記事タイトル:2001年7月の「日記」 


書き込み欄へ  ヘルプ
テーマ: 今月は、これをしないと終われない。   
ウイングによる「社会的相互交渉の障害」の4グループ。
  (『自閉症スペクトル−親と専門家のためのガイドブック−』P43〜47から抜粋。)

【孤立群】
 ・小さな子どもたちにいちばん多いタイプ。人によっては、これが生涯続くこともあるが、 
  大きくなるにつれて変化していく。
 ・まるで他人が存在しないかのように振る舞う。呼ばれても来ない・話しかけても答えない。
  人がそこにいても気づかないかのようにまっすぐ進んで通り過ぎ、もしも床に座っているな
  らば、そのまま踏みこえようとする。
 ・極端な怒りや悩みや喜びを覚えたときを除けば顔に表情がない。ときたま人を横目でちらっ
  と一瞥するだけで、こちらを見ぬふりをするか見過ごす。
 ・触ると身を引こうとする。抱きしめても、こちらに手を回してこない。
 ・手の届かないところにあるものがほしいとき、相手の手の甲や腕をつかんで目的物にもって
  いったりドアの取っ手を回させたりする。相手と手をつないだり見上げたりはしない。目的
  が達成されれば、また相手を無視する。
 ・自分自身の世界にとどまり、自身の無目的な活動にすっかり夢中になっているよう。(他人
  が痛がったり苦しんだりしていても、興味を示したり同情する様子はない。)
 ・あらっぽい身体遊びには非常に良く反応し、もっと続けてくれと意思表示さえする。その状
  況では、愛想が良く幸せそうだが、遊びを止めたとたんに元の孤立状態に戻る。

【受動群】
 ・他からまったく孤立しているわけではない。
 ・人との接触を受け入れ、他人を避けはしないが、自分から人との交わりを始めようとはしな
  い。
 ・視線を合わせることは孤立グループのように乏しいことがあるが、そうすべきことを思いだ
  しさえすれば、視線を合わせていられる。
 ・小児期には従順で言われたことに従うので、他の子どもも喜んで遊びに加えてくれるが、ち
  ょうどいい役がなくなると取り残されてしまう。
 ・一般に問題行動は少ないが、青年期に際立った変化が起こって行動に異常が現れる人もい 
  る。

【「積極・奇異」群】
 ・他人(といっても、同世代の人ではなく世話をしてくれる人)に、活発に近づこうとする。
  とりわけ、何かを要求するときや自分の関心事を独特の一方通行で延々と述べるときにそう
  する。
 ・話し相手の感情やニーズにまったく注意を払わない。
 ・視線を交わすことが乏しい人もいるが、問題は視線を避けることではなく、いつ相手を見て
  いつ目をそらせばいいのかのタイミングにある。
 ・人と会話するというより人に一方的に話しかけるのだが、しばしばアイコンタクトが長すぎ
  たり強すぎたりたりする。
 ・人と応対するとき、相手の手を握ったり抱きしめたりすることもあるが、それを不適切に強
  くやりすぎることがよくある。
 ・自分の思いどおりにまわりが関心を示してくれないと、扱いにくくなったり攻撃的になった
  りする。
 ・他人に積極的に接近するので、他者との社会的なやりとりの方法を理解していないことがわ
  からず、診断上の問題が生じやすい。

【「形式ばった大仰な」群】
 ・最も能力が高く良好な言語レベルの人たちに見られる。
 ・過度に礼儀正しく堅苦しく振る舞う。
 ・うまく振る舞うために非常な努力をし、人づき合いのルールに厳格にこだわって対処しよう
  とする。
 ・しかし、そのルールを本当には理解していないので、時間の経過や状況の変化に応じてとる
  べき行動の微妙な違いに対応することには、独特の困難が伴う。真の理解がないことから、
  誤まりを犯してしまうこともある。

全体的な注意事項。
 ・それぞれの間に、はっきりとした区切りはない。 
 ・他人の考えや感覚への理解が欠けることは、どんな種類のサブグループでも明らかにみられ
  る。これは、本人が人に親切にしたり援助しようとする気持があるときでも同じ。
[2001年7月31日 14時32分47秒]

テーマ: 受動型と積極奇異型。   
 受動型と積極奇異型は、"人との係わり方"のパターンであって、行動障害の有無ではない。
 この「用語」を最初に目にした時、ウイングさんの説明は人との係わり方のタイプとして書か
れていたのに、日本の研究者の説明は行動のパターンを記述していることが多かったので、混乱
して混ぜこぜにしていました。以後、「かかわり障害」のパターンに統一して、行動特性や合併
症の問題とは切り離して使います。(今月の日記では、既に統一されています。)

 で、こういう"人との係わり方"のパターンと重症度がどうして組み合わさるかというと、恐ら
く重度の人ほど情報の入力段階での混乱が大きく、「知覚的処理のなされていない、生のままの
感覚情報が入力された」時や「同じモことが起こるはずなのに、現実に起こった体験が過去の記
憶や予定や思い込みとちょっとでも違った」時に、発作的なパニックを起こしてしまうからでし
ょう。
 重度の人でも状態が良い時や中等度レベルになると、混乱する箇所が「言葉の意味と現実との
ギャップ」になり、軽度になればその場で混乱を起こさず後になって「配置された文脈の違い」
に気づいて大騒ぎする、けれどアトノマツリ。更に、自分のやった事の重大性に愕然として、拒
絶反応を起こす。(注:現在のワタシがそれ。他の人のことではありません。)
[2001年7月31日 9時44分31秒]

テーマ: 頭の切り替え。   
 今、いつ来るかわからない、いや、もしかしたら来ないかもしれない、ネット上でしか接点の
ないお客さんを待っている。(誰に何と言われようと、ワタシは待っている。)
 なにしろ、元々、切り替えられない頭だから、ノドもとに小骨が引っ掛った状態で待っている
というのは、身体的な不快の原因になる。やたらと、何か(といっても、実際は自転車のハンド
ルぐらいなものだが)を叩きたくなる。

 さて、この切り替えられない頭を切り替えるには、どうすればいいか?・・・そりゃあ、なる
べく切り替えを少なくすればいい。同じ系列のものは一つにまとめて、一つの流れにしてしま
う。混ぜこぜにされると、パニックになる。
 今、ワタシは鳥の絵が描きたい。長男は、誰かが何かに夢中になるとそれが伝染するので、
『犬夜叉』の殺生丸に同化しつつあるが、本当はクワガタとナマズに目がない、次男は、カエル
にご執心。こういうものは、始めてしまったら終わりがない。
 だから、他の用事を済ませないと始めてはいけないし、終わりの時間や「いくつまで」という
区切りをつけている。とはいえ、ここまでできるようになるには、たいへんだった。ワタシだっ
て、人に言われて一応終わりにすることはするけれど、気になって気になって密かにその続きを
際限なくやり続け、頭がボーっとしてフラフラになったなんてことはしょっちゅうだった。
 長男にこれを教えた時は、少しずつ条件を厳しくして行ったのだか、言われればできるように
なるまでに10年(ちなみに、現在12才)、今でも言われないとできない。「切り替え」の概
念は、テレビのチャンネルを切り替える動作を合図にして覚えさせた。

 基本的に「切り替えはできない」ことを念頭に置いて、その不都合を最小限に抑えるように、
生活を構造化すること。混乱を生じさせないような予定を立てること。
 これが自力でできれば自立できるだろうし、自力でできないのならば誰かに構造化してもら
い、それに従ってできるようになればいい。
[2001年7月30日 16時5分16秒]

テーマ: 臨床的関与、する・しない。   
 受動型の「自閉症」の人たちというのは、(ワタシが今まで会った人たちを分析すると)「自
閉症」児を持つ母親に多いみたいだ。そういう人は、子ども時代には確かに「自閉症」らしいエ
ピソードがたくさんあって、「一人遊びばかりしていて友達がいなかった」と言っていたりする
し、成人した現在でも感情的な脆さを持っていたりする。認知障害などを伴っていることもある
ので、「みんなと同じになりたいのに、みんなと同じにできない」ことに悩んだり、人間関係を
回避するような性格になっていたりもする。
 でも、自分の周りの人たちの行動様式や、文化や価値観などに疑問を抱くよりは、自分がうま
くできないことを苦にしていることが多いような気もする。それで、身近な人とのトラブルはち
ょくちょく起こしていて、就労しても長続きしない。けれど、極端に孤立したりせず、今では友
達関係や横のニンゲン関係の繋がりを保つことができ、特定の場面でならけっこう≪群れ≫を作
っていたりしている。な〜んだか、不思議な存在。
 これは、単なる重症度や合併症の違いじゃないと思う。こういう人たちって、子ども時代〜成
人後のいかなる時期でも、臨床的関与が不要(恐らく、心理的な問題はあるけれど、精神・神
経・生理学的な問題は軽微ということ)なんだろうな? 


※ワタシは今、やっと自分が落ち着いていられる場所を見つけた。でも、SSRIが身体的な不
 快感と強迫観念を抑え、テグレトールが癇癪発作を抑え、アミノ酸製剤が筋力の持続性を高め
 てくれなかったら、それ(絵を描くこと)もできない。
 やっぱり、どっちを向いても"心臓を奈落に握られている神楽"と変わりない。めっちゃめっち
 ゃ不自由なくせに、「私は風。いつか自由になってやる!」と言って、奈落からの離反を試み
 ては心臓を握り締められることを繰り返している。
[2001年7月30日 9時50分10秒]

テーマ: デジモン。   
 受動型の「自閉症」と積極奇異型の「自閉症」との間に生じる確執は、デジモンの闘いに似て
いる。
 ニンゲンの指示通りに動く・愛される・可愛いデジモンと、自分の意思にしか従わない野生の
デジモン。野生のデジモンは、仲間や手下を一人だけ連れていることがあるが、個々別々に暮ら
している。自分のナワバリの中にいる分には、衝突は起きない。


 それから、ワタシは、"軽躁状態の自分"が嫌いだ。できることならば、何にも掻き乱されず
に・穏やかなままでいたいのだ。
 でも、とっかえひっかえいろんなことが起きる。第一、ASとADHDの子どもが夏休みで二
人とも家にいたら、平穏無事に一日が過ぎることなど絶対に有り得ない。
[2001年7月29日 11時18分23秒]

テーマ: 書き忘れた、大事なこと。   
 ↓の引用の続きに、こういう一節がある。
「抗けいれん薬がもっとも効果を発揮する特殊自閉症サブタイプを発見するために、詳細なリサ
ーチをすることが重要と考えられている。・・・(長いけど中略)・・・困ったことに、現在の
診断システムでは、すべての自閉症がひとくくりにされてしまう。投薬の視点からいえば、これ
はりんごとオレンジを混ぜこぜにしているようなものだ。」(P167)
                         これは、非常に大事なことだと思う。
[2001年7月28日 14時11分41秒]

