記事タイトル:2003年8月の『日記』 


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テーマ: 夏休み最後の日を有意義に過ごすには…。   
やっぱ、フィギア&模型屋さんでしょ。

私は、そっち方面に手を出すとブレーキがかからなくなることが分かっているので、
「買わないモード」にしている。
長男はお気に入りの電車のNゲージを買い、次男は大好きなガンダムのプラモを買って
きた。←今、製作中。
[2003年8月31日 17時47分9秒]

テーマ: 夏休み最後の日。   
家でどこへ行くか決めようとすると、必ずぐずぐす言ってもめるのに、学校行事には参
加できる(といっても、不安が少しでもあればすぐにそのサインを発するので、非常に
分かりやすい)のはどうしてか?と、長男に聞いてみた。「学校だと、友達がいて楽し
いから。」だって。←確かに、じゃれ合い仲間はたくさんいる。

ふ〜ん、そうなんだぁ。

突出した能力を活かして学校や研究畑で生きていくのに向いているタイプだと、誰もが
目を見張るような天才でもない限り(もっとも、こういう場合は、逆に潰されてしまう
可能性もある)そこにいられる人数に制限があるし、指導教官との関係や運やらなにや
らあって、結局は袋小路に一人取り残されることに警戒しながら進んでいかなければな
らない。けれど、そっちの道がないタイプは、「限られた能力」と「こだわり」を活か
しながらこうして生きていくのかな、と思った。


今日は夏休み最後の日、行き先が決まったので、おでかけ。
[2003年8月31日 9時4分51秒]

テーマ: 利用するのは、こちらです。   
現状では、100%の進路選択なんて有り得ないので、メリットとデメリットを天秤に
かけて、しかも、「生きていくのは本人で、利用するのはこちらだ。」という心構えで
臨んでいくしかないと思う。(ついでに言うと、今では、利用可能な選択肢はたくさん
あるし、あれがダメならこれという準備をしておくことだってできる。)
学校には、それぞれ設立の目的があり、求める生徒像もあるので、義務教育でないとな
れば、「合わないのなら、やめてくださってけっこうです。」と言われるのは当然のこ
とだけれど、それが脅し文句であるとは限らないご時世になっている。

ウチの長男の場合は、設定している目標が以下のような事柄なので、最大公約数的な部
分で目的にかなっていれば、とりあえずよしとする。
1、生きていくために必要な学力を維持すること。
 (生きていくために必要がなく、しかも本人の能力の限界を超えている勉強はしても
  意味がない。)
2、中学の、情報技術部でやってきたパソコンの続きをやっていくこと。
3、高校卒業資格をとること。
4、世間とは別世界であるような、学校に適応する必要はないこと。
 (いずれは、みな社会人になるという方向付けをするということだが、だからといっ
  て私は、「めざせ、就労!」とは思っていない。)

事前に、包み隠さず学校案内を全部見せて、「自分が、ここなら行けると思うか?/こ
こに行きたい!と思うか?」だけを判断するようにと言い渡して、学校見学会に参加し
た。
そこで見たものは、自分の字と良く似た字、自分の文章に良く似た文、自分とたいして
変わらない生徒たちの様子だった。(もっとも、簡単にできるところばっかり、ビデオ
に撮っている可能性は十分にあるけれど…。)「これならできそうだ!」「今、中学で
どうにかやっていることよりも、簡単だ!」と安心すると同時に、「うれしいような、
悲しいような…。」だって。
「就労を目指している学校だから、嫌なことを強制されることもあるけれど、いい
か?」と聞いたら、「それは、勉強が楽になる分の当然のリスクだから、我慢する。」
だって。←あらっ、こんなこと言うようになったんだぁ!

しかーし、君の本心は、きっと駅前の鉄道マニアの古本屋さんと、製作部のガンダムの
プラモに目がくらんでしまったに違いないと、ワシは読んでいる。
[2003年8月30日 22時29分20秒]

テーマ: 名札がない!!!   
今日は、午後に長男の専修学校の見学会があるというのに、名札がない!!!
名札と校章ごと、ごそっとない!!!
あっちこっち探したが、本当にない!!!

私も、2〜3日前に、名札置き場の周辺がごちゃごちゃしていたことに気づいていた
が、ちらっちらっと横目で見て、「名札はあるな」と思っていたものが、冬服用の別の
名札だった。
とにかく、ないものはないし、校章を買おうにも土曜日で学校にも連絡ができない。斜
め向かいの同学年の友だちに借りて、冬服用の名札を急遽とりつけて応急処置。←この
間、パニくっていたのは私の方である。

名札を探すついでに、家中のあっちこっちにゴミが隠してあったり、行き当たりばった
りにパッと置いてしまったままになっているものがたくさんあったことも発覚して、説
教が倍になった。
まあ、自助グループを作れるような人たちは、いろいろな工夫をすることができるのだ
ろうけれど、ウチの子どもたちのようにLDや他の障害が複合している重度のADHD
だと、まず工夫することができない。次に、どんな工夫をすればいいか分かっても、実
行できない。たとえ生活を構造化しても、構造が自分自身の内にない。
ほとんど自分の側に原因があっても人のせいにしたり、自分自身のADHDとの付き合
い方を知っていなければならないのに自分が悪いと責めてしまったりすることも問題だ
が、長男の場合は、パニくってそれさえもできないことが多い。

こういうところは、どんなに早期に発見して療育を開始したからといって、治るもので
はないので、周りが分かってい過ぎて予防し、シュミレーションをして教え続けること
に、虚しさを感じてしまう。
ある程度の年齢になると自覚できるようになることも分かっているけれど、実際、何度
か差し障りのないポカぐらいは経験させた方がいいのではないかとも思う。

というわけで、明日の夏休み最後の日におでかけの許可をもらう(許可するのは私であ
る)ために、今、二人で真剣に片付けをしている。

ところで、校章を借りた友だちには、お礼に何をすべきなのだろうか?
[2003年8月30日 10時17分34秒]

