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テーマ: 中学生。
発達障害のない子どもたちでも、自分の能力には限界があることを思い知り、また逆に「自分
が何をしたいか・何にむいているか」が見え始める頃。
発達障害の子どものパニックや癇癪は、何らかの限界に直面していることのシグナルだから、
まあわかりやすいと言えばわかりやすい。発達検査の下位項目にバラツキがあってどんなことを
しても無理だと判っているものは、諦めるというのも一つの手。そんなところで無駄な時間を潰
すより、やればできるところに取り組んだ方がいい。中には、どうしようもない絶壁だと思った
けれど、ルートを変えたら超えられるものもある。それも、いろいろ。
思春期の身体的な変化も重なって、独り言や独りダンスが派手になった子もいる。最近、ウチ
の長男は、無意識の内に自閉的視行動や手かざしをすることが多くなった。でも、二人とも学校
ではしないし、行事の時はちゃんと参加しているので、場のわきまえはできているからOK。
しかし、本人自身がもともと持っていた「障害」よりも、家族がそれを受容できないというシ
ョウガイ・家族が子どものしていることを恥と思うショウガイの方が大きい、と痛感する今日こ
のごろ。
[2001年9月30日 18時4分58秒]
テーマ: そういえば…。
「障害」だと判って・しかもどういう部分にどういう機能の異常があるかが判って育つのと、
そうでないのとでは、その先が随分と違うということ。
それから、成人すれば普通に見えてしまうのに、わざわざ「障害」と言いたてるのはどうか?
と考えるのではなく、普通に見えるようになるからこそ発達上の障害があることを認めるべき
で、しかも普通に見えるから「障害」がなくなるわけでもないということ。
これは全部子どもの話で、人を育てる現場である学校では、一部の教師たちも痛感している。
けれど、全国的な動きではない。ましてや、人が一人前の労働力のある社会人として育っている
ことを前提として受け付けようという社会に対して、ワタシはまだ何も実効のあることをしてい
ない。
[2001年9月30日 16時57分57秒]
テーマ: 渦巻きは…。
渦巻きは、「混乱」の象徴だとか(今朝、テレビでやっていた)。完成した途端に、今までや
って来たことをすべてぶち壊してしまうそうだ。当たってるカモ〜♪
いつもいつも、何が楽しいことでどこからが無理なのかわからない。調子に乗りすぎるか、ヘ
ビに睨まれたカエル状態になってしまうかのどちらかで、気づいた時にはとんでもないところに
やって来てしまっている。
「不足していることは、いけないことだ」「自分のこだわりは、全て捨てなけれぱならない」
と自分に対して命令をしてきたので、現在は自分にとって不利な条件に囲まれている。でも、で
きることしかやらない。心理的には窮屈だけれど、精神的な安定のためにはそうするしかない。
(しかしやっぱり、生きてくために飲みこまなきゃいけない苦痛と引き換えに通っているワガマ
マだということは分かり切っているから、「不安」に落っこちる。)
最近、気を付けるようになったこと。
○発達障害児を持って、「いかにも迷惑だ」とか「頑張りましょう」なんていう親心に対しては
反応しなくていい。←そういう心情がわかる人たち同士で、遣り取りすればいい。
○発達障害に対して、完全受容するか全面否定するかのどちらかという考え方もあるけれど、そ
れは私の立場とは違う。
○いろんな意見が交錯してわけがわからなくなってしまうものや、ついつい注釈をつけたくなる
ものは見ない。
でも、「安定」はいつも束の間。
[2001年9月26日 10時33分4秒]
テーマ: 視覚過敏。
どうも最近、眼精疲労がひどく目が回る。
もしやと思って、背景を薄い黄色にしたらあっさりと治った。
やっぱり、白がダメなんだな。
[2001年9月25日 15時29分22秒]
テーマ: 自信が持てないこと。
飛び散ったこころのかけらが、キラキラ光って見える瞬間がある。
その一瞬だけ、「生きてていいかな」と思う。
しかし、次の場面では、それがみんなガラス片となってこちらに突き刺さって来る。
独りきりの世界・存在基盤の脆い世界なんて、そんなもの。
[2001年9月24日 11時49分37秒]
テーマ: 選択権。
運動会のごほうびでおでかけ・・・なんて、すんなりいくわけはない。例によって、「何を買
ってもらおうか」決められなくて、グズグズグズグズ言っている。
でも、私は「ごほうびをあげる」と約束したので、"それを何かを買ってもらうことだ"と解釈
したのは長男の勝手。「別に、買い物に行って何かを買ってあげるとは言っていない。小遣いが