テーマ: これは、まだここには書いていないから、書きます。   
 テンプルさんが書いているのは、言語発達の遅れを伴うような誰の目にも明らかな「自閉症」
の人たちのことであり、↓の「抗てんかん剤」を用いるのは「精神安定剤」でも落ち着かないよ
うな重い行動障害がある場合だということは、『高機能広汎性発達障害』(注:これは書名)の
薬物療法の項目に書いてあるので、ワタシのような軽度の者が口を挟めるものではないというこ
ともよく分かっている。

 でも、敢えて書く。(墓穴を広げているだけかもしれない、と思いつつ。)

 「神経検査の結果がノーマルな自閉症児にも、抗けいれん薬は効果がある。」(『自閉症の才
能開発』/P167)とあるのに関連すること。
 「ある思念が頭にこびりついて離れない」→「頭の中で思いついた言葉を、何らかの形で追い
出さずにはいられない」→「憑かれるように吐き出した言葉について、自分は書きとめたりしゃ
べっているだけのつもりなのに、他人からは"苦しんでいる"と言われてしまう」という状態は、
表情筋一本も動かないけれど「軽躁状態」なのかもしれないということ。
 これは、「自閉症」らしい目だった症状が消えて精神的な障害にスライドした場合の、重要な
特殊事情なのかもしれない。

 それから、「フランスで行われた調査では、栄養補給剤が、入院中の自閉症患者の脳の電流活
動を正常化したと報告している。突然怒りだしたり、笑ったかと思うと次の瞬間は泣いたりする
ような、てんかんに似た症状にもっとも効果があるようだ。」(P165)
 テンプルさんが書いているのは、幼児期のごく早期の段階で言語発達の遅れを伴う「自閉症」
の症状が改善した例であって、ワタシとは比較にならない。
 でも、ワタシは現在、アミノ酸の粉末が非常によく効いているので、大いに利用している。何
故、行動が落ち着くのか?・・・それは、ちょっとした身体的な不快感に対して過敏なので、内
臓だろうと筋肉だろうと身体のどこかに疲労や緊張や不調があるとイライラしたり鬱になったり
してしまうばかりでなく、ほんのちょっとした快刺激や興奮によって身体全体が至福感一色に塗
りつぶされるという不安定さを解消してくれるからだ。
[2001年7月27日 11時14分40秒]

テーマ: もしかしたら、これは重要なことかもしれない。   
薬のことは、ここにはもう書かないつもりだった。
でも、もしかしたら、これは重要なことかも知れないと思うので、ちょっと書く。

 「自閉症」者は、通常量より少量の「抗うつ剤」で効いてしまうだけではなく、量が多すぎる
といらいら・不眠・攻撃的行動・興奮を招くと、『自閉症の才能開発』(P160)に書いてあ
った。去年まるまる一年間、ワタシは関係念慮が非常に強い状態で「抗うつ剤」だけ飲んでい
た。「抗うつ剤」だけで効かない時には、「抗不安薬」で補っていた。その状態が軽躁状態に非
常に近くて、或る意味では危機感を持っていた。
 また、「自閉症のいくつかの症状は、てんかんのような要因によって引き起こされている可能
性がある。脳波検査でも発見できない微小てんかんは、感覚混乱や、自傷行為や、他害などを誘
発する。・・・(中略)・・・ケースによっては、突然怒りだす状態は前頭葉のてんかん症状で
あると考えてよい。もしかんしゃくや攻撃的行動が突然何の理由もなく起きたら、てんかんと考
え、抗けいれん薬を使うのがよいだろう。」(P165)ともある。
 ワタシは、こういう目に見える行動障害はないけれど、システムは同じだと思う。これは、合
併症の双極性障害より以前に、本態的にあったものだと思う。
[2001年7月26日 21時2分40秒]

テーマ: パニック。   
 「自閉症」児・者がパニックを起こす時、ほとんどの場合は"直面している課題が無理"か"何
らかの感覚−知覚的な不快"といった原因がある。
 身近なところにそのメカニズムが解かっている人がいれば、「課題の引き下げ」をしたり「不
快刺激を遠ざける」ことができる。

 しかし、パニック発作を起こして暴れれば、措置入院させられて投薬によって一時的に症状を
抑えるだけ。
 パニックが起こせないで、多弁になったりイライラしたり癇癪を起こしてしまうタイプだと、
そのことを怒られたり・うるさがられたり・キチガイ呼ばわりされてしまう。更に、それで鬱病
になったって、だらしないだの怠けているだのと言われるのがオチ。
[2001年7月26日 8時48分57秒]

テーマ: 就労できない理由。   
【「かかわり」障害】
  全く人といられない(孤立型)、いられるけれど係わり方を自分で決めている・係わられる
 とトラブルになる(積極奇異型)、係わりにくいけれど係わられると応じようとする(受動 
 型)、余計な係わりをできるだけ避けようとする(一匹オオカミ型)など、いろいろある。
  否定的な対人関係が固着して対人関係障害がこじれてしまうと、元々の重症度以上に就労を
 困難にする要因になる。
  家族性の者の就労例が多いのは、元々が軽度であることに加えて対人関係障害がこじれてい
 ないから。
  受動型の就労例では、"自分にとって楽しいこと"と"他の人たちが楽しいと言っているこ 
 と"の間にギャップが生じた時に、「他の人たちの方が間違っている!」とか「ワタシはあんな
 ことしない!」と否定せずに、「楽しいと思わなければならない」と思える。或いは、「どう
 したら、相手の要望に応じることができるか?」「どうしたら、人を動員できるか?」「どう
 したら、人に金を払わせることができるか?」といったところで、思想的な誤まりが少ないか
 ら。

【「コミュニケーション」障害】
  言葉の遅れがあるタイプでは、語義論的障害が残る。言葉の遅れのないタイプでも、語用論
 的障害が残る。
  一般に通用しない、自分独自の言語体系を持って事象の意味付けをしている場合だと、言語
 的な発達レベルがどの段階であろうと、コミュニケーションはとりにくい。

【「こだわり」障害】
  強度行動障害があると、それを崩すことは難しい。それほどではなくても、感覚的なモノへ
 の没頭・順序固執・儀式的行動が強い場合は、それを"わがまま"と解釈されることが二次的な
 対人関係障害を生み出す原因になる。
  「こだわり」が体系的な知識や公的な資格に結びつかない場合は、「こだわり」を活かす方
 向に持って行けないので、趣味として続けていくしかない。

【「合併症」の問題】
  運動障害・注意の障害・不安障害(パニック障害を含む)・気分障害・学習障害などかある
 と、物理的にその場にいられなかったりするし、役割遂行や身辺自立を困難にする。
[2001年7月25日 9時26分50秒]

テーマ: そろそろ、電源切ります。   
 今日は、(明日に日曜日にありがちの用事が控えている)週末ということもあるし、人と遣り
取りしすぎたのでパンクしてます。
・・・きっと、寿命が数年縮まったカモ〜?(その方が良いけど…。)
[2001年7月21日 17時50分54秒]

テーマ: 矛盾。   
 社会的に妥当な線に収まれるように持っていくことを目指して「療育」するのは結構だが、全
く「普通」にしようとするニンゲンたちの思惑に触れてしまうと反発してしまう。

 ニンゲンに関することは、見よう見真似で当てずっぽうにやっていることがたまたま上手くヒ
ットしている。それが当たっているかどうかの確認はしたいが、それが上手くやれていることを
誉められたって嬉しくはない。本当に認められたいのは、そっちではないのだ。

 社会性がないから「自閉症」・一人一人違っているから「自閉症」なのに、人に可愛がられて
社会に通用した例ばかりが取り上げられることと、それが汎化されてしまうことには抵抗があ
る。

 自分と同じタイプの「自閉症」児・者を見ることは、自分自身の解明と存在基盤の確認に役立
つが、自分と違うタイプの「自閉症」者を見た時には「ワタシはああいうことはしない」「同じ
ことをしているけれど理由が違う」と言いたくなる。全く傍観できれば"一人一人違っているこ
とに納得できる"が、精神的に不安定で関係念慮が強い時には、"あの人は「自閉症」じゃな
い"という攻撃をしてしまう。

 今日こそは、「色」に没入したいと思って毎日が始まるのに、毎日毎日、何かしら気になるこ
とがあって、今もこんなことをしている。これが、最大の矛盾。
[2001年7月21日 17時38分56秒]

テーマ: 或いは、   
せっせと作った「大きさの合わない部品」を、全部巻き上げられてしまったぐるんぱ。
(やっぱり、"要らない部品"は"要らない部品"でしかないらしい。)
[2001年7月21日 15時23分5秒]

テーマ: ↓への答え。   
トンビにあぶらげを取られたカラス・・・カモ?
[2001年7月21日 15時14分29秒]

テーマ: 無理な希望は持たないで!   
 元々が目の上のコブなので、またまたこんなことを書くとますます自分で自分の首を締めるこ
とになってしまうとはわかっているのだけれど…。

 『実践障害児教育8月号』に、親の希望として「学習会でやったことを、現実の生活の中でも
やれるようになって欲しい」と書いてあることについて。
 「学習会」というような特定の場面、しかも自分を理解してサポートしてくれるスタッフがい
る安心感があるところでできたからといって、日常的にできるようになるとは限らないというこ
と。
 それに、「よそ行きモード」でできたからといって、「生活モード」で同じようにするように
要求されたら、本人はたまらない。大きな「こだわり」が社会的に妥当な範囲におさまって、要
所要所で社会的な行動がとれるようになれば、それでいいから。


※『実践障害児教育8月号』には、「こんな当たり前のことを、今頃になって何故また書くの 
 だろうか?」と思うようなことがたくさん書いてある。
 でも、元々まったくサポートがなく孤軍奮闘して来て、基本的な二者関係という存在基盤がな
 いために対人関係障害がこじれて、挙句の果てに二次障害を起こしてしまうと、「こういう当
 たり前のことを知っているからといって、それがいったい何になるのだ!?」と思ってしま 
 う。だって、そこに書いてあることは、ワタシがさんざん言って来たことで、実際にやったこ
 とばかりだから。(いったい、ワタシは何なのだ?)
[2001年7月21日 15時13分27秒]

テーマ: というわけで…。   
 書いた時には分かったような錯覚がしていたが、自分で書いたはずの↓の文を読む段になる
と、書いてあることの意味がよくわからない。・・・こういうことは、非常によくある。

 従って、ワタシの書いたものに説明を求められると、自分が意図していたこととは違うメッセ
ージに仕上がってしまっていたことに気づかされる。・・・これも、よくある。
[2001年7月21日 9時23分38秒]