テーマ: 就労問題。   
別に、就労ができればいいというものではないけれど、親亡き後も何とか生きられるよ
うにしておかなければならないので…。

ウチの長男の場合は、「できるのに、発達障害が障壁となってそれを活かすことができ
ずにいる」タイプではないので、単に自分をアピールする履歴書が書けないとか、面接
がうまくできないということが関門になっているのではない。
それ以前の、“社会に通用する技能”を持っていないことが、最大の問題なのだ。つま
り、自閉症らしい「こだわり」があって、確かに人を「おおっ!」と言わせるものは持
っているのだが、それだけで終わってしまっているということ。つまり、とっても、そ
れでメシが食える域に達していない、と言うか、確かにすごいけれど社会的に通用する
すごさではないということなのだ。

なので、
1、とりあえず生活のために一般就労しなければならなくなるだろうと考えて、そのた
  めに必要なことはやっておく。地元に繋がりがあって、就労のためのノウハウを持
  って面倒を見てくれる学校を選ぶ。
2、もしかしたら、「こだわり」を活かすことができるかもしれないので、見る目があ
  る人の目に留まるように、ルートを開拓しておく。

の、二段構えで行ってみますが…。どうなることやら。

親の方は、(できればこやつが社会に出る前に)世の中の方をちょっとでも何とかしよ
うという暴挙に出まして、カエルちゃんたちを送り出しましたが…。どうなることや
ら。
[2003年8月29日 7時16分42秒]

テーマ: 批判的に見ようと思えば、いくらでもできますが…。   
高校を諦めて専修学校ねらいに変えたからといって、今までの方針を転換したわけでは
ない。
自分が、社会との繋がりを持てずにいた時期が長く、その反動で何も知らないまま社会
に飛び込んで、ろくなことがなかったという経験を元に長男の療育をしてきたので、目
先の変化が見られたことを称して治療と言っている職業の人たちには思い及ばないほど
の危機感を持って育ててきている。
本人の精神的な安定を第一にしながら、手伝い・役割分担を持たせ、自分でできること
は一人でやらせるし、頭からできないと思い込んでいてパニくっているからといって甘
やかさない。決して、良いことばかり言わない。
受容するということは、信念を持って発達段階に合わせていくということなので、かな
りの覚悟がいることだ。
[2003年8月27日 9時58分10秒]

テーマ: ますます・・・。   
今日の、PTAリサイクル活動。

だ〜れも気にしていないルールを守っていないことを気にして、またうるさがられる。
でも、「基準」が決まっているのに、みんなが気にして守っているルールと、そうでな
いルールがあるので、わけがわからん。
これ言って嫌な顔されたから、あれはいいんじゃないかと手加減してみたら、違うんだ
って。

それにしても、リーダーも決まりも指示もないのに、一人一人が状況を見ながら黙々と
車を入れ替えている様を見て、ますます生きにくい時代になったなぁと感じた。

今日は、それどころじゃないので、こんなことに疲れているヒマないからいいけど。
[2003年8月23日 23時24分39秒]

テーマ: 学校探しの旅。   
今日行った専修学校は、不登校児のみを受け入れているということで、条件的にボツ。

早速、学力に合わせた個人指導をして、高校卒業資格も取れる他の専修学校と広域通信
制の学校を調べて、資料を請求しまくる。
かといって、ただ、本人の学力に合わせて、本人の興味関心のある実習ができるだけの
ところだと、単に楽しい高校生活を送るだけで、その次に繋がらなくなってしまうた
め、専修学校を優先に考えている。まあ、中退した後で編入できるところもあるし…。

とはいえ、毎日楽しく幼稚園状態で夏休みを過ごしている様子を見ていると、アインシ
ュタインの親がやったような、ウラ技ウラ技での進学大作戦が、はたしてどれほど意味
があるのかと考えてしまう。
かといって、電車の車両の数やどこの何番台かを覚え、電車の絵や写真にビニールテー
プを貼って固めたものを目の前でガタンゴトンヒューンと走らせて、一生過ごせるわけ
はない。今日食べるモノもない状況になっても助けを求められず、一人でパニくってい
る図が、目に浮かんでくる。
※長男の場合は、感覚的なこだわりで、知識やオタク的なレベルにならないタイプ(私
 と一緒)で、しかも注意の障害が重くて切り替えができない、絵がうまいけれど不器
 用で、アート系には進めない。

来週また中学に行って、次の作戦を練ることにする。とにかく、今できていることを維
持して、ほんのわずかな可能性を“食える”モノに磨いていくしかない。


学校に行ったことでは疲れなかった。それどころか、「今は学校で何の対応もなく不登
校になっている子どもがたくさんいるけれど、今後は幼児期から介入を受けたり、小学
校できちんとした対応がされていく子どもが増えるので、その日のために、発達障害の
勉強をして、そういう子どもも受け入れる学校になってくれるように。」と、お願いし
て帰って来た。
それよりも、「靴擦れができて痛い」と言えずにふてくされていた次男のコミュニケー
ションの問題とか、状況を一切無視して一方的にしゃべりまくる長男のバリバリぶりを
見ていて、なぜ、これだけの困難を持っているのに認定されておらず、親が必死でか
けまわらにゃならんのだ!と、つくづく思った。それで、どっと疲れた。
[2003年8月23日 22時19分45秒]

テーマ: なんでだろーシリーズ。   
私が提案すると、こう言われることが多い。―「そんなみっともないことできない。」
・・・しかし私は、何にそんなにこだわっているのだ!?と思う。

一方で、私がただ、知っていることを言っただけなのに、「こだわっている」と言われ
てしまう。
・・・しかし私は、全く何のこだわりもないところに知識だけを寄せ集めているので、
こだわっているどころか「今すぐにでもここから脱出したい!」と思っているのだ。

まったく、わけがわからん。
[2003年8月22日 18時57分12秒]

