記事タイトル:コミュニケーションの鉄則 


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お名前: ペンギン   
補足。

自分に対して何度、いや何万回「バカ」と言い続けて来たし、今もそうだし、これからもやむ
ことはないだろうのに、繭子がたった一言「私はバカじゃないの?」って言ったことに対して、
放送コードに引っ掛る不適切な表現をしたとクレームをつけたことに憤ったということ。
本来ならば、全編通じて言い続けてしかるべきところなのに、放送コードに引っ掛ることは覚
悟の上かどうかは知らないけれど、一言だけセリフにしてくれて、一言ですませてくれた配慮
(?/偶然?)に苦悩の後が感じられたというのに…!
それから、『自閉症だったわたしへ』の最後に、ちゃんと「本作品の記述、表現の中には、差
別的表現ととられかねない箇所があります。しかし作者の意図が、差別を助長するものでない
ことは明白ですので、原文どおりとしました。読者各位のご賢察をお願いします。」って書い
てあること、どれくらいの人が気づいているのだろうか?

      *   *   *   *   *   *   *   *

そういえば、昼間何気なくテレビを見ていたら、「前任者の半分しか酒を飲まないのなら、取
引も半分にする。」なんていう理不尽な要求をされて、無理無理接待に付き合っていたと、或
るサラリーマンが言っていたっけ。
こんな人間関係を強要されている人が、「他人に思いやり」の気持ちが持てるはずもないし、
みんな我慢して、イヤなことでもやっているのに、「出来ないからやらない」とか「私はこう
いう人です」なんてズケズケと言って大きな顔をしているのは、きっと許し難き大罪人なんだ
ろうな!                     ↑ 
                    つまり、私みたいなの。
[2001年4月27日 17時2分21秒]

お名前: ペンギン   
そういえば、先日「ADHDの子どもは、やりたくないことから逃れるために、平気で嘘をつ
きます。そのやりたくない・できない理由を分かってあげるのはいいけれど、嘘をついている
ことは見破って、舐められないようにして下さい。」と、小学校で頼んだ時のこと。
去年一年間、ADHD児の行動を実際に見て来た先生方はうなずいていたが、4月の異動で来
たばかりの年配の先生は、「何でそんなことを言うの!」とばかりにムキになって次男のこと
を弁護していた。そういうのも、こちらは「事実」を言っただけで、それに対する価値判断、
つまり「嘘をつくのは悪い子だ」という評価は一切せずに「それで通ってしまうことを学習す
ると本人のためにならない」という意味で言ったのに、「悪い子扱いした」みたいに受け取ら
れたのだろうな?

しかし、こういうことって、○○大学の教授だとか△△病院の□□先生が言うと、「はあ、さ
ようでございますか。」と傾聴するのに、一般人が言うと信憑性がないんだろうな。
更に、感情語を一切交えず、感情語の恐さを知らないアスペが言うと、とっても冷たくて攻撃
的に聞こえるんでしょうね!?
[2001年4月27日 14時44分35秒]

お名前: ペンギン   
例えば、人に対して「太っている」とか「ハゲている」とか言うことの社会的・文化的意味は、
基礎となる社会的感情がない人には、本当の意味では理解不能だ。
確かに、他者の存在に気づき「心の理論」を獲得する以前の子ども時代には、遠慮えしゃくな
くそういうことを直接相手に対して言っていた。でも、ひとたび「太っている人に対して、
太っていると言うことは失礼だ。」「ハゲている人に、ハゲていると言うことはいけないこと
だ。」と学習すると、今度はそれに強く固執する。そして、そういうことを言う人に忠告する
ようになる。
                         /ここまでは、「自閉症」の場合の話。


しかし、学習する必要もなく分かっているはずの健常者は、堂々とそういうことを言って平気
な顔をしている。それが、「お笑い」だったり、「イジメ」だったりする。健常者は、そう言
われた時に生ずる心情を身をもって知っているからこそ、笑えるのだし、人に対して有効な
「イジメ」の手段として使うのだ。
でも、中には健常児なのに、経験や躾が不足しているために「他人の痛みをわからない」子ど
ももいる。わかっているからこそ意地悪をする、もっと卑劣な健常者もいる。自分が姑さんに
イジメられたから嫁が来たらイジメてやろうという「嫁いびり」とか、自分が受けたのと同じ
苦しみを他人に味あわせないことには気がすまないとか、自分が言われて不愉快に感じたこと
をその立場に立った人に言うことで恨みを晴らそうとか…。

相手に対する「思いやり」とか「想像力」が欠けているのは、どちらの方だろう?