欲しいと言えば、小遣いをあげるのに。」と私が言ったら、急に晴れ晴れとした顔になった。
まあ、何かを買ってもらうとなると、今現在売り場にあるモノの中から選ばなければならない
と思うし、せっかくだから高い物にしようとも思う。でも、自分のお金で自分で買うのなら、断
わられる心配もなければ、買わないという選択肢も有り得る。(その代わり、無駄使いをした
り、買ったものを壊したりなくした場合に、無になってしまう責任も自分にかかってくる。)
だいたい、療育なんてものも、「将来のため」という大義名分で押しつけるものではないの
だ。目先のことだって、「あれをするか・これをするか」「今まで通りでいいか・ちょっとステ
ップアップするか」という選択肢を呈示して、自分で選ばなければ納得なんかしない。もっと大
きなことで言うと、「こういう大人になるか・ああいう大人になるか」の選択だし、どういう大
人になったって、責任を負ったり困ったりするのは自分自身なのだ。
どうしてこんなことを考えているかと言うと、私自身が生家から離れた時点で、普通なら教え
なくても分かるようなことや自分の気持ちや動機(ひっくるめて情動)に基づいて自然にやれる
ようなことが全く欠落していたため、まずモデルとなるスタイルがないと生活が始められないこ
とに戸惑った経験があるから。そしてその時、親の言いなりになって我慢してやっていたこと
は、ものの見事に全部捨てた。
[2001年9月23日 10時50分27秒]
テーマ: ADHD同士のトラブル。
見た瞬間に無造作に手を出す、持った瞬間に放り投げる。長男と次男が、二人でこれをやる。
パニックになったり癇癪を起こさなければ5分で解決することなのに、30分もの間泣いたり
怒ったりの大騒ぎになる。
[2001年9月23日 10時27分59秒]
テーマ: 自業自得。
こちらはこちらで、何度"人との繋がり"を確認しても、やっぱり「人の気持ちに応えられな
い」罪悪感から、元の不安・恐怖・自己否定の波が揺り返しでやって来る。
せっかくやって来る束の間の安定を、自分自身でぶち壊す。この繰り返し。
[2001年9月22日 9時46分13秒]
テーマ: 運動会。
昨日は、長男の中学の運動会だった。毎日毎日、泣きパニックを起こして担任を心配させ
た"なわとび"だったが、1番前の縄の動きが良く見えるところにしてもらって、ちゃーんとやっ
ていた。(能力的な偏りを否定的に見て非難せず、単に激励するだけでもなく、できないながら
も工夫して挑戦する必要性を、改めて実感した。スゴイと思った。学校の対応に感謝!)
さて、昨日の朝、長男の頭が真っ白・過緊張で体が動かない、しかも朝方の雨で予定が不透明
という状況で、真っ青だった。にもかかわらず、ちゃんと登校時刻には間に合った。運動会当日
としては、上出来だった。
とにもかくにも、一年中で一番高いハードルを越えて、今日はすっかり「自閉モード」に戻っ
ている。(昨日の、運動会終了時点では、「いつも通りに勉強をする」とパニくっていたし、夕
方〜夜にかけては独り言の嵐だった。)それはそうだと思う。で、今日はお約束通り、ご褒美で
お出かけの日。
まあ、小学校の運動会が終わるまで、次男のイライラは続くだろう。とにかく、なんでもかん
でもイチャモンばっかりつけている。今は仲良く遊んでいるけれど、二人が共に良い状態になる
までの間、引き離したりゴキゲン取ったりするのがたいへん。
[2001年9月22日 9時42分49秒]
テーマ: 良心。
「どこかに書いてあったこと」
「誰かが言っていたこと」
真に受けて、盛大に心配する。
「自分とは違っていた」
「自分が思ったことと違っていた」
四六時中、それで怒っている。
でも、こういうことがある度に、「ワタシが悪い」と思う。
それで、自分を極悪非道の大罪人で不敬罪で処罰されるべきだと思って来た。
その代償は大きかった。けれど、それで良かったと自信を持って言える。
[2001年9月19日 22時15分37秒]
テーマ: 正念場。
他者の立場・個人の事情・社会の仕組みをすっ飛ばして、"自分と違うこと""自分の思ったこ
とと違ったということ"を非難するから、個人攻撃になる。つまり、社会性がないということ。
「告知」だけしても、いろいろな勘違い・認知の誤まり・モノの言い方などを説明する通訳の
役目を果たす人がついていなければ、意味がない。(本当は、皆それぞれ真剣で物事を深刻に受
け留め過ぎているのに、単なる"人の気持ちがわからない人"にされてしまう。)
子どもの内は、親がいる。でも、終生それをフォローする体制を作るだけの寛容さが、この国
のこの社会にあるだろうか?
