記事タイトル:2003年2月の『日記』 


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テーマ: 注)   
↓の事件は、ウチのことではありません。

 といっても、すれすれのことはずっとやって来ています。

 長男は、最初の幼稚園で登園拒否を起こし、どう見ても無理そうだし合わなかったので、正式
にやめました。(運動機能の遅れがありありと見えたので、2才児の体操教室に半年通った後、
小人数でイベントの少ない保育園に入り直しました。)
 小学校の時、身体症状が出ておかしいなと思ったので、こちらから学校を休ませたことがあり
ました。じっくり話を聞いたら、脅し事件があったことがわかり、先生と協議し、近所のしっか
りした子に護衛を頼んで、万全の体制をとって学校に行かせました。

 次男は、一年生の時は授業ボイコット常習犯でしたし、三年生(今年度)の前半までは、ほと
んど毎日のように「頭が痛い」「お腹が痛い」「耳が痛い」「足が痛い」と言っていましたが、
学校と別メニューでやっていた(勉強はフォローしているので、ついていかなくていいことにな
っていた)学習プログラムが学年相応のレベルに追いついてきたことと、行動療法と、自分の取
り柄を発見したことで、今ではなくなっています。
 確かに、上の状態は前駆症状ですが、明白過ぎる理由(ADHD/LD)があるので、るんる
ん気分で学校に行けと言う方が無理というものです。しかも、対人認知障害がひどかった頃は、
家に帰ったとたんに誰かの文句を言う毎日でした。その度に、人のとった行動の説明をし、自分
はどうすれば良かったか考えるようにしていました。

 就学前から分かっていて、学校との協力体制がバッチリできていても、手放しでは学校に行け
ない。本人の、学習・認知・感情・行動の特性と脆さがなくなることは決してないので、気を緩
めることはありません。そんなものです。
[2003年2月28日 22時20分20秒]

テーマ: 生き難くなってきた理由。   
 昔は、どうやって家が建つのか分からなくても、師匠に弟子入りして体で覚えて、立派な家の
建てられる大工さんになることができました。優れた空間認知を持っていることは、アカデミッ
クスキルの習得には妨げになるかもしれませんが、ちゃんと道が用意されていたのです。昔は、
学び方が違っていることには無知だったかもしれないけれど、生き方の違いは十分に認められて
いました。
 でも今は、高校や大学に行き、建築工学を学び、建設会社に入社します。そして、工場で一律
に作られた建築資材をマニュアルの順番通りに組み立てて、家を作る作業をします。毎日、膨大
な報告書も書かなければなりません。

どうして、こうなってしまったのでしょう?

もともと、こういう時代に合っていないからこぼれ落ちてしまうのに、どうして、追い討ちをお
けるように責めるのでしょうか?

前と同じように、発達障害の知識に基づいて、「直すより、慣れる」「責めるより、どうやって
付き合うか考える」ことを、きちんと考えていく時代にしてください。
[2003年2月28日 19時20分20秒]

テーマ: きっと…。   
アナタは、こういう番組は見ないと思うので、書いておきます。

『いきなり・黄金伝説』という番組で、今、たまったゴミを片付けられなくて、自分も近所の人
たちも困っている人たちの家を訪れて一緒に片付ける企画をやっています。
県や市の職員がやって来て、「危険だし、みんなが迷惑をしているから、早く片付けなさい!」
と言うとものすごい剣幕で怒っていた人が、ゴミバスターズの人たちに「自転車が好きなんです
か?」と聞かれたり、「たいへんですね、一緒に片付けさせてください」とお願いされると、一
生懸命に片付け作業を始めます。

アナタのやったことは、この↑の“県や市の職員”と同じです!

一度、ゴミバスターズに入って、修行したほうが良いかもしれません。
[2003年2月28日 18時55分34秒]

テーマ: 或る公共機関の、或る役職のアナタへ!   
発達障害の家族に、情緒障害の常識を振りかざして説教するのは、やめてください!

最近になって急に発達障害のことを知ったからといって、生半可な知識を振り回すのは、やめて
ください!!

