記事タイトル:2003年6月の『日記』 


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テーマ: “違い”を認める、ということ。   
 これこれこういう障害があるから、「こうして欲しい」「こうすべきだ」「アメリカではこう
している」「この人はこうしてもらっている」と本人が思っても、100%満足できるように他
人が変わってくれるなんていうことは、絶対にありえない。
 それ以前に、認知の偏りや誤りがあることもあるし、思考の柔軟性に欠けていることもある
し、他人の心情が分かっていないこともある。これらのことは、療育の対象になる。けれど、学
習面・心理面での療育が完璧に行われたからといって、すべての人が分かってくれるわけでもな
いし、すべての環境を自分に合わせることもできないので、100%の満足もありえないという
ことだ。それは、どんな人にとっても同じことだ。
 
 それから、50⇔50で交換する、つまり「○○をやってやる代わりに、××をしてもらう」
と考えるのでは、常に不満が残る。特に、「自分にできないことをやってもらう代わりに、自分
にとっては耐えがたい苦痛を感じることでも我慢する」という、“できないこと”と“イヤなこ
と”とを天秤にかけられてしまうのでは、精神的に良いわけがない。
 いや、50⇔50で交換するというのは、本来、「自分にできないことをやってもらう代わり
に、自分にできることをやる」そして「お互いに、その仕事や能力を認め合う」ものだとは思う
のだけれど、そんなうまい交換条件ばっかりは転がっていないのが、この世の中なのだ。それど
ころか、たいていは、「全然できないことと、ちょっとはできること」の交換だったり、「もの
すごくイヤなことと、何とか我慢できるイヤなこと」の交換だったりするものなのだ。
 まあ、療育の過程で選択肢を提示する時には、これを上手に利用していることが多いのだ
が…。やはり、最終的には、「イヤなことでもやる」「やりたいけれど我慢する」「できること
でも、やれない場合がある」ことを納得しなければ、ストレスを貯めて行くだけにもなりかねな
い。それから、「自分にできないことは、誰かがやるのが当たり前」だとも思ってはいけないけ
れど、「自分ができないために、人に迷惑をかけている」と思い過ぎるのも、良くない。

 目に見えない“違い”を、理屈で説いても分かってはもらえないし、たとえ“違い”が分かっ
たとしても、感情がついていかない人が多いし、「こうすればいい」と分かっても能力的・経済
的に余裕がなければ実行できるものでもない。
 とかく、できないことをやらされたり、いやなことでもやらなければならない世の中なので、
せめて、「自分には全くできないこと」「自分がやると、損失や危害を与えてしまうこと」「や
ると自分の精神や身体が壊れること」は把握して、回避するか被害を最小限に食い止めるための
方法を身につける必要はあると思う。
[2003年6月27日 11時36分25秒]

テーマ: 自分自身の受容過程。   
 今朝、新一年生のお母さんが2人、子どもたちの登校を見送った後に、感情表現たっぷりの
顔・身振り手振り・声の抑揚と共に“気持ち”をお互いに訴え合っては、不安そうにしたり大笑
いしている光景に出くわした。どちらも、PTA関係の用事があって個別に話す分には、それほ
ど違和感を感じない人たちだ。
 その間で交換される情報はごくわずかで、内輪で心配しているよりも先生にでも聞いて確認し
た方が確実じゃないかと思うような事柄なのだが、きっとあの人たちは、こうやって人と接して
いたいし、そうすることで安心したいのだなぁと思いながら、朝の挨拶だけしてそばを通りすぎ
た。
 こういう光景は、どこへ行っても見られるもので、特に珍しいことでも何でもない。そもそ
も、教室の中で、「なんという、バカバカしくて無駄なことをやってんだろう!?」「あんなこ
とをして、何が楽しいんだろう!?」と思いつつも、そうしないといけないのかなぁと見よう見
真似で私がやると、サッと引かれたり怒られたりして、わけがわかんないものだった。

 これを冷静に見られるようになるまでに、今の今まで以下のような過程があった。
(1)自分が違っていることに、全く気づいていない状態。
(2)違っていることには気づいたが、何がどう違うのか、サッパリわけがわからない状態。
(3)違いに気づいて、世の中間違っていると怒っていた状態。
(4)違いの原因が分かって、ショックを受けたり、怖くなってしまった状態。

 違っていることに本当に納得して、どっちもどっちだなぁと思えるようになるには、ものすぐ
く時間がかかってしまった。
 私と息子の違いは、療育の成果で何かが変わった・できるようになったということではなく
て、私が到達したところから息子が出発しているというところだと思う。

 息子の方は、注意や身体や学習の諸問題を抱えながら、入れる高校があるかどうかの瀬戸際と
いったところ。もっとも、学習面だけ考えれば、今では選択肢はいくらでもあるが、今現在なん
とか維持できている“人との関係”を断ち切らないようにすることの方が大事なので、仕方なく
発破をかけている。
[2003年6月26日 8時48分44秒]

テーマ: 「共生」   
すべての人が理解できるわけでもなく、すべての環境を変えることもできない。
大切なのは、変えることではなく、いかに付き合い・いかに付き合わないかということ。

そのためにも、
違いに気づかない人・違いを認めようとしない人・違いを理解しようとしない人を、
                               なるべく減らしたい。

それから、本人自身が、
違いに気づかずに的外れなことばかり繰り返してしまったり・自分をダメだと思ったり・
とにかく同じになりたいと思って、自分で自分の首をしめてしまわないようにしたい。

「共生」に必要なのは、本人の不都合をできるだけ減らして、「障害」にしないこと。
そのための、
憐れみや差別でない「支援」・矯正のためではない「教育」・困難を認めた上での「福祉」。

そして、
不都合の痛み分け。

ギブアンドテイクではなく、“お互い様”ということ。
[2003年6月26日 7時50分16秒]

テーマ: 誰も手をつけない問題。   
「こうしないと、こうなりますよ!」と書いた本はたくさんあるのに、「こうなっちゃったら、
どうするか?」という質問に答える本は、あまりない。
[2003年6月24日 8時51分30秒]

