記事タイトル:2001年5月の「日記」 


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テーマ: 今月の〆。   
って、別に、毎月毎月「〆る」ことはないのだけれど…。

もう、「自分」で「自分」を否定することはない。
[2001年5月31日 17時49分32秒]

テーマ: 「天国」と「地獄」。   
いつもいつもワタシは、「怒ったような顔」をしていて、しかも「こちらが面倒をみる」一方
の人を選び、「ワタシのことを怒っている」と思ってビクビクして過ごして来ました。(寺で
の本当の師匠も、そういう人でした。だから、この人のことを表す時には、必ず「いちおうの
師匠」と書きます。ワタシの育ての親になったのは、「いちおうの師匠の姉弟子」と「いちお
うの師匠の師匠」です。)
ずっとずっと、そういう「否定的関係」以外のニンゲン関係の在り方があるなんてことも知ら
なかったので、別に何とも思いませんでした。だから、それが「辛いこと」だと自覚したのも、
まるで「天国」のような「肯定的関係」(=「アスペの会」)と接触するようになってからで
した。

「人間って、深いね。」
これは、岐阜からの帰りの新幹線の車中で、TBSの山崎プロジューサーが"ともさかりえ"
さんに言ったコトバだそうです。
が、山崎さんがああいうややっこしい設定のドラマ『君が教えてくれたこと』を企画してくれ
なかったら、ワタシがここまで「自分のこと」を考えることはなかったでしょう。そもそも、
あのドラマがなかったら、ワタシは「自閉症」とは何か? という基本を知ることもできなかっ
たし、第三者である治療者に対して「自分のこと」をしゃべることもなかったでしょう。ねっ、
「人間って、深い」でしょ!
こんなことを書いても、イヤミとしか受け取ってもらえないかもしれないけれど、私は全然
怒っていません。ただ、いろんなことを思い出すキッカケになって、辛かっただけ。本当に、
とっても感謝しています。だから、目を逸らす必要はありません。(怒ってないのに、「怒っ
ている」と言われたことには、怒っていますが…。でも、それを言った人には怒っていない。)

「知らないだけです。」「解からなかったんでしょうね。」
(これを言ったのは誰かということは、書かない約束をしているので絶対に書きません。)
で、ワタシは、"知らないでやったこと"と"解からなかったこと"に対しては、「怒る」という
ことをしません。
何故なら、ワタシは、ニンゲンの心的表象に対してではなく、こういうコトバに対して考え・
行動しているので…。

だから、相手方がいない。最初から最後まで、「自分自身」との闘い。「世の中」との終戦協
定が締結されることはあっても、この「闘い」には、終わりは来ないでしょう。


そして、今日、始めて知ったこと。
 「自分自身」の本当の気持ちで流す涙には、抗うつ剤は要らない。
この「涙」は、止めてはいけない。丁度、一年前、本当の「自分自身」を取り戻す恐怖に、本
当に震えていたのと同じように…。
[2001年5月31日 10時3分27秒]

テーマ: 「肯定」と「否定」。   
「感情転移」とは、「過去における重要な人物に向けていた感情や態度を、現在の人間関係の中
で、ある人物に対して無意識的に反復する」こと。(『精神科ポケット辞典』より)

ワタシの場合は、相手がいないので、"過去における重要な人物に向けていた感情や態度"を、誰
に対しても向けていない。あくまでも、「自分自身」との闘い。

そりゃあ、ワタシは、その場面場面で人が交わしている言葉を覚え・そこらへんに書かれてい
る文字という文字を読んで、"人に言われる前に、先回りして"なにもかもやってしまったのだ
から、傍目にはものすごい「イイこ」だったんでしょう。
その実、"ニンゲン界の振る舞い"は完全パターン化してサッサと片付け、常に自分の感覚世界
にしっかりと根っこを張っていた。ニンゲン界にいる時は、「怒られないで切り抜ける」とい
う理由づけで切り取られた、切り絵でできたヒト型に成りすましていた。
一方、親の方は、ワタシに何一つ役に立つことを教えもせず・安全に暮らすための防衛手段も
用意せず・進むべき方向さえも指し示しもせず、未だに「だっこはいけない・甘えさせてはい
けない・個室を与えて自立心を養え」という『スポック博士の育児書』の通りに子育てしたの
が悪かったと言い張っている。(よーするに、自分たちは一切"こそだて"をしていないという
こと。)
 普通なら、「親はなくても子は育つ」。何故なら、子は自分の感情や欲求を動因に行動し、
友人から身の処し方を学べるから。しかし、もともと「全てが自己完結した世界」の住人だっ
たワタシは、同世代の友人からの感化を全く受けないまま、すべてを自分自身の中で純粋培養
してしまった。それで、"できないこと・わからないことがほとんどない"「軽度の自閉症/ア
スペルガータイプ」の原型のまま成長できてしまった。
しかし、本当にワタシを育ててくれたのは、寺の庵主さん(いちおうの師匠の姉弟子)と老師
(いちおうの師匠の師匠、とにかくものすごい人)だった。この人たちこそが、ワタシの真の
両親だった。それも、ワタシは自力で探し当てた。社会人としてのワタシの成型を作ったのは、
この人たちの「教え」だった。・・・それで、「ニンゲンのことは全て判った」と思い込んで
過ごした時間は、十五年。完全に壊れました。

では、「両親」という"過去における重要な人物"に向けるはずだった、「叶えられなかった感
情や態度」は何かと言うと、それは決して、「愛」でも「甘え」でも「だっこ」でも「怒り」
でもありません。
あくまでも、「ワタシの言動の根元にあるモノは自閉症だと理解して、何を聞いてもちゃんと
説明してくれて、安心させてもらいたかった」ということ。

「ワタシのこと、何でも知ってる」と思える人。本当に欲しかった。
[2001年5月31日 8時18分12秒]

テーマ: 間に合って良かった。   
サーバーの接続不良のため、管理用ファイルをほとんど消してしまった。

でも、こちらで保存してあったデータを再送信して、復元。
(過去ログ取っている人の苦労を味わう?)

今月中に書き込めて、良かった。(でも、記事数が倍。←教訓のため、直さずにおこう。)
[2001年5月31日 1時24分40秒]

テーマ: [2001年5月30日 23時11分34秒]   
テーマ: ∞∞∞∞∞∞…。    

別に、弁明するわけじゃないけれど、この治療順序は間違ってはいない。

もっとも、一番ひどかった時でも「お出かけモード」のワタシは非常に気丈者なので、とっても
そんな風には見えていなかっただろう。
しかし、抗鬱剤が効き始めた時、一週間、二週間と経過するごとにハッキリとした気分の変化が
あったし、三ヶ月後には顔の表情も見違えるようになった(と言われた)。ここまでが、急性的
な「大うつ病」の治療。だいたい、半年間。それから、ほぼ慢性化していた二次障害の「うつ」
と心身症が抜けるまで、約一年。
「うつ」の原因になっていた"過剰なニンゲン化"から解放するために、一度完全に、ニンゲンの
形に合わせ過ぎて変形してしまった"ワタシのヌケガラ"を破壊する必要があった。まず、「普
通・人は・こうするものだ」という「強迫観念」をSSRIで除去。それから、知らず知らずの
うちに身体症状に転換していた過重な負担と無理の源である、「接待」と「交際」のシステムを
解除した。ただし、これはニンゲンとしての「義務」なので、これを止めるのに伴う心理的な負
担と良心の呵責を麻痺させるために、抗不安薬の力を借りた。

だいたい、最初から最後まで、自己完結した世界から一歩も外へは出ていなかったのだ。「自
分」という文脈に「他人のコトバ」をちりばめて、それがあたかも自分の言葉であるかのような
ふりをして使っていただけなのだ。
最初から最後まで、「自分との闘い」だったのだ。で、最後の決戦も、やはり「自分自身との闘
い」。ワタシは今、その戦火の真っ最中。

それはまるで、ドナがウィリーとキャロルという、"ニンゲン向けサービス"のためだけに作り上
げたキャラクターの葬式をした後に、自分探しの旅に出たのと同じなのだ。ただ、ワタシには
「新天地」もなければ「新しい自分」もない。と言うより、必要ない。だって、1人前の社会人
に成るために不可欠の、"できないこと"と"わからないこと"がほとんどないから。
・・・おっと、また、ドナと私とでは「自閉」の重度さの質が違うと嘲笑されるところだ、自分
自身から。だって、私が闘っている最後(?)の敵、それは「(外見上も能力上も全く普通にも
かかわらず)みんなそれぞれに"言うところ"を持っているのに、自分一人だけそこから抜け出そ
うなんてズルイことを考えるんじゃない!」という足枷をワタシにはめ続けている、両親の影。
[2001年5月31日 1時20分0秒]

テーマ: [2001年5月30日 14時57分28秒]   
テーマ: まるで…。    

まるで、〈実験用ラット〉の"行動観察"でもしているみたいだけれど…。

久しぶりに、「抗不安薬」を飲まない状態で外出してみた。
やはり、光がまぶしい。それに、匂いや化学薬品などのいろんな感覚刺激が、突き刺さってくる
感じがする。
家にいても、身の回りが気になる。「雑然」としているか「整然」としているかのどちらか、に
したくなる。
ここのところ楽をしすぎていただけで、もともとこうだったのだから、まあ、こんなものだ。

実は、抗重力姿勢保持の困難がある私には、ベンゾジアゼピン系の筋弛緩作用は、ちとキツイ。
行事前の過緊張や心臓神経症のなどの不安症状が出てから、頓服するようにしたい。
ただ、そう思って量を減らした時に失敗しているので、要注意。

でも、今回は「感情調整剤」にバトンタッチしたから、きっと大丈夫だろう。
しかし、あんまり喜ぶと失った時のショックが大きくなるので、控え目にしておこう。
それから、あんまり事細かに書き過ぎると、「こんなに内省力があるなら薬なんかいらないはず
だ」と思われても困るので、そろそろやめにした方がいいかもしれない。
[2001年5月31日 1時19分1秒]

テーマ: [2001年5月30日 9時4分41秒]   
テーマ: "やさぐれ"思考の素。    

「どうせ"やさぐれ"」なんて言葉は、最近、次男がご執心の『こげパン』のセリフなのだが…。

どうせ、ワタシがこんなことを書いたって、「誰も信じない」「考えすぎ」「大袈裟だ」「バカ
バカしい」「アンタなんかとはレベルが違う」と笑われるに決まっている、と思いながら書いて
いる。

何故なら、ズ〜ッとこう言われ続けて来たから。

しかも、「誰が・いつ・どこで・どういう状況で・私のどんな発言に対して言われたか」、ワタ
シは鮮明に記憶している。
今、その場面の一つ一つをズラズラ思い出しているのだが…。そーゆーワタシを冷静に傍観して
いるワタシがいるなんて、不思議な状態だ。
[2001年5月31日 1時15分32秒]

テーマ: [2001年5月30日 8時29分26秒]   
テーマ: 「入力」と「出力」。    

私が飲んでいる抗不安薬は、ベンゾジアゼピン系(薬品名:アルプラゾラム/商品名:コンスタ
ン・ソラナックス)。
どうやら、これには、脳&自律神経系の過活動を抑える働きがあるらしい。それで、感覚・認
知・思考の過敏性がおさまるだけでなく、筋緊張などの身体症状も緩和するわけだ。

一方、感情調整剤は、本来は抗けいれん薬(薬品名:カルバマゼピン/商品名:テグレトール・
テレスミン)。
こちらはもともと、「てんかん」の精神運動発作(部分複雑発作)を鎮静するための薬だから、
発作がおさまるとか躁状態にならないという観点で観察される。
で、私には、発作はないし躁状態になってもほとんど外見上の識別は不可能。だけど、主観的に
は、服用すると何が変わるのかハッキリしている。この薬は明らかに、「情報処理」の過激さを
抑制してくれている。

医者や周囲の人にとっては、何にどう効こうと「出力」系が治まってくれればいいのだろうけれ
ど、私は「入力」を取るか「過程」を取るかを選択できる。
今のところの感触では、「入力」情報に多少の鋭さがあっても、処理「過程」で抑制をかければ
なんとかなりそう。テグレトールは、むやみやたらに全体的に鎮圧するのではなく、「出力」行
動が過激になりそうになった時にもブレーキをかけてくれるから、こちらを中心にした方が良さ
そうだ。(但し、情報整理のためには、もう一つの薬、SSRIの援軍も必要。)
ワタシ(の「理性」?)が、ハッと気づいたと同時に制止命令が出るらしい。前頭葉の、脳全体
の活動バランスを統制する機能が活性化するのだろうか?
[2001年5月31日 1時14分41秒]

テーマ: [2001年5月29日 22時26分56秒]   
テーマ: 名前が知られるようになるということ。    

知的障害が軽いという意味での「軽度発達障害」、という「障害概念」が存在することが知られ
るようになって来た。
そうすると、ADHDでもアスペでも、誤解される危険もまた拡大する。世を騒がせた事件報道
のイメージの独り歩き、そして、「どこにでもいる、普通の子ども」じゃあないのと勘違いされ
ること。
それに、「自分で読み書きできて考えることもできるのだから、分かっているならやれるはずで
しょう。」「努力が足りないだけじゃない。」「みんな、必ずしも自分の能力に満足していない
し、自分の思い通りに暮らせているわけじゃないのに、甘えるな。」と言われてしまう。「何
故、普通の子どもをわざわざ障害者にしたてる必要があるのか。」という意見は根強い。

でも、知的障害が軽いからこそ出現する新たな問題がある。それは「自分ではどうしようもない
こと」なのに、その結果に対して責任を負わされる続けることで、「自分が悪い」という罪悪感
を感じてしまうということ。しかも、それは「障害」が軽くなれば軽くなったで重くなる。
社会生活が出来ないとなれば、非難の的になるだろう。でも、社会的な役割遂行能力があればあ
ったで、人との係わりが深くなるので摩擦が大きくなる。
人の顔が全く見れなければ・声のトーンの変化に気づかなければ、無礼でわきまえのない人と言
われるだろう。けれど、人に言われたことは記憶に残っても、「自分のどこが・どうおかしかっ
たのか」わからないままでいられるかもしれない。
それは、当事者にしかわからない。が、それでうつ病になって何万人もの自殺者が出たとして
も、部外者は真剣に考えようとはしないだろう。

これからの一番の問題は、全ての人がこういう「障害」を理解しようという方向で手掛かりを求
めて来る・自分探しのための足掛かりを求めて来る、とは限らなくなること。
排除・撲滅するための、材料探しにやって来るかもしれない。
                         ・・・まるで、現実世界と同じように。
[2001年5月31日 1時13分51秒]

テーマ: [2001年5月29日 14時47分44秒]   
テーマ: 卍⇒へ    

言葉の遅れや、行動障害や、集団活動への不適応、軽度の知的障害、学習困難、実行能力障害な
どがあって、始めから「障害者」扱い・「問題児」扱いされたりイジメにあってきた人たちは、
一生懸命に↑を目指している。

でも、ワタシにはそういうことがなくて、「厄介モノ」扱いされたことはない。それどころか、
外見上まったく普通。けれど、本人にしてみれば「これでいいのか&間違っていないだろうか
?」と終始不安で、「わけがわからないこと&説明のつかないこと」ばかりが起き続ける恐怖と
隣り合わせ。
で、結果的に全ての接続端子を閉じて卍型にして、人々から孤立することに決めたのだった。そ
して、ニンゲンに係わることは↓方向に向かうだけにした。つまり、ニンゲンの行動を念入りに
研究して、「言われる前にやってしまう&言われたらやめる」という形で自分の行動を規定し、
常に自分を外に置くことに成功した。
結局それは、全面的に自己否定することに等しかった。実は、その間ずーっと、ニンゲンたちが
何をしていようと、ピアノの音・鐘の音・風鈴の音・鉄を打つ音を聴いていたのだが、それでイ
ヤなことをご破算にして遣り過していたわけではない。だって、自分が「イヤなことをやってい
る」「無理している」という自覚さえもなかったから。ただただ、絶対的な至上命令があるのみ
で、その負荷がモノの見事に身体症状に転換されていたことにさえ、全く気づいていなかった。
だから、その間は不幸ではなかった。(その分、気づいた時のショックは大きかった。)

一匹オオカミ型は、何も珍しくはない。「双極性障害」のような合併症がなく「価値の引き下
げ」をせずにすんだ人たちは、何らかの不都合は感じながらも自分の「価値」を確信して、世の
中に散らばっている。
一口にアスペと言っても、明らかな「早期小児自閉症」から↑へ↑へと目指している人、かつて
の「障害」概念から外れていたために「障害」と認知されていなかっただけで実質明らかな「障
害」があって↑に向かおうとしている人、現在は╂だけど少しでも┿に近づこうとしている途上
の人、やっと┿に追いついてその位置を保持しようとしている人…、といろいろな立場がある。

それなのに、何故にこんなにも「自閉症」の程度の軽いワタシが大騒ぎしているのか?

