記事タイトル:2003年1月の『日記』 


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テーマ: 徹底抗戦。   
自分のことだろうと、子どものことだろうと、「こういう障害があるので、こうして欲しい」と
頼んだ時に、拒絶する人や理解できない人がはいる。でも、それさえも言い出せない人の方が、
圧倒的に多い。それに、理解はするけれどそれだけで終わってしまったり、とんでもない誤解を
されてしまう人もいる。つまり、ほとんどが、発達障害のことを知ったところで全く意味のない
人なのだ。
取引する相手が、そもそもいない。これは、取引以前の問題だ。だから、「いやだ。けれど、ベ
ストを尽くす。」「どうしようもないとわかっている。けれど、できるだけのことをする。」し
かない。こうやって、自分自身と取引する。これが、“我慢”ということ。
こうやって、永久に自分自身との取引をし続ける生き方もあれば、「アイツらには、いずれ天罰
が下るに決まっていると信じる」とか「アイツらに天罰を下すはずの神を信じる」生き方もあ
る。

いずれにしても、私は、「どうせ言っても分からない連中だらけなのだから、言うのをやめる」
とか「発達障害なんてなかったことにして、世間の方に合わせる」生き方はしない。
[2003年1月31日 10時14分57秒]

テーマ: 発達障害があることを認めている社会   
「発達障害の人がいて当たり前の社会に!」とは言うけれど、元々、発達障害のある人はどこに
でもいるので、「発達障害の人がいて当たり前の社会」は、既に実在しているのだ。ただ、「発
達障害があることを認めている社会」が実現していないだけで…。
それで、ディスプラクシアのある人が機械操作をさせられていたり、ASの人が銀行の外交員に
なっていたりする。だが、いずれも「慣れればできるようになる」「体で覚えろ」「気合が足り
ない」「もっと肩の力を抜いて!」などと言われ続け、病気になってやっと、“不向き”という
結論が出されたりする。最終的には他の適職を見つけられるようになるにしても、本人にとって
も雇用者にとっても、ずいぶんと無駄な時間を過ごしてしまう。

それを、「発達障害があることを認めて教育的支援を受けられ、発達障害があることを認められ
た上で仕事ができる社会」にして行こうと闘っている真っ最中というわけだ。

学校は、これから始まることが決まりつつある。と言うか、既に取り組み始めているところがあ
る。
けれど、医療的支援がないのに学校だけが進んでいて、地域社会の認知度もゼロである場合、分
かっているのに手も足も出せないことがある。つまり、こういうルートで発達障害が発見された
ケースでは、地域社会に暮らす社会人である大人(=親)がプロックしてしまうこともまた、と
ても多いのだ。
こういう子どもを抱えている親は、たいてい、何かしらの異常に気づいている、と言うか、気づ
かされている。けれど、「なんでもない」「なんとかなる」「なんとかしてやる」と思いながら
過ごしてきていることが多い。で、そう思っているところに、学校から「一度、相談機関に行っ
てみたら」と言われるので、拒絶反応を起こす人もいる。いや、それ以前に、話を持ち掛けるこ
とさえできない人だっている。最も症状がハッキリしていて隠すことができず、しかも(まだ保
護者の元に置かれているので)やれることがたくさんある子どもの内でもこうなのだ。

「教育」の場から取り組み始められないのなら、いったいどこから始めろと言うのだ!
こういう子どもを持っている大人たちが、まず発達障害を認め、そういう大人たちが「社会」に
アピールして行かなかったら、誰が発達障害のことを世に知らしめるのだろうか!?