テーマ: 被害者。   
 詐欺師にだまされることと債権の取り立てができないことは、「自閉症」者の宿命なのかもし
れない。
 そもそも、詐欺師でなくともニンゲンたちにだまされ続け、お金以外の取りたて不能の不良債
権をたくさん抱えて生きている。そのことを、外来者たちは"成長"と言う。
 なのに、本人はズッと「自分は債務者だ」と思い込んで追い立てられている。だから、「早く
終わりが来ること」を願わずにはいられないのだ。

 しかし、ワタシは、債権と債務というコトバを対義語として丸暗記しているだけで、本当の意
味はよく分かっていない。相殺という概念は、もっと分からない。仕事の都合で、これらの用語
を使ってはいるけどね、便宜上。
[2001年7月21日 9時18分50秒]

テーマ: 一つ分かった、重大なこと。   
 何故、非・自閉者がワタシの書いたものに"共感する"のか?(恐らく、ドナさんの書いたもの
も一緒だろうけれど…。)
 それは、後になって児童〜青年期のことを振り返ったところには、当時"感じていた"ようにあ
りのまま書いていると言うより、「後になって身につけた、社会的な概念を使って翻訳してある
部分がけっこうあるから」ではないだろうか。
 「自閉症」の本当の意味を知らずに書いていた時期は、「かかわり」「コミュニケーション」
「こだわり」という三本柱の主観的な"感じ"と、ニンゲンたちとお付き合いで生活していく中で
覚えた常用日本語とが混ぜこぜになっていたようだ。と言うより、自分自身の元々の在り方を否
定した結果でなければ、"生活"は成り立たないものなので、随分と侵蝕された状態で書いていた
のはやむをえないことなのだ。それに、「教えよう」としていたし…。


※「自閉症」の概念が広がると、偏り方の全く違う人たちが同じ用語でくくられるようになる。
 また、成長と共に変わって行く部分もあるし、元々の自分を全否定した(人魚のシッポをチョ
 ン切った)代償としてこの世の居場所を確保したような場合には特に、或る部分では「自閉 
 症」だけど、別の部分では「自閉症」ではないように見えるというようなことも起きてくる。
 しかも、現在、全く「自閉症」そのものが認知されていない国内事情を考慮して、本人たちの
 ためでもあるけれど、非・自閉者の方を向いて宣伝することと同時進行になっている。
 自分と違うタイプの「自閉症」者に出会った時、本人たちが無条件に喜べるはずはないのだ。
[2001年7月20日 20時42分52秒]

テーマ: 不死鳥伝説。   
 死後に国民栄誉賞を受賞した或る国民的大歌手は、亡くなる一年ほど前に東京ドームコンサー
トをした。でも、実状は、開演直前まで担架に横たわって点滴を受け、幕が降りた途端にその場
に倒れてしまったそうだ。
 現在、ワタシはこれに近い状態。夏の暑さと体を冷やすために取る手段との間で、自律神経が
混乱しているから(一説によると、更年期障害らしい)。外出する用事や仕事の予定が入ってい
る日と、どうしてもしなければならない日常のルーチンをする時以外は、ほとんど動けない。た
まに学校に行くのは、参観会や役員の仕事、それに次男の忘れ物回収のため。その時に、先生と
指導方針の打ち合わせをする。
 たま〜に、陽気の加減だか何だか分からないけれど元気な日がある。でも、ほとんどの日は、
どこかに座ると、そのまんましばらく固まっている(注:カタトニアではありません)。時々、
床に転がってじっとしている(抗重力姿勢保持の困難があるため)。それで、パソコンの前にい
るか、絵を描いているかのどちらか。

※こういう時期は、何度かあった。記憶に残っている限り、小学生時代から。
 でも、小学生の頃は、興奮して活動亢進状態になっている時と、このような活動停止状態にな
 っている時の日中変動が激しく、3時ごろまでボ〜ッとしていてそれから超興奮状態になると
 夜中まで起きていたりしていた。(これが、ハッキリとした気分の双極性に発展したのは、中
 学〜高校にかけてだった。)

 用事が増えれば、活動時間は長くなる。でも、雑用とか、その前後に「鬱」状態になると分か
っている用事しかないので、ゴロゴロしているという次第。
 でも、こういうのは、本人にとっては重大問題だが「自閉症」には関係ないので、精神科の問
題ではないらしい。では、「自閉症」の人が身体の変調をきたした時には、どこに行けばいいの
だろうか?・・・テンプルさんが、「自閉症」者独特の抗うつ剤の効果を発見できたのは、こう
いう時でした。やっぱり、本人にしか深刻さは解からない。
[2001年7月20日 10時33分55秒]

テーマ: 一例を、"標準"にしないこと。   
 これ以上放っておくと弊害が出るので、思い切って書く。でも、「自閉症協会」の会報に載っ
た話だし、恐らく同様のことがあっちこっちで行われているだろうから、書いておく必要がある
と思う。(何度も書くが、成功者の例として同じ人が取り上げられるのは、あちら側の好みであ
って、本人の責任ではない。)

 元々は常同行動のない或る「自閉症」者が、自ら選択して常同行動をするようになった。こう
いう場合の常同行動は、幼児期に無意識にやる常同行動(身体が自然に要求している感覚を自己
生産する行動)とは、理由が異なっていることが多い。
 元々常同行動をしていた別の「自閉症」者が、それを見て真似をした。二人の「自閉症」者の
している行動は、外見上は同じかもしれないが、はたして同じものだろうか?・・・一人の「自
閉症」者がもともと持っている「こだわり」行動は、他の「自閉症」者に移植したらその人の
「こだわり」に叶うとは限らないのだ。(もし、やってみて自分にも都合が良かったら、それは
それでいいけれど…。)

共通するのは「"何かに"こだわる」ことであって、「"何に"こだわる」かではないのだ。



 元々、「こだわり」の内容が日本語文法と文体であった「自閉症」者にとっては、自己の元々
持っていた能力を活かすための手段として有効であった方法が、プロフィール特性の違う別の人
にそのまま通用するとは限らない。
 一人一人、みな脳の諸機能バランスが違うのだ。(ちなみに、ワタシはきっと、右脳・左脳・
小脳といった脳ミソの各部分がてんで勝手にバラバラに動いていて、統制がとれていないのだと
思う。)
 身体的なバランスは非常に悪くて、見るからに「自閉症」だけれど、全ての事象を漢字の関係
性で捉えている「自閉症」児がワタシの身近なところにもいる。が、だいたいこういう場合は自
分自身で制定した自分なりの文法を持つことの方が多い。それに、文章表現は下手ではないが、
相手の注文に応じることができないことも多い。

人の真似をするのではなく、自分の特性を活かす方法を考えないといけない。
[2001年7月19日 23時1分51秒]

テーマ: どうしても、解からないこと。   
自分のやったことに、意味や価値がつけられること。そして、それが金に変わること。
誰かの"役に立ってる"ことが判れば、ワタシはそれでいい。
[2001年7月19日 19時10分9秒]

テーマ: 『実践障害児教育8月号』   
一冊まるごと特集:アスペルガー症候群と高機能自閉症の支援

 田舎の本屋だから、いつになったら配達されるかわからないので、自分で取りに行った。
(内容については、「当たり前のことが書いてある」と予め聞いていた。読んでみたら、当たり
前のことが書いてあった。・・・ここで、約一名、ホッとしたことと思う。)
 まあ、"どこにでもいる・普通の子ども"=高機能広汎性発達障害の子どものことが書かれた、
最初の本(いや、雑誌か?)だろう。(以前に出版された本には、子どもの実態についての記述
が少なく、対処法と理論が中心だった。今回は、よくありがちな実例報告が主。)

 朗報が一つ。現在、草稿段階と思われる新しい「診断基準」では、LDやADHDが合併して
いる場合に、併記できるようになっているとのこと。

 オモシロイと思ったのは、現在もコテコテの「自閉症」であるニキ・リンコさんの幼児期に
は、それほど「自閉症」らしい行動はなく、ただ「自閉症」らしい嗜好があっただけというとこ
ろ(合併していたADHDによって隠されてしまっていたのカモ〜?)。でも、幼児期に「自閉
症」らしい行動をしていて、現在は外見上まったく「普通」というワタシのようなタイプの人の
方が、断然多い。
 「普通」に見えることで、逆に誤解されることが精神的な"いじめ"になり、「自閉症」らしく
見えることが、身体的な"いじめ"を受けやすくする。ただ、どっちであろうと、否定的な対人関
係を固着させる要因になる。
 対人関係障害という観点からすると、元々の障害の軽重以上に周囲の人の対応に大きく左右さ
れる。ここがポイント。

※このホームページの紹介記事に、「楽しい内容で、気楽にのぞいてみると思わぬ有益な情報を
 見つけられるかも。」と書いてあるのだが…。ワタシ、最近あまり楽しいことを書いていない
 ので、何か「もっと楽しいことを書け!」ということなのだろうか?
 ただし、"気楽にのぞいてみると"の部分は当たっている。あまり真剣に読まない方が"思わぬ
 有益な情報を見つけられる"と思う。
[2001年7月19日 12時52分37秒]

テーマ: 国民性。   
 乙武さんの背後には、美男子でもなく・頭も良くなく・明るく社交的でもない、たくさんのも
っと判り難い軽い障害を抱えた人がいる。乙武さんが社会で活躍することで、その人たちへの理
解が深まり、差別がなくなっただろうか?
 誰か一人がシンボルにされるのは、構わない。でも、「あちらのおメガネ」に叶うという価値
判断が持ち込まれて、それによって「一例に過ぎないものが、スタンダードにされる」のなら、
それで被害をこうむるのは誰だろうか?

 欧米では、いろんな場合を並列的に並べてくれる。成功例も失敗例も、差別しない。でも、日
本では、そうじゃない。・・・これは、国民性だろうか?