今まで、発達障害と知らずに格闘してきた家族や、どうしようもない情緒的な問題で苦しめられ
てきた家族の心情を全く考慮せずに、「お宅のお子さんはADHDです!」とか「不登校は、親
に責任があります!」などと軽はずみに言うのは、やめてください!

アナタ方は、人を育てる仕事をしているのではないのですか!?

これは、権力と知識をかさに着た暴力です!
[2003年2月28日 18時11分40秒]

テーマ: 格差。   
 最近、恵まれた人とそうでない人の格差が、どんどん拡大しているような気がする。
 恵まれているのは、才能であったり、育った環境であったり、今現在置かれている環境であっ
たりするのだが、世間というのは残酷なもので、恵まれているが故に良好な状態にある者はどん
どんもてはやすので、恵まれていない者は置き去りにされていく。そんなの、絶対におかしい。

 また、WISCやK‐ABCで調べられる特性に応じて、もてる力を最大限に活かせるように最善を
尽くしたとしても、メタ認知・メタ記憶・メタ言語の能力はほとんど変わらない。
 療育によって改善して行く場合とそうでない場合があるのは、ここのところの違いだと思う。
それは、才能や環境によっても補償されることのないものの一つだ。
[2003年2月23日 14時5分38秒]

テーマ: 引き算から、足し算へ。   
 子どもの発達や性格について何も心配していない親は、あまりいない。でも、たいていは、
「(実際にできていたかどうかとは別に)自分が子どもの時には、大人にこう言われた」とか、
今まで社会生活を送って来た経験と照らし合わせて「こういうことができていないと、社会的に
困る」とかいうことを基準にして、そこから引き算をしていることが、とっても多いように思
う。
 子どもに発達障害があることを知らなかったりその事実を認めようとしない時期の、発達障害
児を育てている親は、上と同じことをやっているものだ。が、子どもの方に“できないこと”が
あまりにも多いので、子どもとのズレが広がっていくことと、自分が一人前の親でないからこう
なったのではないかと悩むことになってしまう。そして、かなり後になって、発達障害のことを
知って、今度は自責の念で悩んでしまう。
 
 そろそろ、この悪循環を断ち切った方が良いのではないかと思う。つまり、どんな子どもで
も、できないことを叱るのではなく、できたことを誉める。
 そうすれば、発達障害児を育てている親ほど、ほんの些細なことができるようになる喜びをた
くさん味わえるようになると、思うのだが…。
[2003年2月18日 10時13分39秒]

テーマ: そもそも…。   
 「私は、新薬が効きすぎるので、常用量の半分でいい」なんてことを言うだけでも、一苦労
だ。効き過ぎたり副作用の眠気が強かったりすることに警戒して、耳鼻科で処方された薬を半分
の量しか飲んでいなかったのに、動機がして軽い痙攣が起きたので説明書を読んだら「飲みすぎ
ると心臓に負担がかかることがあるので、定められた量を守りましょう」と書いてあったりす
る。
 そもそも、普通の人は一日6錠まで飲んでいいソラナックスが「一日1/4錠で効いて、状態
に合わせて1/4×4まで増やすことがある」ことをこちらが薬剤師に説明するのだが、薬剤師
の方はあくまでも「オレの方が専門家だから、オマエより良く知っている」という態度を貫こう
とする。
 今の日本の、科学的な常識として想定されているニンゲンの範囲を越える事実を説明する、と
いう闘いの最前線にも置かれているわけだ。でも、私が、他の病気になって、意識がなかったり
口が利けない状態で病院に運ばれた場合、間違いなく常用量の薬を投与されるだろう。それで、
その薬に殺される可能性だって、十分にある。
[2003年2月17日 8時16分37秒]