テーマ: 「ここ」ではない「ここ」。   
「ここ」ではない「どこか」ではない。「ここ」ではない「ここ」のことだ。

発達障害のことを世の中が知ることで、ただちに居場所ができるのではない。

自分が周りの人たちと違っていることを自分自身が諒解し、かつ、その“違い”を分かってくれ
る人に出会った時、そこに居場所ができる。

居場所は、物理的にはどこか遠くにあることもあるだろう。しかし、自分が自分自身を知ってい
ることが、最後の決め手となる。つまり、自分のいるところが居場所に変わるのだ。

その居場所を見つけるためのセッティングは、誰かにしてもらう必要があるだろう。

発達障害が知られるようになると、理解してもらう可能性のある人の総数が増える。
そして、そのための「場」も増える。
「場」が増えると、自分に合った人と出会う「場」が見つかる確率も増える。

ただし、「ここ」ではない「どこか」を探し続けている限り、「ここ」は決して居場所にはなら
ない。
[2003年6月23日 20時16分20秒]

テーマ: 人に「かかわる」ということ。   
 人は、〈社会〉という〈群れ〉を作って生存している。〈社会〉という〈群れ〉の中にいる人
は、〈社会〉に〈群れ〉ていないと安心できない。しかし、そのために、〈群れ〉の成員たちと
の上下関係や力関係や利害関係のしがらみに縛られる。
 だからこそ、同じ感覚を持っている人・同じ考えの人・同じ経験をしている人たちとの間で、
同じ感情を「分ち合い」たいと思うのだろう。実際、そういう〈仲間〉関係を作り維持する能力
も備わっているし、そういう〈仲間〉たちを精神的支柱にして生きることができるのだろう。

 その〈群れ〉から離れて生きていくだけの生命力はないが、上下関係や力関係や利害関係に基
づく「押し付け合い」を嫌い、集団の意向に従わうことをせず、恥をかいたり非難されることを
恐れない態度を貫いている人々、つまり、〈社会〉的存在であることを拒否する人々がいる。
 〈社会〉的ではないが、〈群れ〉の成員であることに変わりはないこれらの人々には、いくつ
かのタイプがあるようだ。
1、自力では〈群れ〉に入ろうとしないため、動機付けが必要なタイプ。
2、〈群れ〉に入りたいのに、社会的・身体的な発達の特異性のために入れてもらえなかった
   り、入っても関係を維持することが難しいタイプ。
  ※そのことに悩んでいる人たちと「共感」できるので、そういう人たち同士で〈仲間〉を
   作ることができる。
3、〈群れ〉に入り、中に居続けるための学習能力はあるが、〈群れ〉たいとは思っていない
   タイプ。
そういう人たちの全員が1なのではないけれど、全員が2なのでもない。
[2003年6月23日 14時18分6秒]

テーマ: 正義は正義ではないということ。   
 私が、毎日どうやってここを脱出するか考えていること(現状では、「死」しか有り得ない)
と、鬱にならない(それを実行に移す引き金を引かない)ように心がけていることなど、あちら
のユニットにとっては、どうでもいいことなのだ。それは、見えていない(自閉症者が鬱になっ
ても、顔の表情は変わらないし、元々活動水準にムラがあるので、いつものことだとしか思われ
ない)し、しょせんここでは正義ではないのだ。−−−ここでの正義というのは、立派な家を建
てること・ご近所様に恥をかかないこと・性欲と食欲を満たすことだけなのだから。
 ここでは、知的に優れた仕事をすることや、世のため人のためになる仕事をすることには、何
の価値もない。生活のための金を稼ぐことができさえすれば、私個人にとっては、ここにいる必
然性は何もない。しかし、私はその力で、子どもたちのために居心地の良い環境を作ってあげ
た。ここにいるのは、子どもたちのためだ。
 といっても、私はどこにいようとも「どうやってここから脱出するか」考えて生きているの
で、どこにいたって基本的には何も変わらない。ただ、今は、「どうすれば、ここにいながら、
いつでも逃げられるようにできるか」分かったことが、大きな違いだ。

 そもそも、この世には、認知や行動の障害による不都合をなくすためのソーシャル(社会)ス
キルはあっても、誰もが不満を持たずに人と人とがうまくやっていくためのソーシャル(社交)
スキルなんてものは、ないのだ。もしそんなものがあったら、人を食い物にするような詐欺や殺
人事件が起きるはずはないし、あっちの民とこっちの民が各々の神の正義の元に戦争を起こすこ
ともありえないし、自分が幸せになれたからといって同じ考えを人に押し付ける布教活動もなく
なるはずだ。
 人は、人と関係を持つために「分ち合う」と言うが、実際は上下関係や力関係や利害関係に基
づく「押し付け合い」であることの方が、圧倒的に多い。それから、個人の意志で決めることが
できずに、集団の意向に従わなければならないことが非常に多いだけでなく、恥をかいたり非難
されることを恐れるあまりすべての判断を人に委ねようとする姿勢の人だっている。

 本当に「分ち合える」ことができる人間が実際にいたら、「分ち合い」たいものだと私も思っ
ている。それは、必ずしも自分と全く同じ人間を探しているということではない。お互いの“違
い”を認め、その“違い”も「分ち合う」ことができる人ということだ。
 最近になって、「分ち合っている」と感じることができ、そう信じることもできる人に、やっ
と出会った。もしかしたら、また、騙されたり利用されたりしているだけなのかもしれないが、
少なくとも信じることはできる。
[2003年6月23日 11時44分15秒]

テーマ: みんな、大事なことを忘れている!   