※だからといって、本人を直接非難しないでね!(ワタシが何と言われようと、かまわない。言
 いたい人が言える場所も、作りました。)それは、本人の責任ではないのだから。
[2001年7月19日 8時53分13秒]

テーマ: 不死鳥。   
人といられないわけではない。人が嫌いというわけじゃない。
でも、人といるのは不自然で、会話するのはもっと不自然。
自分が決めたやり方で「かかわる」のは良いが、人に「かかわられる」のはイヤ。
それで、逃げまわった挙句の果てに、一度ニンゲンになってみようと思った。
でも、「普通」になって喜んだのは、ワタシではない。
ワタシは、ただ「やらなければならない」と思っただけだ。
ちゃんとやっているのは仮の姿だから、ちゃんとできていない子どもをありのままに見れる。
善悪とか恥を考えることなく、「発達」していく姿だけを追うことができる。

これは、ワタシにとっては生き方の問題であり、親子の問題なのだ。
[2001年7月18日 20時58分31秒]

テーマ: 色。   
 ワタシは、「色」に名前をつけるのは大嫌いだ。

 それは、同化するものであって、呼ぶものではないから。
[2001年7月18日 17時3分19秒]

テーマ: 冷え。   
 「自閉症」児は、冷えやすい。・・・このことを書いたのは、ローナ・ウイングただ一人。

 しかし、こういう観点から研究したという話は聞いたことがない。でも、冬でも冷たい飲み物
しか飲まない「自閉症」児を、よく見かける。それは、飲み物は、温度が変わると食感と味が変
わってしまうから。
 「冷え」に関して言えば、ウチの家系は全くその通りだ。ワタシたち親子は、「自閉症」のチ
ェックリストでは満点にならないけれど、「発達性協調運動障害」のリストでは間違いなく満点
がとれるほど運動障害が重いことも関係しているかもしれない。

 この時期も、三寒四温の季節の変わり目も同じなのだが、体のどこかの部分が暑くて別のどこ
かが冷たいと、どちらに合わせていいかわからなくて自律神経が大混乱を起こす。
 今は、外気温が暑いから皮膚感覚は「暑さ」を感じる。そして、温度を下げるように要求す
る。ワタシは冷たいドリンクを飲まずにはいられないし、長男は扇風機の風に当たっていないと
ダメ。しかし、そうすると元々熱生産のできない虚弱な体は「冷え」てしまう。それで、動けな
くなる。

 今は、素直に休むしかない。

 でも、一つ発見。水分補給が必要なわけではなく、元々腸管からの栄養分の吸収機能が弱いの
で、アイソトニックドリンクよりもアミノ酸成分の入ったサプリメントウォーターを飲んだ方が
良い。
[2001年7月18日 10時15分35秒]

テーマ: 親不知と斜視。   
 オモシロイ話だ。

 なんてったって、ワタシの親不知は口腔外科の恰好の教材だろう。上の二本は、出る前に止ま
ったが、レントゲンにはクッキリと写し出されているのを見ると、何とか所定の位置に収まって
いる。
 しかし、下の二本は、アゴに入り切れずに、地面に対して垂直ではなく平行に生えてきた。と
ーぜん、奥歯と直角に当たってその間に空間ができ、虫歯になった。それでも、右側のは街医者
がなんとかしたが、左側は大学病院の口腔外科でなければ手におえないというので紹介状をもら
って行き、簡易手術をした。
 斜視(潜伏斜視)もある。

 抜いたのは下の歯なので、視覚・聴覚への影響はなかった。
[2001年7月18日 9時57分59秒]

テーマ: ついに、キヨミズの舞台から飛び降りたので、   
ワタシは二度と呼ばれないと思うから、皆さんは安心してお集まりください。

それから、ワタシは、"本人"と"知らなくても当然な人"には怒らない。
テレビ局の人が知らないのは、仕方がないと思っている。
[2001年7月17日 9時43分15秒]

テーマ: ついでに。   
"一個体としてまとまって外界を知覚"しているのではなく、"自己の内部感覚を知覚"している
ことに対して、SSRIが効いている。
・・・これは、精神科的には"どうでもいい情報"なんだろうか?
[2001年7月17日 8時20分51秒]

テーマ: 補足、その3。   
"こちらが下手に出ることはない対等な関係"の相手は、本人たちではなく「アスペの会」のスタ
ッフの先生のことです。
[2001年7月17日 8時17分47秒]

テーマ: 補足、その2。   
 1、まず、現在の日本において一番始めに取りかからなければならないのは、高機能でない
   「自閉症」児・者が直面している、切実な問題である。
 2、従来の「自閉症」概念になかった、"知的障害"のない「自閉症」や、"しゃべれる"  
   「自閉症」が存在することを世に知らしめる。
 3、広義の「自閉症」というものが存在することを、世に知らしめること。
1と2をとばしていきなり3をやろうとした場合、さまざまな利害関係がこんがらがって、当事
者までもがトバッチリを食うことになる。

 ここで、"こんがらがる"のは「個人の要望」や「関係者の利害関係」だけであって、研究と理
解に関しては区別してはいけない。
 欧米では、1と2ができた(本当にできているかどうかは知らないが、少なくとも、自閉症学
校や自閉症のためのプログラムという受け皿はある)上で、3をやっている。しかし、日本で
は、まだ1と2をやっている段階である。(その他の「障害」や「病気」についても、やっと始
まったばかり。)
 人は1〜3のどこに属していてもいいが、意見を聞く時にテーマを「社会参加」とか「いかに
して身辺自立をしたか?」などに限定すれば良い。お互いに、既に共通認識ができあがっている
という証拠なき安心感があって、「今いちばん心配していること」とか「所感を問う」みたいな
話をしてしまったから、いけないのだ。

 それから、ここから先は本人たちではなく、スタッフのI先生への苦情なので、勘違いしない
ようにお願いします。
 わざわざ人を呼んでおいて、「ワタシ程度の人は、そこらじゅうにいっぱいいるよ。」なんて
言わないで欲しい。だったら、その人たちに聞けば。
 "軽すぎる"が故に苦労して来た人に「軽いんだから、いいじゃないの。」と言い、限界を越え
て破綻してしまった人に「せっかくできているものは、残しておきなさい。」などと言うのは、
禁忌です。(ワタシに、"愛着"の話しをするのも禁忌だが。)
 「理解と対応はバッチリ」だと思って、全面的に"安心モード"で行ったのにそうじゃなかった
場合、ダメージはものすごく大きいので。(まあ、狭苦しいホールと外れた音も、ワタシには×
だったけれど…。それは、後輩のためだからガマンする。)
 でも、いったい"そこで何が行われて、何の為に呼ばれて、何をしに行くのか"全く分からない
ところに、「来て"も"いい」と言われて行ったこと自体が××でした。
[2001年7月17日 8時15分51秒]

テーマ: 補足。   
「洞穴」を訪れた人は、書き手にとっての"真実"を傍観する。つまり、"他人事"だと思うこ
とというルールを守ればいい。・・・とは言うものの、医療的な援助(主に、薬物療法)が受け
られないと、関係念慮が強くてこれができないことがある。

 "肩書き付き"シロウト。・・・具体的には、ワタシが日常的に会っている学校の先生のことで
はない。ワタシは、学校の先生で、この問題に真剣に取り組んでいる人とは連携をとっている。
主に、ワタシが去年行った、あっちこっちの学会などに出てくるレベルの人たちを指す。

 逐一「否定」しないこと。・・・では、すべてを「肯定」しろと言っているのではない。「自
閉症」児・者の発言の中で、その人独特の「こだわり」や「自分の文脈の中での、特異な意味付
け」がプンプン匂っている事柄に関しては、それを逐一訂正してはいけないということ。
 それは、その人の「こだわり」であって、その人は「そのこだわりを通じて、世の事象を解釈
し、人と係わっている」と認めてあげるということだ。そして、一時的にその人の「こだわり」
の中に入りこんで、その人の文脈のコトバを使って話しかける。
 本人のコトバと発想でどういうことなのか説明するうちに、本人に通じる会話ができるように
なる。でも、最終的には「自分で決める」ようにしないといけない。説得されたとか、言いくる
められたという印象を残してはいけない。

 この件についての「許可」。・・・これは、最近、「洞穴」に新しい入居者が来たからではな
い。"こちらが下手に出ることはない対等な関係"だと確認をとったことを指す。

 できることならワタシだって、「お前に、何が解かる!」と突っぱねて、おとなしく引きこも
っていたかった。・・・というようなことを書きながら、こんなことをしているのは「嘘つき」
と思うのは、その人の自由。
 しかし、もしワタシに「躁」の状態がなかったら、実際に全く動けないから何もできない。ま
た、何の刺激もなかったら、ワタシは本当に何もしない。何かをジッと観る・何かをジッと聴く
ことを「仕事」にしてしまう。
 だが、どんな状態の時でも、ワタシは目の前に何かを差し出されると反応してしまう。まして
や、「躁」の状態の時や、誰かに「教えてあげなければ」と思い込んだが最後、しつこ過ぎて嫌
われるまで、とことんやってしまう。まあ、待っているのは"あとのまつり"というものだ。(し
かも、何も刺激がなくてヒマになると、わざわざ"素材"を探しにあっちこっち出歩いて、これを
やる。待っているのは、もっと大きな"あとのまつり"だというのに…。)
[2001年7月16日 8時16分22秒]

テーマ: 「普通」いろいろ。   
 「普通」「普通」と言うが、「普通」にもいろいろある。

 傍からはそのケだらけに見えるが、自分は「普通」だと思っている成人に、かなりコテコテの
「自閉症」児がいる場合。・・・とーぜん、自分の子どもは「普通」だと言い張る。

 どう見ても全くそのケのない親に、コテコテの「自閉症」児がいる場合。・・・家の子は「普
通」だと言い張り、「普通」の基準でしか見ようとせず、かえってコテコテにハメてしまうこと
もある。(もちろん、いち早く"異常"に気づくこともある。)

 ウチは、傍からはどう見ても「普通」だが本人はコテコテだと思っている親に、やっぱり、傍
からはどう見ても「普通」だが中身はけっこうコテコテのアスペがいる。・・・この場合の「普
通」も、きっと「普通」の「普通」ではなく「不通」の方だ。
 最近、ADHDの次男が、「おにいちゃん(アスペの長男)が、そこらじゅうにハナ○○をつ
けて困る!」と不満タラタラなのだが、ワタシは長男を叱れない(ただし、いちおう「悪いこと
だ」とは言う)。何故なら、初代"あっちこっちにハナ○○の常習犯"はワタシだから。
 それから、LDの子どもには、「書き順は捨てろ!」と言う。・・・ただし、余裕ができてく
ると、自分で気にしだしたりもする。本人が、自分でする分にはかまわない。
 アスペの偏食や協調運動障害を、無理に直させない。・・・ただし、「しなくていい」とは言
わない。できるところだけ参加するように言い、代わりになるものを調達する。

 そういえば、最近、ワタシは、とっても気が軽くなった。それは、「普通」の人が「普通」の
ことをしているのを見ても、「どうしてあんなことをするんだ!?」と思わなくなったから。
[2001年7月16日 1時35分15秒]

テーマ: 本人に何か言われても、一向に構わない。   
 ただし、それは今のような「躁」状態の時に限るという、条件付だが…。

 「洞穴」を訪れた人は、書き手にとっての"真実"を傍観する。つまり、"他人事"だと思うこ
とというルールを守ればいい。だから、自分がどんな状態でも、あの「洞穴」を停止しようとは
思わなかったのだ。

 しかし、何に腹が立つといって、一番怒れるのは、「私は、障害児教育の専門家だから、お前
らのことなんか全部知っている」という態度の専門家に遭遇した時だ。(「自閉症」の研究者
は、割合と本人に対して謙虚だ。しかし、障害児教育の専門家は、そうじゃないことが多い。)
 そして、二番目は、そういう"肩書き付き"シロウトの言うことを金科玉条の如くありがたがっ
て聞く、非・自閉症者に遭遇した時。
 三番目は、「普通なんだからいいじゃないの!」という観点しかない専門外の"肩書き付き"シ
ロウトに遭遇した時。

 陸に上がった人魚には、元は尻尾がついていたことを、忘れてもらっては困るのだ!