テーマ: 二つの壁。   
 「私はこういう人なので、こうして欲しい、でも、こういう良いところがあります。」という
自己紹介の仕方がまかり通る国の話を読むと、確かに自信回復にはなる。しかし、だからといっ
て、自信を持ってこの国の壁と闘っていけるかというと、そうはならない。
 そもそも、子どもに何らかの発達障害があると宣告できるのは、親自身が何らかの疑問を抱い
て児童精神科を受診したケースだけだ。乳幼児健診で引っかかろうと、学校のスクリーニングで
引っかかろうと、明らかな問題行動を起こしていてさえも、「ウチの子は正常だ」とか「オレの
言う通りに(自分の手持ちの考えに従って)やればいい」と言い張る親がいることに考慮しない
といけない。
 だから、発達障害のある子どもを持っていて、自分自身にも発達障害があると自覚しているウ
ェンディ・ローソンさんやリアン・H・ウィリーさんのような親が、非自閉症の研究者や関係者
は宣伝がうまく、世間的に高い評価を受けやすいことに警戒しながら発達障害の理解を深めるた
めの活動を積極的にやっていくことには、大きな意義がある。(まあ、日本には、そういう人た
ちの活動を後押しする、アトウッド先生のような実力者がいないので、潰されるだろけれど。)
[2003年2月17日 7時53分14秒]

テーマ: 一人前。   
誰がやっても同じ、特に成功も失敗もしない同質の“例年通り”の行事をずっと続けて行く。 
前の人がやっていたことをやらないと、面と向かっては言わないが陰で批難する。
でも、毎年メンバーが変わるし、毎年なにかしらの問題が起きる。
それに、けっこう、もたもたしていてその場で不満が噴出したりする。
しどろもどろでも、つっかえつっかえでも、何か言われても、とにかくやればいい。
責任者が、やると言ってやらなかったり、気配りがなかったりするのはザラ。

できないことがあっても、ドジなところがあっても、言わぬが花。
こういう風にして、何となく過ごしていることを、平穏無事と言うらしい。

そこで、わざわざ「私は、これこれこういう理由(障害)があって、○○できません」と宣言し
ても、「自分自身の特性と、自分をうまく活かす方法を知っていて、偉い!」とは、誰も言わな
い。かえって、何も言わずにいる方が、波風が立たなかったりする。それが、この国での処世術
だったりするのだ。

欧米と違って、この国で自分に何らかの発達障害があると知ったからといって、社会的には何の
メリットもないのは、こういうところに根本的な原因があるのかもしれない。
[2003年2月16日 22時6分7秒]

テーマ: 遺伝子との闘い。   
 自分自身が自分の家系の遺伝子と闘うのは、容易なことではない。自分の血の中の遺伝子と闘
って、克服することで現在がある人もいるけれど、まずたいていは、同じ遺伝子を引き継いでい
るので、自分の家系の持っている問題点に気づいてもいないことが多いから。
 子育ての半分は、自分の遺伝子との闘いだが、半分は自分の家系のものではない遺伝子との闘
いになる。自分自身の遺伝子との闘い方を知っている人は、自分が工夫して来たことのすべてを
子どもに伝授しようとするだろう。しかし、そこで直面するのは、自分の家系のものでない遺伝
子。そして、その遺伝子の存在に全く気づいていない、一つの家系の人々。
 未熟な子どもを、完全な親が育てている、なんてことはまず有り得ないので、一人前の社会人
にするために、塾・習い事・スポーツ少年団といった外来の力を最大限に利用すべきだと思って
いる人も、いるかもしれない。でも、そのための資金を稼ぐことが親の使命になってしまった
ら、ちょっと違うような気がする。これは、自分の家系の遺伝子の、悪い面を増幅させる悪循環
を断ち切るための一つの方法ではあるだろうが、親が子どもを育てるために、主導権を持って外
部の力を利用しているのではなく振り回されているでけなら、子どもが感じるのは疎外感だけに
なってしまうから。

 ちなみに、私は、自分の親が、子どもを養うだけで“育てていない”ことや、二人の子どもが
それぞれに発達障害を抱えていたのに全く適切な対応をせず、完全に逆をやって、骨抜きにして
いたことに気づいていたわけではなかった。
 親はただ体を生み出しただけで、自分を本当に育ててくれたのは、寺の老師と堂長さんだっ
た。私は本当の意味で家を出たので、自分の家系の輪廻は断ち切った。それで、親が自分にして
くれなかったことを、自分の子どもにやってきた。