この際、自分自身が発達障害を持った大人であることを全面に押し出すと、逆効果になることが
多い。と言うのは、まず、その“事実”を否定されるから。そして、その“事実”によって、
「聞くに値しない人物」の烙印を押されてしまうから。つまり、ここでも、社会的地位がモノを
言うのだ。
で、やっぱり「社会」!・・・永遠に、ニワトリとタマゴの関係かも。
[2003年1月31日 7時57分19秒]

テーマ: 価値。   
発達障害を知っているからといっても、世間的には「無」のままだ。今のところ、歓迎されるの
は、専門家の一部と、教育関係者の一部だけ。特に、田舎では、そういう知識は「迷惑」「困り
もの」でしかない。たとえ、その道の権威になってどこかの大学教授に就任したとしても、自治
会などの役員を押しつけられる対象になるだけだ。つまり、価値を知らない人にとっては、価値
のないモノなのだ。
しかし、世間では、ブランド品やら宝石やらゴージャス姉妹やら巨乳タレントが、価値のあるモ
ノとされている。私からすれば、こ〜んなものに価値を見出しているなんて、よっぽど精神的に
病んでいるとしか思えない。
[2003年1月30日 18時4分57秒]

テーマ: 成人の精神科医と世間の人の不思議。   
しかし、成人の精神科医と世間の人は、自覚してしまった人に冷たい。「そんなに不都合がある
ようには見えないし、他の人が悩んでいないのに、おかしいじゃないか。」という理屈だ。

確かに、小市民的な「一人前でないことへの恥」から、自分の欠落に対して発達障害というお墨
付きをもらおうとしたり、「奇跡の薬」を求めて精神科を受診する人もいるとは思う。(実際、
ADHD、ASのことを話すと、絶対に有り得ない人が自分もそうだと言ってくることがある。
それはそれで、問題だ! でも、診断基準には満たないし、する必要もないLDの要素を持って
いない人なんていないと思う。)

でも、今言おうとしているのは、そういうことではない。

成人の精神科医が、明らかに何かあるのに無自覚な人にはとやかく言わないのに、明らかに何か
あって自覚している人に冷たいのは何なんだ!ということ。そして、世間の人は得てして、明ら
かに何かあるのに自覚のない人のことを「立派な人だ」と賞賛していたりするのは、どうしてだ
ろう?(それは、単に自分の売り込みが上手い人や、自信家であるというだけではないのか? 
それとも、それを称して“精神的に健康”と呼んでいるのだろうか?)
しかも、明らかに何かあるのに無自覚な人が事件を起こすと、世間は大騒ぎ、タレント精神科医
はワイドショーにひっぱりだこになるというのも、おかしな話だ。

もしかしたら、それが常識的なモノの見方なのかもしれない。

でも、一度、発達障害のメガネをかけてしまうと、その常識のウラとか落とし穴が、とってもよ
く見えるようになる。
[2003年1月30日 17時18分5秒]

テーマ: 環境・状態・知己   
発達障害児の親たちが集まると、よく「どっちが重い」だの「軽いからいい、いや、そんなこと
ない」ということになる。
確かに、物理的なたいへんさや精神的負担・経済的負担は比べられるかもしれない。でも、本人
のQOLを考えたら、障害や困難の重さよりも、「そういう自分との付き合い方」の方がよっぽ
ど大事だと思う。
自分がこういう問題を抱えていると知った時に、それを認められるかどうか、その責任をどこか
に転嫁することなく、「何が自分に欠けていて、誰に助けを求めればいいか」知ろうとする姿
勢。これが持てるかどうかということ。

元々の障害の軽重よりも、環境・状態・知己が、その人の人生を左右すると言っても、言い過ぎ
ではないと思う。
[2003年1月30日 16時17分50秒]

テーマ: 反感を買っていることは承知の上です。   
私はこのまま朽ち果てるのを待つしかない。私が、自分のことを何とかしようと思わないのは、
絶望に基づいているからだ。でも、これから成長する子どもには、未来もあれば希望もある。

私が子どものことしかしないことに反感を持っている人は、たくさんいるだろうと思う。それ
は、重々承知している。しかし、私にはそれしか活路がないので、そうするしかない。
[2003年1月30日 13時57分54秒]

テーマ: 無意味。   
そんなドブガワにいて、「自分が捨てなければならないと思っていたものが、実は宝石だった」
ことが分かったからといって、何になるのだろうか!?
[2003年1月30日 13時42分15秒]