※急に、堰を切ったように書き出したのは、別に先日の事件があったからというのではない。
 この件についての「許可」をもらったから、そうしているのだ。
[2001年7月15日 18時58分42秒]

テーマ: 「否定される」ということ。   
 たとえ、全くの誤まりやとんでもない誤解であっても、「自閉症」児・者の言ったことに対し
て、逐一「否定」するとどんなことになるか?・・・恐らく、非・自閉の専門家諸氏は知らない
だろうから、説明しておく。
 去年、一年間、ワタシはシズオカでそういう目に会った。しかし、「クリスマス会」の時は、
ワタシがそれをするハメになった。何故、解かっていてワタシが敢えてそうしたか?・・・他の
人たちは↓のような事情を知らないので、そのまま放っておくと「企画」がオカシクなっては困
ると思ったからだ。(軽躁状態でなければ、そんなことできるはずない!)

 その場でパニックや自傷を起こせば、きっと大慌てになって、あちらの側がものすごーく気を
使うことになるのだろう。けれど、あいにくと誰一人として現場でパニックを起こせなかった
分、ものすごーくこちら側の気に障ってしまった。
 そういう時は、現場では、漠然とした「怒り」と「とまどい」だけが感じられるだけなのだ。
しかし、その場のやりとりで"引っ掛った"箇所は、何度も何度も頭の中で再生される。そのこと
は、いつかどこかで言わずには済まされないのだ。
 また、現場でイキナリ質問されたことについては、その時にたまたま一番気になっていること
を言ってしまう。けれど、その質問の文章は、そっくりそのまま頭の中で何度も何度も再生され
る。本当の答えは、2〜3ヶ月後に出てくる。

 そういうことを考慮する気があるのなら、予め、「どういう立場で出席の依頼をし、どういう
目的で人を集め、そこで何を聞きたいのか」知らせておく必要がある。それから、意見を聞くな
ら、個々別々に聞くこと。意見を聞く時には、それは単なるアンケートで、個人的な希望を聞い
ているのだと予め断わっておかないと、"意見を聞かれた"="それがそのまま企画として通
る"と処理されてしまうから、配慮しないといけない。
 また、どのモード(どういう役割を果たす人格)で行くのか?/"全面的に解放"か"全面的に
警戒"のどちらなのか?についての指定がなくて、こちらが勝手に「安全」と判断して行った、
けれどそうじゃなかった場合、後々マズイことになる。(ワタシは、直接、当事者本人には言わ
ない。しかし、第三者には、ずっとその不安をぶちまけて来た。)
 静岡の学会の時には、完全にそういう配慮ができていた。なのに、「クリスマス会」の時は、
全くなっていなかった。

 ちなみに、或る人は「年齢」に強い「こだわり」を持っているようだが、ワタシは「本を出版
している人はエライのだから、その人が言うことは聞かなければならない」と思っているので、
そういう人に何か言われると、現場では受動的になってしまう。それをいつまでもクヨクヨし、
後になってこのようにダラダラと書くことになってしまう。
 ついでに、或る人は聴覚認知が強くてワタシが次男を叱りつけた声が非常に不快だったようだ
が、ワタシは視覚的な認知が強く、特に「目」の「形」に強い「こだわり」がある。だから、睨
まれた「目」の映像記憶は物凄く鮮明だ。ということは、それはフラッシュバック再生される度
に、「恐怖」になる。だからといって、ワタシはその相手に対して、そのことを言い立てない。
何故なら、恐くて恐くて、それどころではなくなってしまうから。(今は、SSRIを飲んだ直
後の「軽躁」状態なので大丈夫だが、「鬱」状態だとこんな風にはいかない。)
[2001年7月15日 16時40分48秒]

テーマ: こんがらかった問題を、整理する。   
 「アスペの会」のスタッフの先生は、この分野の先進地にいるので、恐らく現在の日本の現状
が見えていないだろうから、ここで整理して説明しなければならないと思う。(ワタシは、この
分野では最も遅れた地域に住んでいて、その現状と「自閉症」児の親たちの訴えをさんざん聞い
ているから。)

1、まず、現在の日本において一番始めに取りかからなければならないのは、高機能でない
   「自閉症」児・者が直面している、切実な問題である。
  たいていは、誰がどう見ても明らかな「自閉症」に「精神発達遅滞」が合併している。「こ
  だわり」が強かったり、注意の障害も重かったりすることが多い。或いは、「自閉症」の症
  状は顕著でなくても、何らかの知的障害があることが明白で、いわゆる特殊教育コースに入
  ってしまった人達もここに含んでいいと思う。
  現在の日本では、こういう場合でも、「自閉症」児・者としての正当な処遇を受けていない
  事が非常に多い。まず、ここを改善しないで↓の2・3に進んでしまうと、この点で不満を
  持っている人たちが、「自閉症」という用語の意味することを拡大されたことに対して、猛
  烈な反発をして来るのは当たり前である。(「障害」理解の後進県に住んでいると、こうい
  う子どもを持つ親たちと会合で会うことがある。だから、よく知っている。)

2、従来の「自閉症」概念になかった、"知的障害"のない「自閉症」や、"しゃべれる"  
   「自閉症」が存在することを世に知らしめる。
  この段階では、あくまでも狭義の「自閉症」のこと。子どもでも成人でも構わないが、  
  現在の時点で、TEACCHの「自閉症尺度」で30点以上という基準を満たすような、明らか
  な「自閉症」に限定する。
  何故なら、TEACCHのサポートプログラムを必要とする人たちというのは、自立または支援
  付きでの「社会生活」を送ることとか「社会参加」の方法をどうするかという、統一された
  方向を向いているから。
  成長・発達するに従ってここを外れた人は、↓に移行すれば良い。

3、広義の「自閉症」というものが存在することを、世に知らしめること。
  ここには、いろいろなケースが考えられる。
  幼児期には狭義の「自閉症」であったことがあるけれど、現在は全く「普通」。
  始めから広義の「自閉症」で、始めからほとんど「普通」、現在は全く「普通」…など。
  さまざまな紆余曲折がありながらも、現在は自立した「社会生活」や自力での「社会参加」
  が可能になっている。全く「普通」にできる部分があるために、「普通」でない部分につい
  ての理解を得られない。二次障害に罹患していることも多い。

1と2をとばしていきなり3をやろうとした場合、さまざまな利害関係がこんがらがって、当事
者までもがトバッチリを食うことになる。
[2001年7月15日 15時21分23秒]

テーマ: 「洞穴」の一部始終。   
 或る一人の「自閉症」児・者が、自分とは違うタイプの別の「自閉症」児・者に遭遇した時に
何が起きるか!?・・・お互いに、相手の言ったコトバを自分の文脈で解釈し、相手の言ったこ
とを真に受けて自分の存在を否定されたかのように思ってしまったり、「あの人は自閉症ではな
い!」「ああいう人には、自分のしている苦労がなくていい!」と言い合う。
 こうなることを、ワタシが知らなかったわけはない。或る時期、自分の家で同時に二人の「自
閉症」児を見ていたことがあるので、お互いにお互いのイチャモンをつけあってケンカが起きる
場面を、何度も見ている。それに、アスペの子どもの集まりに行ったって、そういうことはあち
こちで起きている。現役バリバリの、「しゃべれる自閉症」のアスペの子どもだから、思ったこ
とをズバズバ言うその言い方のキツイこと。それから、去年一年間、「洞穴」で同じことがおき
ていたではないか!
 しかし、皆それぞれにいろいろイチャモンつけているけれど、そのつけ方がみんな同じ。それ
はそれは、モノの見事にみな同じパターンだった。その有り様を、掲示板という公開された
「場」で、誰に見せようとしていたのか?・・・その相手には、通じなかったのだろうか?

 そうならないためには、それぞれが独立した形で、直接その相手に対しては発言せず、「その
人の部屋に書かれていることは、たとえそれが自分のことだと思っても、その人にとっての真実
であり、自分に対して言っているのではない」と傍観することが必要だとは、気がつかなかった
のだろうか?
 それに、睨んだり強い言い方をすれば、一時的にアスペはおとなしくなり指示に従う。が、そ
のあとどれだけ長い間、その時に言われた言葉・その声・睨んだ目がフラッシュバックして恐怖
におののくことになるか、きっとその人は知らない。想起パニックで暴れたりなんかすれば、
「すわ、一大事!」になるのだろうけれど、それを言葉で言うと「何を騒いでいるんだ!」と叱
られる。「それはもう、ずいぶん前のことだ。」「そんな、くだらないことはいいじゃない
の。」とバカにされる。{行動>コトバ}というのは、今も変わらないこの世界の常識らしい。

 ワタシは、「自閉症」児の「こだわり」の中に入り込んで、その「こだわり」の文脈のコトバ
を使って、本人が納得するようにコミュニケーションをとって来た。
 「あしらい」と「表出合わせ」が上手けりゃあいいのか!? 「この子たちは、こういう子で
す」と認めなければ、その子の「こだわり」の中に入り込むことはできない。そんなことは、と
っくに知っていて、とっくにそういう配慮をしていると思っていた。
[2001年7月14日 21時35分12秒]

テーマ: 後々のための覚書。   
「抗そう剤」は、25mg×2(朝夕)。
「抗うつ剤」は、25mg×1(必ず、人に会う用事の後に飲むこと。人に会った時に「軽躁」状
              態だと、まずいことになる。ただし、終わったらすぐに飲むこ 
              と。極端な場合、帰り道でガクンと落っこちることがある。何も
              用事がない時は、一番キケンな夕方に飲む。)
躁病相と鬱病相とのバランスが崩れるので、突発的な事態に対して追薬しないこと。

これで、余計なことをせずに済む。(余計なことを、敢えて書いていたのは、そういう情報が必
要な人がいるからでした。確かに、必要な情報は送りました。でも、一番解かってくれていると
思っていた人は、全く無理解でした。だから、止めます。)

それから、この「薬」に関する情報も、もう既に先進地の医師達には周知のことで、全くの余計
なお世話です。だから、もう止めます。
[2001年7月14日 18時13分29秒]