 しかし、自分の家系のものでない、どうしようもない遺伝子、しかもその家系の人々全員が、
全くの無自覚。これとも闘うことになるなんて、全く予想していなかった。

 この闘いの中で分かったのは、今の日本で起きている問題は、子どもが何らかの精神科的な問
題を抱えていることに、親が気づいて病院に連れて行き、医学的な治療を施せば解決するという
ものではないのかもしれないということ。
 自分自身の現実に向き合い、そして自分以外の人と付き合っていくソーシャルスキルを身につ
けるトレーニングを全く受ける前に、「恥をかかない」「勝ち組みにならなければ負け組みであ
る」というような価値観の重圧から、“人を恐れて生きる”ことしかやってこなかったツケが回
ってきていることが、最大の問題点なのではないだろうか?

 この国の人たちが今までやってきたことというのは、人が恐いから、“一人前”と呼ばれるよ
うに一生懸命に背伸びをして必死に付いて行くことだけ。本人自身は、低すぎる自己像か、高す
ぎる自己像しか持てていない。しかも、その自覚が全くない。それがまず、身体症状に現われ
る。それでも気づかない。精神的に破綻して、初めて自分自身の現実に向き合う。
 それで今度は、人が恐いから、人のいるところには出て行けなくなる。しかし、周りはもっと
無知なので、それでも考えを変えようとしない。ますます本人を追い込んで行く。 

 これは、或る家系の遺伝子との闘いではない。民族の遺伝子との闘いなのだろうな、きっと。
[2003年2月16日 11時51分49秒]

テーマ: 中は、ドロドロ。   
 発達障害の人は、どこにでもいる。
 かなり多くの人が、精神的にがけっぷちの状態にある。

 このことを直視しようとする欧米とは違って、日本社会というのはこの事実にフタをすること
で団結している社会なのではないだろうか?
 これを知ってしまった人は、社会の裏側(歪みの部分)がくっきりと見えてしまう。だいた
い、表でつじつまを合わせているけれど、裏はドロドロだから。
 で、誰もがうすうすと感づいていながら覆い隠していることを、ハッキリと口に出して言った
その人が嫌われる。つまり、それは、表のつじつま合わせに失敗したことを認める(=集団から
落伍する)ことを意味するに等しいということ。

 この社会で、これだけベチャベチャしゃべっているというのは、もしかしてすごく危険なこと
かも知れない。まっ、いいのだ。どーせ、初めから入っていないから。
[2003年2月15日 22時35分42秒]

テーマ: なぜか???  2   
 なぜか、人は、やる気のあるメンバーが(つまり、持ち回りの強制でないメンバーが)何人か
で集まると、「自分がボスだ!」と言いたがる人が、必ず現われる。・・・自閉症者の場合は、
そういう言動をするとそう解釈されることが全くわからずにズケズケ発言してしまって、ボコボ
コにされる(なぜだーーーー!!)
 それで、ボスになりたがる健常者が、やたらやる気を出してバリバリ活動をし始めると、他の
ボスになりたがる健常者がおもしろくなくて対立することもあれけれど、多くの人は、そのボス
に対して何らかの役に立つ仕事をして一人前と認めてもらいたいという気持が自然に出てくると
いうのが、これまた非常に不思議である。・・・自閉症者の場合は、他人が自分を不愉快にさせ
る態度を取ると非常に怒るけれど、自分のこだわっていることが仕事として活かされるかどう
か、それに価値を認められるかどうかが問題であって、自分自身の存在がその集団にとって一人
前と認められているかどうかには興味がない。
 しかし、自分自身に実力がない健常者ほど、“力”を誇示したがるのを見ていると呆れてしま
う。威張ってみたり、ひがんでみせたり、暴言をはいたり、金で吊ったり、暴力に訴えたり…。
どうして、こんなことするんだろうと思う。
 自分の手持ちの方法が役に立たないと(つまり、自分の限界を)知った時に、その事実を認め
られるかどうか、自分より実力がある人を素直に尊敬できるかどうか、新たな知識を学んだり誰
かの意見を聞いたりできるかどうか、これが、その人の人間性なんだろうな。で、これが、精神
的に健常ということなのだろう。
[2003年2月15日 9時55分12秒]