テーマ: 新たな問題。   
 何かについての局限した知識を持っているASの子どもに対して、孤立しないように
人に関心を向けさせようとする治療が、今後盛んになるかもしれない。自閉症は対人関
係の障害だからといって、人とかかわりを持てるようにすることばかりを急務にする治
療家も、現れるかもしれない。
 しかし、興味・関心・こだわりが人に向いてしまうことの方がよっぽど危険な場合だ
ってある。自分の「こだわり」世界は崩さずに、人に対して「こだわり」を向けさせる
ことなく、人と「かかわる」方法を教えるようにすべきケースもあるのではないかと思
う。
[2003年8月22日 9時1分35秒]

テーマ: 社会参加できなかった頃。   
 周りの人たちが、どんどん違う生き物になっていった時、そこに私が参加しなければ
ならないなんて、全く思わなかった。また、誰もそう言わなかった。
 それどころか、「アルバイトなんかしなくていい」「やりたくないことはやらなくて
いい」と言われた。これは明らかに、勉強ができれば社会に出ても困らないと、親も先
生も思っていたからではなく、人が生きていくために必要な人とのかかわりやソーシャ
ルスキルというものに無知だったからだ。
 きっと、大人たちはもっと早く気づいていたに違いないが、私自身が「そこに参加し
ないと生きられない」ことに気づいたのは、25才過ぎてからだった。ここからが、サ
ル真似人生の始まりだった。
 小学校の国語の教科書ではハチの社会について学ぶし、動物モノのテレビ番組では、
サル社会について教えてくれる。なのに、人間社会のことは誰も教えないことに気づい
たのは、2年前。生物学者の書いた「心の理論」研究=サルは心の理論を持つかどう
か、の研究の本を読んだ時のことだ。

 長男のタイムリミットが近づいてきている今、急に就労を目標に切り替えたかのよう
な印象を与えてしまっているかもしれない。
 私はなにも、就労することが人生の目標だ、などとは全く思っていないし、就労でき
たら成功だとも思っていない。ただ、就労してもしなくても、親は先にいなくなるのが
順序なので、その前に、今は上っ面しか分かっていない「人間社会」の仕組みをどれだ
け本人に理解できるか、その「人間社会」の中で生きていけるだけのスキルを習得でき
るかの勝負になってきている。
 もし長男が、私と同じタイプで、学校にいられる限りはできるだけ引き伸ばしていた
いと思っているのなら、今から就労のほうにシフトすることもない。だが、先日の高校
体験入学会の様子を見るまでもなく、明らかに学習能力の限界を迎えている長男には、
そっちの道がない。それだけのことだ。
[2003年8月20日 22時17分25秒]

テーマ: 最近の長男の様子。   
何だか、幼児期に見られた様子が、より強力になって固定してきた感じがする。

小学校6年生〜中学1年の頃、今まで人に言われてやっていて、または、ごほうびにつ
られて(行動療法の)何となくやっていて、やらなければと思わされていたことに、自分
の意志がぶつかって、明らかに混乱し葛藤していた時期があった。
その次には、とりあえず何でもかんでも反抗してみる時期があって、ワルぶったことを
盛んに言っていた。
今は、ファンタジーや感覚的なのめり込みが激しくなり、幼児期にやっていたことが大
人版になっているという感じ。

たぶん、義務教育というぬるま湯にいつまでも浸かっていられないというプレッシャー
もあるのだろう。

十代半ばの時期は、社会的な要求レベルが上がっていくことを感じ始めるので、自分自
身の本来の世界に戻ることで自分の精神を守ろうとする力も強くなる時期。これが、二
十歳過ぎると、今度は「社会人になる」ことを自分自身に課すようになる。
その時に、社会の方は「全知全能の人間」だけで成り立っているのではなく、「できな
いことがいっぱいあっても人とうまくやること」で成り立っており、「全知全能の人
間」であるかどうかのテストをするために就職試験をしているのではなく、「その会社
で求めている人材であるかどうか」を調べているので、他の会社、他の方法が実はけっ
こうある」ことに思い及ばない。←だって、誰も教えてくれなかったし、アドバイスも
なかった。要は、誰もそういうことが必要だってことをシラナカッタってこと。

皆さん(←だれ?)は、そうならないように!
[2003年8月19日 23時25分58秒]

テーマ: 子どもに還っていくぅ!   
 今、主人公の妻が若がえりの薬を飲んで、子どもに還っていくドラマをやっているら
しい。ドラマは原則として見ないので(それでも、『ごくせん』と『柳沢教授』は見
た)、番宣だけ見ての感想。
 どうして、だんだん子どもに還っていく自分の姿を見て驚き、そして悲しむのだろい
か!? ・・・私だったら、大喜びなのに。

 だいたい、大人になってからが人生の本番だとか、大人の楽しみこそが本当の楽しみ
だとか、大人にならずに亡くなってしまう子どもは人生の楽しみを味わえないだなんて
こと、一度も思ったことがない。ずっと子ども時代が続いて欲しかったのに、周りがど
んどん大人になっていってしまったのだ。
 で、もし戻れるとしたら、12才くらいが精神年齢にも相応して、ちょうどいいとこ
ろだと思う。本当は、「心の理論」獲得前の10才ぐらいの方が気持ち的には楽なのだ
が、その頃だとまだ発達性協調運動障害のソフトサインが陽性になっていなかったの
で、身体的にとってもたいへんだから。
 まあ、もっと本音で言うと、扇風機とクルクル看板と自動車のナンバープレートばっ
かり見ていた頃が一番!・・・でも、音楽を聴いている時の状態って、正にこれなの
で、いいかぁ。
[2003年8月18日 22時39分8秒]

テーマ: 早期発見・早期療育で、できること。   
防げるのは、二次障害。

といっても、それには明らかな二次障害と、今まで一次障害だと思われていたが実は二
次障害だったという、隠れ二次障害だったものの両方が含まれる。

それと、合併症への対応も迅速にできること。

何よりも、対人関係のこじれがなく、自分が理解され・守られているという実感がある
こと。

どうしても残遺する一次障害の部分は、かなり強固なもので、教えてどうなるというも
のではない。
[2003年8月17日 21時44分25秒]

テーマ: 「なんでだろう」シリーズ。   
他の人が、「このにおい嫌い」とか「なに、このにおい!」と言っても許されるのに、
「嗅覚過敏で、このにおいがダメです。」と言うと、「何言ってるの!」「わがまま
だ。」と言われるのは、なんでだろう。
−−−たぶん、それは発言する動機の違いだろうと思う。