1人の受動型PDDとNLDの陰には、10人の積極奇異型PDDと高機能自閉症の人がいる。

 このことを隠蔽しようする人とは、私は縁を切ります。と言っても、元々、かかわっていない
ので、切る必要もありません。
 しかし、この人なら大丈夫だと一度はかかわりを持った人で、実はそうではなかったことが発
覚した場合には、容赦なく縁を切ります。(流れに乗れない私は、自滅するということです。)
[2003年6月23日 8時33分27秒]

テーマ: すれ違いにできなかった一日。   
 あちらさんは、いつもほとんど外で何かやっているので、すれ違いにするのは結構簡単。
 でも、今日は、大量に実った枇杷やら梅やらの処理のために、一日中台所にいた。二世帯住宅
で、別になっているとはいえ、同じ部屋にいるだけで動機がしてくるので、ずっと2階に避難し
ていた。
 「たくさんあるのも困りものだねぇ」などと言っているが、たくさん“ある”のではなく、ド
ケチ根性で“採ってくる”から、たくさんあるのだ。といっても、田舎だからといって、すべて
の家がこうなのではない。たいていの家は、食べたいだけ採るが、あとは鳥にくれてやるのが当
たり前になっているものだ!!!!(食べ切れないほど実のなる木は、近所の迷惑を考えて切っ
てしまうことだってある。)
 何がキタナイかというと、「人が喜ぶから」とか「好きだから」大事にしているのではないと
いうことだ。いや、誰だって、採れたての枇杷をもらえば、礼の一つは言うだろう。そして、た
とえ全部食べきれなくても監視されているわけではないので、わかりはしない。そのレベルだっ
たら、私だってちゃんとお礼を言うし、ソーシャルスキルにのっとった100点満点の応対がで
きる。
 しかし、ソーシャルでないのは、あちらの方なのだ。いろんな効能や能書きをつけてまで、人
に食べろ食べろと押し付けてくる根性のどこが社会的なのだ!? 相手への気遣いなど、カケラ
もないではないか!
 その迷惑な押し付けのために、また何か押し付けてくるのではないかという恐怖で、そこにい
ることが苦痛だし、何を言われてもそっちを見ず・答えないことで、身を護るしかなくなってし
まっている。おまけに、今日は、配り切れなかった枇杷を蜂蜜で煮ていた。その匂いは、私の嗅
覚にとって最悪の臭いだ。手が震えてきた。これ以上、枇杷の話をされたら、きっと怒鳴るか、
物を投げるかしただろう。とにかく、今はここに逃げている。
[2003年6月22日 19時7分33秒]

テーマ: あっちの山とこっちの山。   
 キーパーソンが一人もいない人生がどんなに悲惨かわかっていたので、私はその状態で、私の
子どもたちのキーパーソンになった。もし、子どもがASでもADHDでもLDでもなかった
ら、そうはなれなかったので、とてもラッキーだった。
 インターネットは、「自閉症者にとっての車椅子」という言葉があるが、私の場合も正にそう
だった。私のキーパーソンになってくれたのは、みなネットを通じて知り合った人たちだ。

 しかし、あちらの親子2人組にとっては、ここは天国であり、農村の価値観こそが正義である
という現実は変わらない。
 こっちの山の住人がASやADHDであることどころか、うつ病に罹患していることにも適応
障害を起こしていることにも、まったく気づいていない。つまり、農作物は見えるが、精神世界
は無に等しいのだ、ここでは。

 子どもの頃からキーパソンに囲まれて育ち、現在もキーパーソンに囲まれている恵まれた人
が、自分がいかに恵まれているか描写し、自分を取り囲む人々への感謝の意を表わし、その状態
で精神の安定を保つための方法を書いたとしても、物理的・人的環境に恵まれていない人(ま
あ、9割方はそうだろう)にとっては無駄だ。
 といっても、自分自身に関することは大いに参考になるので、まったく役に立たないことはな
い。が、今現在、理解する気もなく、理解する能力もない人たちにそういう本を読むように言っ
ても、まず第一に読まない。そして、読んだとしても、絶対に変わらない。結局、自分の置かれ
ている環境が、いかに自分に合っていないかが浮き彫りになるだけだ。

 あっちの山に引きずり込まれて屍になるのはもう御免なので、できる限りすれ違いにして、影
響も最小限に留めるようにするしかない。学校の先生方の理解が良く、子どもたちにとっては最
高の環境を離れるわけにはいかないので、私のことはどうでもいいのだ。
[2003年6月22日 13時27分6秒]

テーマ: 親子3人のユニット。   
 傘は必ず、一度で壊れる(ADHDの次男の、物の扱いが雑なため)。床には、食い散らかし
のポテトチップが散乱している(ASの長男が、食べることと飲み込むことを同時に出来ないた
め)。
 次男が、特異な空間認知を活かして、毎日天才ぶりを発揮しているプロックは、あっちこっち
に落ちている。長男は毎日電車の絵を細工し、次男は毎日何やら作っているので、手から離れた
瞬間に意識の外になってしまうビニールテープの切れ端や、工作の残骸も落ちている。それに、
次男が日々研鑚に努めている実験の材料である使い捨てカイロの中味やら、木くずやら、ボンド
のかたまりも、落ちている。でも、これらのものは、場所と時間を制限しているし、定期的に片
付けもしている。
 こんな家で、掃除機が二年持つはずがない。昨日、焼け焦げた臭いがして(要するに、ショー
トして)、うんともすんとも言わなくなった。

 ここまでは、いかにもウチらしいエピソードだ。親子3人のユニットでいる限りは、ほとんど
お笑いの世界だし、そんな中で少しずつ分別もついていくこともよく見えている。

 しかし、掃除機が壊れたのは、私の扱いが雑だからと言われたので、また踏切まで走って行き
そうになった。埃アレルギーがあるために、覚悟を決めてまとめてやっているというのに、筋力
がない人にとって器具を長時間持って作業することがいかに辛いか、角という角でつっかかる掃
除機の操作がいかにたいへんか、まったくわかろうともしない。
 タオルのかかっている壁を数え切れないほど叩き、バカヤローと大声で叫んだ。今から、サイ
クロン掃除機を買いに行く。(この無理解者と農民と祭典委員の顔を見ないですんだ病気の間の
方が、精神的にはこの上なく楽だった。)

 私が、どこでどんなことを書いても現実はこうなので、きっと、ひっそり消えるでしょう。
[2003年6月22日 10時6分45秒]

テーマ: 陽の目を見る人・見ない人。   
 家族が協力して、環境にも恵まれている人は、マスコミにも大いに取り上げられて、陽の目を
見る。
 しかし、家族がうつや体調不良の原因で、理解も協力も全くない(と言うよりは、それ以前の
二者間関係さえも成立していない)私のような者は、きっと、今日放送があった金子みすゞさん
と同じ生涯を辿るしかないのだろう。
[2003年6月22日 8時43分24秒]

