「オレのことを大事にしろ」と言うので、自分というものを全て抹殺して、一生懸命、人のこと
を考えた。そうしたら、返って来た言葉は、「この家で金を稼げるのは、オレだけだ。オレが大
事なら、好きな時に○○○させろ」と言われた。

こんなもののために、ワタシは生きているのか!?
[2002年3月8日 14時47分55秒]

テーマ: いのちづな。   
「生まれ損ないは生かさない」という自然の摂理は、慈悲でもある。
情の深さが、局面によっては血も涙もない残酷な仕打ちになることを知るべきだ。
生かすのなら、ちゃんと居場所ぐらいは用意して欲しい。
パソコンのLANケーブルが正に命綱なんていうのでは、虚しすぎる。
これでは、サル社会の方がよっぽど合理的に見えてくる。
[2002年3月7日 10時9分12秒]

テーマ: 自己否定の後始末。   
自己否定の結果、自分に無いモノばかりに囲まれてしまった。
今は、補完関係にある人が補ってくれている。けれど、この先、皆、どんどん老いて行く。
一方、子どもはいつまでたっても監督とフォローが必要。
頭数が足りない為に、労働力として駆り出され、自分にできない事ばかり要求される。
いや、予定が入っている日だけ、一日起きて活動できるように体調を合わせている。
手も足もない状態で、ここにこのまま残されたら、どうしよう。
(この季節、自分の体調も悪いのに、年度末と年度始めの用事が重なる。それだけでもシンドイ
のに、そこらじゅうで葬式がある。そこでは、ワタシは言葉を失って、緘黙するしかない。葬式
の場で交わされる感情語は、パターンとして覚えられる。けれど、亡くなった「人」に対する情
報が全く欠落しているので、会話が始まってしまうと困るから、そうならないように話題をそら
す。そんなことよりも、生きている人同士が交わす世間話や噂話に耐えられない。その場に居合
わせただけで、全身が汚された不快感に襲われる。)
[2002年3月7日 8時9分34秒]

テーマ: 反射から運動へ。   
 学際的すぎて、いったい何の分野にくくっていいかよくわからない、『脳と身体の動的デザイ
ン』という本を読んでみた。
 「発達過程では、原始反射のようにある時期になると消えてしまうものや、多くの運動のよう
にある時期になると現れるもの以外に、一度消失した後でふたたび現れる変化をするものがあ
る。このような変化はU字型の変化と呼ばれている。すでに述べた歩行の発達もその一例であ
る。U字型の運動の発達の多くは、まず胎児期に現れたものが新生児にそのまま見られ、生後数
ヶ月後に一度消失した後で、随意的な運動としてふたたび現れるという変化をたどる。つまり、
運動パターンとしては、生まれたときから見られる運動と一度消えた後で見られる運動とは似て
いるが、運動の随意性などいろいろな意味で異なっている。U字型発達の典型的な例は、手を口
にもっていく運動、音の方向へ首を向ける運動、顔のようなパターンの視覚刺激を目や首を動か
して追うような運動、視覚的リーチング、成人が舌を出したとき舌を出してまねるような一種の
動作模倣動作などである。」(P134)
 
 どうやら、生後三ヶ月というのは、いろんな意味で乳児の運動発達の節目になっているよう
だ。それは、皮質下(脊髄や脳幹に由来する神経回路網)の活動と、それよりも遅れて発達する
大脳皮質の活動が同期して、より多様な運動が可能になる時期ではないかと述べられている。
【眼球運動】一ヶ月児:あまりはっきりとした眼球運動は行わない
      二ヶ月:強制注視(刺激の一部をじっと注視する)がみられる
      三ヶ月児:能動的な選択的注意が現れることを意味する眼球運動の急激な変化があ
           らわれる(P164)
【追視】一ヶ月児:顔のようなパターンに自動的に注意を向ける
    二ヶ月児:一時的にそれが消える
    三ヶ月児:「お母さんの顔」を識別し追視する(P171)}
【視覚と運動の協調】視覚リーチング(目の前にあるものを見て手を伸ばす)ができるようにな
          るのは、四ヶ月以降である。新生児も、手を伸ばす行動をする(プレリー
          チング)という報告もある。(P175)
【聴覚と運動の協調】音の鳴った方向へ頭を向ける行動を観察すると、新生児期には高い結果を
          示すが、二ヶ月児では成績が下がり、三ヶ月以降から成績が上昇する。
          聴覚と運動の協応機構の中心が、二ヶ月前後に皮質下から皮質に移行する
          と推測されている(P180)
【運動の認識とイメージ】={自分の身体が動いている状態を自分からの視線で認識したり、自
              分の身体の運動を他者からの視線でイメージすること、他者の身
              体運動の認識、自分が運動しているときの体性感覚のイメージ}
          三ヶ月児が、自己の身体運動を視覚的に認識していることを示す実験があ
          り、普段見なれていない他者からの視線の映像に興味を持って長く見るこ
          とが報告されている。
          三ヶ月児が、他人の運動パターンの認識を行っていることを示唆する実験
          も報告されている。(P182)
新生児のこうした行動においては、自己と他者の運動は引き込みのような機構によって初め
 から共通の形式を与えられているのかもしれない。このことは、自己と他者との関係は発達過
 程で構成的に作り上げられるのではなく、初めから協調していた自己と他者とを分化させるこ
 とを反映しているのかもしれない。(P182)