テーマ: 未治療・無自覚。   
必死に情報を集めたり、インターネットの掲示板に登場したり、本を書いたり、自助グループを
作ろうとしている発達障害の成人たちは、確かに未治療かもしれないけれど、無自覚ではない。

ところが、私が今隷属させられているのは、療育どころか普通の躾も教育もされていない、しか
も、一度も外の社会を知ることもなく、「誰かに世話をさせればいい」という甘っちょろい考え
方で育てられた井の中のカワズ。ディスレクシアが根本にあって、人に伝わるように話すことが
できないのに、「自分の言った通りになっていない!」と怒り、LDであることを指摘すると
「またバカなことを言っている!」と捨てゼリフを吐き捨てるような輩である。

私の執念は、一つには「自分の取り柄をすべていけないものとして否定し、しかも相互的情緒的
なかかわりがなかったことに全く気づかれず、構造化することで社会生活が出来るようになった
のは良いが、ハリボテのニンゲンモドキになってうつ病になってしまった、私みたいな経過をた
どらせたくない」という思いに根付いている。
子どもたちを、こういう大人にさせてはならないという強い信念が、もう一つの原動力になって
いる。

こんなところにいたのでは、「あと何年かで確実にやってくる終わり」だけが楽しみであるよう
な人生しかない。誰に何と誉められても、自信なんか全く持てない。
[2003年1月30日 13時37分6秒]

テーマ: 遺伝子   
今日のはなまるマーケットより。

【「遺伝子」って何?】 
  
近年、遺伝子の研究は急速に進み、あらゆる謎が解かれつつあります。

遺伝子の形がどういうものかというのが解ったのは、50年前です。
最近10年間で、人の遺伝子が病気や性格などに関係しているということが解って来ました。この
10年間で、ものすごい進歩なのです。

最近は、遺伝子組み替え食品に始まり、クローン羊やクローン牛やクローン人間の話題などもよ
く耳にします。
地球上のほとんどの生物の遺伝子情報は、A・G・C・Tという4つの暗号でかかれています。

遺伝子とDNAとは同じものと思っている方も多いと思いますが、実は違うものです。
遺伝子は、DNAの中にある「我々が生きていく中での必要な情報」なのです。
DNAの中にはたくさんの情報がありますが、その中のわずか3%が遺伝子なのです。
 
遺伝子は、DNAの中にある「我々が生きていく中での必要な情報」  
 

【性格を決める遺伝子】 
  
あるご家族で、父親と長女の方が性格がとても似ているということなので、DNAで調べてみまし
た。 
 
[結果]
母親→遺伝子暗号が父親・長女より44個長い
父親・長女は同じ長さだった

短い遺伝子は、不安遺伝子と名前が付けられていて、どちらかというと協調性があります。
お父さんと長女さんのほうは、心配性の不安遺伝子を持っています。
お母さんの方は、おおらかな遺伝子を持っています。

性格を左右する遺伝子 
・不安遺伝子
→不安の感じ方の度合いを決める

・好奇心遺伝子
→好奇心が強いかどうかを決める

※ちなみに日本人は約7割の人が不安を感じやすい

日本人の約7割が不安遺伝子をもっています。ですから、集団行動を好み協調性があるのです。
それに比べ、米国人の方は2割の人しか、この不安遺伝子をもっていません。なので、自己主張
が強く、一人での行動を好みます。 


■こりゃあ、手ごわいぞい!
[2003年1月28日 16時40分23秒]

テーマ: 自助ってなに?   
自助グループを作ることが、時代の流れみたいになっている。確かに、他の(普通の)病気の人
たちや発達障害児の親たちは、それが精神的な支えになっている。

自助グループは、sharing(興味や体験を分かち合うこと)を前提として成り立つものだ。
sharingができていて、お互いの経験に基づく知恵を出し合い、それが他の成員の役に立つのな
ら、“自助”は成立する。
しかし、それがないところに、無理矢理「自助グループを作ること」を強要したり、前進のため
に愚痴をこぼすのではなく、単に足の引っ張り合いをするだけに集まるのならば、やらない方が
良い。