テーマ: 居場所。   
 居場所をどこに置くか?という問いに対する答えは、自閉人だからといって同じとは限らな
い。誰かと親しくなり心の支えが欲しいという人もいるだろうし、誰も居ないところがいいとい
う人もいるだろう。
 社会には、「ありのままの(プライベートな)自分でいていい場所は、ほとんどない。」とい
うのは、どんな人にも共通して言えることだ。ただ、社会にいることと、個人であることは、ほ
とんど対立概念でさえあるが、教室の隅に座りながら、満員電車の中にいながら、自閉症でいる
ことは可能である。
 社会人としての居場所も自分の居場所だし、自閉人としての居場所も自分の居場所だ。要は、
社会の中にいる自分と、個人としての自分の使い分けをするということなのだが、基底になって
いるものが自閉症であるところが、ちょっと違っているだけだ。

 ほんのちょっと居心地が良くするために、自閉症でいても良い場所、自閉症でいると便利な場
所(例えば、療育の場など)を増やすための社会的な働きかけをすることは、決して居心地の良
いものではない。むしろ、自分からいばらの道を行こうとするようなものだ。
[2003年6月21日 20時47分51秒]

テーマ: 社会に適応するということ。   
 社会に適応することと、私が私であることは、果たして両立するだろうか?

 人々が「分ち合い」と呼んで喜んでいることが、私にとっては「余計なお世話」であり、「不
等な接触」であることがある。
 人々が「たのしい」というおしゃべりが、私にとっては「不合理で、許しがたいもの」である
ことがある。
 人々が「したしさ」を増すために行う宴会が、「違和感を浮き彫りにさせるだけのもの」にな
ることがある。
 人々と「かかわり」たいという欲求は共通していても、「かかわらないというかかわり方でな
ら」という条件がついていることがある。
 全体的に、人々にとって「生きた心地がするために必要なこと」は、私にとって「苦痛」であ
ることがとても多い。それは、上手く出来ないから逃げているのとは、まったく違う!

 この状況を乗り切るために、《自閉モード》と《社会モード》を使い分ける。ソーシャルスキ
ルが役立つのは、《社会モード》でいる時だ。たいていは、モデルとなるパターンを組み合わ
せ、学習と経験がモノを言う。
 が、それが通用するのは、「表」社会でだけだ。PTA総会で副会長を演じるのは、非常にた
やすい。でも、「裏」であり“本当の社会”である親睦会は、ほとんど拷問のようなものだ。そ
ういうところでは、できるだけ多くの係を引き受け、裏方で世話を焼き、そこにいなくて良いよ
うにする。といっても、まともな教育談義をする場なら大歓迎だったが、ほとんどコンパニオン
とそれに乗せられた酔っ払いの集団では、そこにいることさえもできなかったからだ。

 社会的になることと、自閉症であることは、両立できなければおかしい。(人権問題。)

 私は私であって良い。そして、精神的な健康を保つために、あらゆる努力をするべきだ。
[2003年6月21日 20時27分54秒]

テーマ: NLD。   
 元々、教育学上のLDの範囲はかなり広い。医療関係者がLDと診断するのは、かなり狭い範
囲の領域だ。そして、NLDの概念は、主に教育学の人たちが発展させてきたものだ。
 ちょっと前まで、医療関係者の間で自閉症スペクトラム概念がなかなか普及しなかった。その
時は、PDDやASなのにNLDとしか言われていなかったことが、大問題だった。といって
も、今でも、ASや軽度のPDD、受動型自閉症の診断がつきにくいことに変わりはない。

しかし、逆に、
○NLD>AS。つまり、NLD≠ASということ。
○ADHDでNLDだったり、ADHDに由来する対人関係障害がある場合のすべてがASでは
 ないこと。
を、言わなければならないことも出てきてしまったようだ。

ちなみに、自閉症(主にAS)とADHDの合併問題については、一部の(しかし“有力な”が
つく)が強く固執しているけれど、現場ではあまり問題にならない。なぜなら、こんなことを論
じるまでもなく、両方の対応をしなければならないケースがたくさんありすぎるから。
[2003年6月20日 11時24分38秒]

テーマ: 「かかわり」方の三つの型。   
 自閉症の「かかわり」方の三つの型、孤立型(ASの孤立型は、一匹オオカミ型とも言う)・
積極奇異型・受動型というのは、終生そんなに変わるものではない。
 ただ、発達の遅れが目立つタイプで成長につれて追いついて行くパターンの人や、環境が良か
った人や、早期からの介入ができた人や、どこかで本人自身が自覚できるようになった人などの
場合は、「かかわり」「コミュニケーション」「こだわり」といった自閉症の基本的な三要素が
質的・量的に変化して軽症化していく。
 そうすると、自閉症というよりは非言語性LD(言語ではなく、身体性の表出障害や受容障
害)の部分の残遺が際立ってくるようになり、それが主症状や主訴になってくる可能性は、十分
にありえる。(その中でも、受動型の人に、最も顕著にその傾向が現われる。でも、それは、自
閉症のすべてではないし、自閉症の旗手なのでもない!)
[2003年6月20日 9時25分26秒]

テーマ: 化学物質過敏症。   
 昨日また、例の老人が何かの臭いをプンプンさせた服を着ていた。たちこめている空気をちょ
っと吸っただけで、喉は痛くなるし、全身の毛穴から汚染されて不快感に襲われた。カビのアレ
ルギーではないことは、血液内科で検査してもらって判っているので、きっとナフタリンか樟脳
なのだろう。これらの物質がダメなことはとっくに知っており、避けているものだ。
 それで、昨日はずっと2階に避難し、同じ空間にいないように時間をずらしていた。仕方なく
下に降りなければならない時はマスクをした。が、これはつい最近まではできないことだった。
というのは、私はガーゼや従来の使い捨ての紙マスクが触覚的にNGなので、マスクをかけられ
なかったのだった。今年になって、不織布の超立体マスクという製品ができ、これだけは大丈夫
なので、3箱も買い置きしている。お陰で、今までできなかった埃・ダニ・カビの駆除もできる
ようになった。こんな風に、化学物質過敏症と触覚過敏の間をかいくぐって生活している。
 では、なぜその老人に言わないのかと思われそうだが、この老人は、くも膜下出血の後遺症で
聴覚障害があるために話ができないだけではなく、アレルギーや化学物質に過敏であることが理
解できない。ましてや、触覚過敏のことなんか、言ったら笑うだけだ。
 この、人的資源不足の問題に関しては、できるだけ接触しないという対応しかない。しかし、
このできるだけ接触しないということは、一般には無視とかシカトと呼ばれており、人の精神状
態を悪くする原因になるものだ。こちらの精神的安定のために距離をおけばおくほど、ブツブツ
ブツブツが多くなる。私の代わりに子どもたちに1階にいてもらえるし、次男が偵察に行ってく
れたり説明したりしてくれるのは、ありがたいことだ。(ちなみに、ASの長男には、この役は
頼めない。かえってこじれるだけだから。)
[2003年6月17日 9時13分35秒]