発達障害による嗅覚過敏を訴えるのは、単に自分の苦痛を表明しているだけなのに、他
の人たちは“気持ち”を共感するために言葉を発し、言葉に対してではなく“気持ち”
の方に答えるために言葉を返しているのだろう。
特に、「嗅覚過敏で・・・」と言った途端に、それはわけのわからない新奇な知識にな
ってしまうために、共感するどころではなくなってしまう。
それこそが、“心を閉ざした”状態なのだ。つまり、「この人は安心できない人だ」
「何を考えているかわからない」「人の気持ちを無視した」⇒「気楽に話せない」「口
もききたくない」「仲間じゃない」「そっちがその気なら、こっちもその気だ」となっ
てしまうようだ。

共感し合い・打ち解け合い・気楽に接していられる、もてなしや好意を快く受け取りそ
れに応える、これが心を開くという言葉の意味。だから、文化的背景の違う外国人や他
の動物にも使われる。
この言葉が自閉症の人たちに対しても使われるのは、人々の一般的な感覚なのだろう。
要は、自分たちの期待した反応が返ってきたとかいうことで、こちらにしてみれば「あ
てずっぽうにやったことが、たまたまヒットした」という程度の感触しかない場合にで
も、勝手にそう解釈されていることが多い。

まあ、地球上の人類の99%は自閉症ではないわけだから(←スペクトル概念は外して
考えた場合)、そのように解釈していただく方が都合が良いこともあるだろうし、実
際、日常的な接触の大半はその大いなる誤解のおかげで事なきを得ていると、言えなく
もない。
それでも、「自閉症はそんなんじゃない!」と私は訴える。始めに一言、「私は自閉症
なので…。」と前置きすれば、それなりのモードに切り替えてくれる社会にしたい。

↑って、この“モードの切り替え”ということ自体が、すでに自閉症的だったりして。
[2003年8月17日 13時31分59秒]

テーマ: スピーカーが来たので…。   
ますます、パソコンが快適になった。
この「音」があれば、フラッシュバックなんか吹っ飛んでしまうこと、うけあいであ
る。ただ、そのまんま冬眠してしまうといけないので、何もしないと一時間でモニター
の電源が切れるように設定をし直す。(つまり、一時間まではボーっとしていてもいいっ
てこと。)
今日は、とっても気持ちよく、ウチの長男でも行けてなおかつ社会に繋がっていける専
修学校を探す。私がパソコンの前から動かないと、お勉強の監視がなくなるので、長男
も喜んでいる。(だいたい、絵を描いているか、電車で遊んでいる。)
あとは、入学金と授業料が払えるか、交通費が出せるかという問題が…。なので、資料
請求をしまくる。
[2003年8月16日 18時43分0秒]

テーマ: 療育の、次の課題。   
残遺していく部分をどうするか?

発達段階に合わせた療育によって、教えられる部分・変わっていく部分がある一方で、
教えても教えても変えられない部分がある。

小学校低学年くらいまでは、教えて変えられる領域が増えていくのが目に見えて分か
る。それに、見極めるのは主に発達段階で良いので、一般論として書き出すこともでき
る。
けれど、高学年以降は、どうしようもない“違い”が決定的になってくるし、それに対
して、本人自身がどう考えるか、周りとの関係がどうなのかが重要になっていく。

とはいえ、社会の方がモノの見方を変えるには、あと何十年・何百年かかるか分からな
い。だから、生活に困らない基礎学力だけはつけるか、学習障害のためにどうしようも
ないところを何かで補完するかする一方で、トップダウンにやり方を切り替えないとい
けなくなってくる。いつまでもボトムアップの考えでは、通用しない。
同時に、社会に出ても困らないための世の中の仕組みや一般常識なども、折に触れて説
明してはいるのだが、これこそ教えてどうなるものではないので、豆腐に釘状態が続い
ている。
(「私みたいに、ぜ〜んぶ失敗してはじめて思い知るようでは、取り返しがつかなくな
る!」と思ってしまうので、ついついキツクなってしまう。が、身をもって体験しないと
真剣になれない、という面はやはりある。読字障害があると、知識を収集したり、前も
って調べて覚えておくことができないので…。福祉・就労面での支援はほとんど当てに
できない、という現状はどうしようもないジレンマだ。)

長男に関しては、小学校六年程度の学力を維持すること(それでも、中学入学時に比べて
一学年以上上がっている)が主で、中学の学習内容についていくことも、高校に入学する
ことも、もう目標ではなくなっている。
専門学校か専修学校にいられる数年間の間に、何らかの形で仕事につけるような方向付
けができればいいのだが…。いや、それよりも、その数年間の間に、就労支援をしてく
れるだけでなく、卒業したら「はい終わり」にならないような、親以外の人との繋がり
をつけること。そのことを第一に見据えた進路選択を、これから考えなければ。
[2003年8月15日 13時34分20秒]

テーマ: さばいばる。   
医者は、診断を下し、薬を処方し、カウンセリングをする。
先生は、教室の中で特別支援教育をする。
大学教授は、学会で発表をする。

しかし、本人と親は、上記の異空間で生きているわけではない。
そこで飛び交っている単語に社会的な意味がなければ、何の価値もない。
下手をすると、知らなかった方が良かったと思わせるだけになってしまう。

これらの当事者たちが、社会の中でサバイバルしていかなければならないということを
考えずに発言するのは、無責任というものだ。
[2003年8月14日 11時41分12秒]

テーマ: 本当の障害は、社会の側にある!   
先日のスーパーテレビ・情報最前線で、自閉症のことを
「親の育て方が悪くて、心を閉ざしてしまった人」と公
然と言っている学生がいた。

自閉症は、心の病気ではない。
心を閉ざしているのでもない。
ただ、
社会の側が、
そして、
一人一人の人が、
自閉症のことを知らないがために、
「共感」することを諦めさせてしまうことが、
とってもとっても多いのだ!

