記事タイトル:2003年3月の『日記』 


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テーマ: 深入りは危険。   
 深入りするな。補給が追いつかなくなるから。
 「深入りしない」のは、重要な戦略だ。どんな時でも、AS(やADHD)の牙城をキッチリ
と固めておいて、社会生活に必要なスキルは外堀や城壁として配置しておく。つまり、AS(や
ADHD)だからこそできる得意なことを活かすために、守りを固めるということ。
 AS(やADHD)の本丸を失ってはいけないし、自分の出所を忘れて社会の中に適応できた
つもりになって深入りしてもいけない。
[2003年3月31日 8時16分53秒]

テーマ: それから、   
 子ども会用の脳ミソは、棚の奥にしまっておく。しばらく、ないことにする。
 私が今、敢えて人と係わらないようにすれ違いにしているのは、こういう現世のニンゲンに対
して関心が集中してしまうとどんなことになるか、身にしみて分かっているから。つまり、ずっ
とそのことばかり考えて、世の人々のオカシサや不条理への怒りに囚われてしまうし、ストーカ
ーみたいに追い回すなんてことも、平気でやる。etc.
 それで今は、積極奇異型のかかわり方の恐さを知っているので、人に照準を合わせないように
している。(それだから、NPO法人など作れるはずがない! 特定の個人を見なくて済むよう
に、本に埋もれていることにする。)
[2003年3月30日 23時0分30秒]

テーマ: 子ども会。   
 今日、子ども会の年度初めの寄り合いがあった。来年度は、小中ともの役員をしなくて良いの
で気が楽ではあるが、こういうものに属しているだけでも相当に辛い。(注:役員といっても、
ウチの地域では単なる持ち回りの当番である。過疎地なので、ほぼ毎年何かしら回ってくる。ち
なみに、今は消費者協会。来年は小学校の地区役員。その次の年は、隣組の長。)
 ほぼ毎年のように子ども会と学校関係の役員をやっているので、いろんなことを知っているか
らちょこちょこ発言はするけれど、その実、完全な綱渡りの連続。なにしろ、損得勘定や収支の
つじつまが合わないことに抗議する感覚がまったく分からない。好き嫌いをハッキリ言う感情
は、もっと分からない。親睦を深めるため行事をしたりおしゃべりをしたいなんて気持はさらさ
らない。全部が、ただの知識・経験の集積・義務なのだ。
 現世のことに構っていて貴重な時間と精神的エネルギーを消費するのはバッカバッカしいの
で、脳ミソから削除して、ここに書いている。ダメ押しに、お笑い番組を見て吹き飛ばすか、カ
ベを叩いて終わりにする。それでも忘れられない時は、CDをガンガンかけて消去する。
[2003年3月30日 22時48分4秒]

テーマ: ADHD関連書籍。   
 最近、ADHD当事者が、NPO法人を作ったり、サバイバル本を出版したりしている。(私
と同じ立場なのだろうけれど、こういうことをバリバリやるところは、さすがにADHDだと思
う。)
 で、「参考図書」として買ったものは、ほとんど次男にあげている。また小3だけれど、「大
人になったら読みなさ〜い。」って。
[2003年3月30日 22時28分40秒]

テーマ: グレーゾーンを残しておく大切さ。   
 診察室の中に構えていて、相談にやって来るクライアントだけを診ている専門家が陥りやすい
落とし穴。それは、グレーゾーンが全く見えないこと。
 実際には、そういう場所には行かない人の方が多いのだが…。実際の教室や社会の中には、注
意・認知・衝動性・感覚・身体・かかわり・コミュニケーション・こだわり・感情・現実検討力
といった観点で一人一人を見れば、問題のある人はここかしこにいる。
 だからといって、そのすべてが発達障害児・者であるというわけではなく、日常的に「勉強が
できない」「そそっかしい」「人付き合いが悪い」「考え方がおかしい」「ワンマンだ」「引っ
込み思案だ」…と呼ばれているし、自分でもそう自覚している人ということだ。大学の研究室と
か、病院の診察室とか、発達センターと家との間を行き来し、学会で発表する論文や出版物の原
稿を書くことに明け暮れている専門家は、そんなところにばかり詰めていないで、学校や会社
に、勉強のための見学に行くべきだと思う。つまり、生身の人間を見る機会を設けるべきではな
いだろうか?
 で、それで、診断を下せと言っているのではない。要は、一人の一人中にいろんなものが交じ
り合っている“現実”を見て欲しいのだ。どこの国にも、国際的な診断基準では計り切れないさ
まざまな概念が、その国の事情に応じてできあがっているし、決してそれがなくならない理由
を、考えて欲しい。