幼児期には頻発していたいかにも「自閉症」らしい行動は、やがて成長と共にしなくなるかも
しれない。けれど、こういうところの「障害」は、長い時間をかけて逐一説明し続けなければな
らない。だからこそ、少しでも「自閉的な行動」が見られたら、いち早く発見する必要がある。
[2001年9月19日 9時41分29秒]
テーマ: 治りかけ。
「うつ病」は、治りかけが一番アブナイ。
それは、今まで無意識下に抑圧していたものが、意識に浮上して来るからだと思う。
それで、内へ内へと向けて我慢していたものは外に放出するようになるし、活動性が高まるので
それまでは思っていただけのものは行動に移そうとする。
しかし、「うつ病」は治ることがあっても、決して治らないこと。
家の中でも・家の外でも・どんな処でも、ただの厄介者でしかないということ。
[2001年9月19日 9時24分50秒]
テーマ: 同じ内容でも…。
ただでさえ四面楚歌だというのに、今日は次男が向かいの店の人に「どうして、(僕たちが)
○○○を買うって分かっているのに、早く店に置かないのー!!」なんて大声で言っているのが
筒抜けだ。
同じことを言うのにも、言い方一つで「依頼」や「質問」にもなれば、他人に対する「攻撃」
にもなる。
でも、次男を叱った私が動作緩慢で泣いていたのを見て、即座に不調を察知した。自分のとっ
た行動が、人を苦しめることにも敏感なので、自分から宿題を始めたり「よていちょう」を見せ
たりしてくれる。最近、行動障害が落ち着いた反面、人を傷つけるようなおしゃべりが増えてき
ているけれど、本当は優しいのだ。
長男には、こんな親に育てられているお詫びのしるしに、大好きな「堅揚げポテト」を買って
来てあげた。
[2001年9月18日 21時20分44秒]
テーマ: いろいろな親子。
ワタシが子どもの療育をやっていた時期には、自分自身は完全に括弧に入れていたどころか抹
殺してしまっていたし、家の中で親子で向き合っていただけだったので、自分のことなど考える
こともなかった。(自分自身にかかっていた精神的負担の重ささえ、全く感じていなかった。)
しかも、当時は知的障害を伴わない「自閉症」だとか、「自閉症スペクトル障害」という概念す
らなかった。ただ、医療現場ではやっとADHDという診断が下るようになり、障害児教育の最
先端でLDが研究され始めたばかりだった。(「自閉症」と言うより「自閉傾向」は、学習障害
を構成する一要素として考えられていた。)
ワタシが『自閉症だったわたしへ』を読んだのは、「自閉症」児たちの療育が一段落ついた後
のことだ。でも、まだ「自閉症」は自分の問題ではなく、子どものこととして読んだ。その内容
については「当たり前過ぎて、特に何も目新しいことは書いていない」と思った。そして、その
まま放っておいた。
ワタシが自分自身のことに気づいたのは、テンプル・グランディンさんの『自閉症の才能開
発』のお陰だった。そこに書かれていたことは、正に自分自身の実感だったから。その時、初め
て、自分自身の置かれている状況や自分自身の現実を知って、愕然とした。
ワタシは、子どものことに一生懸命になっていた(子どものことを「こだわり」の対象にして
いた)時期と、自分自身のことに気づいた(自分自身の状態を記述することに「こだわり」を向
けてた)時期とがズレている。
それに、二人の子どもの成長に合わせて、「自閉症」「注意欠陥障害」「学習障害」のどこに
重点的を置くかということも変えている。長男の幼児期には、ほとんどが「自閉症」に対する介
入だったけれど、現在は「注意欠陥障害」「学習障害」が主になっている。
本人自身の"困っていること"が多ければ多いほど、問題行動があればあるほど、援助もしやす
いし信頼関係も生まれやすいという面がある。
いずれにしても、発達上の「障害」があるからこそ、発達のための「支援」が必要だと分かっ
ていて育つのとそうでないのとでは、全く違う。
ワタシ自身は、{孤立・不安と恐怖・自己否定/数人の理解者と心理的に繋がりを保てるよう
になったばかり}の状態だけれど、子どもの方はまるで違う。
しかし、どちらにしても途中経過でしかない。全ての人の人生もそうであるのと同じように。
[2001年9月18日 10時33分34秒]
テーマ: 目の前にないモノは、存在しないに等しい。
そもそも、いつも一つのことしか意識していられない。
頭の中には、けっこうたくさんのデータが入力されているはずなのだが、それを思い出すための
起動プログラムが自分自身にない。だから、突然のフラッシュバックで、強制的に想起されられ
てみたりもする。
存在していることすら忘れていたモノが何かのキッカケで目の前に出現すると、突然そっちの回
路に電流が走って他のことが全く手つかずになってしまう。
しかも、自分自身でしょっちゅう外線を切って接続コードを外してしまう。復旧しても元通りに
は戻さないから、そのたびに間口が狭くなる。
[2001年9月17日 15時20分9秒]
テーマ: 発達課題が見逃される原因。
他にもあるけれど、よくみられるもの。
1、発達障害児の様子を、普通に普通に解釈しようとしてしまう。
2、どこに・どんなつまづきがあって、どういう発達課題が現れているかがわからない。
3、自宅などでは慣れがあり、学校などでは構造化された環境に適応していることがあると、問
題がなくなってしまったように見えている。
これでは、「どうしたらいいのかわからない」どころではない、それ以前の段階だ。
[2001年9月17日 7時51分32秒]
テーマ: 便宜的措置。
発達・教育・精神衛生上の理由から、子ども時代にはまず"受容"することが大切。でも、未だ
社会的に認知されていない以上、それをそのまま社会に対して訴える段階ではない。
だって、社会に対して「自閉症」を認知させるべく活動できる唯一の人々であるはずの家族で
さえも、「自閉症」を受容するところで躓いているのだから。
「自閉症」を理解するどころか、「全く普通に育て上げてその存在を消してしまいたい」との
願いを強く抱き、全く普通に解釈しようとしてかえって自閉的行動を強固なものにしてしまって
いる人もいる。また、「自閉的行動をしなくなったから、全ての問題は解決した」と安心してし
まい、本人にのしかかった重圧に配慮しようとしない人もいる。
今現在のワタシの仕事は、そうならないように"受容"することを訴えることだ。それで、発
達・教育・精神衛生上の視点で、主に幼児期〜学童期に親がするべきことを中心にしている。
思春期(小学校高学年以上)になると、本人の意思が強固になるし、本人が強く「普通になり
たい」と思う時期に突入するので、隠すわけではないが知られないように気をつける必要も出て
くる。それよりも何よりも、その時期に至る前に"されて来たこと""してもらったこと"が心理