だから、
自閉症にとって最も効果のある療育法は、
社会の方を治療することなのだ。


業界の中で、内輪で盛り上がっている場合ではないのだ。
[2003年8月13日 19時35分34秒]

テーマ: 何をどう変えても、変えられないもの。   
何か得意なものがあって認められており、それを職業にも結び付けられて、興味のある
特定の話題を話せる仲間がいて、プライベートと言いながら自分のコミュニティである
ような場なら、ASの人でもそれほど苦にならずに付き合いができる。ASの特性を知
った人や、ASらしさを微笑ましく見てもらえる人が数人いるだけで、何とかなるもの
だ。
しかし、日本の農村の隣組という組織には、↑の要素が何一つない。そこでは、みんな
が楽しいと感じて、親交を深めるためにやることのすべてが、心的な外傷にしかならな
い。自分たちの輪に入ろうとしない人を別格扱いしてくれるのなら、話が合わない人に
は話しかけないように気遣ってくれるのなら、逆に居心地が良くなるのだが、決してそ
んな紳士的な態度はとらない。あからさまに無視、明らかに報復、妨害・いやがらせを
集団でやることが、正義として本当にまかり通っている。
まあ、地球上のほとんどの民族の文化なんてものは、こういうものなんだろうと思う。
郷に入れば郷に従い、もてなしを受け、酒を酌み交わし、感情を通い合わせる。これ
が、ニンゲンという生物が集団を形成している仕組みなのだ。

世の中の仕組みを知ってか知らずか、うまくかわして来たのか逃げてきたのか、ほとん
どこういう場には参加しなくていい立場にいるASの人たちが、実はとっても多いのだ
ろうと思う。(そういう人の中には、無自覚な人も多いように思う。)
いまさらこんなことが分かっても、私は逃げられないので、大きな変化はない。しか
し、役に立つことはある。以下、自分のためにもまとめてみる。


1.ほとんどの人は、地域コミュニティに逆らうようなことはしないということを、心
  得ておくこと。必ずしもすべてに参加するように強要されることもないが、積極的
  に賛同するのでない場合は、余計なことは言わずに黙っているのが得策。
2.どういう人に近づいてはいけないか、心得ておくこと。感情表現が豊かな人・情の
  深い人とは、ついうっかり会話してしまったが最後、悪いイメージしか残らなくな
  るので、淡々と用事だけの付き合いに徹すること。そうすれば、良い印象のままで
  いられる。
3.できるからといって、何でもかんでもやってはいけない。こういうことをすると、
  ほとんどの場合、感謝されるどころか、自慢している・ひけらかしている・押し付
  けがましいとしか思われない。相手によっては、利用されてしまうこともある。
4.きっちりしていると、間違いなく嫌われる。話し合って新たな結論をみんなで作っ
  ていこうとしている時に、記憶や知識に基づいた発言をすると、妨害しているよう
  に思われる。とはいえ、できないことはできないので、まずいなという雰囲気を感
  じたら(←何回か経験するとわかる。でも、それでは何回か傷を負ってしまうこと
  になるのでまずい。多分、何か言おうとして言葉を飲んだ時とか、視線を落とした
  時とか、目が坐った時が、サインだと思う。)黙った方がいい。
5.「今から感情的なことを話します」と宣言して、感情を表出する人はいない。ニン
  ゲンがしゃべる時には、必ず感情が含まれている。すべての話題に、すべての単語
  に、感情がひっついている。そして、それに応えないということはすべて、相手の
  感情を害する行為になってしまう。かといって、できないものはできないので、そ
  のことにくよくよしたり鬱になってしまうのは損だ。
6.すべてのことが毎年繰り返される、フラッシュバックは何度でも起きる。しかし、
  こんな付き合いのためにASは生まれてくるのではないので、はまったら負け。
[2003年8月12日 21時58分41秒]

テーマ: ビル・ゲイツの罠にはまる。   
パソコンをWinXPにして、一番恐れていた(一番楽しみにしていた)ことを、ついに実行し
てしまった。・・・音楽配信システム(有料)の使い方を、解明してしまったのだった。
これで、余計なカップリング曲なしに、レコード会社の壁を越えて、好きな曲をダウン
ロードできるぅ!←ということは、それ聴いてボ〜っとする時間が増える。(いや、これ
は鬱の特効薬なのじゃ。と、言い訳。)
でも、仕事の効率化には繋がらないことは確かである。しかも、勉強に集中せずに、ち
ょこちょこ電車やってる(=ファンタジーにのめり込んでしまう)長男に、「けじめをつ
けんかい!」と言えなくなってしまう。

今日、私がパソコンをいじっている間、次男はそこらへんに落っこちてる石に、長男が
先日買って来た金色のポスターカラーをきれいに塗ってピカピカに磨き上げていた。

まあいいのだ、ウチはこれで。
[2003年8月12日 18時5分53秒]

テーマ: アリジゴクの巣に陥らないために。   
この日記を読んだ大半の地球人は、きっと「ウチの子をこういう大人にしたくない!」
「そのために、私がなんとかして直してしまわなければ。」と、思うだろう。そして、
AS成人の多くの人は、ASの恥さらしと思うだろう。
それでも、こんな目に遭う人がいなくなるように、こうならないようにうまくやってく
れることを願って、私は書く。(うまくいっていることだけ、人に好かれることだけ・
いいことだけ書くのは、現実を反映していない。)
※私は、フラッシュバックを起こしていることを自覚していて、わざわざ書いているの
 だが、その意図が正しく伝わっていないことも分かっている。それでも、書く。
 分からない人は、ずっと分からなくていいし、誤解したままの人は誤解し続ければ
 いいと思っている。