 一人の発達障害児・者の中には、自閉症(PDD・AS)・ADHD・MR・発達性協調運動
障害の要素が少しずつ見られ、その重なり合い方がみんな違うし、症状としての表われ方もみん
な違っている。日本では、それをLDの概念の中に取り込んで発展して来た。ただし、非言語性
LDとか包括性LDと呼ばれてきた者の中には、明らかな自閉症児(PDD・AS児)がいて、
自閉症(PDD・AS)としての対応をすべきなのに見逃されてきたという欠点は確かにあっ
た。
 でも、だからといって、非言語性LDと言われている人たちをすべて自閉症(PDD・AS)
としてしまうと、別の問題が出てくる。中には、ADHDの方に近く、ADHDとしての対応を
した方が合っている人だっているだろうと思う。従って、「学習の障害」と「社会性の障害」と
いう分け方をするのなら、当然、自閉症(PDD・AS)とADHDとの中間状態・混合状態の
人がいて、その比率の問題で考えるべきことに配慮すべきだ。それから、発達性協調運動障害
(感覚統合やディスプラクシアの問題を持っている場合を含む)の合併の有無と、その比率の見
極めも重要になる。
 大まかな診断名をつけたり、定義付けをすることは大切だし、ハッキリとした鑑別が必要な場
合は絶対にある。でも、その上で、下位分類の概念の重なり合いの存在を認め、時にはその一つ
一つを分けて対応し、時には微細なものは切り捨てて対応することだって、必要なはずだ。つま
り、「いま・一番の問題は何か?」「いま・最優先してやるべきことは何か?」と考える視点を
失ってしまったとしたら、「発達障害への支援の制度化など、しなかった方がマシだ!」と言わ
れるような事態にだってなりかねないと思う。
[2003年3月30日 17時3分39秒]

テーマ: 脳ミソの棚。   
 一度に一つずつしかできない頭で社会で生活するためには、いろんな種類の脳ミソを棚に並べ
ておく必要がある。恐らく、一つの脳ミソには、回路が一つしかない。
 日常生活をするためには、常時2〜3の脳ミソを同時にはめていて、モードの切り替えをして
いる。一つは発達障害の脳ミソ、一つは子供会と学校関係の脳ミソ、外出時や外から電話が来た
時などに使う日常雑事の脳ミソ。それから、いつ来るか分からないので常に携帯してあるのが、
近所またはウチで発生する葬式に対応する脳ミソ(毎日、その兆候がないことを確認してはホッ
としている)と近々発生する災害に対応する脳ミソ(これは、24時間準備態勢をとってい
る。)
 その内、発達障害の脳ミソに仕事がいっぱい入っている時とか、子供会と学校関係に専念する
しかない時とか、日常雑事をしなければならない時は、非常に安定している。しかし、冬と春の
どちらに合わせたら良いのか分からなくて身体が混乱している(常に眠い)ところに持って来
て、学校も子供会も年度替わりの今の時期。しかも、今現在、発達障害の脳ミソ枠に入る仕事が
決まっていない。・・・と言うわけで、やることはたくさんあるはずなのに、「待つ」という仕
事で一杯になってしまっいて、何もできない。
[2003年3月29日 10時27分13秒]

テーマ: 布教精神の皮をかぶった帝国主義。   
 表面上は、「自閉症の支援」と書いてあるけれど、その文中の自閉症児・者の部分に「犬」と
いう単語を代入しても何の違和感もないものは、やっぱり何か方向が違っているような気がす
る。
 「こだわり」行動を自閉症児・者の文化として尊重しながらうまく利用するとか、問題行動を
減らし社会生活への適応を高めるために行動療法を行うというのなら、一人一人の行動観察を念
入りに行ってIEPを作成していると言って良いのだろうと思う。けれど、何かの方法論に当て
はめるために行動療法を用いるというのは、ほとんど侵略行為に等しいような気がする。
 そういう考え方が世の中に存在していることを知っただけで落ち込んでしまって、今日は丸一
日やる気がしない。
 「相手の文化を尊重している」という御旗の元に進軍し、その実、自分たちの価値観を押し付
けているだけというのは、布教精神の皮をかぶった帝国主義と言ってもいいのではないだろう
か?
[2003年3月28日 16時52分0秒]

テーマ: 飲み込めないという恐怖。   
 食べ物がうまく飲み込めない。難しい言葉で言うと、嚥下障害。
 子どもの頃は、よく「お茶で食べ物を流し込むな!」と怒られたものだが…。最近になって、
こういうこともやっぱり、筋緊張の問題とか、身体操作の連携プレーのまずさとか、要するに、
神経や筋肉などの身体的な発達のアンバランスによるらしいことが分かってきた。つまり、そん
なこと言われたってどうしようもないことで、怒られ損だったわけだ。
 で、発達がアンバランスなだけだったら、どこかで追いついて何の問題もなくなるはずなのだ
が…。どうやら遅れたまま止まってしまったらしい。と言うか、初めから弱くて、成長しても弱
いままのようだ。従って、そんな身体を何十年使っていてもいっこうに改善しないどころか、あ
る時期を過ぎると老化して行くだけになって当然なのだ。
 もともと低緊張の筋肉と機能が不全な神経が、エントロピーの法則に則って衰えていくので、
最近ではものを飲み込むことが怖くなってきた。だって、うまく飲み込めないまま途中で止まる
ので、どう考えたってまずいに決まっている。でも、子どもの頃とは違って、体脂肪とか余計な
水分もいっぱいたまっているので、そうガブガブとお茶ばっかり飲めるものではない。それで、
中途半端な大きさで飲み込まないように、すっごく気を使っている。