テーマ: なぜか???   
 人は心を病むことがある生き物だということがわからない、と言うより、明らかに精神的に病
んでいる人が目の前にいて、しかも自分がその人を追い込んでいるというのに、一向に自分の接
し方を変えようとしない人は、なぜか、ちゃんとした社会生活をしていて一人前と呼ばれている
男の人に多い。
 明らかに今までと様子が違う人が目の前にいても、その事実を認めようとしない。これが分か
らないなんて、よっぽど目が悪いんじゃないかと言いたくなるくらいにハッキリと違うのに否定
できるなんて、すごい根性の持ち主だとは誰も思ってはいない。それがプライドであることぐら
い、誰の目にも見え見えだ。
[2003年2月14日 18時24分7秒]

テーマ: ある学校の関係者の方へ!   
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここで言う学校の関係者というのは、ある特定の学校の関係者のことです。また、このケース
は、ある特定の家族のことです。インターネット上で知り合った方のことではありません。
※これは、発達障害による不登校ではなく、一般的な意味での不登校です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 文部科学省が、不登校を減らすようにという通達を出したそうです。
 しかし、育ちや家族間の問題があって、自己像と現実の自分とが乖離してしまったことが原因
で心身症を起こしている子どもは、単に学校や学校で起きたことが原因で学校に行けなくなるも
のとは明らかに違います。
 確かに、育ちや家族間の問題があるのに一日中家にいるのでは、もっと状態を悪くしてしまう
からと、積極的に学校に来るようにと声をかけているのでしょう。
 でも、子どもをこういう状態に追い込んだ人というのは、子どもがこうなっても自分自身の今
までのやり方を反省することをしません。今まで自分の子どもを追い込んできた言葉と同じ言葉
を毎日のように掛け続け、しかも、学校に行っていないことや態度が悪いことを、強い口調で責
めてしまっています。つまり、ますます学校に行けなくさせてしまっているのです。それで、こ
の子には、対人恐怖や被害妄想などの傾向も出てしまっています。
 学校では、本人が負担に感じていることをすべて取り除いたので、学校を恐れる理由はなくな
ったと思っているようですが、高くなっているのは学校の敷居ではありません。これは、本人自
身の心の問題です。
[2003年2月14日 13時43分53秒]

テーマ: 疑問。   
基礎もないのに、「こうすれば・こうなる」というハウツー式の知識が増えて行くことを、
“普及する”とは言いません。

「これを持っている人には、それなりの対応をする」ことが保証されているという意味の
“手帳”を交付されるのでなければ、意味がありません。
(現状では、「この手帳を持っている人を、差別してください」になっていないだろうか?)
[2003年2月13日 7時41分40秒]

テーマ: 錠剤記念日。   
 いつもの耳鼻科ではなく、内科で風邪薬を処方してもらった長男。耳鼻科には、粉薬でないと
飲めないと言ってあるのだけれど、内科に言うのを私が忘れたので、錠剤が出た。薬局で受け取
る時に見たら、何とかなりそうな大きさだったし、つぶして粉にすれば同じだと思ったので、そ
のままもらってきた。
 頭から「飲めない」と思い込んでいた長男は、案の定、パニくって泣きっ面になった。昼は、
それで諦めた。でも、夜になって、「いつかは、錠剤を飲まなければならなくなること(錠剤の
形しかない薬が多いこと)」「やってみようともしていないこと」「食道の直径に対して、薬は
十分に小さいこと」「もっと大きなアメを何度も飲み込んでいること」を説明した後で、いつも
栄養補給のために飲んでいるドリンクゼリーの口の中に錠剤を入れて、普通に飲むように言った
ら、あっさり飲めた。
 「飲めた!」「飲めた!」と大騒ぎで、さっきまで1時間ほど興奮していた。それで、錠剤記
念日。
[2003年2月10日 21時57分51秒]