的に固着してしまった後では、個人的事情に比重がかかって「決まった方法」が少なくなってし
まうから、それまでにできることはできるだけやって欲しいと思っている。
中学生の息子には、「自分は自閉症だと言える場面・自閉症のことを話して解かってくれる人
のいる場所では、思いっきり自閉症でいていい。でも、自分で自分のことを説明できないところ
では、我慢しないといけない。」と言っている。いや、こちらで指図するまでもなく、学校でや
っていいこととやってはいけないこと/やると恥ずかしいことは自分で選んでいる。
確かに、学校内では教職員に理解されて来た。けれど、同級生たちには「自閉症だから」とい
う言い方は一切していない、「この子は、こういう子だ」ということで納得してもらっている。
でも、気が進まないことを持ちかけられれば「何をするの?」と聞き返すし、他の友達にも電
話してくれと頼まれれば「僕は電話は苦手だから、やってくれ」と頼むし、ドジをすれば「不器
用だから」と謝ることのできる長男は、すごいと思う。
[2001年9月15日 18時4分33秒]
テーマ: それぞれの秋。
長男は、運動会のクラス対抗競技で非難を浴びることから免れた。担任教諭が、「みんな精一
杯やっているのだから、誰かのせいで記録が伸びないと人を責めることは止めよう!」と呼びか
けてくれたことと、本人が自主的に個人指導を申し出たり、他の子どもたちと励まし合ったりし
て、何とかやっているそうだ。
去年、いろいろな言い掛かりをつけて運動会の練習には参加せず、当日も列から離れて勝手な
行動をしていた次男が、今年は張り切ってやっている。毎日毎日、先生からハナマルをもらって
きては、その成果を家で披露している。
そんなわけで、学校ではそれぞれにものすごい進歩。
でも、家の中では、全く違う課題を持っているにもかかわらず、「長男に出した指示を次男が
聞き、次男に出した指示を長男が聞いて」は、"しなくていいこと"をやったり、"お互いにイチ
ャモン"つけ合ったり、"自分はできている"と自慢し合ったりする混線状態。
これは、二人ともADHDで聴覚系の混乱があって、誰が誰に向かって言っている言葉か聞き
分けができない(心理的距離や関係念慮以前の問題)ことが大きな要因。それで、それぞれの課
題に取り組んでいる時には、物理的に引き離し、「人のことに口出ししない」「ちゃんとやろう
としている人にちょっかいを出さない」ことを守らせている。
[2001年9月15日 11時30分35秒]
テーマ: 『自分で決めて・自分で守る』
人の指示を"自分化"するのに時間がかかるから、なかなか始められない。でも、始めてしまう
と、なかなか終われない。
でも、一度決めてしまうと、「自分で決めたことを黙々と守る」「自分で納得したことにしか
従わない」という法則に乗っ取って、人に言われる前・言われたことを確認する前にやってしま
って「余計なお世話」だったり、あまりにもあっさり"しない""やめる""おわり"を実行して
「気が利かない」と言われてしまうこともある。
要は、『自分で決めて・自分で守る』ことに決めた命題が、社会的・状況的に妥当な線に入っ
ているかどうかの違い。
でも、『自分で決めて・自分で守る』だけでなく、その命題を誰かに聞いて確認するためのモ
ニター回路ができているかどうかは、上の能力的な限界以上に大きい違いになる。
[2001年9月15日 7時59分58秒]
テーマ: 受容されて育つということ。
発達上の「障害」がある、つまりスタートラインが他の人たちと異なっていることに配慮して
育てる必要があると判っているということ。そして、「おかしい」「ダメ」「恥」「みっともな
い」「人の気持ちを踏みにじる」「努力が足りない」「どうでもいいことばかり言っている」と
いう悪の価値観で解釈するだけではなく、「できない⇒できる/どうしてもできないことは他の
手段を利用する」「わからない⇒わかる/どうしてもわからないことは何らかの形で補助をす
る」ということ。
でも、一番大きいのは、人に対する信頼関係も育てられて育つことができること。"自分にと
って役に立つ情報"を提供された経験、"困った時に自分を守ってくれた"という安心感があるの
とないのとでは、本当に天と地との違いがある。
[2001年9月15日 7時42分1秒]
テーマ: 『有言不実行』の長男。
「自閉症」幼児が、コミュニケーションが全く取れないことはないけれど"自分がやりたいこ
と"に夢中になってなかなか指示に従わず、基本的な生活習慣が身につかないというのは、けっ
こうよくある話。
成長と共に活動範囲が広がると、文字通り『不言実行』して新幹線で終着駅まで行ってしまっ
たという例もあるけれど、たいていは日常生活の範囲内で、一人黙々と「自分で決めて・自分で
守る」を実践しているはず。ゲームをやるために生活時間を勝手にずらしたり、宿題はないこと
にしてしまったり、冷蔵庫の中に好きな食材を見つけては調理して食べてしまったり…。
ウチの長男も、小学校高学年の頃、黙ってどこかに行ってしまって暗くなっても帰って来ない
ことが続いた時期があった。「自分のこずかいをもらって、自分でやりくりして、自分で買い物
をする」ことにこだわったり、学校での係やクラブも自分で選択したりできるようになった反
面、いろんなことを自分で判断して行動するようになったという次第。(まあ、始めのできなさ
加減の程度が程度だったので、その前はワタシと担任教諭とがお膳立てをしてそこに本人を乗せ
るしかなかったのだから、ものすごい成長なのだ。)
しかし同時に、この時から、長男は"自分自身の発達課題"と自分で向き合わなければならなく
なった。
まず、「計画段階で無理がある」ことを知った。←全部やるには時間が足りない無謀な計画を
立てたり、絶対に同時にできないことを両方やろうとして、混乱しパニックを起こす。
次に、「状況判断力に問題がある」ことを知った。←学校が6時間だったり行事のための練習
があると帰りが遅いし辺りは真っ暗、なのに遊びに行こうとした。
そして、「実行能力に欠陥がある」ことを知った。←5時には家に帰りたい、なのに時計を見
ることができない・夢中になって時間を忘れる。
こんなことが相次いで、しばらく大騒ぎだった。でも、現在はそれほど突拍子もないことはし
ない。というのは、数々の失敗に懲りた長男は、(元々がおしゃべりアスペ君なので)実行する
前に「宣言」をするのは少しも苦ではないから。その段階で、無謀な企画はボツになるし、状況
判断のまずさは指摘される。それで、『有言不実行』。
しかし、そこのところをクリアーして「さあ、うまくやりくりするぞー!」と意気込んでも、
注意の転動が激しくて実行できないため、やはり『有言不実行』。
「人に言われずにできるようになりたい」という願いがかなうのは、いつの日か?