それから、『君が教えてくれたこと』の中で、繭子がたった一言「私はバカじゃないの?」って
言ったことに対してクレームをつけた健常者って、何なんだろう?(確かに、パニック起こし
ても、それほど奇異に見えなくて可愛い繭子の発言だから、それほど切迫感がなかったのも一
因だとは思うけど…。)
未診断・未治療で、家族が味方してくれるどころか、一番ひどい逆の扱いを自分の家族から受
けて来た発達障害児が、自分に対して何度、いや何万回「バカ」と言い続けて来たか。どれだ
け、自分を責めて来たか。
そして、ありのままの自分を否定しない人に始めて出会った時、どれほど嬉しいものか。また、
自分の行動や考えていることを全て見通された驚きが、いかほどのものか。繭子が「私のこと、
全部わかっている。」と言った時の心境がどんなものだったか、つまり、初めて自分の存在を
肯定することが出来たというのは、どういうことか。

そういうことが「本当には分かっていない」ってことを、分かっているのだろうか!?
そして、「自閉症」児・者のことを学習して、「自閉症」児・者との付き合い方のルールを守
ろうと努力するだろうか?
[2001年4月27日 14時22分42秒]

お名前: ペンギン   
今、こういうことを考えているというのは、既にフラッシュバック想起の連鎖が始まっている
ということだ。そこにいるだけでも辛かったこととか、思い出しただけで恐くなってしまうよ
うな映像や音声が、繰り返し再現され始めている。

そこで、「キケンを感じて、SSRIを飲んだ。」なんて書くと、"薬漬けになっている"ように
言われる。(でも、事実そうだから、仕方ない。)しかし、これを止められずに、何日も犠牲
にして過ごすよりも、こうした方がよほど賢明で前向きなのだ。しかも、わざわざ書きたてる
と特別なことのように思われてしまうのだろうけれど、これが普通の日常の有り様。
それから、長男と次男のADHD同士の興奮・家中のADHD状態のこと、お互いにお互いの
やけぼっくいに火をつけ合うような長男のASと次男のADHDのちょっかい出し合いの喧嘩
のこと、長男のASと私のASの双方で「自分の言いたいことは饒舌にしゃべるけれど、人に
話しかけられるのは嫌い。」のぶつかり合い。これでパニックになっていたり、躁状態・鬱状
態のどちらでも易怒的(一般的な表現ではイライラ)になるので、そういう時にいろいろ書く
と、こちらは実況中継して教えているつもりでも、怒っている・批判している・攻撃している
ということになってしまう。

こういうことをわざわざ書くから、新しい火種を自分で作る。ほ〜ら、「やっぱり、自分を守
る力が弱い。」←これは『にんげんゆうゆう』で「アスペ・エルデの会」の会長さんが言った
        言葉だ。

「自閉症」児・者が身近にいる人は、「平穏無事に過ごせる日なんて滅多にない」し、「そう
いう日があるとホッとする」ことを知っていると思うけれど。
[2001年4月27日 9時30分56秒]

お名前: ペンギン   
本人同士を無防備な状態で直接係わらせると、その現場では何事も起きないかもしれない。
何故なら、現場では言われたことの意味が分かっていなかったり、質問に答えることに意識が
集中して余裕がないから。
しかし、後になってお互いが別個に、その時の会話を映像付きで再生し続ける。そうしている
内に、その発言の意図を自分なりに解釈して「こういう意味だったに違いない」と固執すると、
それについて考え始める。そして、そこから抜け出せなくなってしまう。

もし、本人の集会を開こうというのなら、お互いを直接係わらせずに、一緒に何かを見たり聞
いたりするのは良いけれど、その評価についてはその場で聞かずに別個に考えればいいような
場面を設定するようにした方がいい。
趣味的な興味や固執しているものが一致しているとか、共通の話題がある者同士だと分かって
いれば、そのモノを媒介として会話ができるので、直接衝突するようなことがない。

それから、一人一人、元々の「自閉」の程度・プロフィール特性・合併症が違うので症状も臨
床像も千差万別。従って、当然、成育史も、抱えている問題も、「自閉症」観も、要望も異な
っている。また、或る人には重大な関心事であることが、別の人には二度と思い出したくない
トラウマだったりもする。
他者の発言などを、説明したり、解説したり、通訳できる仲介者なしに、「自閉症」者をたく
さん集めるのはキケンだ。