テーマ: タイムアウトの使い方。   
 タイムアウトを、罰(おしおき)だと思っている人がいるかもしれない。自分の言いなりにす
るための方法だと思っているなんて、言語道断。これは、“気持の切り替え”のトレーニング。
 長男は、その間に、自分なりの気持の切り替え方を発見した。これは、三年前(小6)のこ
と。それは、自分を落ち着かせる方法になっている。
 といっても、一時、それが習慣化して、「落ち着くから」といって、他のことに集中しなけれ
ばならない時でも、ちょこちょこちょこちょこそれをやるようになってしまったことがある。つ
まり、感覚的のめり込みでしかない“一次的強迫性”に戻ってしまった。それで今は、やるべき
ことをやった後にちゃんとした時間を作って(と言うより、それをやりたいがために、やるべき
ことを集中してやった後に)キッチリやるようにトレーニングしている。
[2003年2月8日 20時58分2秒]

テーマ: 療育の成果???   
 発達障害者には、どう頑張ったってできないこと・わからないことがある。 
 そして、その事実を知れば知るほど、その事実を認めようとしない人もいるが、自覚すればす
るほど依存的になることもある。
 それを、うまく利用しながら、動機付けをし、自己コントロールができるような方向に持って
行くのなら良いが、「我々の療育の成果である」などと宣伝材料にしたり、本人の自由を奪うた
めに悪用するのは、絶対に赦せない!
[2003年2月8日 18時5分16秒]

テーマ: 学校では、絶対に教えないこと。   
 ニンゲンという生き物の中には、本当に肉塊と言ってもいいくらいの、物欲と性欲しかない人
種がいる。こういう人種のことは、どの教科書にも書かれていないが、テンプルさん(意識して
避けてきた)とリアンさん(生まれてこの方、ずっと頭の良い人にのみ囲まれてきた)以外の女
性自閉症者の手記には、必ずといっていいほど登場する。
 一方、世の中には、「性」という売り物が氾濫している。近所の酒飲み連中は、旅行といえば
必ず酒が飲めるところに行く。夜は、女遊びをするそうだ。
 学校の教科書には、こんな“世の中”のことは、一言も書かれていなかった。こんな“世の
中”にいられることを“適応”だなんて、軽々しく言わないで欲しい!
[2003年2月8日 17時59分3秒]

テーマ: もっとも…。   
 日本の社会には、(1)から無い。
[2003年2月8日 17時48分31秒]

テーマ: 認識の甘さ。   
 最近、次男の衝動性、長男の不注意症状の重さが目立ってきた。で、今のところ、周りの人た
ちとの関係が良好なので何とかなっているが、エジソン君(次男)の研究は次第にエスカレート
して危なくなってくるし、長男は1年後に高校受験という客観的な評価が待っている。
 それで、こういうことを単に良い面としてだけとらえると、“社会的な誉め殺し”にしかなら
ないし、「この子は実力を持っている」なんていう生半可な考え方をして、その実力が活かせな
いところに障害があることと、実力に見えているけれど内容が伴っていないことに気づいていな
い教師の価値観が、社会に通用しない子どもを育ててしまっていることを、いい加減に反省して
欲しい。(だから、学校の常識は、世間の非常識と言われるのだ。)
 そうならないためには、下のことが必要。
(1)まず、これらは“障害”であることを認めること。
(2)“障害”のために、人と違う取り柄がある反面、“障害”のために、できないことがある
   という事実を認めること。
(3)本人自身が身につけなければならないスキルがあるので、療育が必要なこと。そして、そ
   ういう自分の特性を本人が知っていた方がよい場合があること。ただし、告知できないケ
   ースもあるし、話を持ち掛けただけで怒ってしまう親御さんが多いことにも配慮が必要。
(4)更に、そういう“障害”のある人として、周囲が接し、環境を整える必要もあること。大
   丈夫だと思われてしまうと、後になって困ることが出て来ること。
(5)自分でコントロールできて、自分から環境を改善していける段階になったら、支援中心か
   ら、共存の関係になれること。