やっぱり、それは"いけないこと"なんだろうと思っている。
だいたい、↓付きの卍だったものから、↓が取れてただの卍に戻ったからといって、┿や↑には
成れそうにない。ただ、そのままになるだけのような気がする。

確かに、現在は治療中だし、いろんなことを精算して整理している最中だから、ワカリマセン。

※テグレトールの血中濃度が安定して来た今何となく見えて来たのは、抗不安薬はそれほど必要
 なさそうだということだけ。
 でも、急性症状→二次障害とだんだんに引き剥がしていって、最後に本態的な症状が顕われる
 ようになって解かったことは、やっぱり「初めから穏やかでなかった」らしいということ。
[2001年5月31日 1時12分48秒]

テーマ: [2001年5月29日 9時51分17秒]   
テーマ: ↑と↓    

ワタシは、非常に理詰めにモノを観察している。脳の高次機能は、非常に良く働いている。
しかし、その容器である身体的は虚弱だし、知的機能を使いこなす使い手である「自己」の方
は、まるで幼児のまま発達が留まっている。
ニンゲンを見ても、具体的な肉や皮膚を透視して、その骨格のレントゲン写真を見るかのように
精神分析してしまう。或いは、何らかの「記号」にしてしまう。(その「記号化」の手段とし
て、かつては「精神病理学」の本を使っていた。それが今は、DSMやICDの「診断基準」に
置き換わっている。)
一方、具体的な身体としてのワタシは、現実世界に何も価値を見出せないばかりでなく、その現
実世界に布置された自分自身にも価値を見出せなかったというわけだ。(注:これは、二次障害
だと思う。)

でも、健常者というのは、そう簡単には「自分の価値に応じた水準まで価値を引き下げること」
に耐えられない生物のようだ。それで、何かの肩書きを付ける・ブランド品を所持するとか、玉
の輿に乗るとか、イイ女をはべらせるというような、それを付加することで自分の価値が上がる
モノを志向するのだろうか?
だから、自分の子が「障害」というマイナス要素を持っていることを素直に受け容れられなかっ
たり、現在はマイナスだらけだけれどいずれゼロになると思い込もうとして「障害」の持つプラ
ス面を過剰に評価したりしようとするのだろうか?
それから、障害児を持ったことで自分の価値が引き下げられたと感じてしまうので、うつ病にな
ってしまうのだろうか?(それに、世間体の悪さや世間との軋轢が加わるので、「うつ」で情緒
不安定になっている人は多い。)
[2001年5月31日 1時11分7秒]

テーマ: [2001年5月29日 7時57分17秒]   
テーマ: ┿と╂    

どうして、人は、「自分がこれだけの功績を上げた」「自分はこういうことをした」「自分のD
NAを残す」「自分が大事にされている」「役割としての自分ではなく、自分自身が必要とされ
ている(自分の役割に不満があるということではない)」ということを、後生大事に守ろうとす
るのか?
それは、恐らく、横にいる者同士で相互的に認められた「価値」のネットワーク=「┿」の世界
の住人にとっては、死活問題なのでしょう。

でも、「╂」に住んでいるワタシにとっては、皆さんが向いている「━」方向には無関心と言
うより、価値を見出せないことがほとんどなのです。「どうして、あんなモノがいいのか?」
「どうして、あんなことが大事なのか?」「どうして、あんなところにしがみついて、それを死
守しようとしているのか?」「なんで、あんなことを人に話して、しかも皆でそれを楽しんでい
るのか?」、解からない。

でも、そちらからすれば、逆のことを感じているのでしょう。
[2001年5月31日 1時10分9秒]

テーマ: [2001年5月28日 22時37分12秒]   
テーマ: ↓の説明と補足。    

何故、「精神分裂病」を意図的に外したか? それは、単に「精神分裂病」「分裂病質人格障
害」「分裂病型人格障害」と誤診されているケースがかなりいることに考慮したのではない。

だって、私自身、かなりそれに近かった時期があるから。でも、今、分析してみると、双極性障
害の精神病様症状と強迫観念とが組み合わさって、妄想を抱いているかのようになっていただけ
のように思うから。
で、いちばん違うのは、会話や思考の解体がなく、どんなに活動水準が低下しても拒絶・無言・
無感情(アパシー)状態にはならないということ。自我の統合機能の弱さから両価的な人格の交
代が顕著に見られる時でも、全体としてのワタシはちゃんと機能しているというところ。

それから、現在のワタシが安定しているのは、何も「薬」が当たったからだけじゃない。
自分の「こだわり」=自分の「モノの見方・考え方・行動様式」のままでいていい場所を確保し
て、そこでは疑問や不安を思いっきりぶつけられると同時に「自閉症」という一つの「価値」を
認められている、という安心感があるから。
そこの空間がベースキャンプになっているので、普段はひょろひょろ出歩いても落ち着いていら
れる。ただし、そこにいる人には、「車に引かれても死ぬな」と言ってある(いや、死ぬ前に誰
か後継者を指名してくれさえすれば良いのだけれど…)。あんまりひょこひょこ換えられるとな
ると、「薬」をくれるだけの人に格下げするだろう。だって、恒常性の保証がなければ、ワタシ
は、しゃべらないから。
[2001年5月31日 1時9分13秒]

テーマ: [2001年5月28日 19時22分59秒]   
テーマ: 『高機能広汎性発達障害』  
  
「合併症」と「薬物療法」について(P37〜46)、要約。

[合併症]
脳の機能障害と密接に関連するものから、心理的・環境的要因の関与によるものまで、合併する
ことが多い「障害」がある。中には、歴史的に本障害の特徴と考えられていたものもある。
よくみられるものは、てんかん・発達性協調運動障害・チック・感情障害(うつ病)・不安障
害・選択性緘黙症・消化器系に転換した身体症状・適応障害など。

[薬物療法]
「抗てんかん薬」は、てんかん発作がない子どもにも、興奮・衝動性・攻撃的行動がみられる時
によく用いられる。
「抗不安薬」は、二次的なストレスによる情緒不安定・心因性の身体症状を来した場合に投与さ
れる。
「抗うつ剤」は、憂うつ気分・焦燥感のために投与される。
あと、「睡眠薬」は睡眠障害に、「抗精神病薬」は攻撃的行動・いらいら・衝動的な暴力・かん
しゃく発作・チックなどに用いられる。

ついでに、ここに書いてあることに関連して、一言。「抗うつ剤」は強迫神経症には効くだろう
けれど、「自閉症」の「こだわり行動」の改善には効いていません。私の場合。(確かに、フル
ボキサミンは、強迫観念とフラッシュバックには有効だと思う。)

早く、『高機能広汎性発達障害』に書かれていることが、全国的な水準になって欲しいなあ。

それから、いかにも"厄介者"扱いしないで欲しいなあ。そんなに珍しくない、"隣人"ですか
ら。
[2001年5月31日 1時8分16秒]

テーマ: [2001年5月28日 15時49分40秒]   
テーマ: やっぱり、おかしなあたま。  
  
これだけガードしているのに、まだ、記憶の断片がちょこまかちょこまか突然飛び出してくる。
おそらく、最後に放った刺客(妖怪退治屋?)のテグレトールが、攻撃と防御・興奮と抑制の
バランスを保つために働いているのだろう。そこから先に、暴走することはなくなった。(た
だし、現在、副作用期間中につき、フラッシュバックを封印するためにSSRIの援軍を送り
こむのはやめている。)
それから、私は身体表現性障害ばっかりで発作系の合併症がないし、てんかん発作も起こした
ことがないので、「てんかん」はないはずなのだが…。
あの刺客を雇って以来、突然全身を電気が走ってビクッとなる(よく、寝ている赤ちゃんが起
こす、あれ)ことがなくなった。
どうやら、頭の中も体の中も、余計なルートに過剰な電流が漏れているみたい。
[2001年5月31日 1時7分13秒]

テーマ: [2001年5月28日 10時26分22秒]   
テーマ: 名刺でも作ろうか。    

もちろん、名前も住所も電話番号もメールアドレスも書かない。
「肩書き」なんて、始めっからないからない。

私は、高機能自閉症という「障害」を持っています。

◎いつも、ちょっと離れたところに座ります。でも、気にしないで下さい。
◎音・光・匂い・空気などに敏感なので、その場にいられなくなることがあります。
◎場所が変わると、誰だか分からなくなってしまうことがあるので、できれば「どこのどなた」
 か名乗っていただけるとありがたいです。
◎特定の話題にはとても詳しいのですが、人と打ち解けて話すことができません。ごめんなさい。
                                  /ここまでは、表面

◎時々、しゃべり方がきつくなったり、その場にふさわしくないことを言ってしまうことがあ
 るかもしれません。それで、気分を害してしまわれる方もいらっしゃると思います。
 もし、そういうことがありましたら、決して怒らずにそっと「ダメダメマーク」を出して下
 さい。
◎一度覚えた習慣を、なかなか変えることができません。それは「こだわり行動」と呼ばれて
 いるものです。少々奇異に見えるかもしれませんが、許していただけると幸いです。
◎言葉で言い表さずに、「何かを察する」ように求められても解からないことがあります。ま
 た、人に言われたことを何でも「命令」と受け取って、自分の意思表示ができないことがあ
 ります。そういう時には、混乱してしまうことがあります。
                                     /以上、裏面

これだけ長ければ、「手帳」にでもしましょうかねえ?

それでも、「お見知りおき下さい」とか「仲良くしてね」とか「末永くお付き合いを」なんて
いう、心にもない言葉は付け加えたくない。
本当は、「できれば、そっとしておいて」とだけ、ドでかく書いた「表札」とか「看板」を掲
げておきたい。
[2001年5月31日 1時6分22秒]

テーマ: [2001年5月28日 7時43分40秒]   
テーマ: 最後の闘い。    

ワタシが闘っているのは、
 「いつ・どこで・だれが言った」かハッキリ記憶している、人に言われた言葉。
                        ・・・もちろん、妄想や幻覚ではない。
 それから、「どこかに・しかと書いてあった」ことを組み合わせて作り上げた、"普通の人"
 の"普通の在り方・モノの考え方・実例による模範会話集"という『世の中事典』。

始めから相手方がいないのだから、最初から最後まで「自分」自身との闘い。

自我の統合機能と社会化機能が脆弱なままで、しっかりとした頑固な「自分」というものがあ
り、「自分」の世界を初めから持っている。・・・「関係性の障害」という「発達障害」。
そのままで、まとまった「自己」としての振る舞いを要求され、社会の成員としての扱いを受
け続けて来た。・・・「対人関係障害」という発達上の障害。
恐らく、生得的な素因が環境的なストレス因子によって増幅されたことで派生した「合併症」。
そして、知らないままで過ごしてしまった時間が引き起こした「二次的な障害」。

最初の一つで済んだなら、それほどたいしたことではなかったのだろうけれど…。
[2001年5月31日 1時5分19秒]

テーマ: [2001年5月27日 18時59分44秒]   
テーマ: ふたたびの舌禍事件。  
  
ADHDの次男とAS&ADHDの長男を単純に比較すると、「言葉」「認知」「理解」の障
害があるところは共通しているが、相互的な「気持ち」の遣り取りができるのとできないのと
では何が違うかが良く解る。

ADHD&LDの次男の方は、社会的な感情はあるけれど「注意の欠陥」のために「他人の気
持ち」に気づかない。また、言葉の理解が悪い上に、表面的な音で連想を繋げてしまうので、
薄情で思い遣りのない反応をしてしまう。
しかし、言葉の意味と他人の気持ちに気づかせてあげればいい。他者の複雑な心理状態は教え
なくても解かる。とはいえ、自分の方に「社会的な感情」が自然にあるので、欲求不満が多く
なり、自己防衛のための回避的行動をしてしまうのが難点。

AS&ADHDの長男の方は、「注意」を向けること・自分の「気持ち」・他人の「気持ち」
の全てを教えなければならない。しかも、知的ボーダーなので、「言葉」「認知」「理解」も
悪くてその場での「学習」も困難なのに、ワタシに言われたことをそのまま人に言う。そっく
りそのまま命令口調で言うけれど、状況判断が間違っている。
いくら、「他人の気持」を説明し続けても、やっぱりここで叱られる。一つ違うのは、過分な
「罪悪感」がないだけ。でも、「劣等感」を持ってしまうことは防げないだろう。

ワタシは、AS&ADHDの長男とADHDの次男を、単純に比較しているだけ。
でも、またまたADHDや知的ボーダーを非難していると言われるのだろうなあ?

分っているなら、やめればいいのに。
[2001年5月31日 1時4分18秒]

テーマ: [2001年5月27日 17時2分30秒]   
テーマ: 物解りの良すぎる自閉症。
    
具体物の視覚的画像と聴覚的な音列を含めた、その場面の丸暗記ができる。
それらの素材を組み合わせたり、比較する(同一と差異)ことができるので、概念形成が可能。
相手の動きや表情を機械的に真似ること(エコプラクシア)ができるので、それほど浮かない。
相手を観察することができるので、他者の顔かたちや表情についての認知が可能。
人の表情や声のトーンから、大まかな「快⇔不快」の識別が可能。

「言葉」「認知」「理解」には障害がないけれど、相互的な「気持ち」の遣り取りができない
        {社会的な感情がないので他者の複雑な心理状態が解らない}
       {言語を通じて他者と「気持ち」の遣り取りをする相互性がない}
                     ↓
そのことを、ずっと叱られ続けて来た/その言葉をそのまま記憶していて、想起し続けている
         {ワタシがしゃべりすぎること=人の気持ちを踏みにじること}
          {ワタシが人に係わり・しゃべること=人を傷つけること}
       {世の中の人は、ワタシのことを怒っている⇒存在していることが罪}
                     ↓
               この確信を、繰り返し抱き続ける
                     ↓
        しかし、黙っていられない・引きこもれない・係わってしまう
                     ↓
     「わからないことはわからない/できないことはできない/恐怖は恐怖」
      のまま社会に適応して、生活し続けている。

「わからないこと・できないこと」が多くてなかなか適応できない「自閉症」とは、かなり違
う特殊事情がたくさんある。
[2001年5月31日 1時3分20秒]

テーマ: [2001年5月27日 7時3分37秒]   
テーマ: 罪悪感。    

もっともっと困っている人が、たくさんいるというのに…。
ワタシみたいに軽度な人が、こんなに楽していいのか?

しゃべれない人・心理分析のできない人・抽象的&論理的な思考のできない人とは、違うとこ
ろが多いのに…。正に、言葉の遅れがある・内省できない・学習困難がある、という点で。
しゃべりすぎ・心理分析がこだわり・抽象的&論理的思考しかできないというのは、やっぱり
別の人種じゃないのか?