それが、「間接的・客観的な方法で応えることと、無関心であることとは、まったく別のこと
なのである。」ということ。
[2001年4月27日 8時9分23秒]

お名前: ペンギン   
「愛している」だの「好きだ」だの「好意を持っています」だのということを、わざわざ相手
にわかるように(言語・非言語的なコミュニケーション手段を使って)表明したりすることで、
人と人は関係しているのかもしれない。
そして、「悪いことをいっぱい書く」=「嫌悪感や敵意の表明」ということに、自動的になっ
ているのだろう。それで、意図的にそうしたりもするし、悪意がない場合には一言も二言も断
わりを入れて誤解されないように配慮したり、良かれと思うからこそアドバイスするのだとい
うような弁明を懸命にするのだろう。

それができないというのは、傍から見るとものすごーく不利なことなのかもしれない。

でも、私はそれでいい。
[2001年4月22日 23時58分33秒]

お名前: ペンギン   
でも、そういうニンゲンの志向性を感じてしまうと、本当に何もかもイヤになって、ぜーんぶ
やめてしまう日が、いつかきっと来るだろうと思う。
[2001年4月22日 23時49分22秒]

お名前: ペンギン   
その「行き違い」を、徹底的に晒すこと。こちらから、その様を観察すること。
でも、私は確か、「自閉症児のすること・言うことに、感情をつけて解釈してはいけない。」
と、書いたはずだ。
いや、これは一人の自閉症児を受け容れるために、私がその親たちに再三警告したし、何年も
かけて教えてきたことだ。でも、これができるようになる人は、あまりにも少ない。
(ある意味、テストしているようなもの。)
[2001年4月22日 23時28分46秒]

お名前: ペンギン   
人は、何かを訴えたり・何かを伝えるために、「書く」という行為をするらしい。
それから、「書かれたもの」から、その人の感情や書かれている人に対する距離や関係を「読
み取り」、それに対する自分の「意見」を抱いたら、それを書いた人に向かって「伝え」て、
その考えや気持ちを「変えよう」としたり、その意見は「間違っている」とか「許せない」と
か表明するというようなことを、ごくごく自然な行為としてやっているらしい。

しかし、私は「記録」しているだけだ。
それで、最近気がついたのは、「事実」を報告しようとして事細かに、しかも再三にわたって
くどくどと書き連ねると、「事実」ではなく「訴え」や「怒りの感情」と受け取られてしまう
ということ。
しかし、私は特にそういう勘違いをされやすい。それは何故かというと、実際に起こった出来
事やその時の人々の様子や自分の気持ちを全く書かずに、「用語」の解説と現象に対する自分
なりの「解釈」を書いているから。
それで、どうやら私は常に「怒り心頭」状態のように見えているらしい。よく、そういう書き
方を「やめてくれ」とも言われるけれど、私は「それしかできない」ので「それしかやりませ
ん」。だから、これからずーっと世の中の片隅に引っ込んで、本当に消えてしまう日まで余生
をの〜んびり過ごします。

それから、もう「大うつ病」になることはないと思うけれど、もののはずみで鬱状態になって
自殺念慮が起きている時は、絶対にパソコンを立ち上げないこと。強迫観念が出て来たら、早
い内にSSRIを追薬すること。躁状態の時とパニック状態の時には、書き込みをしないこと。
鬱病の心身症である睡眠逃避が起きそうになったら、抗不安薬を追薬すること。これは、大切
なことだ。
今まで、本当に、単に頭の中に浮かんだ言葉を吐き出すために「何の気なしに、しゃべってい
た」し、「ただただ、記録していただけ」だった。しかし、人はそれらすべてに「感情」を抱
き「情動行動」をするという形で「人に係わって」いて、それを巡って言葉の遣り取りをして
いたのを知ったら、そのこと自体がとても恐ろしい。(決して、自分の真意が伝わっていない
とか、実際の有り様を全然知らないことに憤っているわけではない。こちらとしては、「上辺
だけ見て、上手く行っているように思われてはかなわない!」、という姿勢を貫こうとしてやっ
て来たことが、どうやら悉く裏目に出ているようだ。