次男の小学校は随分進んでいるが、長男の中学校では(2)から下がない。
[2003年2月6日 8時30分32秒]

テーマ: 子どもという社会人   
 「子どもは子どもだけれど、子どもという社会人である。」

 この観点が、ここ数十年の日本(戦後の日本)には決定的に欠けていたのだと思う。
子どもは、「勉強が仕事で、まるで王様のように威張り、個室で自由にできる」のに、大人にな
るとその生活は一変し、社会的責任が一気にのしかかってくる。
 子どもは、この子ども時代のモラトリアムを十分に満喫し、しかも、大人になれば急に「大人
としての常識」に染まる…、はずだと思われていた。ところが、健常と呼ばれている人たちの中
にも、この急激な変化に耐えられない人や、モラトリアムの引き延ばしをする人が、たくさん現
われるようになった。
 「子どもは子ども」としてしか扱わないか、「最初から大人になること」を要求するかのどち
らかという子育ての在り方は、根本的におかしいと思う。「子どもという王様」になってしまっ
た子どもたちは、イヤなことはしたくないし、上手くいかないとわかっていることは回避する
し、自分の思い通りにならないと怒るようになる。「大人であることを要求された子ども」は、
子ども時代が永久に訪れないまま、アダルトチルドレンになる。

 それで、これではマズイ!ということになって、慌てて、「地域で子どもを育てよう」とか
「ボランティア活動を義務付け、単位として認めよう」と言い出しているようだが、こんなのは
根本的に間違っている。
 これは、外から形式的な圧力をかけることではないのだ。つまり、「中学生になれば、自分の
ランチ=サンドイッチは自分で作って当たり前、ボランティア活動やアルバイトをして当たり
前」というアメリカのように、社会全体が社会人としての子どもを育てる態度を持っていなけれ
ば、何の意味もないことなのだ。社会人として一人前に通用するために、習い事をさせたり、ス
ポーツ少年団に入れて社会の厳しさを教えてもらい、躾もしてもらおうなんていうのも、その態
度がなければ本末転倒と言える。

 健常と呼ばれている人たちは、それでもどこかで挽回できるのだろうと思う。が、そうはいか
ないのが、発達障害児なのだ。「自分が生きている限りは、この子の面倒を見る。でも、その後
は誰かにバトンタッチすれば良い」という態度で育てられたのが、昔の考え方。でも、こういう
“厄介払い”思想は、誰も幸せにしない。“親なき後”を見越した子育て、社会的自立を目指し
た子育てを、最初からしなければならない。
[2003年2月3日 8時0分50秒]

テーマ: おまじない。   
こういうもの
を読んだからといって、この国ではどうにもならない。

 今までは、「徳あるは誉むべし、徳なきは憐れむべし」という経文の一説を心の支えにし、絶
対にいつか(生きている間とは限らない)天罰が下ると思ってしのいできた。しかし、本当にバ
カにことに対しては、「バカヤロー!!!!」と思って良いことを知った。
 しかも、これをおまじないのように、頭の中でグルグル唱えていれば、「何が・どう・バカバ
カしい」のか、考えなくてすむ。と同時に、言いたいことも(声に出さずに)言っているので、
ストレスを貯めずにすむ。“のほほん族”を家中に置いておくというのも、なかなか効果的。あ
の笑顔と揺らぎに同化して、何を考えていたのか忘れてしまうから。
[2003年2月2日 10時23分27秒]

テーマ: 立志の言葉。   
「○○になりたい、そのためには、△△を伸ばしたい!」
         と書かないのがとっても不思議な、この国の常識。

「○○になりたい、そのためには、身の回りのことをきちんとしたい。」
「○○になりたい、そのためには、人の話がきけるようになりたい。」
「○○になりたい、そのためには、提出物をちゃんと出すようにしたい。」
「○○になりたい、そのためには、苦手な××を克服したい。」
「○○になりたい、そのためには、みんなで仲良くできる人になりたい。」
(ちなみに、これを言った生徒たちは、ADHDでもASでもない。)