ただ、企画力のなさ・状況判断のまずさを自分で自覚しているのは良いのだけれど、それを人
に確認するのに「○○していい?」という許可を求めるような聞き方をすることがやたらと多く
なったので、「○○したいんだけど、どうだろう?」と意見を尋ねるようにしないといけない
と、昨日言ったばかり。
・・・でも、全部を完全に自力でできるようになるのだろうか?
つまり、自立できるかどうか?ってことなのだけれど。これこそ、大問題。
[2001年9月14日 17時26分19秒]
テーマ: "しゃべれる"ことが引き起こす混乱。
「自閉症」というと、"しゃべらない"とかコミュニケーションが全く成立しないから厄介だと
思われがちだが、"しゃべれる"から大丈夫だとは決して言えない。むしろ、「自閉症」で"しゃ
べれる"ことが混乱を引き起こす。
こちらは、いつも同じ思考パターンをしているのに、或る場面では「理知的で・知識が豊富
で・うがったことを言う」と誉められ、別の場面では「人の気持ちを逆なでする悪い子だ」と叱
られる。
人が大騒ぎする場面に平然としているから、「冷静沈着でしっかりしている」と賞賛される。
なのに、こちらにとっては重大なことでどんなに大騒ぎしたりパニくったりして、しまいには病
気になっているのに、「バカバカしい!」「そんなことがあるわけない!」と一蹴される。
こちらは、一生懸命に"ニンゲン"の行動様式を研究し、会話マニュアルを作成すべく努力をし
ている。でも、返される言葉はいつも、「心がない!」だ。
[2001年9月14日 8時7分36秒]
テーマ: 矛盾を承知で…。
社会に訴えるには、「自閉症」は医学的根拠のある障害だということがハッキリしていなけれ
ばならない。
成人してしまうとなかなか診断がつかないけれど、個々人がそれなりにしてきた工夫は、貴重
な経験として活かしたい。これは、教育上・発達上の必要性。
ワタシは、両者の間にできている開きが埋まるまで待っている時間が惜しい。だって、その間
にも、どんどん子どもは大きくなってしまうから。
[2001年9月13日 15時35分48秒]
テーマ: ワタシと息子たちとの違い。
一目瞭然なのは、息子たち(一人はAS&ADHD&LD、もう一人はADHD&LD)には
「注意の障害」「行動の障害」「学習の障害」「社会的認知障害」が"ある"けれど、ワタシに
は"ない"ということ。
でも、本当の意味で一番大きな違いは、「実質的・肯定的な人との関係」と「実質的なコミュ
ニケーション」の有無。
精神発達遅滞と言葉の遅れのない「社会性の発達障害」というものが"ある"とわかって育つの
とそうでないのとでは、心理的基礎構造が全く違っている。信頼という太いパイプで繋がれた二
者間関係があることが、「自己存在の安定」「自己不全感を否定する自信」に直結していること
がよくわかる。
周囲の人達と全く意思の疎通がない自己完結した状態で、「障害」のためにしてしまう行動や
発言・「障害」に特有な感覚や運動特性などを、悪いこと・してはならないこととして封印して
きたワタシは、最終的には精神的に破綻した。現在、かろうじて病的状態は回復している。けれ
ど、この一連の医療的な処置のおかげで、ワタシが拾ったものは大きい。
{"○か×か""全か無か"という二者択一的思考}は、基本的には変わらない。ただ、選択肢
の設定のキメが細かくなったり、別ルートを予備的にいくつか設定することができるようになっ
たり、誰かにモニターを依頼したり意見を聞くことができるようになった。
{脳の機能が統合されていないこと・人格的な統合のなさ}も、基本的には変わらない。で
も、「部分的に暴走してしまわなくなった」のと、「二律背反的な状況に直面した時は、混乱す
る前に距離を置くことができるようになった」ことと、「立場の違いを考えて、関わらなくても
よい場面から回避することができるようになった」ことは、大きな変化だ。
ワタシは「できない・わからない・悪い=自分は存在してはならない」だけれど、息子たちに
は「できない⇒けれど、できるようになりたい」「わからない⇒けれど、わかるようになりた
い」という心理的基礎構造を持っている。そればかりか、「叱られたり怒らせたり反対されたり
する⇒けれど、人との関係は繋がっている」「悪いことをしてしまう⇒けれど、良い子になりた
い」とさえも思っている。
一見すると、「注意の障害」「行動の障害」「学習の障害」「社会的認知障害」のある息子た
ちの方が発達課題が多く前途多難のようだけれど、基本的な二者間関係があって「対人関係障
害」のこじれがないことの方が、遥かに重要だ。
[2001年9月13日 8時41分47秒]
テーマ: 絶句!