それから、一匹オオカミ型(ギルバーグの分類で言うと、孤立型AS成人)の場合は、sharing
(興味や体験を分かち合うこと)をする気が全くないことが多い。それは、単に未治療で、対人
関係障害のこじれや二次障害としてそうなっているのではなく、一つの社会的人格のパターンと
してあるものだ。
また、自閉症児の療育に関わっていて、横並びの自助グループに参加するよりも、療育関係者の
方に強い繋がりを持っている人だっている。

それは、成人ASのそれぞれの在り方の問題であって、どれが良いとか悪いとかいうことではな
い。
[2003年1月28日 9時58分58秒]

テーマ: GIVE&TAKE。   
問題は、どこと取引するかだ。

「人に誉められるとうれしいからやる。」というのは、いかにもADHD的だ。

私は、そういう動機では動かない。
「いやだけれど、できるだけのことはやる。」そして「誰かに対して怒っている・不満たらたら
になっているのは、その人に支配されているのと同じこと。それは、私らしくない!」。
[2003年1月27日 17時2分11秒]

テーマ: おとなしくなってから後。   
行動障害がなくなった後、おとなしくて何の問題もないかのように見えている時。実は、本人自
身の中でいろんなものがくすぶっている。
普通だったら、こんなことを言うと「バカにするな!」「プライバシーの侵害だ!」と反抗され
るようなこと、「こんなこと、説明しなくても分かるだろう。」「こんなことぐらい、自分で考
えられるだろう。」「その気になればできるだろう。」と思われている事柄が、全く分かってい
ないことがある。つまり、見よう見真似でやっているか、世の中にそんなことがあることにも気
づいていないかのどちらかなのだ。
「○○さん/君を信用している。」「○○さん/君にはできる力があるはずだ。」という美名の
もとに放置してはならない。それから、「自分の意思で、△△をした。」「分かっているから、
△△をした。」という思い込みをすると、後々とんでもない行動になって表われるか、本人の心
中密かに不安が蓄積していくかのどちらかになる。

もし、リアンさんのように、アスペルガーの父のもとに十分に理解されて育ち、今現在、自分の
能力を活かせる仕事を持っていて、理解ある(そして頭の良い)家族に囲まれて暮らしているの
なら、生涯にわたって対人関係障害は起きないだろうけれど。
そういう環境に置かれていると、ほとんど非言語性LDの状態になるので、一人前でない自分を
恥じたり、理解されて暮らしていることに感謝も出来て当然だと思う。アスペルガーの人の書い
た自伝や手記を読む時には、本人の置かれている環境と状態の違いを考慮して欲しい。
でも、自分が恵まれた環境に置かれて、ちょっと状態が良くなると、自閉症の人たちに理解を示
すどころかバカにし始める人がいる。けれど、最近では、自分がアスペルガーで、自閉症児の療
育を指導者としてやっている人が随分と増えている。そういう人の仕事には、自閉症児に対して
何をすべきかよく分かっているだけではなく、「自分と同じ苦しみを味あわせたくない」という
ような、慈愛の念が込められているように思う。
[2003年1月23日 13時37分25秒]

テーマ: ちなみに…。   
かのギルバーグは、成人ASの三タイプ(孤立型・受動型・積極奇異型)について書いている。
福祉先進国のスウェーデンのことなので、日本とは事情が違うのだろうとは思うけれど、「受動
型にならないと就職できない」とか「受動型でなければ家庭生活を維持できない」とは書いてい
ない。ASダンナとASの2人の息子を持つ奥さん(イギリスだったかアメリカだったか)も、
同じことを言っている。
[2003年1月15日 10時25分31秒]

テーマ: 発達障害と人格障害。   
境界性人格障害と診断された人の生育歴を調べてみるとADHDがあり、分裂病型人格障害と診
断されている人の多くはASではないかという見識は、随分前からあった。つまり、人格障害と
発達障害とは無関係でないことは、発達障害の専門家の間では、当初から問題になっていたこと
だ。(『自閉症スペクトル』P101)
それで、発達障害の関係者は、今現在は人格障害と診断できる人であっても、発達障害としての
対応が必要だと、ずっと主張している。