これって、まるでベトナム帰還兵の心境?
[2001年5月31日 1時2分20秒]

テーマ: [2001年5月26日 20時21分36秒]   
テーマ: Never Ending Story    

こちらからは何もせず、ただただ、ボ〜ッと眺めていたただけ。
そこに起きていることを説明し、それを見て思ったことを述べるためだけのコトバ。
見返りを求めることもなく、何らかの価値や意味があることも知らずにしていた行動。
そのことが、あっちこっちに迷惑をかけている。

出来ないことがたくさんあったのにそれを克服したとか、いろんなことが出来ないけれど理解
ある人々に囲まれてシアワセに暮らしている、なんていう感動ストーリーもない。
そんな分際で、大きな顔しておしゃべりを続けているなんてオカシイ。

自分だけでなく子どもまでも薬漬けにして、今日、初めて丸一日しゃんとしていられた。
過緊張もなく、気張りすぎもせず、ヒトに向かって話しているという違和感を感じることなく、
ヒトとの間の空気が浸透して来なかった。
その前に、触覚も白い光も気にならず、身体的な不快感がなく、自然に注意が外界に向いた。
家の中では、「テレビを見ながらテレビに話しかけても良いが、ワタシには話しかけるな」な
んていう決まりがある。
本当は跳び上がりたいくらいウレシイのに、この贅沢さ加減に罪悪感。

分っているなら、やめればいいのに。
[2001年5月31日 1時1分14秒]

テーマ: [2001年5月26日 10時12分3秒]   
テーマ: 出来ないことの少ない自閉症。   

意志伝達・・・できる。
自己管理・・・できる。
家庭生活・社会的/対人的技能・・・いちおうできる。けれど、その意味も分からずにやっていた。
地域社会資源の利用・・・できる。
自律性・・・ありすぎ。
発揮される学習能力・・・そこそこ。
仕事・余暇・・・怒られない範囲で。
健康・安全・・・まるでダメ。

要するに、困るのは本人だけってこと。
[2001年5月31日 0時59分53秒]

テーマ: [2001年5月26日 8時4分32秒]   
テーマ: NOからSOMEへ。    

今まで「無価値」だったものが、突然、「有意義」に変わる。
それで、新しい世界に乗り出して行けるのなら、シアワセだけど…。
今まで白黒だった画面に急に色がつくと、急には対応できない。
「知らないままいた方が良かったこと」まで、見えてしまうようになったから。

特に、「自分には価値がないから、こんな目に会うのだ」と思っていたことが、ニンゲン界で
は唯一のもので、それ以外のことは何も起こらないと分かってしまった。もう、逃げ場がない。

不安定な時は、「このまま終わりが来る」ことを確信していられた。
でも、ひとたび、安定と価値の世界を垣間見てしまうと、今度は「この安定した状態が、いつ
まで続くのかという不安」でいっぱいになる。で、結局、不安。

この"対象恒常性"の障害というのは、「パニック障害」を引き起こす精神力動だそうだ。
で、普通は、交感神経系が亢進するから発作が起きる。私は、副交感神経系が亢進するので、
動けなくなる。誰も気づかない。
もしかして…。この"対象恒常性"の障害というのは、「自分自身の身体的な感覚が希薄・運動
能力が脆弱・外界の相手方が恒常という認識がないので自分との関係性がない」=「生命維持
の危機を自覚できない・泣かない&求めない・救世主が現れて救われるのを待つしかない」と
いう「手のかからない&おとなしい"赤ちゃん"」時代に、死ぬか生きるかの間をただ漂ってい
たことの名残り?
[2001年5月31日 0時58分55秒]

テーマ: [2001年5月25日 14時54分17秒]   
テーマ: 言葉の遅れのない自閉症。   

話し言葉がかなり遅れることはあるし、中には完全に欠如することはあるけれど、「自閉症」
児の多くはそのうちしゃべれるようになるというのは、それほど最近の発見ではない。
だから、「(言語能力はさまざまな程度に認められるにもかかわらず)他人とのコミュニケー
ションで相互に会話のやりとりを開始したりまたは持続したりすることにたいてい失敗する。」
「コミュニケーションにおける質的な障害」「どのような言語力があっても、それの社会的使
用の欠如」とICD−10に記述されている。
しかし、これまで臨床的に関与して来た「自閉症」児は、コミュニケーションがほとんどとれ
なかったりパニックや多動などが激しいという、何らかの問題を持った子どもだった。そうで
なければ、普通の親は、子供病院や発達センターに相談しようなどとは思わない。
しかもたいてい、本人が「せっかくのワタクシの世界をお楽しみになっているところを、お呼
び出しの仕方を守りもせずに無作法に引きずり出されて混乱している」というのに、逆に「ニ
ンゲン界の常識に合わない困った子」と訴えられて連れて行かれている。だから、そういう人
が成人して、子ども時代を回顧したら不快体験ばっかりだったというのは、当然といえば当然
だと思う。

「全くしゃべらない」なんてなると、精神遅滞ではないかとか聴覚障害を疑われる。「オウム
返しばっかり」では、「自閉症」ということになる。で、しゃべれたとなると一安心。中には、
これで「自閉症」は治ったと思ってしまう人もいるだろう。
しかし、話し言葉が遅れるどころか標準よりかなり早いとなると、今度は逆に「神童」「天才」
と勘違いされる。
本人は、ただ「この状況で誰かがしゃべっていた言葉を聞き覚えて丸暗記して、言っている」
だけで、本当の意味は解かっていなかったりするというのに…。人に言われたことを、真似て
そのまま言い返すオウムよりも場面依存的で、ちーっとだけ芸が細かいだけのオウムかもしれ
ないというのに…。
しかも、特定の事柄だけれどもも物覚えがよくて、百科辞典的な知識を持っているとなると、
「末は・・・」だの「さあ、お受験」だのとなる。(私の"はとこ"は典型的なアスペだが、実
際に、某有名大学の附属幼稚園に入園した。)

健常な普通の子どもは、言葉が何の道具であるかということがわかってから、ちゃっかりしゃ
べり始める。
言葉をしゃべるというのは、自分の思ったことや自分に見えていることや覚えていることを
「音声」に置き換えることとは違うと、ちゃーんと知っている。しかも、しゃべっている主体
も、相手に対する顔を持った自分であり、自分が相手にどう見えているか分かっていて、自分
に不利益が被らないように・少しでも良い印象を与えて良い思いをするにはどうしようかと、
思案した挙句にしゃべるのだ。

ところが、アスペの子どもには、これができない。

言葉の遅れがないから大丈夫だと思っていた親は、ここで大慌てになる。相手の気持ちやその
場の状況を全く無視して、思いついたまま・言いたいことをズケズケ言うから。
こうなると、親の面目丸つぶれ。本人自身が、何が解かっていないのか解かっているはずもな
いのに、「躾の悪い子」「失礼なことを言う子」「ここで言っては騒ぎの元になることを言う
キケン人物」ということになって、いきなり怒られる。誰も、何が・どうおかしくて、どこが・
どうまずいのか解かっていないから、教えてくれない。

本人は、自分は極悪非道の大罪人だと思い込む。

それから、健常な普通の子どもは、人に言われた言葉と自分の気持ちにギャップがある時は反
論したり文句を言ったりできる。そして、人に言う言葉と自分の気持ちとの間にもギャッブが
あって良いことを知っている。
言葉に遅れがないアスペの子どもは、言われたことは全部その通りにやらなければいけないと
思ってしまう。その通りに出来ないと、パニックになる。そして、人が言ったことは必ずその
通りに実現すると思っている。そうならないと、癇癪を起こす。
それが、非・自閉症の論理の押し付けだなんて知らないし、真に受けてその通りにやってしま
うと、「できる人」にされてその先のことまで要求される。

だから、生まれて始めて「アスペルガー症候群」という「自閉症」のサブタイプの人=ヒトの
亜種として扱ってもらえた時には、それはそれは嬉しかった。本当に。

で、ここから先は、言葉に詰まる。(それを誤解されたことに、やっぱり怒っているから。)
[2001年5月31日 0時57分45秒]

テーマ: [2001年5月25日 9時24分9秒]   
テーマ: 考える能力のある「自閉症」。    

考える能力がなくて身の回りのことが自力で出来ないのが「自閉症」だ、という"常識"と闘っ
ている。(自分自身の中の。)

自我境界の脆弱性・知覚刺激に対する過敏性・対人関係の障害・パニックと興奮・自傷他害・
極端な閉鎖状態・・・これは、「精神分裂病」の中心障害や症状でもある。
「精神分裂病」は発達障害ではないけれど、何らかの生物学的基盤に親子の関係障害が加わっ
てその素地を作るという。発症する人には、神経症や人格障害などの前駆的症状があることが
多い。が、何らかのストレス因子によって、幼児期への退行・葛藤の深さ・自我機能の障害が
より重篤になったものだと考えられている。
自我境界の脆弱性は幼児期の母子間の身体的接触刺激の欠如によるもので、身体境界の障害は、
「自分を取り巻く人々に融合したい」という幼児期に叶えられなかった願望の現れだそうだ。
(ウィニコットの「だっこ理論」は、これに関連するもの。)
知覚刺激に対する過敏性は、不快で無意味で雑多な刺激を遮断して、自己にとって有益な知覚
刺激にだけ注意を向けることができないという刺激障壁の障害。このため、衝動性の制御が困
難なのだという。
で、幼児期の「世話をされたい」という願望が叶えられず、欲求不満が解消されないまま放置
された経験を重ねたために、他者不信と自己の無価値観を抱くようになり、「人に甘えたい・
欲求を充足したい」という願望を自ら排除して、他者と係わることからひきこもってしまって
いる"根本的に孤独な人"だという。そして、その葛藤に耐え切れずに、最終的には、現実検討
力を失い、外界の意味づけをする思考能力までも自ら破壊してしまうとか。
これは、誰もが罹る可能性を持っている「精神」の病なので、痴呆症に並ぶ精神科の主要疾患
であり続ける。

   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

まあだいたい、ヒトの子どものほとんどは「自閉症」ではないので、「自閉症」や発達障害を
専門に取り扱うのでなければ、非・自閉症児のことしか書かれていなくて当然といえば当然。

何度も何度も書きますが、「自閉症」は「たいへんに豊かな、自分自身によって焦点を当て・
自分自身によって秩序づけられた・自分の世界」を生得的に持って生まれたヒトの亜種です。
そのあまりにも楽しい「自分の世界」を持って生まれた代わりに、多少、自我境界は脆弱・知
覚と認知に特異性・人への興味関心が希薄・かなり混乱・興奮しやすい・非常に不安・・・と
いった「十字架」も背負っています。
それで、「ヒト」と交流する仕方が不自然です。全く眼中になかったりもするし、逆に過剰な
恐怖心を抱いてしまったりもします。
でも、「ヒト」と係わることを拒否しているわけではありません。係わり方が違ったり、係わ
り方が解からなかったり、時にはかなり気合を入れないと出て行けなかったり…。

で、いろんなことが出来ないヒトのことを「自閉症」と呼ぶのではないことを説明しようとし
て、こんなことを書いていると、やっぱり「こんなことを考える能力がある人は自閉症なはず
はない」という常識に、またぶち当たってしまうのだった。
[2001年5月31日 0時56分26秒]

テーマ: [2001年5月24日 17時37分23秒]   
テーマ: おかしなあたま。    

朝のテレビで、プロ野球の特定のチームをえこひいきするアナウンサーの解説を聞き、ヒーロー
って何なのか考えていたはずなのに、何故か"安全圏に入っているはずの人が怖い人に豹変した
シーン"を想起して「恐く」なった。

あれ?っと思った時点で、プチッとスイッチが切れて突然アタマが真っ白になったのは、テグ
レトールのお蔭です。(ありがたや〜!)
身体的不快感と強迫観念をSSRIで消し、視覚・聴覚・認知の過敏症と過緊張を抗不安薬で
消し、気分の双極性と思考の二極分化を感情調整剤で消して、その効果はワタシが居易くなっ
ただけ。(注:いずれも服用量は超極微量。)
意志伝達・自己管理・役割遂行ができ、自律性も学習能力もあって、「そこに居られなくもな
い」けれど、「ワタシにとって普通なことのほとんどが、ほとんど普通じゃない」のに、「居
なくて良い」とは言ってくれないのだから、それくらいしたっていいんじゃない?
でも、この国では、「精神科にかかって精神科の薬を飲んでいる」こと自体が「罪」らしい。

もともと、身体的な不快感や不快刺激だらけだから、そこから逃げるために手を振ったり・快
適な音を聞いたり・ハッとするような色や形に魅入っているわけじゃない。ふと気がつくと、
手を振ってる・音を聞いてる・何か見てるというのが、すっごく自然な状態。こっちがイヤだ
から、あっちに逃げ込んでいるわけじゃない。単純に楽しんでる。
ただ、義務的にいなきゃいけない、社会的な(人が二人以上いる)場所や場面に置かれるのが
苦痛なだけ。そういう時は、意識して逃げ場を探す。病的になってしまったのは、あまりにも
長いことそういうところに置かれて、しかも永久に脱出できないことが確定しているから。

意志伝達・自己管理・役割遂行ができず、自律性も学習能力にも困難があって、「そこに居る」
のも辛くて、いかにも「自閉症」に見える人が言うのなら許されるけれど、そうじゃない人は
「治療」してもいけないの?

やっぱり、「おかしなあたま」は永遠に「罪な存在」なの?
[2001年5月31日 0時55分10秒]

テーマ: [2001年5月24日 9時30分54秒]   
テーマ: ヒーロー?    

何故に、特定のチームが、常に勝たなければならないのか?
何故に、そのチームにいるというだけで、ヒーローでい続けなければならないのか?
自分自身にはそういう力がないので、「強い・勝つ」といった良いイメージを凝縮したものを
自分の外に作り上げて、自分の分身が活躍しているような錯覚をしたいのか?
「負けても・弱くても⇒必ず優勝する」なんていう解説者や司会者のコメントは、多数派の信
念を代弁しているのか? 
それとも、子どもの頃、母親から「いーこ、いーこ」して慰められたのと、同じことなのか?
(「良い子」でもないのに「良い子」なんて言うのはオカシイ、とは思わないのか?)