テーマ: おっと、アブナイ!   
↓の、多動のない「積極奇異型」は、行動障害のない「積極奇異型」の誤まり。

 ハッと気がつくと自分のクラスじゃないところにいたとか、「いつも、ちょこまかちょこまか
動いている」と言われたという意味では、ちょっとした多動はあったようだ。体育の時間など
で、漠然とした集団ができている時に何かの器具の間に隠れていたり、ナントカ会館に行くと必
ずホールから出てフロントや階段の辺りをウロウロしていたことはあっても、教室を飛び出すよ
うなことはなかった。

 もう一つのアブナイこと。・・・去年は、躁鬱の混在した状態のまま、一年間まるまる「抗鬱
剤」を飲んでいた。人に会う時は、ほとんど軽躁状態だった。これは、始めてSSRIを飲んだ
時に感じたキケンだった。人格障害者と言われても、仕方がない。きっと、そうなんだろう。
[2001年7月14日 11時33分19秒]

テーマ: 「表出」だけ合わせたって、   
「本質」は変わらない。
[2001年7月14日 10時19分34秒]

テーマ: オセロゲーム。   
 ワタシの取り柄は、人の集まっている場所には寄り付かないこと。

 でも、"いないこと"にはしてくれないから、仕事や役割がやってくる。日頃は、そういう時に
困らないように、ニンゲンの研究と行動観察をやっておく。でも、今までは、「かかわり」を最
小限に食い止めて、ワタシの「こだわり」を侵蝕されずに済むにはどうすればいいかなんて、考
えたことはなかった。とにかく、"あれをやらねばならない""ああならなければならない"と、
大騒ぎしていた。人に何か言われると、真に受けてしまうから。(嘘をついたと言われたら、
「ワタシは嘘つきなんだ」と思ってしまう。)
 ところが以前、こちらが決死の覚悟で無理なサル真似をしたら、「あんたらしくないことをす
る」と、さりげなくいわれたことがあった。でも、ワタシはワタシがどういう人なのか、今もっ
て全く解からない。
 こういうところは、「受動的」なのだ。でも、多動のない「積極奇異型」。まあ、ひっくるめ
て、「一匹オオカミ型」。「形式ばった大仰な群」、にも入っていたことがあった(今は、そう
じゃない)。友達に誘われれば、ついて行く。誰かが「四葉のクローバーを探す」と言われれ
ば、人のいないところ人のいないところへと移動しながら探してあげる。「草かんむりを作る」
と言われれば、極上のシロツメクサを調達する係りになる。不器用なので、自分では作らない。
ままごと遊びやお人形遊びのような「ごっこ遊び」には、絶対に参加しない。
 こちらから「かかわる」時には、だいたい一方的にしゃべりまくる。どの人にはどういうこと
を話せるか、嗅ぎ分ける鼻は利いた。それで、「ここは大丈夫そうだ」となると、ワタシはワタ
シの「白い石」を置く。相手が怒らない限り、「白い石」を置き続ける。ところが、ハッと気が
つくと、何時の間にかそれは全部「黒い石」に変わっている。ワタシには、わけが分からない。
その繰り返し。・・・そうして、どんどんブロックは埋まって行く。
[2001年7月14日 10時18分40秒]

テーマ: 直面してしまった「危機」。   
 ずっと長い間、「そう」と「うつ」が混在した状態になって、それぞれがあたかも別人格のよ
うになっていたのは、「肯定」と「否定」の間を行き来してめまぐるしく変動する実状をカムフ
ラージュし、自己を護る役割を果たしていたのかもしれない。それは、ギリギリの限界まで持ち
こたえてくれた。
 しかしある時、ずっとワタシの頭の中ではかしましくしゃべっていたけれど、他人に「言って
はいけない」はずだったものが溢れ出して、"洞穴"を作った。バラバラの人格はそれぞれが言い
たいことを言い始め、それをまとめて『日記』を書く時期が続いた。それが統合されたので、
「普通の日記」ができた。

 或るアスペ父は、子どもの「療育」には否定的、それどころか「診断」さえも不要と言い張
り、病院にも連れていかせない。でも、子どものことを真剣に考えているとのこと。その人が、
子どもの母親にこう言ったそうだ。「お前に、何が解かる!」・・・この気持ち、良く解かる。
ワタシのように二極分化しないまま、頑丈で強固な防波堤を築き上げて来たタイプの人は、そう
簡単には堤を崩せない。波消しブロックを二重三重に積み重ねて、外洋の波を一切寄せつけな
い。外洋の波にさそわれて、フラフラと出歩くことなどしない。
 できることならワタシだって、「お前に、何が解かる!」と突っぱねて、おとなしく引きこも
っていたかった。だから、ワタシの本当の主訴は、「うつ」の方でなく「そう」の方だった。
 でも、いつも「逃げ場」を用意してくれていた「うつ」が消えてしまったら、手元には何もな
いという「現実」だけが残った(「絶望」という、死に至る病と共に…)。さしあたってやりた
いことは、「そう」状態の時に係わってしまったニンゲンたちに壊された部分を修復したいとい
うこと。あとのことは、わからない。

 自分自身の、頭の中を実況中継することに費やしていた時間があまりにも多かったので、それ
がなくなったら、なにをどうしていいのかわからなくなってしまった。
[2001年7月14日 2時43分29秒]

テーマ: 「合併症」をあなどらないこと。   
 先月は、丸々一ヶ月、ついにヒットした「躁鬱病」の治療薬のことばかり書いていました。そ
れは、確かに「自閉症」のことではありません。けれど、「自閉症」とは無縁でない本態的なも
のでした。だから、逐一記録しました。

 それは、以下の理由からです。

 人間という生物には、「うつ」と呼ばれる状態があることは割と良く知られています。でも、
「そう」状態などというものがあることは、あまり一般には知られていません。また、「自閉
症」児・者で「気分障害(鬱病/躁鬱病)」を合併していることはよくあるそうですが、ほとん
ど知られていません。というのは、顔に表情がなく判りにくいからです。派手な行動障害がない
からといって、こういう隠れた「合併症」をあなどってほしくないということです。
 また、ワタシ自身の場合、気分の双極性に関しては、治療のかなり初期の時点で自分で「気分
に波があるので躁鬱病だ」と言ってはいましたが、鬱状態とそうでない状態という程度の認識し
かありませんでした。実際、二次障害の大うつ病の治療に一年半もかかってしまいました。それ
で、少し余裕ができて、本格的に「気分障害」を調べてみたところ、ワタシ自身が過剰適応して
いた時の有り様が、「DSM−4」の双極性障害の項にある「躁状態」の記述とモノの見事に一
致していることに気づきました。
 さらに驚いたことに、遡ってみれば、「合併症」としての「気分障害」の徴候は既に小学生時
代にありました。ワタシの場合で言えば、一口に「躁鬱病」があると言っても、「合併症」と
「二次障害」が複合していたし、その症状の現れ方も薬の効き方も通常のものとは異なっていま
した。
 もしかしたら、こういうのはあまり多くないのかもしれない。けれど、単に従来の狭い「自閉
症」概念から外れていたために未診断・未治療で、外見上まったく「普通」の人にみられるとし
たら、実際には案外ものすごく多いのかもしれない…。そういう警告の意味を込めて、書いてい
ました。

 どちらにしても、何か一つ解かる度に大騒ぎになる「小さい頭」のすることなので、何をどう
かいても大袈裟になります。
[2001年7月13日 21時55分42秒]

テーマ: ちなみに…。   
 今日は、丸一日ひどい「鬱状態」で、パソコンの前に座っているか寝ているかのどちらかでし
た。当然、起きている間中泣いている。今も。
 最初に、直接反応してすべてを「無」にしなかったのは、テグレトールの効能(癇癪発作を止
めた)。途中で思い直して強気に出たのは、SSRIの効能(抗鬱剤なので、ちょっと躁状態に
なる)。・・・これだけ「薬」の恩恵を被っていても尚、何もなかった"あの頃"に戻りたいとい
うのは、「誰もいなくなれば、薬も要らなくなる」から。
[2001年7月13日 17時50分36秒]

テーマ: 「早期発見」の功罪。   
 最近では、軽度の「広汎性発達障害」や「アスペルガー症候群」や「非定型自閉症」が、かな
り早期の段階で発見されるようになっている。
 それほど奇異でなく派手な多動はないけれど、発達性協調運動障害があったり集団から離れて
一人ポツンとしている子どもを見つけると、「このままではタイヘンなことになる」と言われて
しまったりもする。

 しかしワタシは、長男に「普通」になることを強要したことは一度もない。周囲の人たちに対
して、「発達」のペースと順序が違うことを認めさせてきた。と同時に、全く馴染めなくなるほ
ど掛け離れてしまうことがないように、体を張って周囲の人たちとの溝を埋めて来た。(自分に
も運動障害があるのに無理してゲームをやり、家に集まった十数人の同級生たちのお付き合いを
した。)
 そうして、長男が自分から「みんながやっていることを、同じようにやりたい」と言い出した
時にすんなりできるようにと、必死にギャップを作らないように守った。今でも、「骨の髄ま
で"普通"に染まってはいけない」「そういう人の存在は認められていないから、大きな顔をして
はいけない。けれど、そういう人がいても良い。」と言い続けている。

 長男が最もバリバリの「自閉症」児で、行動障害が最も重かった時、ワタシはまだ"他者の存
在を知らないジャングルの奥深く"にいた。ただ、自分がずっとおかしかったから息子もきっと
そうなるだろうと思い、自分と同じ過ちを繰り返させないために、自分は親から「してもらえな
かった」けれど、その後自分で探し当てた"育ての親"たちにしてもらって、本来発達過程で"す
べき"だったことを全部やった。そして、これはきっと「自閉症」だと確信していた。そのすべ
てを、一人でやり抜いた。
 ジャングルから出て来た途端、そこに人がいたことに気づいて嬉しかった。それで有頂天にな
ったら、あっちからもこっちからも叩かれてボコボコにされてしまった。更に、「良かれと思っ
てやったこと」と「解かってくれていると思ってやったこと」のすべてが、一番解かってくれて
いると思った人に全く通じていないことが分かってしまった。
 まだ「広汎性発達障害」や「アスペルガー症候群」や「非定型自閉症」なんていうものの存在
さえ知らず、診断も医者も薬もパソコンもなかったあの頃、ワタシは幸せだった。・・・あの頃
に戻りたい。
[2001年7月13日 17時28分45秒]

テーマ: 「付き合い方」のルール。   
「自閉症」児・者同士の付き合い方のルール。
1、「自閉症」児・者は、お互いに一人一人違っていることを認めること。
2、自分と違うタイプの「自閉症」児・者が直接対面すると、それだけでお互いに"自己の存在
  を否定"されたように思ってしまうので、絶対に意見交換をしないこと。(特に、自分と違
  う「合併症」を持っていると、そこの部分だけが際立って目立ってしまう。)
3、一人一人にとっての"事実は事実"なので、"自分にとっての事実"は"自分にとって真実"で
  あることをお互いに認めること。それぞれが自分のことだけを書き、他の者は傍観する。
4、「自閉症」児・者を集めるのなら、一定のルールを設けて直接交流しないようにするか、他
  者の行動や発言を説明できる翻訳者を介助につけること。