テロとか戦争とか報復とか威信などという言葉は、ワタシにとっては最も不可解で不快なもの
だ。
(一番わからないのは、「なぜ人は競ってあんな高いビルを建てるのか?」ということだったり
もするのだが…。)
さしあたり、ビルの中にいた何人かの人(それが何%なのかは不明)は無事に脱出できたことを
確認できた、午前3時半頃まで眠れなかった。
しかし、普段曲がった空間にいるワタシとしては、「地面に平行であるはずの床・地面に垂直で
あるはずの壁」が崩れ落ちるシーンを何度も何度も見せられると、非常に不安になる。(常に心
配している地震の恐怖さえ喚起させる。)
それで、今日は空間がぐにゃぐにゃ。・・・いや、ワタシの事はこの際どうでもいいのだ!
[2001年9月12日 9時0分24秒]
テーマ: 再構築作業。
世の中の全ての事象に自分で意味付けして作った『世の中事典』に従って、「こういう時は・
こうせねば」「ああいう場面では・ああするものだ」という命題をただ遵守することだけをやっ
て、行き当たりばったりで乗り切ることはもうしない。
周囲の人たちの、"誰と・どういう風に・どこまで付き合えばいいか"考えて、できないこと・
余計なことはしないようになった。(でも、接触してしまった後で疲れるのは同じ。けれど、疲
れているなら休めば良いし・疲れて当然だから休む時間を最初から作れるようになった。)
家の中では、「言わなくてもいいこと・言わなくても分かることをわざわざ言うAS同士の衝
突」と「わざと人を挑発するようなことを言って面白がるADHDとそれを真に受けて本気にな
ってしまうASとの衝突」で、相変わらずゴチャゴチャしているけれど…。
ウチは、これで結構上手く行っている。こういう組み合わせで生活しているのだから、仕方が
ない。それに、何だかんだ言ってみんなそれぞれ面白い。全員、「普通じゃない」から。(で
も、それぞれに、普通の人との関係と発達障害者同士の関係を持ってバランスを取っている。)
[2001年9月10日 18時54分7秒]
テーマ: 初めから…。
スペクトルのどこから始まって、
↓
どういう経過をたどって、
↓
現在どこにいるか。
で、状態・立場・向いている方向が全く違ってしまうこともある。
最初から、ズーッと同じことを書いていたような気がする。
※ただし、外線に繋がっている時と内線の記録をしている時とでは全く書き方が違っている。
[2001年9月10日 10時4分3秒]
テーマ: 突然の質問には…。
突然でも、ほとんどいつも答えが用意されている質問だとか、学校で先生方に(それこそ、年
度替わり・行事の度に)よく聞かれて答えなれている質問なら良いのだけれど…。
そうでないものは、「とりあえず質問を丸呑みしていて、→その中でどういうわけか気になっ
て仕方のないものがいつまでも記憶に残って、→或る時突然(翌日だったり・3ヶ月くらい後だ
ったりもする)答えが出て来て止まらなくなってしまう。」というパターンになる。
[2001年9月10日 9時57分48秒]
テーマ: ADHDの子どもはおもしろい!
幼児期の内にADHDであることが判っていて、本人が理解できる時期が来るまで「障害」を
受容されてきた子どもは、正にエジソン君です。
何といっても、「発想が奇抜で豊か」「興味を持つととことん追究する」しかも「物怖じしな
い」。現在小学校二年生の次男は、去年から工作に凝り始めています。持ち物管理はできない
し、自分の物と人の物の見境がつかず何でもかんでも使ってしまうことは困り物だけれど、身の
回りのもの(輪ゴム・割り箸・ストローなど)で、とんでもなく素晴らしい作品を作っては壊し
続けています。
先日、夏休みの発表会がありました。席順で発表したので、事もあろうに「待つ」ことが大の
苦手の次男が後ろから三番目。しびれを切らせて教壇に陣取ったものの、ちゃんと人の発表を聞
き、一人一人の発表にツッコミを入れながら(中には感心するような指摘もしたが、ものすごく
さぶーいことも随分言っていた)、順番を待っていました。
※何か、口調がヘン!?・・・いや、これは昨日のADHDの特集で高山さんがADHD児の素
晴らしさを訴えていたので、こういうことを書いてみたくなった
のでした。
※鬱を脱出して気持ちが外向きになると、モノの見方・感じ方が変わっているんでしょうね?