仮面ライダーなら変身(最近のは、装着というパターンもある)するし、デジモンなら進化す
るし、ウルトラマンならピコンピコン鳴り出すとパワーが出るし、モンスターファームならガッ
ツを全開すると急に強くなる。
子供向けのアニメやヒーローものなんかによくある、どんなに危険が迫っても・どんなに可哀
想な目にあっても「最後に必ず勝つ・助かる」パターンの筋立てだと判っていても、ワタシは
途中でスイッチを切ってしまう。苦しくて。
「今、形勢が不利なのは、まだ本当の力が出ていないだけ」というのが、一番ダメ。「もとも
とあった底力が湧いて来ると、急に強くなる」というパターンが特に。

「呼んだらどこかからひょこっと飛んで来て、そのまま帰っちゃう」とか、「その時だけ人格
を乗っ取られて、別人になる」のなら解かるけど。
なにしろ、こちらは、「顔かたちの素材&声のトーン」と「他人に向けて、強者の論理や自分
たちの常識・価値観・感情(エゴ)を押し付けてくるかどうか」を基準に測っている。それで、
恐怖対象になるか安全圏に入るかが決まる。
恐怖対象のはずの人がニコッと笑うと、その時だけ「いいひと」になって安心してしまう。そ
して、安全圏のはずの人は、声のトーンを変えたりすると「こわいひと」になってしまう。
安全圏に入る人の方が圧倒的に少ないから、何とかかんとかそこにしがみついているけれど、
その数少ない安全なはずの人が時々「こわいひと」になる。と、もう奈落の底に落っことされる。

「恐いこと」なら思い出さなければいいのに、こうやってわざわざ思い出して恐がっている。
[2001年5月31日 0時53分47秒]

テーマ: [2001年5月23日 14時59分25秒]   
テーマ: 「肌がキレイ」と言われたら。   

言ったのはタモリ、言われたのは篠原涼子。

「肌がキレイ」と言われて「わあ、うれしい。ありがとう。」と答えるには、
 まず自分の身体がワタシであって、
 その身体の表面を覆っている皮膚がスベスベしていることには価値があって、
 肌のキレイさを誉められるのは自分には価値があると認められることであって、
 人に誉められるのはウレシイことだ、
という「共通認識」がなければならない。

それがないのに、「肌がキレイ」と言われた時に「ありがとうございます」と返事するのは、
ボランティア活動です。
[2001年5月31日 0時52分42秒]

テーマ: [2001年5月22日 17時8分56秒]   
テーマ: 素朴な疑問。    

[その1]
ところで、子どもの生活は、親に認められ、自分が愛されているとか大事にされていることを
実感することが原動力になっていることは解かるのだが…。
大人の方は、みんなそんなに「愛し・愛され・愛を感じて」生きているのか? 何やら、みん
な、生活・生甲斐・社会的使命と借金返済のために働いているようだ。それに、浮世のシガラ
ミから逃れられない不満を愚痴りながらも、それを断ち切るリスクよりはマシだからそこに留
まっているみたいなんだけど。
もっとも、「この人は、こーゆー人だ」「こんなことをやっても、だいじょうぶな人だ」「こ
れをやっていれば、文句は言われない」と解かれば、怒られたり苦情がこない限りそのパター
ンを通し、怒られたり何か言われたら新たなルールを作って、もう一度態度を決め直す。なに
しろ、いちおう関係を保っている人でも接点がそこしかないから、ツボを外すと恐怖対象になっ
て、関係をスパッと切ってしまう危険と常に隣り合わせ。
・・・こういうニンゲン関係しか知らないので…。

[その2]
確かに、「ものごころ」ついた時には既に、慢性的な不安でいろんなモノが恐怖対象だったけ
れど、いろんなものがキレイに見えたし楽しかったから、元々の状態はむしろ「躁状態」に近
かった。決して、始めから「抑うつ状態」ではなかった。
ただ、人に合わせて行動するとなると、活動水準にすっごくムラがあって、みんなの真似して
体を操作するのに精一杯だった。防衛策は、人がやっていることを観察して、自力で出来るこ
とは人に言われる前にやってしまったこと。それから、人が集まる場所では、必ず一人でいら
れる場所を見つけてうまいことおさまっていたこと。
でも、自分の感覚的な世界を保っていられた間は、楽しかった。

[その3]
精神分析をして、何の問題もない人なんているの?
心理的・精神的な悩みのない人なんて、いるの?
「障害」があって葛藤や欲求不満が多い人もいるけれど、「障害」がない人の苦しみだって、
複雑でタイヘンそうだ。
[2001年5月31日 0時51分39秒]

テーマ: [2001年5月20日 12時21分42秒]   
テーマ: へんな薬の効き目  
  
つまり、[快⇔不快]の拮抗関係を刺激したってこと?
[2001年5月31日 0時50分16秒]

テーマ: [2001年5月20日 10時29分27秒]   
いや、しかし、必ずしも主観的・心理的・精神的な問題でもなかった。

例によって、その時は何とも思わなかったけれど、何か引っ掛かるものがあって妙に記憶に残っ
ている事柄をズラズラ思い出してみたら、「異常には見えていなかったけれど、普通でもなかっ
た」ことは明白なようだ。・・・しかし、こういうことを想起して、しかも冷静に観察してい
               られるのって、やっぱり何かヘン。それで、これ以上続けて
               はキケンだと察知して、自分で止めた。(今振り返ろうとし
               ても、思い出せないというのもヘン。)

そういえば、視覚的イメージに基づいた観念奔走(表面的な繋がりで、次から次へと発想が転
換していくこと)ギャグは全然うけなかったことを思い出したはずだった。
けれど、今は、人が音の表面的な繋がりギャグを言った時に、私一人だけが笑っていたことに
反応が連鎖して、そのギャグ思い出して楽しくなった。ついでに、タケダ薬品があまりにもあっ
ちこっちにデカデカとマークをつけるので、ちゃんとした医薬品にこのマークがついていても
保健薬みたいに思えるとか、薬なのに明治製菓のマークがついていると、可笑しくて笑ってし
まうとか…。

あれ? 始めは否定的なことを想起していたはずだったのに、なぜこんな楽しいこと想ってい
るのだろう?・・・やっぱり、何かヘンです。これはどうやら、脳神経組織が幼児から学童に
         成長したのではなく、精神年齢が極楽トンボだった学童期に戻った?
[2001年5月31日 0時49分12秒]

テーマ: [2001年5月20日 6時46分22秒]   
一滴インクが落ちただけで脳ミソ全体が染まってしまうなんてのは、幼児の脳と同レベルの神
経組織なんだな。脳内の余計な部所への不要な伝達が多少なりともブロックできれば、過剰な
反応が減る。(学童期の脳神経組織レベルぐらいには、成れるかな?)

今後の課題は、果たして、「存在自体が無価値である」という底無し沼から脱出できるかどう
か? ということ。そうしないと、躁の波は小さくなっても鬱の嵐がおさまることはない。

だいたい、どうしても、注目を浴びるのは発作系のパニックがあったり・言葉の遅れや認知の
障害があったり・イジメられやすかったり…、というようないかにも分かりやすい「障害」が
あるにもかかわらず、それを克服した例。しかし、大多数の自閉症者は、社会適応に失敗して
いるという現状。
それから、シロウト目には判別不可能、けれど経験を積んだ観察者なら診断できる「気分障害」
というのは、高機能でない人やしゃべることができない人にも結構いる。私はそのことを知っ
ているから、それに「こだわって」わざわざ書いている。しかし、人知れず持っている「障害」
のことなど、大多数の人には関心さえない。うるさいだけだ。
世の大多数を占める非・自閉症の人に、感動を与えたり「こころ」に訴えるものがないのにわ
ざわざ書き立てるのは、当事者にとっても迷惑な話だろう。

それどころか、今はまだ、ハッキリとした「自閉症」らしいエピソードがある人で「高機能」
な人がいることを知らしめている最中だから、専門家の研究対象にもならない。
「自閉症」独自の「社会的相互作用の障害」はあっても、周囲の人を困らせるような問題行動
がないというのは、「社会性の障害」ではない。身辺自立の為に支援が必要とか、教育のため
の特別なプログラムが必要というわけでもない。要は、主観的・心理的・精神的な問題などは、
現在の日本の医療水準では、"贅沢な悩み"以外のなにものでもない。

一般人の心情として、「判らないのなら、できれば隠しておきたい」ことばかりを暴露してい
ながら、「存在する価値」を実感できるはずがない。
[2001年5月31日 0時48分21秒]

テーマ: [2001年5月19日 16時39分38秒]   
んですぐに効く薬ではないはずなのだが…。やっぱり、あれこれ違っている。

まず、↓の状態。
これは、鬱病の認治療法で「心のフィルター」と呼ばれているもの。―たった一つの良くない
ことにこだわって、そればかりをくよくよ考え、現実を見る目が暗くなってしまう。たった一
滴のインクがコップ全体の水を暗くしてしまうように。―とある。
ワタシの場合は、それが鬱の時だけでなく、躁の時も同じなのだ。それどころか、ありとあら
ゆる場面に共通していた。ほんのちょっとしたことがキッカケで、あっという間に脳ミソ全体
が一色に染まってしまうのだ。(衝動統制不良、ただし問題行動は起こさない。)
なのに今日は、一滴の雫が落ちたことを冷静に見ている自分がいた。そして、それ以上広がら
なかった。

そればかりではない、頭の中がスッキリして(副作用の眠気は我慢しないことにしているので、
昼寝をしたこともあるのだろうけれど…)、特にはりきっているわけでもないのに、仕事がは
かどる。
それこそ、自分の意志で選択できない義務的な役割を果たすために、"机に向かって仕事をする"
とか"時間だから○○をしなければ"と思っても、なかなかやる気になれず、そこに"座っている
こと"や"立っていること"自体が苦痛で、まず最初に今からやる範囲を限定して手順を書き出し
てからでないと始めることができなかったのが、嘘のようだ。
また、せっかく構造化には成功しても、いざ実行しようとなるとその辺の整理整頓を始めてしま
って、なかなか仕事が始められなかったのは何だったんだ?とも思う。

このテグレトールという薬は、「抗てんかん薬」だけれど「抗躁剤/感情調整剤」の効果もある
という不思議な薬なのだが、今まで処方された薬の中で一番ありがたかった。
客観的に考えれば、鬱が治ったことの方が大事だということになるのかも知れないけれど、「生
きていたって、良いことなんか一つもない」状況で、「生きていたくないから死にたい」と言っ
ているのに抗鬱剤を処方するのは、ある意味で迷惑な話なのだ。そもそも、鬱状態に陥ることに
は慣れっこになっていて、自分自身は何も困っていなかったのだし…。

飲み始めて、たったの二日目。しかも、通常の1/8という超極微量で(ただし、他の薬もほと
んどそんなもの)だけれど、自分ではどうしてもコントロールできなかったし、気のせいにもで
きず、気にしないことにしようとしても何ともならなかった衝動性が消えてしまった。

どうせ、本当には消えることができないのだから、生きている以上やらなければならないことが、
少しスムースにできるようになったなんて、嬉しいではないか! それとも、それを選択し、喜
ぶ権利ぐらいあったっていいではないか!
また、薬飲んでまで頑張ることはないなんて言われそうだけれど、薬飲まなくてもこの状態から
出発している健常者の方がよっぽどズルしていると思う。おいおい、みんなはこんなに「楽」し
てたのかあ?って感じだ。
[2001年5月31日 0時47分34秒]

テーマ: [2001年5月19日 9時36分16秒]   
「目的志向的な活動」に支障をきたすような行動障害や学習困難がなく、役割遂行上の問題は
ない、けれど、気分障害を合併している―ワタシのような場合だと、「こだわり」に依って行
動している時や分担している役割を遂行している時、つまり「目的志向的な活動」を実行して
いる時は、もしかしたら無意識のうちに躁状態になっているのかもしれない。
「予め決まっている・予定された活動」が終わった時に、「ホッとする」「緊張から解放され
る」という程度の、普通の反応の範囲に留まっていることはある。けれど、時々、突然、「魂
が抜けて行く」「落胆を伴った脱力」が起きる瞬間がある。「気分が高揚し、自信に満ちたワ
タシ」から「無価値で罪深いワタシ」へと、位相が変わるのだ。
自分が何モノかに憑き動かされている間は、盲目的に突っ走っているので、他の物事は一切眼
中にないし自分のしていることには何の疑念もない。ところが、そこから急転直下、何を見て
も「ワタシには何の価値も無い」「すべてワタシが悪い」と翻訳して解釈してしまう状態に陥
る。・・・実は、今朝その瞬間を感じた。でも、それをすっごく冷静に観察している私がいた。
     もしかして、これはテグレトール=(感情調整剤)の効き目?
[2001年5月31日 0時46分40秒]

テーマ: [2001年5月18日 16時40分41秒]   
では、ワタシの失敗例から得られる「教訓」とは何か?

○行動を起こすのは、何かに「こだわっている」結果であること。「こだわり」を通して、世
 の中に「かかわっている」 ということ。・・・こういうところを理解して、「こだわる」
 ことは許容し、こだわりの内容・こだわり方・こだわる方法を、社会的に妥当なものに変え
 ていくことが大事。
 「こだわり」と一口に言っても、体系的な知識だったり、何かのコレクションだったり、自
 分の行動を決める掟だったり、感覚的な没頭だったり…。と、様々なので、それぞれに合わ
 せた制約の仕方がある。内容的に許される範囲・時と場所をわきまえること・人を巻き込む
 のは最低限に留めること・音を立てたりするものは迷惑なことだとわきまえること…。

○「不安」と「恐怖」に満ちている、けれど、「こだわっている」時は至福の楽しさを味わっ
 ている。・・・こういう「内的世界」の「事実」をむやみに否定しないこと。
 こういう「自閉症」の「内的世界」を"共感的に"理解された経験を持たせること。特に、幼
 児期の内に、支持的に接してくれる人との間で「安心感〜信頼関係」を持てると、良好な転
 帰をもたらす可能性が高くなる。そのことが、内的にも外的にも"攻撃的に走りやすい傾向"
 を、穏やかなものに変容させるから。
[2001年5月31日 0時45分57秒]

テーマ: [2001年5月18日 10時53分8秒]   
「精神力動学」的に言えば、通常の「喪」による抑うつは、"愛するもの"を失ったことによっ
て起きる。
対象喪失による「うつ」を治療するというのは、その過程で患者が自己自身の「こころ」の中
に、幼児期に確立した「内的な愛すべき対象=自分が、愛される価値のある人間であり・強く
て優れているという有能感を保証してくれて・人の気持ちに応えることができる良い子である
ことを承認してくれる人・・・"良い親"の心象」を復元していくことだそうだ。

「自閉症」の場合は、良い内的対象を形成し損ねたのではない。元々それを求めていないので、
自分の存在と価値を承認してくる「人」すらいないのだから、その内的心象などあるはずがな
い。これでは、基調感情が「不安」であるというのは、当然だ。(もし、知覚や認知の異常が
大きければ、ちょっとしたことをキッカケに、不安を通り越して「恐怖」状態に陥りやすいの
は、言うまでもない。)
とはいえ、自分の身の安全と生存の為に、庇護的な役割を果たしてくれる人に「依存」するこ
とはある。しかしそれは、自分が存在し続ける可能性を保証してくれるだけ。「人」との精神
的な繋がりが自分の価値を保証するのではなく、「役割」の関係性のネットワークの中に自分
と他者の配置図を作り、自分のとるべき行動パターンを決める。
でも、自分が選択可能で、更に、実行可能な行動パターンが、必ずしもニンゲン社会で妥当な
ものだとは限らない。それを非難され続ければ、「うつ」になって当然。

(「自閉症」者に限らず)抑うつ状態にある患者は、"自己非難と罪責感をともなった自己評
価の喪失"を深く感じているのに対し、悲嘆にくれる健康な人は、"安定した自己評価の感覚"
を維持しているそうだ。
ここで言う"安定した自己評価の感覚"というのは、非・自閉症者ではニンゲンとしての価値で
あり、自己が帰属する集団の中に位置付けられた社会的な価値感覚なのだろう。

「かかわり」障害が重ければ、存在を承認してくれる内的心象としての"良い親"がいない。
その「かかわり」を有利なものにするための「情緒的交流(相互作用)」スキルを持っていな
ければ、"かかわりたくてもかかわれない"という葛藤を生む。或いは、"かかわっているのに、
何か違うぞ・どこかオカシイ"という違和感をもたらす。

こういう、人との「かかわり」のない世界では、自分に絶対的至上命令を下す「超自我(自我
に対する裁判官や検閲者の役割をする自我)」そのものが、社会的な妥当性を持っているとは
限らない。
ワタシの"お抱え検閲官"は、非情で、容赦するということを知らなかった。そして、24時間、
徹底的に監視を続けたタフなヤツだった。ワタシの"お抱え裁判官"は、すぐに死刑判決を下す
冷酷なヤツだった。
始めから、自分自身の無価値感が基盤だから、「気分が高揚して、浮かれた状態」=躁状態に
ならないと価値があると錯覚できなかった。しかし、その後に必ず、「無価値感を思い知らさ
れる」=鬱状態がやって来た。
でも、心理的に負担になったのは、決定的に独りだということや基調感情の鬱ではなく、ニン
ゲンと居る時に他者の言葉の表層的な意味を真に受けて、調子に乗り過ぎたり興奮してしまう
ことの苦痛だった。
ニンゲンは、"愛すべき対象"でもなければ、"愛されている安心感"を与えてくれるものでもな
いのだから、誰かの要求を満たすために行動することはなかった。あくまでも、自分の行動は
自分で決定する。その方法は、何かに「こだわる」ことを通じてでしかない。

その「こだわり」に、社会的な価値が認められればシアワセだ。
それから、「こだわり」が、楽しいだけのものだったらいいな。・・・「音」とか「形」とか。
[2001年5月31日 0時45分12秒]

テーマ: [2001年5月16日 17時5分20秒]   
どうも、私の脳ミソは、ものすごく具体的で瑣末な記憶の集大成で成り立っている部分と、めっ
ちゃくちゃ抽象的・概念的な論理の関係性で成り立っている部分に分離している。
もっのすごく幼い(いや、幼稚な)基本感情(喜怒哀楽)に乗っ取られて、暴走し始めるかと
思えば、まるっきり冷静沈着で何の感情も持っていないかのような態度をとる。