 「自閉症」児・者を「療育」するのは、正に「自己の文脈しかない世界」の「こだわり」を、
いかに社会的に妥当で柔軟なものに置きかえることができるかどうかにかかっている。
 だから、未治療・未介入の「自閉症」児・者が、100%自分の考えが通らなかった時に、パニ
ックを起こしたり自傷・他害をするのは、避けられないことでもある。

 しかし、正当な方法で「療育」されることがなかったのに他者といられることができた、つま
り社会化してしまったアスペたちが、どこかで他者によって或いは自分自身によって変形を余儀
なくされた代償として、他の精神疾患を罹患して二次障害・三次障害を持ってしまうのは仕方の
ないこと。なのに、「普通」に成り切れないことを責められ、「普通」に成ってしまったことで
自分自身を失うという、二重苦・三重苦も負わなければならない。

 もともと、"自分と同じ"であることは(理論上も、実際的にも)有り得ないのに、「"自分と
全く同じでない他者"を見る度に、全面的に自己否定をするか他者を否定するかのどちらかにな
ってしまうことを知らなかった」だけならまだしも、こういう訴えを無視して「くだらないこ
と」とするのは、明らかなミス。
[2001年7月13日 10時12分54秒]

テーマ: 「お墨付き」の効能。   
 「どこまで付き合ったら、そこから先はお役御免にしてもらえるか?」なんていう許可を求め
る必要はない。だって、実際やっていないし、始めからできないことはいつまでもできないか
ら。
 ただ、「違っているのに同じものとして継続しているという"対象恒常性"に、ついて行けない
こと」や「ニンゲンが目の前に来た時と、ニンゲンに会う用事がある時だけ、ニンゲン化してい
ること」や「何らかの"発達障害"を見破ってそれに対処することはできても、基本的な二者間関
係が一切ないこと」の説明がついて、ワタシは"それでいいんだ!"という"保証"がもらえて良
かったと思う。それが無かったから、罪悪感のカタマリだった。

 「診断」という動かせない証拠を突き付けられても、なお「発達障害」の存在を認めようとし
ない人が人口の90%以上を占めていたとしても、本人自身にとっては重要な問題なのだ。
[2001年7月12日 10時12分29秒]

テーマ: もう一つの「闘い」。   
専門家や研究者は、「本人の"気持ち"が解かるための専門家や研究者ではない」ということ。

「上手な"あしらい"ができる」という意味での、専門家や研究者のこともある。
[2001年7月10日 8時43分17秒]

テーマ: ワタシの闘い。   
〔二次障害〕
 ワタシは今、二次障害(躁鬱)と闘っている。
 始めから、波があることは分かっていたけれど、循環性のものと急速交代性のものが複合して
いた上、大うつ状態であったため、治療薬が確定して落ち着くまでに一年半かかった。とはい
え、不測の事態に対応しようとして追薬した分の間隔を空けすぎてしまったりすると、途端に活
動停止に陥ってしまったりもする。薬で上げ底されている状態というのは、強い「不安」とウラ
ハラの危険を孕んでいる。

〔継続すること〕
 ワタシの意識は、モード別に繋がっている。どんな場面でも、常に"前回の続き"からの再生な
のだ。が、相手の方は、再会するまでの間に経過した日数や、その日の出来事の続きから始まっ
ている。
 "ここまでは分かっているはず"のことや"これは共通認識のはず"だったことが通じなくて、
(前置きとして、前回は"こうだったね"という復習をちゃんとしてくれればいいのだが)また始
めからリセットされてしまったような場合、ワタシはその場ではパニックにならない。
 けれど、その混乱をいつまでもダラダラと引きずって「うつ」状態に陥る。挙句の果てに、そ
の相手を、そういう"裏切り行為"をして"ハシゴを外した"人物と処理して、関係を自分から断
ち切ってしまう。
 しかし、こういう"思ったことと違うこと"が起きても「継続」していけるのが、ニンゲンたち
の作る「社会」という「世の中」なのだ。その持続力は、どこから湧いて来るのだろうか? ワ
タシには、理解できない。

〔『心の理論』という邪魔物〕
 「いじめ」や「からかい」などの、社会性を帯びた抽象概念が分かるようになるのは、往々に
して『心の理論』を獲得する時期と一致する。でも、小学校高学年の頃から、面白がってする
「からかい」から組織的な「いじめ」へと激化するという外部事情も無視できない。
 いずれにしても、周りが見えるようになって奇異な行動が減るので、家族は楽になることが多
い。けれど、この辺りから本人の負担が増える。それまでにキチンと「二次障害」の芽を摘んで
おかないと、心理的にこじれるのもこの時期。
[2001年7月10日 8時36分37秒]

テーマ: 「この国」の事情。   
行動観察記録。

1、学業成績の良し悪しは、必ずしも社会的な巧緻さには関係しない。しかし、スポーツマンで
  あることは、しばしば社会的であることに直結する。
  最もスポーツが得意でチーム内でリーダー的存在にある子どもが、最も激しい野次を飛ばす
  子であることがよくある。
2、ボス的存在の強者は、その強い個性によって群れを統率するので、ただひとり"個性"として
  認められている。後は、みんな横並びに、同じになることが要求される。
3、「しつけ」をし過ぎて「こころ」を置き去りにしている人もいれば、「感情」的になりすぎ
  て「こころ」が全く見えなくなっている人もいる。
  なのに、何故か教育委員会のお偉いさんは、「こころ」の教育と称して、倫理・道徳を教え
  ろだの、子どもは誉めて育てなさいだのと言ってくる。
  それで、ますます人の前で"良い子"を演じることの上手い子を息苦しくさせ、人からは悪い
  子と思われるような行動をしてしまう発達障害児の居所をなくし、おだてられて調子に乗る
  子どもを増やすつもりらしい。

 幾多のサバイバルをかいくぐって生き延びて来た「自閉症」者は、この国で「障害」として認
知されて来たわけでもなく、「個性」として認められて受け容れられて来たわけでもない。
 「和」を重んじ、誰でも公平に全人的な負担を要求する(つまり、適材適所とか得意分野を活
かして持ち寄るという発想のない)「悪平等」を旨とし、「感情」で動く≪群れ≫社会にあって
は、欧米で行われていることをそのまま持ち込んでも通用しない。
 「自閉症」者が、この社会に適応することを余儀なくされた場合、介入されればされるほど
「ありがた迷惑」になる可能性が高い。なにしろ、「個性」として活かす方向ではなく、目立た
なくなるために「没個性」化する方向に持っていかざるを得ないから。更に、必死に努力すれば
するほど、その先その先を求められるのだから、たまったものではない。
 だいたい、こちらが「これは大事だ!」と熱くなるものほどが、あちらにとってはどうでもい
いもので、こちらが仕方なく付き合っているものほど歓迎されることの繰り返しなのだ。そうし
て、夢中になって産み出したサイズ違いの部品を集めて、『ぐるんぱのようちえん』ができるこ
となど、到底、期待できない。

 それから、「いじめ」「いじめ」と言うと、あたかも「自閉症」は子どもだけのもので、学校
でだけ問題が起きるような感じがする。けれど、それをこういう表現に変えれば、成人にも通用
するのではないだろうか?・・・「野蛮人の食い物にされやすい」と。
 そこから抜け出すことができず、「美談」の一つもない内は、夢も希望も持てませんよ!(常
に、逃げ場を確保して生き延びているだけです。)
[2001年7月9日 10時54分20秒]

テーマ: 二次障害の後遺症。   
誰にも言うな、どうせ信じてもらえない。
×これからは、私達(健常者)があなた方(自閉症者)のお話を聞く番です。

 研究が進むと、受けられる医療的・教育的支援は増える。しかし、「もう分かっています。」
「データは揃っています。」とも言われてしまう。皮肉なもんだ。

 社会的な意味や価値を見出すのは、「自閉症」とは無縁のこと。そうして取捨選択するのは、
社会の側の仕掛けだから。

 何型であろうと、安定した二者関係という存在基盤のない者は、社会的な「無」でしかない。
なにしろ、社会的な文脈の中に置かれようとすることを、こちらの側から積極的に断ち切る習慣
がついてしまっているから。

 「自閉症はこうだ」と言えば、みんなはワタシがそうだったようには喜ばない。むしろ、積極
的に、「自閉症」を「困ったもの」として排斥し、「自閉症」という事実を抹殺しようとする。
[2001年7月8日 10時33分50秒]

テーマ: 「いじめ」対策。   
 「いじめ」を強調する風潮に文句ばかりをつけていると、まるでワタシが「いじめ」とは無関
係のように思われても困るので、一言書いておく。

ワタシは、「自閉症」児たちを「いじめ」から守って来た。その実践例は以下の通り。
1、始語4才、典型的なカナータイプで、他害・悪口雑言のある子どもの場合。
   小学校入学当初、まだ会話がなく明らかに奇異な行動をしていたので、毎日のように生傷
   があったり、要領のいいいじめっ子にハメられて大人に怒られるような行動をさせられて
   いたりしていた。
   その子に対してワタシが言ったのは、この二つだけ。「叩かれた時に、叩き返さない。」
   「バカと言われたら、無視する。」
   後は、極力いじめっ子から引き離した。同じアパート・同じ地域にいじめっ子がいたの 
   で、方向の違うワタシの家に毎日来させた。そして、いじめっ子たちが外に遊びに出る時
   間帯が終わるまで(7時頃まで)、かくまっていた。
2、始語はギリギリで3才に間に合ったアスペタイプ(しかし、6才の時点でまだ名詞の羅列し
  かできていなかった)で、行動は奇異だが人に何か言われるとフリーズしてしまう子どもの
  場合。・・・なんて、これはウチの長男。
   発達性協調運動障害があったこともあり、全く周りが見えていなかった1〜2年生の時期
   には、ほとんど送り迎えをしていたので、通学途中などでの問題はなかった。が、近所の
   子どもが自宅に遊びに来た時に、ワタシが行動の解説と通訳をするのに忙しかった。
   言語理解が9才の壁までに何とかなったのは良かったものの、重複しているADHDが重
   いため、実行能力障害が重篤で単独行動ができなかった分、保護されていたのが幸いし 
   て、「いじめ」を受ける前に未然に防いだ。
   高学年になって一人で帰宅するようになった途端に、ある子から「一緒に遊ばないと、殺
   すぞ!」と言われたことを真に受け、本当に殺されると思って学校に行けなくなるという
   事件が起きた。まず、こういう脅し文句は「文字面の通りにはならない」ことを教えると
   共に、同じ方向に帰宅するボス的存在の子どもに護衛を頼んだ。また、その事件のことが
   学活でも取り上げられたので、安心して学校に行けるようになった。
 こういう子どもの時期は、本人を教育して「いじめ」られないようにしようなどとすると、逆
に本人にとってはわけのわからない指令が増えて混乱する。
 大人から見て明らかな「いじめ」であっても、本人が全く事情を分かっていないこと―例え
ば、毎日のように引っ掻かれていても、本人は誰かの行為の結果であるという因果関係が分かっ
ていないし、増してや「いじめ」などという抽象概念は全くない―を、「いじめ」だと騒ぐの
は、大人同士の問題としては大事なことだろう。
 けれど、それを本人に向かって、「そういうのはイジメであって、バカにされているのだか
ら、怒らなければいけない。」なんて説教したら、大いなる誤解を招くだけだ。そんなことをす
るより、自分が取るべき具体的な行動を指示し、回避する方策を考えることだ。