テーマ: 思春期以降に発覚する子ども。   
○変わった子・神経質な子・大袈裟な子と思われていたが、思春期になってASだと分かる子。
○注意転動・活動水準の異常(多動あるいは寡動)・衝動性などはあったものの、親がフォロー
 したりガミガミ言って抑えつけていたものが、統制できなくなる子。
○読み・書き・計算の障害はなくても、何かの特異な能力があって、WISCをやったら絶対に
 凸凹があるだろうと推測されるような子。

 こういう子どもでも、興味関心の偏りを利用したり、理詰めで話ができたり、本人が悩んでい
てうまくいく方法を教えてもらいたいと思っている場合には、介入がしやすい。(成人後に自分
で気がついて、自助グループを作ろうと思う人たちは、その延長上にある人たちなのかもしれな
い。)
 しかし、人とのかかわりが難しいタイプの子、固執性や強迫性が強いタイプの子。二次的・情緒
的な問題の方が大きくなってしまっている子、特異な能力があっても社会に繋がる出口がない
子、人的資源に恵まれていない子…、きっと、家庭内・親子間で抱えてしまってひっそりと暮ら
しているだろうと思われるこれらの人たちのことを、忘れないで欲しい!
[2003年6月17日 8時33分44秒]

テーマ: 事実だけを伝えることができるだろうか?   
 例えば、「世の中が非論理的なことに腹が立った時には、何かを叩く。怒りのレベルがそれほ
どでもない時には、壁を1回。ものすごく腹が立った時には、壁を20回叩く。ただし、手が痛
くなるので、洗面所のタオルがかかっているところにと良い。」なんてことを書くとする。
 こういう風に書くと、まず、こういう方法があるのかと思う人がいるだろう。それから、ウチ
の子に教えて、ストレスをコントロールできる子どもにしようと思う人もいるだろう。だが、私
は敢えてこういう書き方をしない。なぜなら、そうすると、単なる方法だとしか思われないか
ら。それなら、一回だけ書けば良いし、内山先生が書いた本の何ページを参照のこと、と注を入
れる。こういうのは論文向きだ。
 私が、わざわざ『日記』にしているのは、どんなことに対して・どんな風に感じているか、人
を意識せずにできるだけ生のまま示したいためだ。確かに、以前はこんなことを考える余裕もな
かったし、誰かに助けを求めているのではないかと受け取られるような書き方をしているかもし
れない。
 でも今は、確実に明るい方に向っている。しかし、感情や価値判断を切り離せない人たちに対
して、事実だけを伝えることはできるのだろうかという疑問が終始つきまとう。(たぶん、無理
でしょうね。でも、もともと人に対して生きていないため、誤解を恐れたり、誤解を晴らそうと
いう動機もないので、どうでもいい。)
[2003年6月16日 14時8分44秒]

テーマ: ASメガネをかけてみよう!   
 いままでおかしてきた数々の過ちは、今にして思えば「なぜ、こんなことに気づかなかったの
か?」「どうして、誰も止めなかったのか?」ということばかりだ。これらのことは、すべてア
スペルガー症候群について書かれている文書に載っているが、アスペルガー症候群という概念が
なければ理解できないことだ。
 だから、「あなたはDSMに書かれている通りではないし社会生活もできているのだから、逃
避のための思い込みで、診断の必要はありません。」などと宣告する暇があったら、「現在はD
SMの基準は満たしていなくても、こういう考え方をして、こういう工夫をすると良いです
よ。」とアドバイスするべきだと思う。
 ASでもADHDでもLDでも、困った行動・許せないこと・甘ったれているだけだと思える
事柄の背景に、人とのかかわり方の違い・認知の違い・感覚の違い・注意の違い・興味関心の違
いがあるという見方をするだけで、本人も周囲の人たちも随分と楽になるものなのだ。(田中康
雄先生が、「一度、○○メガネをかけてみよう!」と言ったそうだ。これは、うまい表現だと思
う。)

 しかし、それらの“違い”に、善悪や好嫌といった価値や感情を結び付けてしまって、ありの
ままに見られない人に対しては、教えることが逆効果になることもある。これには、気をつけな
ければならない。
[2003年6月16日 12時16分21秒]

テーマ: 無。   
 ここで起きることのほとんどが、私にとって不快であり、無意味であり、くだらないこと。そ
れらをすべて“無”にしてしまうこと、一切の感情を動かさないこと。これは、座禅のテクニッ
クだ。大学時代に私が座禅を始めたのは、ストレスマネージメントのためだった。
 しかし、禅の思想は、自分を無にして生活を楽しむということだった。ここから間違った。私
の命と私の時間は、私らしさを無にしてニンゲンの奴隷になる生活のためではなく、私がするべ
きこと・私がしても良かったことに費やすべきだった。(←これは、禅の思想の誤りではなく、
私があまりにも字義通りに鵜呑みにしてしまったためだ。が、それ以前に、文字の世界の中で生
きていた私が、今の日本仏教は葬式と文化継承のために存在していることを、まったく知らなか
ったことが原因だった。)
 今は、奴隷になるためではなく、自分を活かすために、禅のテクニックを応用している。「環
境と人的資源に恵まれずに二次障害を起こしてしまったら、もうおしまい。」なんて言わせな
い。いま・ここから、始めてやる!
 