理論は理論だけで完結していて、間主観的な伝達手段として「言葉」を用いていないので、私
の書いた物を読んで具体的な状況を再構築することはほとんど無理。
或いは、状況説明を全くせずに「用語」だけを並べるので、他者の頭の中に再構成される内容
との互換性が、ほとんどないという危険性が大きいのかもしれない。
[2001年5月31日 0時44分23秒]

テーマ: [2001年5月14日 9時57分31秒]   
社会性のある普通の人たちは、「社会に所属すること」と「人々の感情のネットワークに入っ
ていること」を生きる拠り所にしている。
それが、「社会的価値にかなっていない自分」に直面することを避けるために、「感情」を遮
断して自己を防衛するつもりだったのに、やはりどんなに強く否認しようとしても生来の「社
会的感情」が抑圧され・変形して噴出してしまった結果、陥る病が「精神分裂病」なのではな
いだろうか?
また、本当は「感情のネットワーク」に入りたいのに、外されてしまった(疎外されている)
と思い知らされた時に、「社会」に所属することをやめてしまうのが「引きこもり」なのでは
ないだろうか?(或いは、自己防衛のための反社会的行為や社会的逸脱行為の方向に、走る人
もいるだろう。)
「精神」が機能しなくなるほどでもないけれど、社会生活と自己の生命維持意欲が阻害される
ほどの深刻な状態が、昔で言う「鬱病」「躁鬱病」などの「気分障害」。それから、数々の
「神経症」や「情緒障害」がある。
社会的感情を持った非・自閉者の「こころ」が病むとは、そういうことだ。

   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

しかし、「自閉症」児は、元々「社会的感情」を持っていない。従って、社会的であろうとす
る、「人」と「人」との「間」に生きる「人間」が、ごく自然に持ち合わせている「自己防衛」
のための機能がない。
それで、社会的な行動がとれない。そこをイジメられたり、付け入られたりもするし、社会的
逸脱行為の方向に強化されてしまうこともある。
「自閉症」児の示す症状は、生来の「社会的感情」のなさや「人との係わりのなさ」によって
起きているので、社会的価値の放棄とか社会的感情の否認の結果ではない。その証拠に、「社
会的感情」を「知識」によって補い、「本当の意味での人との係わり方を知らない」ままで
「人とのかかわり」を持とうとする、或いは、持ってしまう。

「人と係わること」に躓いた場合は、「人に係われないこと」に悩み、どのようにしたら「人
に係われる」か、模索する。
しかし、運悪く「人と係わること」が出来てしまった場合は、どうしたら「人から逃れられる」
かを真剣に考える。

単純に、自分の「こだわり」を貫き通して行ったら、「その結果として、人々の間で認められ
る価値を、何時の間にか持てていた。」というのが、比較的「シアワセ」カモ〜?
[2001年5月31日 0時43分32秒]

テーマ: [2001年5月14日 8時2分34秒]   
私は、「自閉症」児の「こだわり」をそのまま許容しろ言っているのではない。
その「こだわり」が、生きる拠り所になれるように、社会的に妥当な方向・社会的に妥当な範
囲に持って行くようにして欲しい、と言っているのだ。

それが、自分自身の存在を「肯定」することにもなるし、それを通して「人」とも係われるよ
うになる。
「自閉症」児を療育するというのは、「自閉症」を治すことでも・「問題行動」を封じ込める
ことでもない。
「自閉症」と一緒に生きられる人にする、ということ。
[2001年5月31日 0時42分35秒]

テーマ: [2001年5月13日 17時4分9秒]   
ここのところ、↓の「無意味なコレクション」に基づいて書いていたことを集めている。続き。


[2001年5月11日 9時5分30秒]

嫉妬・恨み・憎しみで人が人を殺すのなら理解出来るけれど、通り掛かりの見ず知らずの人を
殺してしまうことは理解できないから、「動機ない殺人」とか「理由なき殺人」なんていう理
由をつけようとする。
そういうことを言う人は、例えば、異性と付き合いたいのに"上手く付き合えない""会話するこ
とさえできない""容姿などに異性を惹きつける魅力がない"という悩みを持ちながら性的衝動を
抑えられずにいる人の「こころ」が見えていないのだ。
"係わりたいのに係われない"のが友人関係だと、「さびしい」だけだとしか思われないだろう。
けれど、社会的な感情や欲求が正常にある人にとって、"仲間関係が持てない"ということは社
会的な「死」を意味し、自己の存在の危機でもある。それなのに、「本人の努力が足りない」
とか「友達を作らないからいけない」と責められる一方だ。
「どうして、"係わる"ことが恐くなってしまったのか?」とか「何によって傷つき・何によっ
て傷つくことを怖れ・何から自分を守ろうとしているのか?」なんてことを考えもせず、「自
分からこころを閉ざすから、いけないのだ」「勇気を持って、こころを開け」などとお説教し
に来たりもする。では、「どうしてその人がこころを閉ざしてしまったのか?」とか「こころ
を扉を閉めさせたのは誰か?」とか「その人自身が、本当は人と係わりたいのに、こころの扉
を閉めることで必死に守ろうといういるものは何か?」とか「何を直視することを抑圧し、何
から目を逸らそうとしているのか?」といった理由を考えようともしない。
それで、教育者の考えることは、「こころ」を豊かにし、善悪の分別をつけるための道徳教育
をしろってこと。
こういう人たちは、なんという貧しい「こころ」の持ち主なのだ! この子たちは、善悪の判
断が出来ないのではない。善悪にがんじがらめに縛られているのだ。だからこそ、抑え込もう・
追い遣ろう・押し込めようとしているのだ。どうして、こんな単純なことが理解できないのか!

「理由」のある殺人者の「こころ」は、病んでいない。ただ、感情と衝動を抑制できないだけ。
それは「こころ」がないのではなく、理性を越えて情動が噴出しただけで、情緒の問題。
「理由」なき殺人者は、「こころ」を見ようとしない人たちによって「こころ」を傷つけられ
ている。でも、「こころ」を傷つける人は自分の「感情」を人に向けたり、人が自分に抱いて
いる「感情」を憶測する名人で、人の「こころ」が見えない。だから、「理由」が無いと言う。
実際は、「こころ」を見る能力が無いだけなのに。

この国では、「感情」が読めない人は罪になるが、「こころ」を無視して社会や他人に向かっ
て良い顔をすることが「美徳」とされるのだ。

どんな人の、どんな行動にも、必ず「理由」はある。
しかし、「感情」が読めるけれど「こころ」の見えない人が、この国では健常と呼ばれている。

この国で、「こころ」の発達が阻害されている人の行動の「理由」が、健常と呼ばれている人
たちとは違っているなんてことを理解しろと訴えること自体が、キチガイじみた行為なのだろう。

そんな「こころ」の貧しい人たちに、「自閉症」を理解させようなんて、幼稚園児に高等数学
を教えるようなものだ。
それは、ただの応用問題ではない、価値体系の逆転・白黒の反転した世界。出来あがった写真
を見て、そのネガフィルムを読めと言っているのだから、才能とカンのない人には、絶対に出
来ない。

    *   *   *   *   *   *   *   *   *

しかし、私が、いくら「こころ」が壊れる理由をコレクションしても、「感情」が読めない。
だから、知識はあってもカウンセラーにはなれない。
[2001年5月31日 0時41分42秒]

テーマ: [2001年5月13日 16時53分54秒]   
まだまだ続き。


[2001年5月13日 11時35分42秒]

「精神分析」では、「うつ」の方は愛情対象の喪失や拒絶が原因で、罪悪感・無価値観が生じ
ている状態。「躁と爽快気分」の方は、根底にある抑うつに対する防衛だそうだ。
まあ、愛情対象が「人」ではなくて「物」、「人と係わる」ことより「関係性の分析」が好き。
なのに、無理矢理「人」の群れの中に押し込められれりゃあ対象は喪失するし、人と社会に対
処するスキルがなけりゃあ、無価値観を抱いて当たり前だし、そういう自分が存在することに
罪悪感を感じて当然。

それで、元々が慢性的な「うつ」状態だから、毎晩毎晩、自分に向かって「死ね」だの「バカ」
だのと言っていたことは、なーんも苦にならなかったわけだ。
それよか、躁状態をコントロール出来ないことの方が、よっぽど問題だった。ブレーキをかけ
る習慣をつけたことによる精神的苦痛はなかったけれど、躁状態になってしまった後の罪悪感
の方が重かったな。

-------------------------------------------------------------------------------- 
[2001年5月11日 15時47分12秒]

躁状態は、まず上記の「爽快感」。それから、以下の傾向が現れる。
「音韻連合」意味の相違を考えない、音の類似性に基づく連想あるいは関連づけ
「転導性」内的・外的刺激に応じて話題から話題へと変化する状態
「観念奔逸」ある話題から別の話題へと急速に移動すること
「言葉もれ」抑制不可能な過剰な談話
              (『臨床精神医学ハンドブック』カプラン著 P20〜28)より
この徴候の現れを察知すると、すぐにブレーキがかけられるようになった。

しかし、鬱状態の方は、「混乱した気持ちを抑制したり小さくするために、抽象的な思考を過
度に使用することまたは般化を使用することによって、情緒的葛藤や内的または外的ストレス
因子に対処」(『同』P21)して、一度は書き付けてからでないと分からない。
 攻撃性と易怒性(イライラ)はどちらでも有り得るし、そもそも「気分障害」がなくても素
地として持っているので、鑑別の基準にはならない。
パニック状態(突然の圧倒的な不安状態)に陥って、過去の不快体験や外傷体験の想起が始まっ
て混乱した挙句に気づいたって、既に手遅れ。
[2001年5月31日 0時40分43秒]

テーマ: [2001年5月13日 16時45分46秒]   
それから、これも。


[2001年5月13日 11時0分51秒]

全人として機能することが、そんなに良いことなのか? それが「幸せ」なのか?

DSMの「機能の全体的評定(GAF)尺度」によると、「精神的健康」とはこういう状態だ
そうだ。
「広範囲の行動にわたって最高に機能しており、生活上の問題で手に負えないものは何もなく、
その人の多数の長所があるために他の人々から求められている。症状は何もない。」
・・・まあ、世の中の大多数の人は、表面的にはこういう姿で生活しているけれど、その毛皮
   を剥いだら中身は妖怪だったりするかもしれない。
   心底こういう人なら、本当にそうなのだろう。けれど、お芝居している人とか、短所を
   無視・抑圧・否認している人もいるかもしれない。ただし、家庭でだけ本性を顕わす
   「内弁慶」タイプは、それはそれでれっきとした「症状」なので、24時間、生活の全
   てを追跡調査して厳密に測定したら、結構少ないカモ〜? 
   しかし、仮にこういう人が精神科を訪れて、治療室の中ではこう振る舞っているけれど
   「脱いだら凄い本性」を見破る眼力が、精神科医にあるのか?

いやいや、世間一般の「普通」の人ってのは、だいたいその一つ下のレベルじゃないの?
「症状が全くないか、ほんの少しだけ(例:試験前の軽い不安)、すべての面でよい機能で、
広範囲の活動に興味を持ち参加し、社交的にはそつなく、生活に大体満足し、日々のありふれ
た問題や心配以上のものはない(例:たまに、家族と口論する)。」
・・・こっちの方が、よっぽど健康的だと思う。
   ただ、こういう人といると、私は確実に(精神的に)疲れてしまう。世の中には、こう
   いう人が溢れている。そして、それが当たり前で、自分がその状態を維持できているこ
   とに何の疑念も抱かず、他者もこうあることが当たり前だと押し付けてくる。
   こういう人に限って、他者が軽い症状(抑うつ・不眠・反抗など)を示した時に、「情
   けない」「だらしない」「頑張れ」「なに、バカなこと言ってんの」などと言って来る。

これに対して、精神的な病的状態の最たるものは、「持続的で実害のある暴力」「最低限の身
辺の清潔維持が不可能」「自殺行動の実行」。
それよりちょっと軽いものは、「自殺企画」「時々、暴力的/時々、興奮」「時々、身辺の清
潔維持困難(といっても、遺糞症レベル。字面から受ける印象よりも、かなり重い。」「無言
またはひどい滅裂」
さらにちょっと軽くなると、「妄想や幻覚に影響された行動」「時々、滅裂な発言」「自殺念
慮」「ひどく不適切な振る舞い」「ほぼ丸一日の過眠」「仕事も家庭も友達もない」。
こういうのは日常的ではないので、ほとんどお目にかかることはないはず。

私にとっての「治療到達レベル」ってのは、かろうじて社会生活は維持できているけれど、
「ちょっとした感情の異常」「ちょっとした会話の困難」「ちょっとパニック/ちょっと鬱/
ちょっと躁/かなり不安」「友達いない」「仕事や生活上の係わっている対人関係にすごい葛
藤」。こんなところで、良いんだな。

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[2001年5月12日 23時2分44秒]

私はずっと明るかったけれど、顔色一つ変わらないまま「自己否定」が基調になってしまって
いた。そこで、知らず知らずのうちに「価値の引き下げ」という自己防衛をしていた。
「自分はここに生きていない。自分は、この社会で生きる価値のない生き物。だから、自分の
周りには、いつもいつもこの程度の人間しかいないのだ。」と。

やっぱり持ちませんでしたねえ、破綻しました。自分の方が…。

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[2001年5月12日 2時44分31秒]

最近、「アスペ=イジメられると、その外傷体験の想起パニックで人との接触を拒絶するよう
になるから、そうならないように守らなければならない子ども」みたいな図式が作られている。
(杉山先生だけが言っているのではなくて、内山先生も言っていた。)
その理屈は、非常に良く分かる。けれど、イジメだけが外傷体験ではない。そこのところを知
らないんだか、敢えて強調しようとしていないんだか、臨床上の問題にならないので医者が関
与していないんだか、分からない。

「自閉症」児の場合、「人からバカ呼ばわりされても、それを跳ね返そうとして"強くなる"」
とか「それだけが原因で鬱病になる」というような、通常の理屈や契機によって精神が強くなっ
たり病んだりするのとは、ちょっと違う。
というのは、元々が「人と存在する」ことはできても「人と繋がっていない」という"かかわり"
障害が根底にある上に、認知の歪み・知覚の異常・時間構造の特異性が加われば、慢性的な不
安恐怖状態におかれて当然なので、何らかの不安障害を幼児期から持ち合わせることになる。
「人との係わりや繋がりの中に、自己の存在を位置付けられない」し、「言葉や身体的接触に
よってに慰められることがない」となれば、自己が存在する安定した基盤を作るのは難しい。
「自閉症」者の、気分障害合併率の異様な高さ(6〜8割と言われている)が、それを如実に
物語っている。

人と直接繋がることが出来ず、常に自分の「こだわり」を通して係わり、自分の「仕事」によ
ってしか、自己存在の価値を認められない。そして、「こだわり」「仕事」「作品」を、自分
の生きる唯一の依り処にする。(だから、そこを人に突かれたり指図されたり取り上げたりさ
れると、ただちに「自己存在を否定された」に等しくなる。)

人に「バカ」と言われて、人から価値を認められなかったことに落ち込むのではない。自分に
存在価値がないと実感しているから、自分で自分に向かって「バカだ!」と言い、自分自身を
攻撃し、否定する力動が強く働いているのだ。
だから、否定的な言葉をかけられることに過剰に反応する。生きようとする意欲がある時には、
その攻撃性は外に向かう過激な反発になる。否定傾向が強い時には、すぐに「死」を念慮する。

そういうことなのでは、ないのか?
[2001年5月31日 0時39分52秒]

テーマ: [2001年5月13日 16時26分11秒]   
そうだ、これも写しておこう。

[2001年5月12日 22時42分57秒]