昨日の「お楽しみ会」は、私が役員をやっておらず、かつ、極力その場にいないように
し、ウチの子どもたち以外とはほとんどしゃべらなかったので、非常に和気あいあいと
した感じで滞りなく進行した。
私が役員(しかも責任者)をやった時は、自分の知っている知識とその前の年に保育園
で役員をやった時の記憶を寄せ集めて、「こういうものだ」と思い込んでいた通りにや
ったのだった。
ところが、こういう機会に慣れている人にとっては、普通のやり方をすれば簡単なの
に、わざわざ難しい方・やりにくい方・手間がかかる方を選択していることになってし
まっていたようだった。しかし私の方は、助けてくれる人はいないし、その場でひんし
ゅくをかっていることにまったく気がつかなかったので、“悪びれるそぶりもなく人に
迷惑をかけていた”らしかった。(しかも、身体的にできないことから回避するため・
苦痛から逃れるために自然にとった行動が、“一番大変な労働をせずに子どもと遊んで
いた”ことになってしまったようだ。)
ほとんどの人は面と向かって言いはしなかったけれど、その場で明らかに不快感を表わ
された上、後日仕返しもされた。

こんな、アリジゴクの巣に落ちないために。
1.自分のことを、よく知っておく。
2.非自閉症者のことは分からなくていいが(だって、手持ちの思考形式にないこと
  は、考えたくても考えられない。)、どこがどう違っているか知っておくこと。
3.できるだけ波風を立てないように、自分から何かを言い出さないようにすること。
4.非自閉者からの拉致被害に遭わないように、自分を守る防衛手段を身につけておく
  こと。
5.世間の価値観から外れた上に打ち解けない行動をする人を、集団でいじめることが
  正義であるという考え方から、違っている人を理解しようとせずに追い込んでしま
  っている人の方が、その責任と罪を問われる時代にする。
[2003年8月11日 8時12分8秒]

テーマ: ノウノカツドウヲ、テイシセヨ!   
朝のくだらない掃除事件のおかげで、三時間はぐっすり眠ってしまった。
夜は、子ども会の行事。このスケジュールが決まった時、はじめから8月10日は丸一
日棒に振る日と決まったようなものだ。

お祭男の次男のためと、一日中家でだらだら勉強している長男の生活にメリハリをつけ
るために、我慢して参加。でも、余計なおしゃべりをしなくて済むように、隣の建物の
駐車場に避難したり、わざわざお茶を買いに行ったりして遣り過ごす。(ちょうど、PTA
の副会長をやった時に、懇親会の間中、非常階段に避難していたのと同じように。)
親しくなければ話しかけられることはないし、飲み仲間は勝手に盛り上がっているし、
私が役員をやった時に一緒に役員だった人とは、関係が深くなればなるほど敬遠される
ので目も合わせようとしないので、その方が居心地は良い。
なぜって、もうこの人たちに合わせる必要もないことが分かっているし、合わなくて当
然だとも分かっているし、あちらも打ち解けない人には決して親しくはしないので、同
じ場にいながら全く違う空気を吸っていることが苦痛にならないからだ。

生きていなくて良い場では、脳の活動を停止する。あと二年生き延びれば、参加しなく
て良くなる。(でも、来年は子ども会の役員、再来年は組の班長が回ってくるので、でき
れば今年中に消えたい。)
[2003年8月10日 22時10分24秒]

テーマ: ○○メソッドも、使いよう。   
巷ではやりの、○○メソッド。基礎学力UPがウリだが、ウチではこれを基礎学力維持
に使っている。
最近になってやっと、その中学版である○○式プリントができた。長男にとっては限界
を超える前のレベルの問題が並んでいる。中1・中2の二年かけて、小学校5〜6年の基
礎ワークをやっと終わらせた長男には、ちょうどいい。
百ます計算は次男に使えるが、別に苦手を克服とか集中力をつけるためにやるわけでは
ない。生活ノートは長男に使うが、ASを直して普通にするためには、決して使わな
い。本人自身の被る不利益を、少しでも減らすためだ。

子どもの発達段階に合わせてレベルを下げる・できなくてもいいといっても、「やらな
くてもい」とは、決して言わない。

なお、私は決して穏やかな性格ではないので、こういう子どもと組み合わさった場合
に、何も知らないどころか教育に対する意識がとても低い周辺農民からは、虐待してい
る・子どもがかわいそう・恐い、と思われているかもしれない。

この価値観が逆転することは、私の目の黒い内にはないだろうと、覚悟している。なに
しろ、このホームページ中の正義は、地球上のごくごく一部でのみ通用しているだけの
もので、あちらにとっては無価値以外のなにものでもないのだから。
後は、私の手元から離れていくカエルちゃんたちに託すしかない。がんばれよ!
[2003年8月10日 17時1分20秒]

テーマ: またも、バカバカしい掃除事件。   
公会堂の掃除当番。

自分を高めるためのソーシャルスキルなら、進んで習得したいと思う。
しかし、自分を低めるためのソーシャルスキルなんて、覚えたくはない。

けれど、8時集合・開始・時間厳守の掃除当番が「8時に行って遅刻。罰金1000円。」
なんていうとんでもないバカなことのために、踏切まで走っていくのはバカバカしいの
で、今日は10分前に行った。そうしたら、ご近所ネットワークは、時間を守っていない
ことに悪びれるそぶりを何も見せずに、もう掃除を始めていた。
公会堂の掃除当番の方は、リサイクルの当番に比べたら比較的まともなので、時間厳守
で8時に来る人もいる。その人たちの様子を観察していたら、誰に向かってというわけ
でもなく「早いね」「ご苦労様です」「遅かった」と大きな声で言いながら入っていっ
て、何事もなかったかのように加わっていた。
しかし、“誰に向かってというわけでもなく人に向かってしゃべる”なんて芸当は、私
にはできっこない! 学校なら、先生がいるし、リーダーが決まっていたり出欠の確認を
するので、誰に何といえばいいか分かりやすい。けれど、ご近所ネットワークは、持ち
回りの班長がいるだけ。
まあ、演技療法かなんかを受ければ、そういう時の小芝居の一つや二つはできるように
なるかも知れないが、対人関係障害がこじれて恐怖心が先にたっているので、私にはで
きない。(やりたくもない。)