[2003年6月16日 8時0分38秒]

テーマ: 思春期以降の孤立。   
「社会性の発達」という観点からすると、幼児期・学童期の遅れよりも、思春期以降の孤立や
社会不適応の方が、はるかに大きな問題だ。
 早期発見・早期介入を強調するのは、思春期以降に孤立させないためであることも多い。特
に、幼児期・学童期に遅れが目立っていて、いじめの標的になったり、「この子の人生は終わっ
てしまった」かのような差別的な扱いを受けてしまったりすると、もともと社会から孤立してい
るという障害を持っていたからではなく、恣意的に社会から孤立させられてしまうことになるの
で、そうさせないために躍起になるのは当然だと思う。

 しかし、LD(NLDを含む)やADHDなどによる遅れが原因なのではなく(社会性の欠落
が原因で)、自閉度の重い人たちは、ヒトの子どもがニンゲンという社会的な存在になっていく
思春期以降に完全に対応できなくなってしまうし、障害が軽微すぎて幼児期・学童期に大きな症
状が出ないがために逆に固着してしまった人たちも、思春期以降に孤立してしまうことになる。
 これらの人たちは、陸の孤島にポツンポツンと点在して表舞台に上がることもなく、完全に埋
もれてしまっている。

 こういう人たちのことを、忘れないで欲しい!
[2003年6月15日 7時17分38秒]

テーマ: ギャップ。   
 専門家・研究者・指導者が、社会から阻害されたり被害にあわないためのスキルやテクニック
を開発することは、大いに結構なことだと思う。
 本人自身の求めているものと親や指導者が求めているものは、表面的には同じように見えるか
もしれない。そのゴールは、自立だったり就労だったり結婚だったりするだろう。しかし、その
質と内容は違うものであるはずだ。
 親・専門家・研究者・指導者にできるのは、入り口への導入と方向付け。当事者が望むのは、
ほどほどの適応。今、盛んに発表されているものは、前者まで。
[2003年6月14日 21時3分25秒]

テーマ: 偶然か必然か?   
 否定され続けたり利用される関係ではなく、ユニークさを認めてくれる人に出会えている人に
は、関係障害は起きにくいし、友人関係や家族関係を持てて当然だと思う。
 しかしそれは、どの分野に遅れや欠落があるというプロフィールの問題や、行動障害の有無
や、たまたま受動型であったとかいうことや、巡り合わせが非常に良かったという理由によるこ
とが大きい。偶然そうなったのか、必然性があったのかということもまた、人それぞれだと思
う。
 同じ自閉症でも、一人一人まったく違うこと自体には何も問題はない。ただ、恵まれた一部の
人だけをもてはやしたり、あたかも全く違うものであるかのように自慢したりする姿勢が見られ
た場合には、その動機に不純なもの(善悪の価値判断や欲得など)を感じる。
[2003年6月14日 12時54分7秒]

テーマ: ASと友だち。   
 ASの人は、学校などの強制的にその場を同じくする集団に所属している時には、「話し相手
がいる」とか「誰かの家に呼ばれる」ことを、「友だちがいる」と勘違いしていることが多いの
ではないだろうか。それから、バスの運転手のような、職業上優しくしてくれる人すべてまでを
友だちという概念でくくっていることもあるだろう。「世界は一家、人類はみな兄弟」といった
CMの文句(←かな〜り古い)や、「クラスのお友だち」といった言葉を鵜呑みにしていること
だってあるはずだ。
 その場で会話ができる人、その場では楽しく過ごせる人が真の友だちではないことは、場を一
にしなくなったら関係が切れてしまうことで分かってしまう。ASの人たちはそうなっても平気
でいるように見えるので、「友だちを求めていない」と思われてしまう。逆に、一方的に友だち
だと思い込んでいた相手にうるさがられて、つきまとわないように言われると今度は怒ってしま
うので、「友だちがいない・できない」と言われてしまうこともある。
 でもそれは、友だちというのは、単に話ができるだけの関係ではなく、お互いに分かち合うも
のがあって信頼できるとか、その人がいることが精神的な支えになっている人だということを知
らない(そういう関係を持った経験がない)からなのではないだろうか?
 そもそも、ASの人は「かかわり」方に癖が強すぎるので、自分なりの「かかわり」方ができ
る相手が少ない。ましてや、「かかわり」方の相性が合う人を見つけられる確率はものすごく低
い。それに、特有の「こだわり」を持っていることは、話しのキッカケにもなるけれど、その
「こだわり」に抵触することがちょっとでもあると反発も起きてしまう。現実世界では、そうい
う微妙な関係を維持できる相手には、なかなか会えるものではない。(それなら、犬と話してい
た方がまし!−−−私は、そうして過ごしていた。)
[2003年6月13日 14時22分18秒]

テーマ: 性教育の、二つの意味。   
 自閉症者だからといって、生物学的な性を持っているという身体的・器質的な事柄を否定する
ことはできないので、性に関する一次的な教育は意識してしっかりやらなければいけない。
 それから、人間という生き物の場合には、生物学的な意味に社会的な意味と責任が付随してい
て、「社会的に一人前になる」ことに性が重要な役割を持っている。しかし、それは必ずしも不
可分なものではなく、それぞれに様々な選択肢があり、組み合わせも色々であることも、きちん
と教えなければならない。もちろん、拒否する権利だってある。
 いずれにしても、「こっちに来ないと、生きられないよ!」という誘いになら乗っても良い
が、「こっちに来ないと、幸せになれないよ!」という価値観の押し付けに対しては、「それは
どうかな!?」と言って良いのだ。
[2003年6月13日 9時44分48秒]

テーマ: 同じ「同一性障害」といっても…。   
 同じ「同一性障害」でも、「性同一性障害」の方にはほぼ市民権が与えられつつあるのに、自
閉症で、思春期以降にはもはや“人間”でもなく♂♀でもなく、“男性”“女性”という社会的
存在になることができないという「同一性障害(アイデンティティの障害)」に対しては、教育
的指導を強要しようとするのは何故か?−−−答えは簡単、社会で生きられないから。(場合に
よっては、明らかに不適切な行動を起こす原因ともなる。)
 「性同一性障害」の方は、生物学的な性と精神的な性との同一性の障害なので、どちらの性に
属するか決着がつき社会的に認められれば、社会的な存在として生きることができる。それに対
して、自閉症による「同一性障害(アイデンティティの障害)」は、社会通念や社会的価値基準
に従い、社会的な集団に所属することを拒否することを意味するので、死活問題になりうる。
 この件に関しても、「こだわり」行動と一緒で、社会的に明らかな不適切行動をするのでなけ
れば、矯正を強要されることには抵抗がある。もし私が今の時代に思春期を迎えていたとした
ら、教育現場にいる間は感化され指導に従うだろうと思うし、勤務時間中はある程度妥協するだ
ろうけれど、自分の意志で行動できる自由を手に入れた瞬間に全部ご破算にし、社会的存在にな
ることを拒否する道を選択すると思う。(自分の意志に反して社会集団に勝手に所属される結果
となってしまったことによる精神的苦痛が認められないのは、不公平だと思う。)
[2003年6月13日 8時26分15秒]