一方、人格障害の関係者は、つい最近まで、発達障害の存在を無視していた。しかし、急に手の
ひらを返して発達障害の本を出すようになった。つまり、時代の流れに乗ろうというわけだ。で
も、その内容は、なんのことはない、「発達障害は、人格障害の予備軍だ」というものだったり
する。

そこで、今後は、以下のことを念頭においておくべきだと思う。

●発達障害児が人格障害者になるのではなく、発達障害への理解がなく適切な対応をされないこ
 とが人格的な破綻の原因になっている。
⇒従って、発達障害があって人格障害の状態になっている人の中には、発達障害としての治療を
 することで症状が改善することがある。

つまり、人格障害のような状態になっているというところが、ミソ。
発達障害の基本的な症状と、心理的なこじれのどちらが主になっているかという比率の問題もあ
るし、治療の順序としてどちらを優先した方がより効果的かという問題もある。
[2003年1月12日 11時9分52秒]

テーマ: ソーシャルスキルで想定している「社会」。   
「誕生日のプレゼントに、要らないものをもらっても、イヤな顔をせずに御礼を言う」とか、
「相手の気持ちだけでも、ありがたくいただく」なんていうマナーなら、とっくに知っている。
しかし、その相手が、「食べ切れないほど大量の作物を次から次へと作り、食べろ食べろと言っ
てくる場合」は、どうすれば良いか?

1、せっかく作った相手の労力と気持に応えるために、受け取って全部食べる。
2、せっかく作った相手の労力と気持に応える言葉だけかけて、物は受け取らない。
3、断って報復される(イヤミを言われる・誰かにいいつけられる・何ももらえなくなる)こと
  を恐れて、物を受け取るが食べない。
というのは、どれも不正解だろう。
4、せっかく作った相手の労力と気持に応える言葉をかけた上で、自分たちの消費能力を説明し
  在庫状況に応じて受け取ったり断ったりする。必ず、抑揚と感情たっぷりの、言語的&非言
  語的表現をする。
が模範解答だろう。

では、いかなる理由があろうとも断ったら報復され、受け取ったら更に大量に押しつけて来る相
手だったら、どうするのだろうか?
こういう相手に対しても、気持を受け取り、いつもにこにこしていればいいのだろうか? 理不
尽にボスを怒らせないようにと、気を使ってうまくやっている人は、いくらでもいる。
子ども向けの本には、「親か先生に相談しなさい」と書いてあるが、そんなことをしたらもっと
ひどいことをされることがわかっているから、みんな黙っている。大人の世界には、親や先生に
当たる存在さえいないではないか!
それで、子ども向けには、「勇気を出して、相手に本当のことを言う」ストーリーの教育映画が
たくさんできている。たいてい、「その相手も、実は誰かにいじめられた経験があって、共感し
てなかなおり」という筋書きになる。しかし、大人の世界では、絶対にそんなことでは解決しな
い。

○自分にとって苦痛となるこういう状況に、身を置かない。
○適当な距離を置いて、本当に感謝できるような付き合い方をする。
なんていう場にいられる恵まれた人なんて、ほんのわずかな特権者にすぎない。

みんながみんな節度を保っていて、気の合う人・合わない人との距離も適切で、利害関係も何も
なく、社会的にうまくやっている「社会」なんて、そもそもないのだ。
[2003年1月11日 18時37分35秒]

テーマ: ソーシャルスキル(横文字)が、日本語の中で浮いている。   
ソーシャルスキルの本を読んでいて、思ったこと。

もともと、この国には、ソーシャルスキルなんてないんじゃない!?