想起パニックを起こして病院に担ぎ込まれるような大事件は、そうそう滅多にないだろう。で
も、「自閉症」者は日常的に、フラッシュバックによる記憶の想起や再体験を頻繁にしている。
それが、病的なほどに強迫的だったり、今現在起きていないし・これからも起きるとは限らな
い出来事を想定しているかのようにくどくど言いたてたり、突然怒って人を非難し始めたり興
奮して説教したりしたら、「幻聴」とか「幻覚」があるのではないかと勘違いされやすいこと
はよくわかる。

しかも、話していることのほとんどが、自分の過去の体験を想起した内容やそれについての評
価だったり、それによって喚起される感情(恐怖など)に支配されてしまっていたら、全く現
実性も欠いているし、支離滅裂で会話として成立していなかったりする。

それに、他者が自分の置かれている状況や自分のしている経験を共有しているわけではないか
らこそ状況や体験内容を説明し「共感」や「承認」や「意見交換」を求める、という「間主観
的コミュニケーション」のために言語を使用していないので、前置き抜きでいきなり主題を話
したり、自分の「こだわり」を披露したりしてしまう。
それもまた、「精神分裂病」の症状である「考想伝播:自分が何か考えた瞬間にその考えが他
者に知られている」とか「考想察知:自分の考えが周囲に筒抜けになっている」という妄想と
解釈されてしまうかもしれない。

顔の表情が全くなくなってしまうことはないし、感情は平板化していないけれど、情緒的な共
感性を欠くし感情表現をしないとなると、それも間違いの元になる。

   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

私は高校の時、みんなが「その場にいない第三者についておしゃべりしている」ことに気がつ
いた。
でも私にとっては、「誰かについて語ること=その人が言っていたことを語ること」だったの
で、それが「人の噂話をし合ったり他人の評価をしていること」だとは夢にも思わなかった。
そうやって、伝言ゲームでもするかのように、人から人へと情報を伝えているのだ、個人個人
のデータを伝播してネットワークを形成しているのだといるのだ、と考えた。
だから、私が言ったことも、誰か一人に話せば次から次へとことづけされて、全員に行き渡る
はずだと確信していた。でも、実際、そうならなかったのが不思議で不思議で仕方がなかった。

それもそのはず、人は「人が言った言葉をそのまま伝言している」のではなく、その場にいな
い「人に抱く感情や評価を吐露し合っていた」のだった。
伝わっていくのは「言葉」ではなく「感情」であり、「人の品定めをすることが目的」で言葉
を交わしていた。

それを知ったのは、つい最近。

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[2001年5月11日 10時41分10秒]

「人間ごっこ」はもうやめて、早く本物の風になりたい。
そして、跡形もなく消え去りたい。
[2001年5月31日 0時38分48秒]

テーマ: [2001年5月13日 15時36分2秒]   
ワタシが、ずーっと「人」の中に観てきたもの。それは、「感情」ではなかった。
まさしく、不安を制御するための精神力動的防衛機制だった。

以下、全く生活の役に立たない(こういう目で人を見ると、まず確実に嫌がられる)、「人」
に関する「無意味なコレクション」の数々。

『カプラン:臨床精神医学ハンドブック/特定の防衛機制および対処形態に関する用語集』より
(ただし、以下の引用中、※のついているものは、ワタシによる補足。)

「行動化(acting out)」
   個人が、情緒的葛藤、または内的または外的なストレス因子を内省または気持ちによっ
   てではなく、むしろ行動によって対処する。
「連携(affiliation)」
   個人が、他者に助けまたは支持を求めることによって、情緒的葛藤や内的または外的ス
   トレス因子に対処する。(問題を他の人と共有することはあるが、それに対する責任を
   他の人に負わせようとすることではない。)
「愛他主義(altruism)」
   個人が、献身的に他の人の欲求を満たすことによって、情緒的葛藤や内的または外的ス
   トレス因子に対処する。(反動形成による自己犠牲とは違って、他の人の反応を通して
   満足を受ける。)
「予期(anticipation)」
   可能性のある将来の出来事について、前もってその情緒的反応を体験したりその出来事
   の結果を予期したり、別の反応や解決を現実的に考えることによって、情緒的葛藤や内
   的または外的ストレス因子に対処する。
「自閉的空想(autistic fantasy)」
   人間的関係、より効果的な行動、または問題解決の代わりに、過度の白日夢を見ること
   によって、情緒的葛藤や内的または外的ストレス因子に対処する。
 ※この説明は、主に精神分裂病についてのもの。(「自閉症」の自閉的ファンタジーとは異
  なる。「自閉症」の場合は、内容的に空虚ではないものに没頭するので、現実からの離脱
  はない。)
「否認(denial)」
   他の人に明らかと思われるような外的現実または主観的体験の苦痛な側面を認めること
   を拒否することによって、情緒的葛藤や内的または外的ストレス因子に対処する。
   (「精神病的否認」という用語は、現実検討の障害が存在している場合に使われる。)
「価値の引き下げ(devalution)」
   個人が、情緒的葛藤や内的または外的ストレス因子を、自己または他人の誇張した否定
   的性質のせいにすることによって、それに対処する。
「置き換え(displacement)」
   個人が、情緒的葛藤や内的または外的ストレス因子を、1人の対象に対する感情または
   反応を他の(通常は脅威の少ない)代理の対象に移しかえることによって、それに対処
   する。
「解離(dissociation)」
   個人が情緒的葛藤や内的または外的ストレス因子を、意識、記憶、自己または環境につ
   いての知覚、または感覚/運動行動の通常は統合されている機能を細分化することによ
   って、対処する。
「援助の拒絶を伴う愁訴(help-rejecting complaining)」
   個人が、情緒的葛藤や内的または外的ストレス因子を愁訴や援助の要請の繰り返しによっ
   て対処するが、それは他の人に対する敵意、非難などの隠された感情を偽装したもので
   あり、その後、他の人が申し出た示唆、助言、または援助を拒絶するという形で表現さ
   れる。愁訴または要請には、身体的または心理的症状、または人生上の問題が含まれる
   ことがある。
 ※こういう人は、よく、"みのもんた"のところに電話をかけて一蹴される。「自閉症」者が
  「自分の状態を、ただ、言語化しているだけ」で、示唆も助言も援助も求めていないのと
  は、全く異なる。
「ユーモア(humor)」
   個人が、葛藤またはストレス因子のおもしろい側面または皮肉な側面を強調することに
   よって、情緒的葛藤または外的ストレス因子に対処する。
 ※ドナが、「自閉症だったわたし」を再認識する旅の途中で、実際に自分が体験した出来事
  をコメディにして脚本にし、自分自身で演じることで精算していったのは、まさしくこれ。
「理想化(idealization)」
   個人が、情緒的葛藤や内的または外的ストレス因子を他人の誇張した肯定的性格のせい
   にすることによって、それに対処する。
 ※強い「見捨てられ恐怖」を抱きながら、理想化した他者を追い求め関わりを持っていると
  実感することでその不安感を回避しようとするのが、「境界性人格障害」の特徴。
「知性化(intellectualization)」
   個人が、混乱した気持ちを抑制しまたは小さくするために、抽象的な思考を過度に使用
   することまたは般化をしようすることによって、情緒的葛藤や内的または外的ストレス
   因子に対処する。
「感情の隔離(isolation of affect)」
   個人が、本来関連のある観念を気持ちから分離することによって、情緒的葛藤や内的ま
   たは外的ストレス因子に対処する。ある特定の観念の認知的要素には気づいているが、
   その観念に伴う気持ちは感じられなくなっている。
「受動攻撃性(passive aggression)」
   個人が、他人に対する抵抗・憤り・敵意を、表向きは従属的になることで情緒的葛藤や
   内的または外的ストレス因子に対処する。
 ※それまで、文句一つ言わずに従順に仕えた妻が、夫の定年や子供の自立を契機に「絶縁状」
  を突き付けるような場合の、耐え続ける妻の態度はこれ?
「投影(projection)」
   個人が、自分自身が受け入れることができない気持ち、衝動、または思考を、事実に反
   して他人のせいにすることによって、情緒的葛藤や内的または外的ストレス因子に対処
   する。
 ※「自分が不幸になったのは、このうだつのあがらない亭主のせいだ」と思っている妻の心
  理状態は、これ?
「合理化(rationalization)」
   個人が、誤まってはいるが、安心できるような、また、自分に役立つような説明を作り
   上げ、自分自身の思考、行動または気持ちの本当の動機を覆い隠すことによって、情緒
   的葛藤や内的または外的ストレス因子に対処する。
「反動形成(reaction formation)」
   個人が、自分自身の受け入れることができない思考または気持ちを全く正反対の行動、
   思考、または気持ちに取り替えることによって、情緒的葛藤や内的または外的ストレス
   因子に対処する(通常、「抑圧」と一緒に生じる)。
「抑圧(repression)」
   個人が、混乱する願望、思考または経験を意識的気づきから排除することによって、情
   緒的葛藤や内的または外的ストレス因子に対処する。
「分裂(splitting)」
   個人が、感情状態を相反する2つの区画に分けることによって、情緒的葛藤や内的また
   は外的ストレス因子に対処するもの。自己または他人の好ましい性質と好ましくない性
   質とを1つの一貫した像に統合できないでいる状態。
   自己および他者の像は、正反対の極に対立する傾向がある。一方に、完全に愛すべき・
   力のある・価値のある・思いやりのある・優しい像。もう一方に、完全に悪く・憎らし
   く・怒っていて・破壊的で・拒絶的で・価値のない像がある。
 ※『クレヨンしんちゃん』に出てくるネネちゃんのママが、ネネちゃんの前では理想的で過
  剰に良いママを演じ過ぎているため、ネネちゃんは人間的な感情を表に出した本当のママ
  の姿をママだと是認できない。ネネちゃんのママ自身も、ネネちゃんの前ではあくまでも
  「良いママ」でい続けようとする。
  「自閉症」者は、この二面性を全く隠そうとしない、むしろこれは、「社会的存在=非・
  自閉症」であることを端的に表わしている。このことからも、「精神分裂病」と「自閉症」
  は誤診されやすいが、実は両極端の端と端に位置するものだと言えるのではないだろうか?
「抑制(suppression)」
   個人が、混乱する問題、願望、気持ちまたは体験を意図的に考えないようにすることに
   よって、情緒的葛藤や内的または外的ストレス因子に対処する。
[2001年5月31日 0時37分43秒]

テーマ: [2001年5月10日 10時54分54秒]   
社会的に「良い」とされている部分だけを認めて、「悪しきもの」とされている部分を閉じ込
めてしまう。その重圧に耐え切れなくなった時に、人間は必ず、何らかの危険信号を発信して
警告する。
その異常事態を修復するには、その両方で構成されている「自分自身」のありのままの在り方
を自分自身が引き受けること。そして、新しく人間関係を再構築すること。

それが、精神科で「治療する」ということなのだ。引き続き、これがテーマ。

   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

精神的に健常な人というのは、社会的な場面と個人的な場面を巧みに使い分けることが出来る。
公的な場では「いい子」の顔をし、私的な場では惜しげもなく「正体」を露わにする。しかも、
社会的な場面の中でも、上下関係や社会的地位のある公の場と、横並びの有象無象の集団にい
る時とでは態度を変える。
それが、正常に機能する人格を持つということなのだろう。とはいえ、その中には、世渡りの
上手い人と下手な人がいて、ちょっと言葉を滑らせただけで集中砲火を浴びる人がいる一方で、
エゴをむき出しにして押し切っても誰にも文句を言わせない人もいる。また、どんな人が来て
も、それを上手にあしらえる人もいれば、いつもいつもオドオドしている人もいる。そして、
そういう自分の不甲斐なさを悩む人もいれば、全く無神経な人もいる。
人は大抵、不安定なものだ。全く何の心配事もなく、何の不満もない人なんていない。それで
も、適度に衝動的で、適度に感情的で、適度に演技的で、適度に頑固で、適度に不安で、適度
に緊張し、適度に依存し、適度に自分を愛し、適度に人と関係を保ち、適度に社会的で、適度
に個人としての楽しみを持っていて、適度に動物的である限り、精神的な均衡が崩れることは
ない。
完全に円満な人格者が、この地球上に本当に存在していることはあり得なくても、普通に機能
する人格を持ったニンゲンで溢れている。

精神医学の領域では、人間は単なる知的な存在としては語らない。
では、そして、文化的に要請され許容される範囲(つまり、標準的に)機能する人格とは、ど
ういう状態を意味するのか? 
『ICD−10/研究用診断基準』では、次に示す領域の一項目以上に著しい偏りが在ること
を「人格障害の定義」としている。
〔1〕認知:つまり、物事や人および出来事を知覚し理解する方法
     (自分と他人の態度やイメージ、および態度の構成の仕方)
〔2〕情動性:情動を喚起するものに対する反応の範囲、強さおよび適切さ
〔3〕衝動性の制御と欲求への満足感
〔4〕他者との関わりと対人関係の処理の仕方
これは何か?と、裏返しに考えると、これは人間の精神機能を構成する要素ではないだろうか?

大雑把に言えば、
○元々、上記の機能に何らかの不均衡があって、正常な発達が阻害されるのが、「発達障害」。
○発達の阻害要因にはならない程度の正常範囲内での多少の偏りを素地として持っていた人が、
 人間関係の軋轢にさらされて過剰な自己防衛反応を起こしてしまうのが、「神経症」。
○その自己防衛機能が人間関係の重圧に耐えかねて、均衡が破綻してしまうのが、「精神障害」。
○上記の諸機能が、ゆがんだまま固定されてしまったのが、「人格障害」。(だから、社会的に
 は逸脱していても、個人的には破綻しない。)

   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

では、そういう自己を「ありのまま」認めるとは、どういうことだろうか?
『君が教えてくれたこと』の最終回の中にあった、「ありのままの君でいい、なんて、言われ
てみたい。」というセリフについて考えてみる。

普通は、ありのままの自分でなんかいられない。だって、人の存在を意識し、人の評価を気に
してしまうから。それは、正常な人格機能の一部だから。そして、そういう呪縛から解放され
たいという願望がいくらあっても、やっぱり人から乖離してしまうことはできない。意識の中
から、社会的な感情を持った自己自身を消してしまうことができないから。だから、常に「願
望」であり続ける。
非・自閉症者の場合は、自分が今現在の社会的な価値観にかなう能力や魅力を持っていないた
めに、社会的な価値を失い、社会から疎外され居場所を喪失してしまうことを怖れている。だ
から、非・自閉者の「こころ」の病を治すのは、そういう社会的な存在であるが故に働いてい
る"社会的な価値のない自分を認めたくない"という「本心」に気づかせることで、かたくなに
なった「こころ」のヨロイを脱がすこと。
それが、「ありのまま自分」を素直に認めることになる。

でも、「自閉症」者は、「ありのままでいい」と言われなくても「ありのまま」でしかいられ
ない。これが、小児期に共通する問題。
しかし、高機能自閉症者を放っておくと、「ありのまま」の在り方どころか、自分自身の存在
さえ自分で否定してしまう。なにしろ、自分ではどうしようもない「障害」を持っているのに、
「悪の権化」のように言われ続けるから。こうなったらもう、自分が"いないことにする"しか
ないではないか。
ただし、全ての関心が「普通になること」「人と同じになること」「社会に適応すること」に
向かずに、「"ニンゲンでない何か"に夢中になるという中心核を崩さないこと」。これが、
「自閉症」者に自己を保たせることになる。その"何か"は、牛であったり、音や振動や光や色
や形であったり、電車や歴史的知識であったり、アニメやゲームのキャラクターであったりす
る。
それが、本来の自分を失わずに、社会に居られるということ。


最近、つくづく思うこと・・・↓の本を書いた、古典的な精神障害しか知らない医者しかいな
              い病院を転々とする前に、「高機能自閉症」に最大の関心を持っ
              ている先生方に逢えて、良かった。
[2001年5月31日 0時33分13秒]