テーマ: 電車での過ごし方。   
 電車には必ず先頭車両に乗り、運転席のドアのところを占領していたのは、昔の話。今は、立
っている体力がないし、見えないようになっていることもあるので、たった一駅だけ乗る某線以
外の路線ではあまりやらなくなった。
 人に侵入されたくない時や、侵入感を排除するためにはCDを聴くけれど、その必要がない時
や視覚系が活発になっている時には、蛍光灯の光(サングラスのおかげでまぶしくないので)に
吸い寄せられていたり、天井の角(直角フェチなので)を見つめていたりする。

 近頃は電車に乗ると、女子高生からおじさんおばさんまで、携帯電話とにらめっこしている光
景が目につくが、「人と繋がっていないと不安」で「群れていない孤独に耐えられない」からだ
そうだ。メール、電話、おしゃべり、ふれあい、行事…、これらすべてが、精神的安定のために
必要なんだと!
 私は、パソコンを通じて知り合った信頼できる人たちと、つかず・はなれずの関係があること
を信じて、家じゅうにフィギアや何かのグッズやのほほん族がいれば上等。
 なので、一番恐れている田舎の葬式が発生した時に代役を頼める人がいなくて、いっそうの恐
怖におびえているわけだけど、それは一日かほんの数日間の苦痛で、へたなコメントを一切せず
に黙りこくってやり過ごし、何も感じず記憶もしないようにして、後になって「音」をガンガン
聴いてイヤなことを追い出してしまえば、すべて消える。こんな、どうでもいいことのために魂
を占領されてしまうのは、時間の無駄。私は、こんなもののために生まれてきたのではない!
[2003年6月12日 13時43分39秒]

テーマ: 高きゃあいいってもんじゃない♪   
 今日は、血液内科の診察が遅れて、待合室で2時間待ちだった。内、1時間はお昼寝してたけ
ど、後の1時間は、ずっと万華鏡を覗いていた。前回の通院日に自分の感覚にピッタリの万華鏡
を見つけたので、わざわざ早めに行ってもう一つ別の色のを買って、ちょうど持っていたのだっ
た。
 待合室で万華鏡を覗いていると、声をかけてくる野暮な人がよくいるものだが、さすがに2時
間遅れでうんざりしている人が多かったせいか、具合が悪くて余裕のない人が多かったのか、今
日は幸い誰にも声を掛けられずに済んだ。
 その万華鏡は、1200円。私のお気に入りは、これと1000円の組み立てキットのもの。
ホント、高きゃあいいってもんじゃない〜♪
[2003年6月11日 22時58分20秒]

テーマ: これは、ネット上のことではありません。   
 理解と受容のために、教えれば教えるほど(相談に応じれば応じるほど)、相手を非難し変え
ようとする方向に走ろうとする。これには、本当に参ってしまう。疲れた。(それはやめて欲し
いと頼んだのに、またきっと電話をかけてくるのでしょうね。)
[2003年6月10日 19時11分53秒]

テーマ: カギを引き継ぐのは、だれ?   
 せっかく、親がカギを作っても、そのカギを引き継ぐ人がいなかったらなんにもならない。近
所の人・学校・就職先・社会一般…、どれもお寒い状況だ。
 それから、環境が合わなかったり、本人の能力の限界を超えてしまった場合、それが行動の問
題で表出されても、身体症状に転換されても、うつ病になってしまっても、つまりどんなに明ら
かに適応障害の症状が現われても、その分野の専門家か自分自身が同じ体験をしたことがある人
にしか、理解されない。
 本人自身も周囲の人たちにも、永久に調整が必要だというのに…。
[2003年6月10日 8時32分33秒]

テーマ: 「かかわらない」という「かかわり方」。   
 「こだわり」なくして行動できない人種の者にとっては、その「こだわり」をいかに調整する
かがQOLに大きく影響する。
 まず、あまりにも常識から逸脱したものや、他人に精神的苦痛を与えるものや、出費がかさむ
ものや、一人ではできないことが多いものは、お互いの為によろしくない。これらのものは、妥
当な範囲に抑える必要があるだろう。
 それから、もう一つ。他人が自分の「こだわり」に抵触することが気になって仕方がない場合
には、「かかわらない」という「かかわり方」を選択する必要がある。つまり、「こだわり」が
「かかわり」の妨げになることもあれば、「かかわり」が「こだわり」の邪魔をして、結果とし
て精神状態を悪くすることもあるということだ。
[2003年6月9日 14時14分36秒]

テーマ: 二次障害は、あくまでも二次的な障害です!   
 二次障害は、あくまでも二次障害。うつ病は、明らかな病気で、原因もハッキリしている。や
っと最近になって、どんな症状が出ると発病しているとみなすべきかも分かってきた。掃除をす
る気もなければ、その体力も全くなくなったのはいつのことか、思い出してみた。それから、そ
の前がどうだったのかも…。
 いくら筋力がないといっても、かつては、最後の方は疲れて雑になることはあっても掃除の時
間はキッチリ守ったし、頭が真っ白になるほど疲労困憊しても始めたら終わりまでやっていたで
はないか!
 「弱った気管支を埃から保護する」ために丸一日マスクをし、ほとんど強迫的に物を捨て、ダ
ニやハウスダストを除菌することにとりつかれているここ数日間の有り様の方が、よっぽど私ら
しいではないか!
 そういえば、掃除ができなくなった端緒は、掃除の時間がなくなったことにあったのだった。
学校にもお寺にも会社にも掃除の時間というのがあったが、それは一日の初めにあって、すべて
キレイにしてから清々仕事をし、最後にまた掃除して終わるシステムになっていた。私もそのシ
ステムに従っていた。なのに、その時間にまだ寝ている人がいて怒られたので、「一日の仕事に
取り掛かる前の掃除の時間」がなくなってしまった。それが、混乱の発端だった。うつ病になっ
て、何もかもやる気をなくしてしまったのは、その後だ。
 こうやって考えていくと、ほとんどのことに原因があるし、どうすれは元に戻せるかも垣間見
えてきた。
[2003年6月8日 20時33分58秒]