 しかし、奇異な行動をしなくなり言語理解が進んでくると、あからさまな「いじめ」は減る
が、あからさまな「無理解」によって、真綿で首を締められるような状況にどんどん追い込まれ
て行く。そちらの方は、誰も救ってはくれない。本人が自分で「自分はこれでいいんだ!」と覚
悟を決めない限り、自分を責め続けるしかなくなる。
 例えば、ワタシは今、ニンゲン関係が無いのに子ども会の役員をしている。何かの行事がある
となると、もう過緊張しまくりで他のことは何も出来なくなる。電話一本かけるにも、一大決心
がいる。それでパニくって大騒ぎしていたって、「何を怒っているんだ!」とブツブツブツブツ
文句を言われるだけ。
 それにしても、こちらは限界を越えた「いっぱいいっぱい」の状況で上を下への大騒ぎでやっ
ていることを、皆さんは負担は増えるけれど生活の延長として自然にやっている。そういう水面
下の努力は全く知られていないし、ごくごく普通に会話をすることがどれほどタイヘンなことか
も解かっていない。なにしろ、「或る人の・立場で・個人的な見解」を述べられることが、「自
分の存在を否定される」ことに直結してしまうので、「交流しない」という安全装置付きの掲示
板を作ったくらいだというのに…。
 こんなことなら、「普通」になどならずに、めちゃめちゃ奇異なままでいた方がよっぽど良い
と思う。
[2001年7月7日 9時3分0秒]

テーマ: 本当に頼りになるのは、だれ?   
 通院するために(いや、通院を口実に)、月に一度大都市の百貨店なんぞに行く。そこで、思
うこと。なぜ、こんなにたくさんの人がいるのに、「自閉症」の人に会わないの?
 こんなに、たーくさん人がいるというのに、「自閉症」の子ども(は、学校に行っている時間
帯だけど)や大人は、どこに消えているのか?
 でも、そこを歩くのに、一大決心してニンゲンにならなくてもよくて、薬も飲まなくていい人
が、こんなにもたくさんいるコトの方が驚きだ。

 ところで、最近、薬が効いていると、何の為に病院に行っているのか解からなくなる。もちろ
ん、この状態を維持するために薬をもらいに行くのだが、切らさないように心掛けているから、
見かけ上は何の不都合もない。しかし、下らない絵を描くこと以外他にすることもないので、何
やら薬をもらうために生きているだけのような気がしないでもない。
 しかしその、内情は、この状態が維持できなくなることへの「不安」に駆り立てられている。と
いうのは、いくら「抗そう剤」と「抗うつ剤」というありがちの処方だとはいえ、どう見てもワ
タシは躁鬱病患者には見えないからなのだ。増してや、「自閉症」になど全く見えない。まず
は、「高機能自閉症」の存在を知っていて、その症状に合わせた薬の出し方を知っている医者に
辿り着くことの困難さが解消しない限り、この「不安」は消えないのだ。

 ところで、またまた『にんげんゆうゆう』の再放送を見てしまった。
 覚せい剤中毒の高校生を、親身になって救おうとしていたのは、どこぞの医者ではなく高校の
熱血教師だった。その先生曰く、「非行や犯罪に走ってしまう人は、人に裏切られた経験を持っ
ていて、必ず"心の傷"を持っている。そこを、子どもを食い物にしようとする大人につけ込まれ
る。」って。・・・ふーむ、わかってるじゃん。
 やっぱり、最終的に頼りになるのは、治療室の中にいて・治療契約を結んでいる限りにおいて
だけ「良いこと言ってくれる」医者ではなくて、一人の人間ってことね。
[2001年7月6日 14時37分6秒]

テーマ: 最近、とても心配していること。   
 今の心境は、ジャングルから出て来たら、すっかり時代が変わっていて驚いている元日本兵み
たいなもの。洞穴から一歩外に出ると、社会的な"無"でしかないという現実には、毎日のように
直面している。
 なにしろ、かろうじて綱渡りして送っている日々の生活は、「自分に欠けているものだけをし
なければならない」という自己否定の所産であって、どんなに社会的な意義を強調されようとワ
タシにとっては"無"でしかない。自分の拠り所である「自閉症」という故郷は、元々は比較対照
のない平等な世界だったのに、今や現実世界が侵入して社会的な価値で選別される事態になって
いる。そこに社会的な価値観を持ち込まれると、ワタシは"無"になるかどっちつかずの宙ぶらり
んでしかない。
 ここのところ一週間、ずっと風邪をひいている。それに、夏休み前の打ち合わせやら、学校関
係の行事やら、月末〜月初めの仕事が重なっている。そんな時は、いろんなことを思い出して
(でも、フラッシュバックにはならない)、ろくでもないことばかり考えている。でも、それを
言語化すると同時にどこかに消えてしまうようになったので、これからは(と言っても、通院で
きる限りは)"思考内語"を書きつけて誤解を受けることもないだろうと思う。

 ここのところ、特殊教育の分野で急に「高機能自閉症」や「アスペルガー症候群」の認知度が
高まってきているので、今までのように家族に「発達障害」児・者がいる人ばかりが情報を求め
てやって来るとは限らなくなる。中には、厄介払いする資料を探しにやってくる人もいるだろ
う。
 それで、こちらからもリサーチする必要を痛感している。だから、「アンケート&感想」ペー
ジを作った。(あれやこれやをこっちから切ったので、いろいろ言われることは覚悟の上。で
も、直接的な攻撃には自然に反発するので、かえって強いからいいのだ。)
 それに、現状を維持できる限りは「大うつ病」状態にはならないだろうし、たとえ「うつ」状
態になっても表出する人格は崩れないだろう。だから、"してはならない失敗"のことは、もう書
かないと思う。
 ADHDの診断を受けた子ども(小4)が、「このままではタイヘンなことになる」と自殺し
たニュースもあるので、これからは"どうすれば失敗せずに済むか"という方向で持って行かない
といけないんじゃないかとも思っている。いや、やっとあっちこっち壊れていた自己の修復が終
わって、もう迷わなくなったというか余裕ができたんでしょう。

 そうそう、また壊れそうになったら、今度は清々と「音」と「色」と「形」の世界に逃げ込め
るしね。(誰にも解かってもらえない、誰にも言ってはいけないから、自分の居場所は自分で確
保した。)
[2001年7月4日 8時14分14秒]

テーマ: 『感覚統合』再考。   
 次男の担任の先生に、「いろんな物を噛む癖のある子がいるけれど、どうしてでしょう?」と
聞かれたので、『感覚統合』の本をちょっと読み直してみた。(今から、その当該児童のことを
書こうというのではない。)
 家で長男の『感覚統合』訓練をやっていた時に出ていた本は、「言葉の遅れ」「(狭義の)自
閉症」「精神遅滞」児が対象だったけれど、最近は学習障害(と言うより、「軽度発達障害」)
全般が対象になっている。

 その中に、気になる記述があった。

 もし皮質下で行われるべきことが大脳皮質で行われたとしたらどうなるでしょう。おそらく大
脳皮質本来の働き(認識、推理、判断など高次の精神作用)は片隅に追いやられ、代わりに一生
懸命眼球を動かしたり、焦点をあわせたり、聞こえる音に耳を傾けようと努力して大変な騒ぎに
なり、その結果、肝心の学習しようとすることはすっかりお留守になって、私達は疲れ果ててし
まうでしょう。逆にいえば、大脳皮質が高度な活動を行えるのは、感覚統合に関することを安心
して皮質下に任せられるからだ、といえます。
 もう一つ学習で大切なことに、人の情動との関係があります。つまり、主として大脳辺縁系の
機能との関係です。学習したことがよく記憶されるのは、自らしたくて楽しくやった時です。感
覚統合療法でいう適応反応は、この情動面を大切にしたものです。
             『感覚統合Q&A』佐藤剛監修/協同医書出版社(P169)

 「皮質下」というのは、感覚や運動や自律神経に関する機能をつかさどる部位。「大脳辺縁
系」というのは、感情と生きる気力に係わる部位。
 「自閉症」の程度が重い場合には、「皮質下」の機能バランスが著しく悪いことがよくある。
ワタシの場合は、知覚過敏は軽いけれど・協調運動障害があり・発作は起こさない代わりに慢性
的な自律神経失調状態にあり、何よりも「大脳辺縁系」に爆弾を抱えている。どちらにせよ、
「大脳皮質」は本来の仕事以外の負担を強いられている。更に時々、身体と精神がコントロール
不能なほどに暴走してしまう。
 『感覚統合』の本には、自分の子供時代に欠けていた事柄ばかりが書いてある。それを今、
「薬」で代用してやっているのだと思った。


 それから、ここのところ学校関係の会合で他の父兄と会うことが多く、その度に、「どんな子
どもでも、教えればできるはず」「できていないのは、親が教えていないからだ」という(大脳
皮質以外の脳の存在を無視する)発想が相変わらずこの国を支配していることを思い知らされ
て、辟易している。
 子どもの行動を解釈するには、注意や衝動性や情動といったことを含めた脳の実行能力の評価
が必要なことを全く知らない人があまりにも多い。それから、社会性が無いように見える行動に
も、対人関係が全く無くてやってしまう場合と、対人関係があるのに社会的でない場合と、社会
性がありすぎる場合とがあることなど、全く聞く耳持たない人が多い。(ただし、その「結果」
に対する評価ではない、その「理由」を考えようとするかしないかの違い。)・・・その前に、
そういう人はたいがい感情的な人なので、ワタシの存在自体がうっとうしくて全く相手にならな
いことが多い。
[2001年7月1日 12時0分0秒]

※本人以外の書き込みはできません。
テーマ



記事一覧に戻る