前に住んでいたところには、しっかりとした年長の人がいて、班長が誰だろうとリーダ
ー的役割を果たしてくれていたので楽だった。それに、明らかに敵対関係にある人が少
なかっただけでなく、自分の方も、自分の周りの人と自分との違いに全く気づいていな
くって、「おかしなヤツらだ」「間違っている」と思って見ていた時だったので、全く
恐くはなかった。
ただ、その後で、言いようのない不快感に襲われていたたまれなくなり、わけもわから
ずに逃避することばかり考えていて、知らず知らずのうちに身体症状に出まくり、しま
いにはうつ病になってしまった。

こんな、心的傷害事件なんて、一日に何度でも起きる。そのうちのいくつかは、キルケ
ゴールの言うところの「死にいたる病=絶望」の元になる。
でも、天国に行って帰った後の地獄を味わうことに比べたら、ずっと地獄にいる方が辛
さを感じなくて済むので、「良いことばかり言う集会」には行かない方が楽。これ書い
たら、寝る。(つまり、逃避。)
[2003年8月10日 11時21分47秒]

テーマ: どうせ不幸になるのなら、楽しい方を選びます。   
ほとんどの子どもが、私にとってはどうでもいいことがよく起きる「休み時間」が楽し
みで学校に行っていて、それこそがその後に続く人生の前触れだったなんて、私は誰か
らも教わらなかった。
小学校の頃は、休み時間に校庭に出て遊ぶように誘われないためには、さっさと図書館
に行ってしまえば良かった。中学・高校では、私にとって、休み時間というのは強迫的
に興味を持った話題を特定の人に対して一方的に話すための時間だった。そして、その
行動が社会性のなさを表していると知る前に、それは迷惑な行為で誤解を招いていると
いう苦情を聞かされた。

これからの子どもたちは、「こういう行動は自閉症によるものだ」ということを、どこ
かで誰かに気づいてもらえるという点では、うらやましいと思う。
しかしその反面、これらすべてをいじられてしまうのではたまらない、とも思う。こう
いうところに介入をするのは、あくまでも本人の不利益を考えてのことだとわきまえて
いる人でなかったら、嫌だ。

私は不良アスペでいいので、「これは問題だから」「自閉症でいると人間としての幸せ
を享受できないから」「不幸になるから」という下心のある人に対しては、きっと、生
来の勘が働いて、徹底的に反発するに違いない。
自閉症でいる不幸と、自閉症をやめる不幸を天秤にかけろと言われたなら、私は断固と
して、自閉症でいる不幸の方を選ぶだろう。それは、別に、私が私でなくなるからとい
う理由ではない。そっちの方が楽しいからだ。
[2003年8月9日 22時16分16秒]

テーマ: 私はこれでいいので、他の人たちの力になってください。   
治療室・学会・本・特定の異空間で、発達障害に理解を示し、良いこと言ってくれる人
はたくさんいるが、私の現実を変える力になってくれる人はいない。しかし、自閉症者
に向かって、良いことばかり言って現実を何も変えてくれないのは、心的な業務上過失
致傷罪を犯しているに等しいということは、心しておいて欲しい。
「こういうことをすると二次障害を起こしますよ、だから、こうしないでください。」
なんてことを延々と聞かされるのは、実際にそういうことばっかりやって、二次障害を
起こしただけでなく、自分の人生をドブに捨ててしまった人にとっては、めちゃめちゃ
辛いことなのだ。これも、忘れないで欲しい。
自分が味わい続けている、数々のこうした嫌な思いを、次の世代の人たちにはさせたく
ないという一心で、私は仕事をしている。

私自身は、「あんなみたいな人の言うことを聞く人なんかいない!」とか「子どもの方
でなく、自分が療育を受けた方がいいんじゃない!」と言われて当然で、ドブ川に身投
げして人生を終わらせなければならないようなろくでもない人間なので、決して、自信
満々で本を出すのではない。

ただ、私は、どんなにろくでもないことばっかり起ころうとも、自閉症が好きだ。

どんなに惨めになろうとも、「自閉症を卒業したおかげで、こんなに幸せになりまし
た。」なんて、絶対に言いたくない。

今日は、壁を叩いたつもりで、我慢した。きっと、明日も…。
[2003年8月9日 21時36分51秒]

テーマ: 誘惑が多くて、息苦しい社会。   
赤ちゃんが女の子になる時期、女の子が女になる時期、そのどちらもが早まっている。
小学生がおしゃれをし、化粧の仕方に興味を持ち、100円ショップでつけ爪を売っている
時代。親の世代の価値観が、すでに、ファッション・おしゃれ・ブランドにあるのだか
ら、当然といえば当然。
外見を飾ること、メールやケイタイで常に人と繋がっていることを確認すること、自分
が共感されていなければ安心できないこと、自分の感情を開放すること、セクシーであ
ること、経済原理にかなうこと……、これらすべてが自閉症者にとっては不利な条件。
女子にとっても男子にとっても、それは同じだ。
一方では、自分の子どもがイジメに遭ったからと思い込んで、同級生の家に放火するな
んいう冷静さに欠く世代が親になっている時代。

この時代の価値って、本当の価値なの?

そんなものに乗れることが、生物として優秀なの?
[2003年8月9日 18時44分50秒]

テーマ: 日本型モデルの必要性。   
スウェーデンでは、20%の特別支援が当たり前になっていて、違っている子にはそれ相当
の支援をして当然だという考えも浸透している。
しかし、日本では、特別な支援を正式に受けることが望まれているとは限らない。

一方、医学的診断を受ける=子どもにレッテルを貼られることになってしまい、分かっ
ていても拒絶される可能性がある。
家族が、特別な支援が必要な子どもであり、社会に出ても支援を継続する必要があると
分かっていさえすれば、事足りることだってある。しかし、法的な措置が必要となれ
ば、医学的な診断なしには通らない。それが嫌われるのは、間違いなく差別の対象にな
ってしまうからだ。