あるのは、世間体・体裁/礼儀(儒教思想の名残)、でなければ、商売を成功させるための処世
術・誰もがうなづく名言格言。

だいたいねぇ、「個」がなきゃ、「社会(個と個の交わるところ)」も成立しない。

発達障害児者が、一生懸命ソーシャルスキルを学習しているというのに、周りにいるのは、「人
の顔色をうかがったり人を支配する処世術に長けている一方で、心理的な問題をいっぱい抱えて
いる」ことが健常だと言い張っている人々。
[2003年1月11日 16時44分27秒]

テーマ: 愛着問題に一言。   
自分以外の人がいる場面(つまり、社会的場面)で、自然に相互的・情緒的な関係を持てないこ
とが「自閉」ということであって、そういう生来の症状を持っていることを自閉症と呼ぶ(今の
ところは…)。自閉症の人がひきこもることがあるけれど、ひきこもりは自閉症のことではな
い。
が、従来、自閉症の症状と言われて来た行動は、成長するにつれて穏やかになることがあるし、
環境が良ければ愛着も成立する。元々、人に対してどう振る舞い・どう会話していいか分からな
いため、信頼関係ができれば依存的になり、誰かを頼ったり模倣してその場を遣り過ごすテクニ
ックも身につける。
しかし、だからといって、人との関わり方のタイプが変わるわけではない。だから、「積極奇異
型なのに依存的、二者間関係があり愛着も成立している」ことは、十分に有り得る。事実、そう
いう人は、たくさんいる。

「積極奇異型だから、自分はダメ」なんて思うことはない!と、断言する。
[2003年1月10日 9時0分35秒]

テーマ: ○○失格。   
私は、社会的人格を持たないので、いついかなる時にもこの○○の部分には「人間」という単語
が入るとしか考えられなかった。しかし、最近になって、ここに「主婦」という単語を入れる人
がいることを知った。しかし、私はそういう発想をしたことがないので、正直言ってその人たち
の気持ちは分からないし、分かろうとも思わない。

つまり、私は、“社会的人格”に叶っていないことには悩まないので、そちら方面の二次障害は
起きない。かつて、私がよく陥ったのは、明らかに違うものだった。

例えば、だいぶ前に、中学の参観会で一騒動起こしてしまったこと。私は、「どんな行動にも、
必ず理由がある」という見方をすることを“行動分析”と言うことさえも知らずに、「それで当
たり前」だと思っていた。しかし、「この世の中、親が子どもを見る観点は全く正反対であり、
そのことを反省しようとも思っていない」現実に直面して、「子どものできなさに愚痴をこぼす
ための参観会」に意義を申し立てたのだった。
このことについて、私は何も悩んではいない。しかも、文部科学省の指導で、これから学校はそ
うなって行くかもしれないし、『カエルの本』が出れば、ただのカラ騒ぎでないことも証明され
るはずなのだ。
だが、その騒ぎを、この地区で最も人気者の父兄に対して起こしてしまったことが、重大な影響
を及ぼしてしまったようだ。あれ以来、この地区の中学の父兄に道などで会った時に、会釈をし
ても完全無視されることがずっと続いている。まあ、それも、今は何とも思わない。
ただ、かつての私なら、そのことに強迫的になってしまい、もしそれを精神科医に言ったものな
ら、間違いなく幻覚とか幻聴だと解釈されたに違いなかった。

社会に所属していないが故に、常に社会に対して敵対関係に陥ってしまうというのは、他の人た
ちにとっては耐えがたいことなのだろうと思う。社会に所属しているのに、一人前の成員でない
ことに悩むほどの社会性もない人に対して、憐れだと思うに違いない。
でも、私は、そんなものがなくて良かったと思っている。たとえ、この社会で生活していけるた
めに必要なソーシャルスキルを身につけて、“一人前”と言われるようになったとしても、その
気持に変わりはない。
[2003年1月8日 17時9分2秒]

テーマ: 誰に向かって「いい加減にせい!」と言えば言いのだろうか?   
受験・就職・その後に続く「みんな同じで当たり前の社会通念」。

それが、能力や興味関心の偏りのある子どもを持った親たちに、「このエネルギーを勉強に向け
てくれたら…。」と思わせてしまう元凶。

いったい、どれだけの人間を、うつ・ひきこもり・心身症・・・に追い込んだら、「反省」する
のだろうか!?
[2003年1月7日 9時33分9秒]