[2001年9月6日 14時12分11秒]
テーマ: 早期介入の子どもたち。
昨夜、日本テレビの夜のニュースで、ADHDの特集がありました。
ウチのADHD君たちは、幼児期からわかっていたこともあるし順を追って対処して来たの
で、現状はあのまんまではない。それに、一口にADHDと言っても、活動性が亢進する方面や
動き方が違っているけれど、幼稚園時代の様子としてはあんなものかなあ、といったところ。さ
しあたり、実名・モザイク等なしでテレビに出演した方々の勇気に拍手。(でも、部屋の散乱状
況は、あんなものではないはず。)
ところで、ウチの場合は、始めから「自閉症なら、こんなことをしていて当たり前」「ADH
Dなら、こんなことをしていて当たり前」という前提から入って、「できないことは・できな
い」、けれど"時期を見計らってつまづいているところに介入する"ことを繰り返している。
途中経過で、どうしようもないところは容認するしかないけれど、だからといって全面的に妥
協するわけではない。発達途上の子どもだから、周りに理解を求めるところと、本人が納得する
こととの両方が必要だし、介入が早かったので受け容れる素地が本人の側にあるから。
さて、長男の方は、体育祭の練習が始まったけれど、学校にはちゃんと行っている。
なにしろ、小学校時代はこういう子どもに配慮してくれて、競技はリクリエーション中心しか
もほとんどが選択種目だったのに、中学では容赦なく「クラス対抗○○」なんてものがある。で
も、長男は、パニック起こさず・逃げもせず・胃腸症状に転換することもなく(小学校時代はこ
れのオンパレードだった)取り組んでいる。
驚くことは、やっぱり長男のせいで成績が伸びないことを非難する生徒がいて、かなりキツイ
ことを言われているらしいが、「応援したり励ましてくれる友達もいるから、なんとか頑張
る。」と本人が言っていること。
昨夜、この件に関して担任から電話があった。「個人名は出さずに、みんなそれぞれに取り組
んでいることをクラス全体に説明していますが、毎日の様子を見て本人とも話すし必要があれば
連絡します。」とのこと。
・・・なんか、スゴイ! 何がかって、学校が理解してくれていることもそうだけれど、早期介
入の子どもって、ワタシとは全然違うってことが。
[2001年9月6日 10時25分52秒]
テーマ: 「自閉症」の矛盾。
個人的・心理的問題である限りは特に必要がないこともあるとしても、社会に対して訴えていこ
うとすると何らかの根拠がいる。
そもそも、あまりにもたくさんの臨床像があるために、「こういう人のことです」と断言するこ
ともできないし、「こういう人には、こうして下さい」と断定することもできない。
しかし、唯一の手段である医学的根拠そのものが社会的に通用するとは限らない。
まずは、社会的認知を獲得すること。←今やらなければならないことは、これ。
[2001年9月4日 18時48分26秒]
テーマ: 非・言語(身体)的な困難を、わかってもらえないこと。
やたら理屈っぽくて、けっこうすごいことを知っている。
⇔なのに、見れば判るようなことをいちいち聞いてくる。
→間(ま)・行間・わび・さび・暗黙の内の了解・あうんの呼吸…を重んじる農耕民族にとって
は、最も腹立たしい存在なのだろう。
外見上の身体的な障害はなくて、五体満足で全く普通に見える。
⇔なのに、誰でも簡単にできるはずのことができない。
→こういうのは、どんくさい・ふざけている・人をバカにしている・なまけている…としか解釈
されないのだろう。
そんな人たちを相手に、ワタシは、「口をパカンと開けている人は楽しんでいる」と思うし、
「目の形状が丸い人は"いいひと"だ」と思うし、「口を一文字に閉じて眉間にしわを寄せている
人は(たとえ、どんなに疲れていたり体調が悪かったり重病にかかっていたとしても)怒ってい
る」と思って一喜一憂している。
「他者の身体情報を読めない・読み違える」「自分の身体の操作が困難」というのは、いくら口
で説明しても理解してもらえない。
きっと、可視範囲の極端に狭い(部分的な視覚情報しか見えない)メガネをかけ、その情報を大
幅に歪める柄付きコンタクトレンズをつけ、大リーグボール養成ギブス(←ちょっと古すぎ?)