テーマ: [2001年5月9日 22時44分31秒]   
こんなことを考えているのは、↓の本を読んだまとめをしているから。

いくら、予診をとったりアンケート取ったりしてから診察すると言っても、いろんな人がいて、
いろんな病気があって、いろんなアプローチの仕方があって、しかも、次から次へと診なきゃ
ならない。中には、まかり間違うと自殺する危険性のある患者さんだっている。
初めは、さしあたっての苦悩を取り除くことが先決で、いきなりカウンセリングに入るわけじゃ
ない。ある程度信頼関係ができて話し始めるとなると、今度はその人が何十年にもわたって抱
えて来た「わだかまり」や「ボタンの掛け違い」を読んで、それを解放したりほぐしたりする。
一人の人の主治医になるということは、その人が生まれ育った家庭から今現在に至るまでの人
間関係の中で取り残されてきた問題に、本人が向き合う手助けをするということ。

「診断」なんてものは、処方する薬を選択したり、アプローチしていく方法を選ぶための指標
にはなるけれど、それで解決する問題は微々たるものだと思う。
逆に、「診断」が下ったことを「死の宣告」のように受け取ってしまったり、社会的な「免罪
符」にしようとする心理というのがどうしても働くから、一時的にかえって危機的な状況に陥っ
たりもする。(ただし、本人と家族が本当に危険だと判断したら、入院させるでしょう。ベッ
トが空いていれば。)
まあ、そうして本人自身が自分で悩んだり気づいたりしないことには、回復する力にならない
から、そういう時期が必要なんだろうな。ハウツー物みたいに、簡単に「ああしなさい・こう
しなさい」って教えたり、慰めの言葉を言って頼らせるのは、どこかの教祖様のやることだ。

自分の精神を歪めてしまった原因に自分で向き合わないことには、克服したことにならない。
確かに、ワタシの時も、最初のひどい状態を治してくれたのは「薬」の力だった。
しかし、イザ、自分で自分に課していた封印を解く段階になると、泣いたりわめいたり悪あが
きしたり屁理屈を言って対決する相手は、自分自身ではなく封印を解く手助けをしようとして
いる医者。つまり、人一人の主治医になるということは、そういう役割を引き受けるってこと。
そうして後押しされて、今度は自分一人で自分自身に立ち向かう。本当に、恐怖で身震いする
闘いだった。
(まあ、私の場合は「自閉症」らしい症状が非常に軽いので、そのために社会から完全に疎外
されるようなことがなかった割に、世の中に背を向けて行き詰まるところまで行ったところか
ら折り返して、今度は逆に自分を抹殺して世の中を極めたと思い込んだという、めちゃくちゃ
な極端に走ったので、二次障害・三次障害の精神症状の方が大きかったから、こうなった。
もっとそれらしい「自閉症」だったら、最初に社会に適応するところで躓き、社会から跳ね返
されて傷ついた時点で病院に連れてこられる羽目になる。「自閉症」の程度が重く、自力で封
印するという過程がなかったら、こういうこじれ方はしなかったでしょう。)
[2001年5月31日 0時32分9秒]

テーマ: [2001年5月9日 19時11分54秒]   
こういう風に簡素化して考えてしまうのは、それぞれの患者さんに悪いとは思うけれど…。

「精神分裂病」というのは、社会的な感情が正常にあり、従って、人との関係性がある正常な
      発達をした人が、社会的に適応しようとして自己評価を過剰に気にしたり、自己
      の所属する集団の価値観に合わない感情を否定して、無意識下に圧し込めようと
      して、その負荷に耐え切れなくなって起きるものだとする。(それが、意識の表
      層部分に顕われて来たのが妄想とか幻覚と呼ばれるもので、重篤な場合は全く現
      実性を失ってしまうほどになる。)
「PTSD」は、生命の危機を感じるほどの恐怖体験をしたにもかかわらず、言語化して(時
      間的な)前後関係を整理できなかったり、その衝撃が強すぎるあまり自己との関
      連性を整理できないまま自己責任に帰してしまって、その体験を消化できず原体
      験の記憶が薄れることなく保存され、再生され続けるものだとする。(その体験
      を喚起する物・状況・場所・感情から、徹底的に回避し続けようとする。)
それに対して「自閉症」は、元々の「社会性のなさ」から人と係われない・係わり方がおかし
      い。ほとんど人と係わりを持てない状態から、係われるけれど係わり方がおかし
      い状態もあれば、一見ちゃんと係わっているけれどちょっとしたことで破綻する
      寸前のまま保てている状態まで、幅がある。(ここで、係わりのなさと係わり方
      のオカシサという点で「精神分裂病」に間違えられる。或いは、社会性の無さを
      補うために、「社会的なあり方」を人と係わりの無い自己自身の内だけで作り上
      げることで適応しようとする有り様が病的になると、他の精神疾患になってしま
      う可能性がある。しかも、社会的な感情がないために奇異な行動をしてしまうの
      で、それに対する周囲の人々の反応が外傷体験になりやすい。ここのところが、
      PTSDに近くなる。まあ、いろんな病気の問屋なんだけれど、本当の「こころ」
      の病とは発症の機序と理由が違う。)
[2001年5月31日 0時31分16秒]

テーマ: [2001年5月9日 17時45分20秒]   
引き続き、『人はなぜ心を病むか:思春期外来の診察室から』(吉田脩二著)を読んでの感想。

人間の方が、よっぽど妖怪だぁ!

そりゃあそうだ、元々、妖怪なんてものは、個人の性欲だの情念だの自己保存欲求だのといっ
た動物的な本能が、人間関係や社会的序列のある「ニンゲン社会」の中ではストレートに満た
されずに抑圧されてしまうという精神状態を具現化したものだから。だから、あんなに醜い。
そして、恐ろしい。なにしろ、ただの純粋な本能ではなく、抑圧という行程が入るから。

健常と呼ばれる人間たちは、「社会」を形成するために表向きは成人君主のニンゲン顔をして
いるけれど、実はやっぱりヒトという動物の一種に過ぎない。
お上・お役所などがお墨付きを与える、公的身分や名誉なんていうニンゲン社会の或る部分で
は、ただの生物であることを隠していなければならない。でも、良くしたもので、ニンゲン社
会の一面には公然と動物としてのヒトでいられる場が用意されている。いや、それどころか、
ニンゲン社会を本当に動かしているのは、実際は動物であるヒトとしての魅力や力関係だった
りもする。
その二面性を如実に顕わしているのが「妖怪」で、人間と妖怪とは元々同じ一つのものの別の
面にすぎない。愛⇔憎しみ、博愛⇔独占欲・嫉妬心、赦し⇔恨み、慈悲⇔怨念。これらの対立
概念は、人間と非人間の間に生じるものではない。これらすべて、人と人との間に生じるニン
ゲンの「こころ」。つまり、人が自己や他人に対して抱く「感情」なのだ。
その均衡が破られた時、健常と呼ばれる人をニンゲンらしく振る舞わせていた精神が破綻し、
「こころ」が病んでいるといわれる状態になる。

ちなみに、普通のニンゲンは、確かに「人を愛する」と同時に「嫉妬」したりもしているので、
まるでそのままが半妖。ニンゲンの皮だけかぶって中身は妖怪だったり、心底ニンゲンだと自
分では思い込んでいるだけで本性の妖怪の部分を隠そう隠そうとしていたりと、いろんな種類
がある。

まあ、ニンゲンでもない者は、妖怪にもなれない。
"ニンゲンでも妖怪でもない"というのは、単なる"無防備で魅力の無い人間"ということ。
[2001年5月31日 0時30分25秒]

テーマ: [2001年5月9日 15時1分45秒]   
ありとあらゆる現象が、「自然の摂理」でも「神の意志」でもないというコペルニクス的転回
によって、その現象の裏に隠された「科学的真理」を極めれば全てを人間の思うがままにでき
るという錯覚を抱いてしまった近代。
最初の誤まりは、脳=「知」能だったこと。残る、「情」「意」は人格と教育の問題とされて
しまった。
しかし、「知」「情」「意」のある部分は、脳の機能の問題だということに気がついた。
また、「こころ」の病の或るモノは確かに「抑圧」の所産であるけれど、脳内機能の拮抗バラ
ンスの異常としてもとらえることができることも、解明された。

失われたバランスを取り戻すために、「薬」の力を借りなければいけないこともある。
それから、元々バランスが崩れていて、容易に異常な行動や病的症状を起こしてしまう人もいる。
だからといって、全てが脳の機能異常だけで起こるものではないし、薬だけで治るわけでもない。

異常行動をするから、困ったことをするから、すぐに精神的に破綻するから、なんとかして
「抑えよう」と対立し、「抑えてください」と人に頼む前に、「どうして、そういう行動をす
るのだろうか?」「何が原因なのだろうか?」と考えなければ、何の解決にもならない。
(そこで、元々そういう「脳」を持って生まれたのなら「発達障害」。そうでなければ「ここ
ろ」の問題。そういう「脳」を持って生まれたのに、それなりの扱いをされなかったことで起
きるのが「二次障害」。)
[2001年5月31日 0時29分28秒]

テーマ: [2001年5月9日 10時15分53秒]   
それから、これは全くの仮説だが…。

「発達障害」児は、生まれつき脳内の諸機能のバランスが悪い。
神経的には、活性系と抑制系のアンバランスがあるのだろう。
そして、その発達もアンバランス。

だから、バラツキがあることを、そのまま認めてあげれば良いのだ。
遅れている部分の或るモノはかなり機能的欠損に近いこともあるけれど、単に発達が遅いだけ
のこともある。(恐らく、主に認知に関する部分。)
欠損に近いモノの中でも、或るモノはほとんど補填されないけれど、後発で活性化するものも
あるのだろう。あるいは、他の機能によって補償されることもあるだろう。

また、神経伝達物質代謝に関わる機能を補おうとするのが、薬物療法というわけだ。
その中には、脳内の過活動を引き起こすもの(例えば、ドーパミン)、不快感の知覚異常に関
わるもの(例えば、セロトニン)、適度な集中や覚醒状態を活性化するもの、活動に伴う不安
や緊張の抑制をするもの。
症状が悪化したり激化した場合には、これらの物質的な代謝を調整することが、一時的・回避
的措置として必要なことがある。しかし、本態的にこれらのアンバランスを抱えている場合に
は、「生活すること」や「生きていくこと」のために必要なこともある。

依存したくはないけれど、そこにまで罪悪感を持ちたくはない。
ただ、本態的な症状なのか、離脱症状なのか区別がつかないことがある。
「発達障害」による神経・精神的症状なのか、通常の「こころの病」なのかを鑑別する重要性
は、そこのところにある。
[2001年5月31日 0時28分51秒]

テーマ: [2001年5月9日 9時48分8秒]   
朝のニュース番組『ズームイン・朝』で、子どもが大人に質問していた。
子ども「どうして、友達を作らなければいけないの?」
どこかのオバさん「だって、みんなと一緒の方が楽しいでしょ? 困った時に相談できるし。」
こども「そんなことないよ。一人の方が楽しいよ。」
他の子ども「だって、ゲームの順番が遅れる。」

ちなみに、これは「自閉症」の社会性のなさではない。エゴだ。
(「自閉症」児が、よくゲームを一人じめにしてしまうのは、ワガママだからではなく他に人
がいないからだ。夢中になって、他人の存在を忘れてしまうのではない。元々、他者の存在を
意識することが自然には出来ないので、莫大なエネルギーを要する。しかし、他のことをやり
ながら両立することは、非常に難しい。人によっては、ほとんど無理。)
[2001年5月31日 0時28分12秒]

テーマ: [2001年5月8日 15時36分31秒]   
ここ数年間の病的状態とは、何だったのか?
私にとっての自然な状態はとは、どのようなものなのか?
そして、それを維持するには、どうすればいいか?
それを知るために、普通の人が「こころ」を病んでいる有り様を研究してみようと思って、
『人はなぜ心を病むか:思春期外来の診察室から』(吉田脩二)を読んでいる。
※こういう本には、自分の状態を言い表わす言葉が無いので、引用はしない。

人間が自我に目覚める三つのハードルというのが、「心の理論」の通過過程とほとんど一致し
ているというのは面白い。
その時期は、小五・中二・高二。私の場合だと、それぞれ、「自分の周りに人々がネットワー
クを張り巡らしているのに気づいた時」「自分一人だけが人と違っていて、自分だけが人のし
ていないことをしていることに気づいた時」「あの人たちの中に入らないことを決めた時」だ
った。

普通は、それぞれが三段階になっているというより、11〜17歳までのどこかで「自分の生
き方」を問い、人と人との間で生きて行く「自分(自我)」というものを確立すると言う。
それまではほとんど親に引きずられていたのに対して、個性や能力的な特徴がハッキリとして
来た「自分」に向き合うと共に、同年代の仲間関係の中で自分を位置付け、切磋琢磨し合い、
励ましたり悩みや苦しみを共有し合うことで、生きる力を得る。それが、「大人になる」とい
うことなのだろう。
しかし、"人といられるのに人との関係が無い"私は、そこで決定的に孤立して行った。それが、
私自身にとって「自然」だったから。

もし、そのままそこに居続けられていたら、特に何も問題は起きなかった。
しかし、第一のハードルは、「どこまで逃げても、人間社会から出ることが出来なかった」こ
とだった。生活に追われる今の世の中には、「社会」の外・「世」の外がなかったこと。
第二のハードルは、「理論と人真似で作り上げた、まがいものニンゲンに出来ることには限界
があった」ということ。
それまで会って来た人間たちは、ほとんど発達障害者か世捨て人だったので、それほどの苦痛
を感じたことはなかった。しかし、まさしく始めて生身(欲得づくで感情を持った)「人間」
たちと「関係」を持たされた時から、私の精神はおかしくなった。(身体と神経は、既に壊れ
ていたけれど…。)
「こころ」が病んだのは、現実の人間関係の中で生きていかなければならなくなった時からだ
った。だって、私にとっては、「音」や「形」と一体になっている方が自然だったのに、いつ
の間にか、周りじゅうニンゲンだらけになってしまっていたもの。

その状況は、変えることが出来ない。でも、私は「ワタシ」に戻った。
(戻してくれた人には、感謝せねば。)
[2001年5月31日 0時27分34秒]

テーマ: [2001年5月6日 10時44分46秒]   
でも、私の「人格」はほとんど「場所」の属性なので、いろんな「立場」が入り乱れる「場面」
で「返答すること」を求められると混乱します。
こちらの取るべき立場が決まっているのなら、一向に構いません。ただ、語り口は相手の文章を
オウム返しする形になるので、一見別人のようになっても、立場は一定している限り混乱はあり
ません。。
でも、それぞれが自分の「経験」や自分にとっての「事実」を語り合うだけで、決して交わらず、
しかし、本当の居場所にいる時は、応えることも求めずにただただ傍観していることが大切です。
そこでは、ワタシをつかむこともできない代わりに、他の誰にも干渉しない。そういう「場」が
必要なんです。
[2001年5月31日 0時26分48秒]

テーマ: [2001年5月6日 10時39分15秒]   
私の場合は、感情が平板化しているわけでもなく現実感も喪失していないので、「嬉しい」と
いう感情が全くないのではない。
ただ、「嬉しさ」を感じている時は、たいてい軽躁状態のことが多く、調子に乗って暴走して
しまったり、その後に鬱状態が来たりするのを警戒する癖がついた結果、自分でブレーキをか
け何も感じないことにしているのだと思う。(社会的な場面で過剰な感覚を遮断しているのと
同じように、過度に興奮しないように正の感情を遮断している。)
しかし、自分の感覚世界やこだわりに没頭している時には、ほとんど同一化しているだけでは
なく、快感や楽しさを確かに感じている。

「自閉症」者が「喜び」を表さないのは、恐らく「喜んでいる」という感情状態の感覚が違う
とか、「楽しさ」を感じる場面が普通と違う(共通認識の欠如)ということなのでしょう。
「すべての、またはほとんどすべての活動における喜びの消失」とか「普段快適である刺激に
対する反応の消失(何か良いことが起こった場合にも、一時的にさえ、よりよい気分とならな
い)」ことはないので、メランコリー状態とも違います。
[2001年5月31日 0時26分5秒]