テーマ: 発達障害と社会文化的背景。   
「ダメ人間返上」なんていう言葉があるけれど、実はダメ人間なんていないのだ。
その社会に固有の“一人前の社会人”とか“大人”という不文律があって、一定の水準を満たし
ていないと思っている個人に、自分で自分のことを「ダメ人間」と思わせるような社会文化的背
景があることが、問題なのだ。

発達障害は、いつの時代にもあったけれど、それが“障害”として認識されるようになったの
は、正に今がそういう時期だからだ。
ちょっと前までは、男というだけで威張り・身の回りのことはしなくてよく・誰かが犠牲になっ
たり尻拭いして当たり前だった。女は、どんな男であっても服従し、身の回りの世話をしなけれ
ばならなかった。そういう文化はまだなくなっていないけれど、今、それが崩れつつある。
男にとっては、かつては一つの社会的人格だったものが通用しなくなって、「どこにでもいる普
通の子」「俺もこうだったから息子は大丈夫だ」とは言っていられなくなった。
一方、女の方は、逆に「社会的人格の呪縛から解放されつつある」。それが、昨今の“片付けら
れない女”ブームの背景にあるのではないだろうか?
[2003年1月6日 22時11分10秒]

テーマ: 日本語と対人関係。   
ASやADHDに由来する対人関係障害というのがあって、まずそれに介入しないといけない。
しかし、だからといって基本的に自然にできるわけではないので、後は学習能力の問題になって
くる。
そこに、読字障害(ディスレクシア)があると、日本語を覚え切っていないことが原因で、人に
誤解される場面がやたらと多いことに気づく。例えば、言い方一つで、依頼が命令になってしま
うというようなことや、状態(〜になっている)を言い表すのに受動(〜されている)で表現し
てしまうだけで、人の気分を著しく害してしまう。
自閉や注意の障害による対人関係障害のハードルを一つ越えると、身体の操作性の障害(ディス
プラクシア)やソーシャルキーの読み取りと社会的な行動の学習障害(NLD)の問題になって
くるので、元々のプロフィール特性の見極めを誤ると、本質的な課題を見逃してしまうことにな
る。
また、一人一人の発達障害者の症状が、どのような下位的な障害で構成されているか考えずに、
全体を代表するかのような錯覚に陥ってしまうと、方針を誤る。
[2003年1月2日 10時7分6秒]

テーマ: バランスの取り方。   
「どこかに書いてあったこと」「誰かが言っていたこと」を元にして、24時間義務づくめにし
ないこと。
つまり、“自分らしさ”が否定されている現実世界では、「やらないと誰かに迷惑をかけるこ
と」「生活のためにしなければならないこと」は、“普通らしくなる”方が良い。でも、そうで
ないものは、「いや」とも「いらない」とも言っても良いし、嫌いなものは嫌いだと思って良
い。それが、精神的な“健康”を保つということ。
「これが終わったら消える」とか「どぶに捨てたものからは価値を見出さない」とか「自分に価
値がないからゴミばかり拾って当然だ」としか思って来なかったことの方が、不健康だったのだ
と、初めて知った。
[2003年1月1日 14時8分44秒]

テーマ: ラーメン見たぞ〜♪   
昨日は5時間たっぷりラーメンを見て、今朝は富士山のふもとからの生演奏を聴いて…。某局の
陰謀に見事にはまって、何もかもリセット。こうやって、だましだまし、今年も何とかやってい
くのかも♪
今年は、気力も元気も回復したので、午前中に洗濯もお寺参りも初詣も終わり、年賀状の整理も
できた。何年ぶりだろうか?って、義務的な行事もないのに自発的にこれだけやったのは、生後
初めての快挙。
[2003年1月1日 12時17分53秒]

※本人以外の書き込みはできません。
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