 選択的注意・顔の識別・視覚−運動・聴覚−運動ができないか遅れがあることは、自閉症診断
のチェックリストにも載っている項目でもあるので、脳の発達のアンバランスによって、協調運
動の機構が大脳皮質に移行し損ねていることの現われともいえるかもしれない。また、感覚統合
訓練をした時に、「このような訓練を必要としている子どもの多くには、本来なら消失している
はずの原始反射のいくつかが残遺している。」というようなことを本で読んで知り、実際に長男
で観察した。やはり、この辺の発達過程にも何らかの問題があると思う。
 ワタシは、自閉症児は、自己の身体図式のあいまいさが原因で、自己と他者の識別ができない
か遅れるものだと思っていた。それだけでなく、「いろんな面で、新生児期の自己と対象が同化
しているような状態がいつまでも尾を引いている」と考えられそうだ。
 

 余談だけれど、「形や色のような物の特徴に関わる情報と動きや奥行きのような物の場所に関
する情報とで、発達のタイミングが異なる。」(P158)というのも面白いと思った。
・・・もしかしたら、自閉症の「場所」と「時間」の認識の特異性も、脳の発達のアンバランス
に関係しているのかもしれない。
[2002年3月6日 22時4分6秒]

テーマ: げんじつ。   
「頭が良い」「個性的」「将来が楽しみ」・・・子どもの頃に、こう言われた子ども。
人類一般の為になる研究活動に専念できれば、その才能を多いに発揮することができたはずの子
どもたちだった。その多くが、この辺境の地で、消耗し、朽ち果てるのを待っている。
[2002年3月6日 14時26分33秒]

テーマ: パソコンのおかげ。   
パソコンのおかげで、「書く」ことが楽になった。

以前は、次から次へと湧き出してくる「考え」をメモしたぐぢゃぐぢゃの走り書きを清書するの
が面倒で、そのままゴミ箱行きだった。しかも、メモの隙間に後からどんどん足していくので、
順番も論旨もなくなってしまっていた。

でも、今は、パソコンに向かって座り、キーを押せば、ものすごくキレイな活字になって画面に
表示されるので、「書く」ことに神経を使わなくてよくなった。
しかも、とりあえず書きつけた文に、書き加えたり削除したりできるだけでなく、順序までもご
っそり入れ替えることができる。

それに、ここに座っていながら、原稿や絵を送ることもできる。
[2002年3月6日 8時19分14秒]

テーマ: 次なる関心事。   
何故、ワタシには“私”がいないのか?
・・・行動する時は、何かのキャラクター(一般には、社会的人格とかペルソナと呼ばれてい
る)に同化したり、視覚イメージを頭の中に思い浮かべ、標語的な言葉の指示に従っている。
いつも、「○○に対してのワタシ」「△△を見ての感想」「□□を読んでの対比」でしかないと
は、どういうことか?

それから、本人にとっては最大の関心事である、身体と感覚の問題。
・・・専門の研究者は、どうしても言葉と行動というような「表出」に偏りがちなことに不服を
申し立てること。
[2002年3月5日 9時30分2秒]

テーマ: 食えない業界。   
発達障害の指導には、時間と手間がかかる。

一緒に暮らしている家族にとっては、時間はたっぷりあるが知識と感情が追いつかない。

指導する側の人にしてみれば、短時間で的確な診断と指示をしなければならないという責任があ
る。しかも、動員される人数に比してその収益は低く不採算に合わないため、勘定が追いつかな
い。

発達障害の研究が進み、その疑いを抱いた人が数少ない医療機関に殺到しているというのに、発
達障害を研究しようという若者は増える気配がない。

こういう現状だということを、始めから教えてくれていれば、「絶望」しなくて済んだのに。ど
うやら、専門家の先生方は、それを説明する余裕さえなかったらしい。
発達障害について、全てが解明されたわけでもなく・療育システムができあがっているわけでも
なく・支援体制が整っているわけでもないのに、「情報」だけが飛び交っている。

法律上どこにも存在していないものが、この国のあちらこちらに存在しているということからし
て矛盾している。
(この国で、自閉症のプロと言えるのは、自閉症の本人だけかも!?・・・しかし、ほとんどの
本人は、自閉症で食っていない。他の専門家諸氏と同じように、「手弁当&持ち出し」でやって
いる。)
[2002年3月3日 11時33分0秒]

※本人以外の書き込みはできません。
テーマ



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