そして、教育学上の概念と医学的な概念が一致することが良いかというと、そうとも言
えない。
教育的措置で足りるのか、医学的診断が必要なのかということは、家族の理解度と接し
方によっても変わることがあるからだ。学校で言われるのと、病院で言われるのとで
は、意味が違ってくる。
だからこそ、教育的な配慮が必要だけれど、医学的診断はあってもなくても良いという
緩衝地帯がないとうまくいかない。まずは、教師が教室内で密かに支援を行なわいとい
けないことだってある。それが、LD概念が国内で広く普及した、最大の理由だと思う。
とはいえ、説得力を得るために医学的診断を求めなければならないという状況も、一方
ではある。これにも、定型はない。

ただ、自閉症圏の障害は、教育的支援の技法そのものはNLDでもASでも同じだが、自閉症
としての重度さの違いは「かかわり障害」の程度であり、共感する能力の有無の違いで
はなく共感できる範囲の狭さの違いという問題がある。接触・介入の方法、つまり、そ
れらの手法を用いる際には留意が必要になってくる。

それから、ADHDをADHDと診断することについて異論のある人はいないと思うが、自閉症
スペクトラムと呼ばれているすそ野の部分をどう呼ぶかについては、諸説紛々で、決着
がつきそうにない。

要は、その時々の状態に応じて、もっとも的確な支援ができ、本人にも家族にももっと
も良い関係が保てるようなモノの言い方をすることが大事なのではないだろうか。
[2003年8月9日 10時34分59秒]

テーマ: 治療室の常識は、世間の非常識。   
 世の中には、赤という色しかないと思い込んでいる人たちに、いきなり「紫色の説
明」をしたところで、分かってはもらえない。まず、青という色があることを、証明し
なければならない。
 最終的には、「自閉症です」と言えば、カナーだろうがアスペルガーだろうが、施設
にいようが社会に適応していようが、「そうですか」とごく普通に会話が進んでいくよ
うにしたい。というのが、私の夢。
 状態像が変わっていくからといっても、自閉症を卒業したことが偉いのではなく、
元々の「かかわり障害の質的な差異」であるのだと思う。それから、早期発見・早期療
育をしたことよりも対人関係障害を悪化させたり世の中と敵対関係に陥らずに済んだこ
と、つまり社会の側にある障壁を低くしたことの方を評価されるべきだとも思う。
 自閉症という一つの文化・一つの価値が、社会に認知されて始めて、自閉症が一つの
アイデンティティに成り得るのだということを忘れてしまったら、本当の意味での治療
にはならない。
[2003年8月8日 23時47分54秒]

テーマ: 観方を変えると、言い方が変わる。   
○○が欠けた人⇒教えてやらねば でも、同じになるとは思わないでください。

というのは、親切なモノの言い方のように見えるかもしれない。

しかし、それはあちらの都合というものだ。



そうではなく、

「元々違うのに、精一杯かかわり・コミュニケートし・想像力を働かせている。」

「こちらでは、偏ったデータに基づく自分なりの考え・言葉・知識・事実を寄せ集めて
構成するという、大仕事をやっている。」

「欠けているのは、共通するデータ・共通する思考回路・共通する社会的感情であ
る。」

「かかわれないのでも・コミュニケーションできないのでも・想像力がないのでもな
い。」

と、言って欲しい。
[2003年8月8日 14時0分50秒]

テーマ: イマジネーション障害なんて、無神経な言い方です!   
アンテナが壊れてる!

だなどと、勝手なことを言っている人がいる。

イマジネーション障害、と言うことが好きな人もいる。

確かに、アンテナの波長は合っていない。あちらのイマジネーションの範囲で読み取れ
るような表出の仕方をしていないかもしれない。

しかし、アンテナは壊れていない!イマジネーションがないわけではない!

むしろ、アンテナの感度が良すぎて、とんでもない情報をキャッチしてしまい、知識の
集積とパターン認識と原記憶が良すぎることが、ASの悲劇を生んでいる。
[2003年8月8日 13時31分3秒]

テーマ: すそ野はすそ野で良いけれど…。   
 「かかわり障害」が軽いからといって、なぜ人とのかかわり方が違っているか
というところを押さえないまま、「自閉症のコミュニケーション障害を見逃すとたいへ
んだ!」とばかりに、言葉使いの指導をムキになって行うことにどれほどの意義がある
か、と考えてしまう。
 就職できる人を作ることだけを念頭においていると、本人がアイデンティティを失っ
てしまう。しかしそれ以前に、ただただ言葉をいじることだけが療育だと思ってしまう
人がいるとしたら、自閉症の言語障害説の二の轍を踏むことになってしまうだろう。
[2003年8月7日 22時38分26秒]

テーマ: 敢えて言う・敢えて言わない、という勇気。   
 この世に、自閉症の人とそうでない人の二種類だけがいるわけではない。中間の人も
いるし、軽症化していく人もいるし、他の発達障害の方が目立つようになっていく人も
いる。しかし、そのことを知ってもらう以前に、日本ではまだ「自閉症」という概念が
正しく理解されていない。

 だからこそ、敢えて、その両方の端のことを書いた。

 スウェーデンでは20%の子どもが特別支援教育を受けている、という事実がある。実
際、この分野に首を突っ込んだことがある人なら、1クラスに数人は発達障害の子ども
がいることに気づくことは、容易だろう。
 しかし、日本ではまだ、発達障害について理解されていない。そういう子どもである
ことが分かっていても、そのことをズバリ言ってしまうことが子どもにとってメリット
になるとは限らない。
 そりゃあ、親子共々まったく知らなくて、教えてもらうことで親子双方が助かるよう
な例ばかりなら、じゃんじゃん言うさ。でも、実は何となく気づいていて、言われたく
ないと思っている人もいるし、分かっているけれど適切な方法論を持っていなくて必死
に直そうとしている人もいる。こういう場合は、正面切って言う前に、やんわりと外堀
を埋めて行った方が安全なこともある。
 精神科医が本人の治療のために行うカウンセリングは、あくまでも治療のための言葉
であって、それ自体が社会的である必要はない。だから、精神科医が治療室で言った言
葉をそのままエコラリアしたところで、社会の方には何も響かないことがある。

 だからこそ、知っていても敢えて言わない勇気も必要になる。
[2003年8月6日 17時53分4秒]

※本人以外の書き込みはできません。
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