でも、本当は、「こういう努力を重ねれば重ねるほど、どんどん逆効果になって行く」こと自
体がありのままの私の在り方で、それでやっぱり窮地に追い込まれて「ざまあ見ろ!」と言わ
れて本望なのだ。
そうそう、去年、岐阜で行われた最後の「アスペの会」の全体集会の時、勉強に来ていたドラ
マの出演者に「この子たちは、すぐ怒ったような口調で話しますけれど、そう聞こえるだけで
全然怒っていないんです。でも怒ったように誤解されてしまって、トラブルになってしまうん
です。」と解説していたのは、誰だったッケ?・・・私は、その会話の状況を、そっくりその
まま覚えている。しかも、どこの課題部屋の・どういうところで・誰が誰に言った言葉で・そ
の現場に居合わせていたの誰かということも…。でも、その当事者は、きっと誰一人として覚
えていないでしょうね。
[2001年4月22日 23時24分18秒]

お名前: ペンギン   
「直流」というのは、敢えて直に応えずにわざとすれ違いにすること。
苦しくなったら、黙って立ち去ること。

杉山先生が、ある本に書いているように、「自閉症」との付き合いが長くなると、
誰しもちょっと知ったような気になってしまうものだけれど、「外側の皮をむけば、
閉じ込められていた普通の人間が出て来る。」とは思わないほうが良い。

そう、閉じこもっているわけでもないし、拒否しているのでもない。自分なりの
やり方で、繋がろうとしているのだから。
[2001年4月20日 22時32分29秒]

お名前: ペンギン   
「アスペ」を診断・治療すると聞いて、ほとんどの人が誤解していること。

1、まだ研究途上の発達障害なので、早期発見・早期療育によってどれだけ症状を軽くできる
  かということは分かって来ているけれど、未診断・未治療で経過した成人については方法
  論が確立されていないことを知らない。
  成人の場合は、まず診断を確定できる臨床的な特徴が薄れているので、現在の状況だけで
  は判断がつかない。「自閉症」の三つ組の基本的な特徴をよく知っている医者が、聴取し
  た生育歴と合わせて診断するしかない。しかし、現時点でも明らかに「障害」の範疇に入
  っているかどうかを第一の基準にしてしまうと、除外規定を優先されてしまう可能性があ
  る。
  それから、合併症のヴァリエーションがあまりにも多いので、受診した当初はそういう明
  らかな精神疾患の治療が必要なことが多い。そこで、「自閉症」という基礎的な素地を配
  慮せずに、現象的な症状への対応だけをされてしまうと、選択する治療法や処方を誤まっ
  て、逆効果になってしまうだろう。
  子どもの「自閉症」を見抜ける医者さえ少ないのに、成人の診療にあたっている精神科医
  のほとんどが全くこのことに無知だというのは、大問題だ。

2、「アスペを治療する」というのは、「できないことをできるようにするということではな
  い」ということを知らない。
  自分の特異性を知って、今まで縛られていた罪悪感から解放すること。それから、不利な
  状況に自分自身を追い込まないようにすること。「できることをできるような状態」を作
  り出すので、結果として困難が減る。

3、「アスペのコミュニケーション障害を治療する」というのは、ただ単に「人とコミュニケ
  ーションを取れるようにいろんなことを教える」ことではないということを知らない。
  「自閉症」らしいエピソードがなくても、「自閉症」という形態で人と係わっている人だ
  ということを前提にして、周りが接し方を変えることが大切なのだ。つまり、「同じ場面
  にいながら違うことを感じて・同じ言葉を違う意味で使っている」ことを知って、それに
  合わせてあげること。そうして、「意味の通じる会話ができる」と、結果としてコミュニ
  ケーションができるようになる。
  「何かを教えるのではなく・何を感じているか教わる」のだ。それにそって対応すればこ
  そ、気持ちが通じるようになる。本当に「うれしい」と感じることを誉めてもらえば、素
  直に「うれしい」と感じることができるのに、うれしくも何ともないことに「喜べ」と言
  われたのでは、喜べるはずもない。
[2001年4月17日 8時42分14秒]

お名前: ペンギン   
普通の人は、「思考様式にどういう社会的制約を受けていて、どういう方向で考えているのか。」
それがわかったら、私には絶対に理解できない領域に関わることには口出ししないこと。
[2001年4月16日 8時21分2秒]

お名前: ペンギン   
直接係わると、システムが暴走して危険。
「すれ違い」が、アスペのコミュニケーションの鉄則。
永く続けたい時は、特に。
[2001年4月15日 11時49分43秒]

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