テーマ: [2001年5月5日 23時0分31秒]   
『自閉症の才能開発』(テンプル・グランディン著)より

ある会議で会った自閉症男性が、恐怖と悲しみと怒りの、三つの感情しか持ち合わせていない
のだと言ったことがある。喜びの感情はないとも。彼はまた感覚組織が入り乱れるように、感
情が変化したり混乱したりするとき、その度合いがきわめて強いという問題も抱えていること
を話した。(P116)
「それはたぶん私が他の人々よりも感情的ではないので、「死」に直面することを恐れないか
らであろう。私は明日は死ぬかもしれないという気持ちで、一日一日を生きている。(P117)
「襲われやすい動物と同じように、自閉症者は恐怖の感情を抱いていることが多い。私自身の
生活を視覚的象徴で絵図化しはじめるまで、私は、他の人たちがいつも恐怖と背中合わせで暮
らしているのではないことを知らなかった。恐怖が私の固執性を高め、私の生活は恐怖を抑え
ることでいっぱいだった。」(P221〜222)
            ・・・・明日の朝、係のちょっとした仕事があるというだけで緊張
                し、癇癪ばかり起こしている。今日は、人と会話できない。

「さまざまな状況でどう振る舞うかをそらんじて数年もたった今、私は自分の記憶のCD‐ROM
を早送りして、急速に決断を下せるようになっている。(P188)
「フリーランスであることで、職場で起こりがちな人間関係を大幅に避けることができた。契
約をした仕事場に行って、プロジェクトの設計をすまし、人間関係がややこしくなる前に「は
い、さようなら」ができた。(P144)
「自閉症者を雇う人は彼らの限界を知っておくべきである。自閉症者は自分の仕事に非常に集
中できるので、環境を整えてやれば、しばしば彼らから優れた仕事を引き出せるのである。し
かし、うまく対応できない社会的状況から彼らを保護することが必要である。(P144)
            ・・・・確かに、当たり障りのない通り一遍の受け答えならできる。
                しかし、人と人との間に成立して、人と人とを結びつけて
                いる「社会的な感情」を持ち合わせていないことには、全
                く気が付かなかった。
                そのことさえも分かっていなかったから、回避できなかった。

「非自閉症の友人たちは、多くの人が人間関係を求めて生きるのだと、わたしに言う。私はと
いえば、私のプロジェクトと場所に執着する。(P191)
「グラントによれば、ゴッホは永遠なる子供で、他人のニーズや感情に応じる能力はほとんど
なかったという。人類を抽象的レヴェルで愛することはできたが、現実の人間に対応すること
を強いられると、許容することを知らない、あからさまな自己閉塞型であった。」(P240)
 「例えば、ひとつ事に固執する特質が軽度であれば、事に集中して貫徹する結果を生むが、
重度のときはその固執性が人間関係を阻害する。」(P230)
            ・・・・表面的にニンゲンになることに固執すると、見かけ上の振
                る舞いは確かに人間だが、中身は空っぽ。
                なのに、年と共にどんどん複雑で巧緻で狡猾になっていく
                人間関係に当たり前のように巻き込まれて、破綻する。
                しかし、元の自分自身に戻り、自分自身のすべてであった
                元々の固執性を回復すると、当然のように孤立する。
                人間関係から切り離されると、私の精神は安定を取り戻す。
                その代わり、何も知らなかった以前には感じることさえな
                かった恐怖心もまた、増大している。(表面だけの付き合
                いに留めること。余計なことを言わないこと。)
[2001年5月31日 0時25分23秒]

テーマ: [2001年5月5日 12時1分12秒]   
最近増えている「情緒障害」というのは、凸と凹がジクソーパズルのように組み合わさって成
り立っている人間との関係において、「相手に□になることを要求」したり「自分の凸に合わ
せて相手が凹になることを要求」したり「自分の凹を過剰に気にして、失敗を恐れるあまり人
と関係することを拒んで」しまったり「自分の凹を過剰に気にして、それに触れられないよう
に逆に攻撃を仕掛ける」ようになってしまったり「自分の凸凹と相手の凸凹の組み合わせが合
わないことが原因で、人との関係がおかしくなってしまった状態」のことを指すのだと思う。

それに対して、「発達障害」というのは、本人には不可効力な機能的な凸凹の為に、「社会的
に価値があると認められている行動がとれない」とか「現象として現れた様子が、社会的には
悪とみなされるような行動をとってしまう」が故に「自力ではコントロールできない、自分で
はどうしようもないこと」を責められるとか、「何らかの凸凹がある為に、社会的に期待され
る役割を果たせない」ので不利益を被りやすい子どもだということ。
だから、その子の凸凹をいち早く発見し、そういう子どもだと認識して対応することで、凸と
凸が衝突したり、凹と凹を強化し合ったりしないように、環境を整えて人間関係を調整して行
く必要があるのだ。

それから、過去の古い考え方では、仕事・家庭・余暇活動ができなくなってしまうような症状
があると、ただちに「本人の怠慢」か「精神障害」「精神異常」のどちらかとみなしていたけ
れど、そのうちのいくつかは記憶・認知・注意力・感情などの精神機能が阻害されて起こる
「能力低下:正常に活動を行う能力の制約や欠損」や「機能障害:構造上・機能上の欠損や異
常」であるに過ぎないことが分かって来た領域を「障害」と呼ぶようにしたということなのだ。
 その状態は、全く現実性を失っているのではないので、やみくもに隔離したり排除するべき
ではない。それから、どのような機能が欠損しているか分かれば、「できるはずのないこと」
を補完する方策が立てられるということでもあるのだ。
[2001年5月31日 0時24分4秒]

テーマ: [2001年5月5日 10時40分8秒]   
この、「こだわりを通して世の中を観る」ことを、専門家の先生方は、「せっかく人と会話が
できるようになっても、常に自分の関心事の方に話題を持って行きたがる」悪しき傾向として、
排除しようとします。そして、それを治そう、治そうとします。
確かに、まるっきり会話が成立しないような状態のままい続けるのは、孤立するだけなので、
結果的に本人の為になりません。
それは、日常的な場面・社会生活のために時間と精神を売り渡す(その報酬としての賃金を得
る)必要がある場面では、生存のための方便として身に付けておかなければならないものであ
るかもしれません。

しかし、魂まで売り渡する必要はありません。
侮辱的だからという理由ではなく、精神的な破綻を招く状況に追い込んで欲しくないから。
[2001年5月31日 0時23分8秒]

テーマ: [2001年5月5日 0時8分24秒]   
私が「精神医学用語」や「哲学用語」を多用するのは、何も今に始まったことではなく、中学
生の頃に「自分のオカシサ」に気づき、それを説明するコトバを探すようになった時からです。
私は、常に何かにこだわっていて、その「こだわり」を通して「世の中」を見るので、私のコ
トバは、いつもその時にこだわっている事柄の「用語」や、「自分の状態を言い表わしてくれ
ている、誰かの文章」です。
それから、「精神科医」の話をするのは、一つには私の父が医者で、私に「医者になるつもり
があるのなら開業するけれど、どうだ?」と聞かれた時に、「精神科の医者になら、なっても
いい。でも、医学部には行かない。」と答えたくらいに関心があるからです。
そして、もう一つは、現在の「ワタシのコトバ」が「精神医学用語」なので、こういうコトバ
を使った話をして通じる相手は必然的に精神科医しかいないから、本当に話したいことは精神
科医が相手じゃないとできないという事情によるものです。
日常のありふれた会話は、「誰かが言っていたこと」「誰かと誰かの会話を聞きかじって、そ
れを丸暗記したセリフ」とお笑い番組で覚えた「ボケとツッコミ」をパッチワークして、乗り
切っていますが、本当に言いたいことを話す時には「こだわりの用語」を多用します。
要は、常に何かを「媒介」としてしかしゃべれないというのが、ワタシの「コミュニケーション
障害」なんです。これを、普通の言葉で話してくれと言われても、できません。だって、普通
の人が・普通の言葉を使って・普通に表現している・普通の心情がないから。
(注)感受性と個人的な感情は、非常に(いや過剰に)あります。ただ、ほとんど互換性がない
   ことが多いので、ストレートに表現しても通じないどころか、とんでもない方向に解釈さ
   れているみたい。

しかし、これはワタシにとっては自然なのですが、私の書いた物を読む人には、非常に大きな
弊害が発生していることを知ってしまいました。というのは、これまた或る精神科医が書いた
本を読んでしまったからです。そこには、こんなことが書いてありました。
「最近、なんでもかんでも精神医学用語を使って子どもの状態を説明しようとする母親や施設
関係者が増えて、困っている。」
「どんな子にもある、通過儀礼的なちょっとした問題行動を目にすると、すぐ○○障害でしょ
うかと心配するので、まいってしまう。」
「こういう行動障害があって困っているのでクスリを下さい、と頼む人が増えている。それで、
処方してもらえば解決するものだと思っていて、そういう行動を起こす理由や背景を考えよう
としない。当然、薬だけでは何の解決にもならないから、薬が効かないと訴えて来る。」
「ちょっとしたことを、さもたいそうな事のように心配して、児童相談所あたりで十分解決で
きるようなレベルの子どもを連れて、血相を変えて精神科外来を訪れる母親が増えて、驚いて
いる。」

「専門用語」を多用するというのは、ものすご〜く深刻なもののように受け取られる危険があ
るということのようです。

そこで、しつこいようですが…。
「この分類全体を通して〔障害(disorder)〕という用語が用いられているが、これは〔疾患
(disease)〕とか〔疾病(illness)〕などといった用語を使用するさいに生じる本質的で
重大な問題を避けるためである。〔障害〕は決して正確な用語とはいえないが、ここでは個人
的な機能上の苦痛や阻害にともなって、ほとんどの症例に臨床的に明らかな認知可能な一連の
症状や行動が存在しているというときに用いられている。」
         『ICD−10:臨床記述と診断ガイドライン』序論・用語上の問題点より

この、下線の意味ですから。くれぐれも、絶望的な意味にとらないで下さい。
でも、だからといって、「火のないところに煙を立てている」わけではありません。
[2001年5月31日 0時22分9秒]

テーマ: [2001年5月1日 10時54分20秒]   
何故か、突然(って、いつもそうだけれど)、精神科医に関する所感をいくつか。


[その1]
アメリカには、アメリカの事情がある。精神科に行くことに抵抗がなく、精神分析を受けるこ
とがステータスになっているとか、保険会社と製薬会社の後押しがあるとか…。
だから、全世界が「アメリカ精神医学会」に「右へ習え」する必要もない。反DSM派がいて、
当然だ。特に、アメリカのDSM推進派はどう考えても行き過ぎな面もある。「この本を読ん
でチェックをかければ、簡単に診断できます」みたいなことが、公然と書いてあったりもする。
それから、すぐに多量のクスリを出すのも、???だ。

何だろうと、伝統的な精神科医療の手法を習得して、ちゃんと患者を観察して臨床所見をとれ
る人が、鑑別の目安として利用するのなら構わないのだ。
でも、DSMやICDの最新版で新しく登場した概念とか疾病そのものの存在を無視したい人
もいれば、実物を何人も見たり「臨床記述」をじっくり勉強する機会に恵まれないうちに、
チェックリストだけで判断するしかない人もいるんだろうな。
なにしろ、精神科医にはそれぞれに専門領域があって、しかも、患者のタイプや障害の種類に
よって医者のとるべき態度やカウンセリングの仕方も違う。診断がつく前の初診時に、いきな
り逆の立場からアプローチされてしまったら、かえって病状が悪化してしまうことだってある。
(予診の時に、人の言ったことを逐一否定してかかってくるような病院だったら、その時点で
帰った方が精神衛生に良いカモ?)


[その2]
私はワイドショーを見ないので、どんな人がタレント精神科医で・どんな発言をしているか全
く知らないから、当たっているかどうか分からない。
けれど、精神科医は病院で待ち構えて、精神疾患に罹った人や(そこまでいかなくても)何ら
かの悩みをかかえたいろんな人を、職業的に診るのが仕事なはず。それが、実際に診療したわ
けでもない犯人像について語ったり、精神鑑定の結果が出た時には良く知りもしない障害につ
いて一般的な説明をするのは、明らかにおかしい。
それから、病院外の社会についてほとんど無知(かどうかは知らないけれど、少なくとも他の
現場の実状は知らないはず)なのに、社会全般の風潮についてコメントするのもおかしい。
でも、「いかにも異常な人」が犯罪を犯した場合にはその必然性を知りたいし、「普通の子・
良い子」が犯罪を犯した場合には、そこに至る経過や心理的な変化を探りたい。そうして、"何
らかの図式化をしないと安心できない"人心に応えるために、そこにいるんだろうな? 
そして、○○大学教授のお言葉といっても、その人の日頃の持論を言っているだけなのに、あ
たかもその事件の解説をしているような錯覚を国民に与えているというわけだ。


[その3]
それから、精神科医が一般向けに本を書く場合には、「身近にこういう人がいたら、どうすれ
ばいいか?」とか「近親者をこういう風にしないようにするには、どうすればいいか?」とい
うことが中心になる(というより、それを知りたがっている。或いは、そうした方が売れるか
ら、そういう視点で書く)。それで、「犯罪を犯すに至った経緯を、家族との関係で解説する」
内容になる傾向がある。
すると、精神科の治療法には様々なものがあるし、患者の人となりや病状によっても選択する
療法は違っているとは断わってあるけれど、必然的に「家族療法」を紹介するようになってし
まう。
でも、実際に具体的な「家族療法」を行っている臨床家自体が少ないので、どうしても患者に
対する一般的な接し方を紹介するしかないから、「親自身の性格を変えれば治ります」みたい
な展開になる。・・・それって、小市民たちが、現に問題を起こしてしまっている家に対して
          抱くのと同じ、ごくありふれた考え方じゃあないの?
「あの親がああだから、子どもがああなった」とか「あの親がこうすれば、あの子はああなら
ずにすんだ」とか言うような、いわゆる普通の世間の噂話と大差ない。
でも、現実的には、親の性格を変えるのが一番難しいんじゃない? だいたい、そういう本を
買のは、何らかの危機意識を感じている人なのだ。実際に渦中にある人は、自覚がなかったり、
どこをどう探していいかもわからない。だから、問題起こしちゃうんじゃあないの?
(それって、結局、世間のニーズってことなのね?)


[その4]
精神科医といってもいろいろいるので、いろんな医者の書き物をたくさん読むのは、精神衛生
上良くありません。
そこで、一言(←これだけ書いておいて一言はないだろが)。

ADHDやASで行動障害のある子どもに、「悪い子」と叱るのは誰でも出来ます。行動障害
のないPDDやADDの人に、「努力が足りない」とか「だらしない」と言うのは簡単です。
でも、そういう「人情のはけ口にするのは間違いで、逆に手をかけたり特別配慮やプログラム
が必要だ」となったら、とたんに面倒臭がったり大した事ないのに騒ぎすぎだ、なんて言わな
いで下さい。
中には、その程度が重くて、日常の社会生活に支障をきたす「障害」になっている人がいると
知ったからといって、排除しないで下さい。

「これを習えばこうなる」式に計算されたプログラムに幼児期からはめられて、しかもそれに
応える能力のある健常と言われている子どもは、大人に対して「良い顔」する術を身につけて
います。我慢に我慢を重ねる「良い子」を褒めれば褒めるほど、「良い子」を演じることに疲
れてしまった健常児は、いつか感情的なはけ口を求めるようになるでしょう。
「発達障害」のある子どもは、それができません。誰に対しても「良い顔」できないし、人の
期待に応えたくても応えられないし、できない注文には断固として抵抗します。それを「悪い
子」よばわりし続けると、自分を攻撃して自滅する方向に走ります。
でも、どちらにしても、「正常から逸脱することは、人に迷惑をかけること」という考えに囚
われるあまり、逆に、もっと大きな迷惑をかけざるを得なくするところに子どもを追い込んで
しまう結果になる、という点では同じものなのではないでしょうか?

(私は、「二度と犠牲者を出したくない」という執念に固執している。)
[2001年5月31日 0時20分47秒]


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