をはめてみなければ、決してわかってはもらえないだろう。
ついでに、その状態で過ごすことがどんなに不安なことかも、是非とも体験してもらいたい。
[2001年9月3日 18時35分15秒]
テーマ: 最大の難関。
「自閉症」を社会に認知してもらうに当たっての、最大の難関。
・・・「こういう人なので、よろしくお願いします」と言えないことだ。
こだわりの強い人もいれば、そうでない人もいる。
人との関わりを求める人もいれば、そうでない人もいる。
流暢に話せる人もいれば、一音一音確かめるように話す人もいる。
突出した能力があったり・特殊能力を活かせる人もいれば、そうでない人もいる。
感覚過敏や感覚的なこだわりのある人もいれば、そうでない人もいる。
いじめられやすい人もいれば、優等生タイプの人もいる。
行動障害・注意障害・認知障害のある人もいれば、そうでない人もいる。
あっけらかんとしている人もいれば、鬱々としている人もいる。
子供の時にハッキリしていた特徴が、大人になってなくなる人もいれば、そうでない人もいる。
自分は「自閉症」だと言いたい人もいれば、言いたくない人もいる。
世の中に出る前に「自閉症」だと判った人もいれば、後になるまで判らなかった人もいる。
[2001年9月1日 21時7分50秒]
テーマ: 学校が、始まった。
【避難訓練】
子ども中心の行事だと、ついついはしゃぎ過ぎてしまう。なんてったって、波長が合うから。
身体はアミノ酸を補給してやっと起きていて、すべてを頭で考えてやっているので過緊張で、自
分の家を一歩出るとありとあらゆる刺激がストレス元で、人に関わってしまった違和感が罪悪感
になって、自分自身から抜け出したくていたたまれなくなっている人、にはとっても見えない。
(というわけで、帰宅後すぐにSSRIを口に抛り込む。)
それが、大人だけの集まりになると選択的場面緘黙に急変するのだから、ものすごーく始末が
悪い。
(ただし、ASやADHDに関心のある学校の先生が相手だと、ながーい講義を始めてしまう。
夏休みで渡せなかった『実践障害児教育:一冊まるごとアスペルガー症候群特集』を持っていっ
たら、「現在、該当する児童がいなくても、勉強したい。」とのこと。)
【帽子】
最近、今までは興味がなくて、意識にものぼらずに削除していたいろんなことを観察する癖が
ついている。
人が天気の話しをするのは、"気象学に興味があるからでもなく・気象学の知識がないから教
えて欲しいと思っているのでもなく、天気という当たり障りのない話題を通じて共感したい"か
らだということは、幼児向けの「生活絵本」で学んだ。
同様に、"お母さんが、おいしいご飯やお弁当を毎日作ってくれることで、母の愛情を感じる
ものだ"ということを、テレビ番組を見て知った。"ご飯を作るのは仕事だから"で、"できたも
のを人に振る舞ったり押し付けたりするのは、その人の趣味"なのではないらしい。(だいた
い、ワタシは味や食感の好みの幅が狭く、しかも上記のように慢性ストレスによる食欲不振で、
自分のペースで食べられない食事はすべて拷問に等しかった。体づくりのために食べさせられた
給食は、ほとんど消化しなかったばかりか、味覚の感覚遮断という代償まで支払わされた。)
今日のお勉強は、人が「その帽子、すてき!」と言う時には、その帽子の形や素材の凸凹具合
(当然、凸と凹の間にできる影)が素敵なのではなく、「その帽子が似合っているアナタがすて
き!」とか「そういう帽子を選べるセンスのあるアナタがすてき!」という意味があり、言われ
た方はウレシイ気持ちになるのだということ。
しかしながら、見た目で帽子を誉めるくらいのことは、これまで何度もやっていた。でも、そ
の後は、「いくらした」とか「どこで買った」というようなその帽子そのもののことを聞いて話
を繋げていたのだが、それだと「その帽子が欲しいのだ」と思われてしまうことは計算に入って
いなかった。さらに、その人やその人のお目の高さの方向に話が進むと、「なんで、関係のない
話をするのだ!?」「どうして、人に会う度にそうやって自分を売り込もうとするのか!?」と
思ってすごく不快になってさえいた。
そういうことを知らない時の方が堂々としていたのに、知ってしまった以上は"下手に帽子の
ことを口に出してはいけない"というように、公式を書き換えなければならなくなった。
[2001年9月1日 17時51分12秒]
テーマ: 似たもの同士。
「同じ」か「違う」かの二者択一の選択をしながら突き進んで行くと、最終的には"非常に似て
いるが微妙に違う"ところに行き着く。
そこで叩き合いをしたら、出て来る物はホコリだけ。
[2001年9月1日 7時13分11秒]
テーマ: 非・自閉者の意地悪
非・自閉者は、意地悪する時にたいてい徒党を組む。何故なら、あちらは、自分を正当化する
ために仲間を連れてくるから。
こっちはこっちで、意地悪されればされるほど、「自分が正しくてあっちがオカシイ」と思っ
てしまう。つまり、あちらの作戦は裏目に出て、こちらは絶対に「組するものか!」と意地にな
ってしまうだけなのだ。
「どうして意地悪されたのか?」とか「どうして鬱陶しがられているのか?」考えたって理由
が自分の思考パターンにないから、「そういうことをする方が悪い」という結論しか出ない。け
れど、どんなに御立派な『意地悪についての論考』を展開したとしても、やっている行動は癇癪
起こして物を投げたり(注:人に向かってではない)大声で騒いだりなんていう"やつ当たり"の
レベルでしかなく、そのうち「うつ」がやって来て、しまいに「恐怖」に発展してしまう。こう
やって、事態は悪い方へ悪い方へと進んでいく。
あちらにしてみれば、仲間に入らない・異分子である・打ち解けない・雰囲気が違う・人に気
を使う努力をしない…、といった様々な理由で気にくわないらしい。それから、通常、これらの
態度は"敵意"を表わすばかりでなく、非常に感情を損ねる行為のようだ。
でも、こちらは初めは、何の"敵意"もないのだ。目障りなものを排除しようと意地悪をするこ
とが、わざわざ"敵意"を生んでいるようなものだということにも、全く気づいていないらしい。
[2001年9月1日 6時6分9秒]
※本人以外の書き込みはできません。
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