 この国で、「○○になりたい」と思ったら、身の回りのことがきちんとできて、人の話を聞け
て、提出物をちゃんと出せて、苦手を克服して、みんなで仲良くできる人にならなければいけな
いようだ。

 しかしもある父兄の曰く、「なりたいものにはなれない時代だよ。」

 就職しなければならなくなった時点での成績と相談して、とにかく、入れるところに入るしか
ない! これが、この国の現状。
[2003年2月1日 18時15分5秒]

テーマ: スモールトーク。   
 モノの本には、ソーシャルスキルの一つとしてスモールトークの方法が書いてある。天気の話
をしたり、テレビ番組や趣味を話題にするというものだ。
 で、それは、仕事上の付き合いで、挨拶の一部としてする時には有効だ。仕事といえば、接客
だけでなく、同僚や上司との挨拶も必要だが、同じ職場で数時間を過ごしている人同士なら、
(一人一人の好みや相性を読まなければならないということを抜きにすれば)ある程度の共通の
話題もあるし、すぐに仕事の話に持ち込めば良いので、比較的楽だ。プライベートの場でも、久
しぶりに会う親戚や、まったく知らない人ばっかり来るのだったら、仕事の話で間に合うから、
これもあんまり恐くない。
 問題は、職場や学校の忘新年会、こういうのは、ニンゲンテキにどうかと思うような下らなさ
を、どうにかして欲しい。それから、普通なら情緒的な感慨ひとしなはずの人生の節目の行事だ
と、分かち合う心情がないので、お手上げだ。
[2003年2月1日 18時3分1秒]

テーマ: 発達性協調運動障害。   
 発達性協調運動障害は、れっきとした障害だ。いや、障害として認知されるべきだ。それか
ら、世の中の仕事のほとんどは身体を使わずにはできないし、実際に体を張ることが信用を勝ち
取ることとイコールだったりするので、一定水準を超えるものは福祉(といっても、必ずしも年
金を支給するということではなく、就労支援も含める)の対象になってしかるべきだとも思う。
だって、それが原因で就労できなかったり、仕事が雑だとか怠けていると言われたり、長続きで
きなかったりするのだから。
 生得的なものであるという意味では、病弱児と同じかもしれない。けれど、発達性協調運動障
害があるからといって、しょっちゅう病気になったり怪我をしたりすることもないので、回避す
る=サボりとしか思われない。それに、あっちこっち痛みを訴え、疲れて寝込んでも、医学的に
は何もないので、気のせいだと言われ続ける。(もっとも、病人・怪我人・虚弱者を“ゴクツブ
シ”と言って厄介モノ扱いする文化的な土壌の上では、障害と認定されることが本人の福利に直
結する保証もないのだが…。)
 しかも、なわとびや鉄棒ができるかどうかといった表面的な表れでは、これを測るのに不足
だ。もっと基礎的な神経学的なソフトサインや、筋緊張のレベルなどを測定する必要がある。
 だって、体育の授業をうまくすりぬけられたとしても、また、ある程度は感覚統合訓練やムー
ブメント療法などで改善できたとしても、熱生産と体温調節のまずさが根本的に改善されるわけ
ではないし、低緊張が目の筋肉で起これば眼精疲労になるし、何をするにしても過度に力を入れ
ないといけないために過緊張でガチガチになるところは、どうにもならないから。
 それから、階段を、壁や手すりにつかまりながら決死の覚悟で上り下りしていても、傍目には
分からない。更に、その同じ人が一段抜かしの感覚を覚えてひょいひょい登っていたりすると、
成長して運動能力が改善されたみたいに思われてしまって、感覚が戻せないという重大問題を抱
えていることは絶対に気づかれない。
[2003年2月1日 11時50分42秒]

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