 こういう身体の内部で起こっていることは、目立たない、と言うより、他人からは見えない
し、常識では考えられないことだったりするので、ぜ〜んぜん分かってもらえない。
[2003年3月25日 22時56分21秒]

テーマ: な〜んて、えらそうなことを書いているけど…。   
いつも、2個ずつペアにして出すことにしているトイレットペーパーが、誰かが1個よそに持っ
て行ってしまったらしく、袋の底に1個しか残っていなかったことに怒っている。

                  とか

いつでも私が手を洗えるようにわざわざ2Fに流し台を置いてあるのに、ウチのエジソン君が毎
日いろんな実験(腐った液体を作る実験だの、トウガラシジュースを作る実験だの、使い捨てカ
イロの中身を固めて彫刻を作る実験だの、何だかんだ)をするお陰で、2Fの蛇口の私的ランク
が格下げになってしまったことを怒っている。←だからといって、ランクを上げるべく蛇口を除
菌してキレイにしようとも思わないし、わざわざ1Fに手を洗いに行かなければならなくなった
ことに対しては全く怒らない。

                  とか

今日の一番の用事は、「メールの返事を待つ」ことに決めたのに、全然メールが来ないことに怒
っている。


                                まあ、こんなものです。
[2003年3月21日 0時12分20秒]

テーマ: 何だかんだ言っても…。   
何だかんだ言っても、この国は、言語至上主義・身体無視・気力重視だから…。
言語至上主義⇒お喋りができることを賢いと思っている。それに、本音はどうでもいい。
身体無視⇒パーツが揃っていれば、使い方の問題だとしか思わない。
気力重視⇒頑張ればできる・やる気になればできる・実力はある、としか思われない。

人間は、一人一人、知能(言語性・非言語性)も、身体や運動機能も違っているし、そうした基
礎的な能力を活かせるかどうかも違っている。
なのに、何故か、[違っている=悪いこと]になっちゃっている!

「世界でたった一つの花」として生きていたいのに、どうもそれが社会に反映されない。
これは、小手先でちょっとやそっと部分的にいじったからといって、どうにかなるものではない
ような気がする。

発達上の障害があれこれあって、いろんなことに偏りがある長男が、来年は高校受験。
日頃、各教科では、本人の持ち合わせている能力でできるところだけをやるようにし、テスト時
には解ける問題を指定してそれだけやるという、ピンポイント作戦で何とか乗り切っている。入
試も、一芸入試のところを受ける。でも、内申点は、そこそこ取らせなければならない。
「もともと凸凹。なのに、渡る世間は□の世界。」「左脳社会を渡る右脳人間。」なので、綱渡
りの毎日。
[2003年3月20日 22時48分25秒]

テーマ: 時代背景の変化。   
 農業でも工業でも、「作れば売れる」という時代はとっくの昔に終わって、その次には「良い
ものを作らないと売れない」時代が来た。でも今は、「お客さんが望んでいるものを、
お客さんが望む形で提供し、お客さんを買う気にさせないと売れない」時代。
 このしわ寄せが、LDやASの人たちに確実に来ている。
[2003年3月12日 8時1分27秒]

テーマ: 告知にまつわる新たな問題。   
 最近になって、学校関係者が発達障害のことを知らざるを得なくなってきた。で、学校関係者
にとっては、新しい知識であり、それなりの対応をすれば行動が改善していく経験をするたびに
喜びを味わうことになる。
 しかし、発達障害のある人は、最近になって急にわいて出てきたわけではない。社会の中にた
くさんいる。中には、意識して克服してきた人もいれば、何故か分からないまま苦労を重ねてき
た人もいるし、すっかり自信をなくしている人だっている。
    発達障害児の親たちの中には、そういう人がたくさんいる。
このことを忘れてもらっては困るのだ。こういう人たちにとっては、新しい知識ではあっても、
それが決して喜びには直結しないということ、これを知らずしては、本当に知っているとは言え
ないのだ。
 そして、中には、「私の配偶者はどうしてこうなの!?」「私の子どもは、どうしてこうな
の!?−私には、サッパリ分からない!」という疑問を、長年に渡って感じ続けてきている人だ
っているのだ。しかも、それを親に告げようと張り切っている人自身が、発達障害をちゃんと分
かっていない。情緒障害の常識の上に、新しい知識を乗っけているだけ。或る意味では、これは
精神的な暴力に等しい。
 
 これは、もっと真剣に考えないといけないことだ。
[2003年3月1日 19時4分7秒]

※本人以外の書き込みはできません。
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