テーマ: 本当の研究対象。   
 何をどうすれば良いかとか、どんな手法を用いたら良いかというのは、恐らく本当の研究対象
ではない。発達障害のない人が発達障害のある人と接したり育てたりする方法は、発見されてか
ら1世紀〜半世紀もの間に随分と研究が進んでいるので、それはもう確立されつつあると言える
だろう。
 本当の問題は、じょうずに凸と凹を組み合わせられない人たちをどうかかわらせ、どうかかわ
らさないようにするかということだ。現実は、凸と凸がカチ合い、凹と凹が逃げ回り・なすりつ
け合い、衝突やパニックや癇癪を起こしたり病気になったりを繰り返している。つまり、凸と凹
が常にピッタリ噛み合う組み合わせは、いつまでも続くわけでもないし、今は良くてもお互いに
ずっと平和に過ごせる保証もないということだ。
 一度でも凸と凹が噛み合った経験があれば、次の組み合わせを見つけやすくなるだろうし、精
神的安定を保つためのコツもつかみやすくなるだろう。ただし、相方がいなくなったら何もでき
ないとか、凸と凸・凹と凹の組み合わせに成ってしまった時に混乱して収拾がつかなくなってし
まったのでは、元も子もなくなってしまう。
 実際には、発達障害に関心を持ったり情熱を注ぐ気が全くないとか、発達障害を理解も受容も
できないとか、発達障害児者のために何かを犠牲にしてきたとか、発達障害児者同士のトラブル
を抱えている関係の方がよっぽど多くて、「何をすれば良いかはわかっているのに・実行するこ
とができない状況になっている」という深刻な問題に直面している。恐らくこれは、学者先生に
は解決できない事柄だろう。
[2003年6月7日 21時53分39秒]

テーマ: 一番難しいのは…。   
 一番難しいのは、どうしたらいいかわからなくて困っていることに、自分で気がつくことだ。
従って、「わからない」「困っている」と、相手に伝えることもできないことだ。
 たいていは自分のこだわりに基づいて行動しているので、自分自身には何の迷いもないが、こ
だわりを崩せないところや、こだわりが全くないところは白紙のままになっているので、第三者
には明らかにおかしさが見えるようだ。それを指摘されて初めて、そこの部分がまるっきり欠け
ていることに気づく。
 きっと、この『日記』も、そんなものなのだろう。
[2003年6月4日 22時10分2秒]

テーマ: お仕事再開して、気づいたこと。   
 聞かれるまで、伝えないと伝わらないことに気づいていなかったこと。
 できあがってから、伝わっていない事柄が多いことに気づいたこと。
 こちらがこだわっていることを、みんなは全然気にしていないことがわかったこと。

 こういう“すれ違い”に対して、今は笑えるが、今まではいちいち怒っていたのだった。
[2003年6月4日 18時41分45秒]

テーマ: 立ち直り。   
 自分の感情を認識できるようになり、ストレスや怒りの原因とその対処法が分かるようになる
と、ストレスマネージメントとアンガーコントロールがしやすくなる。
 結果として、立ち直りが早くなると、あるお方があるところに書いている(どこかは言えな
い)が、本当にその通りだと思う。
[2003年6月4日 15時7分32秒]

テーマ: カギとカギ穴。   
 一人一人カギ穴の形が違うのだから、一人一人違う形状のカギが要る。それなのに、診断名が
同じだからと言って「あの人ができたのだから、アンタにできないはずはない。」と言うのは、
おかしい。
[2003年6月4日 7時29分50秒]

テーマ: 周囲の者が、よくやりがちなミス。   
 自閉症児・者の「かかわり」「コミュニケーション」「こだわり」という三つ組みのプロフィ
ールは一様でなく、個々様々なことは言うまでもない。さらに、人それぞれの症状の内容を列挙
していくと、本当に個々別々であることがよくわかる。
 症状にもいろいろあって、何をどうしても絶対にダメ〔赤信号〕という強固なものから、状態
に応じ方法を注意すれば修正が効くもの〔黄信号〕のものもあれば、教わったりスキルを習得し
たりすることに抵抗がないもの〔青信号〕のものもある。
 療育とは、療育者が、この凸凹したカギ穴に合わせたカギになることで始まるので、カギ穴の
パターンが読めれば順調に進むことになる。しかし、このプロフィールの偏りは、よく過ちの原
因にもなる。
 まず第一のものは、一番目立つ赤信号の部分を潰そうとしてぐいぐい回してしまうもの。第二
には、青信号の領域が増えて赤信号の部分がなくなったかのように見えてしまったり、黄信号で
たまたまうまくいっているだけなのに、青信号になったと思い込んでしまうもの。これは、以前
からあったものだ。
 しかし、最近になって、第三の傾向が増えてきたように思う。それは、「本人の自覚が大事」
という言葉に踊らされて、知識を集めてカギだけ作り、自分自身がキーパソンになる前に、「そ
れ、これがアナタのカギだから、自分で回しなさい。」と、本人に渡そう渡そうとしようとする
傾向。
[2003年6月3日 13時52分47秒]

テーマ: 今回の問題を整理してみる。   
 いつまでもこんなくだらないことに構って消耗してばかりもいられないので、昨日から抗うつ
剤を増量し、余計なことは頭の中から削除している。で、今後のためにも、今回のうつ病が再発
した顛末をまとめてみる。
 今回のことは、三つの大きな問題が原因になっている。
(1)理解を求めても、相手に理解する能力がない。
(2)相手に、発達障害や人格的な問題を持っている可能性があるが、自覚がない
(3)自分の下の世代は何とかできても、上の世代はどうしようもないこと。

 自分の家系は発達障害だらけの家系で、ADHDやASがゴロゴロしている。中には、統合失
調症の症状が出て、三行半を突き付けられて出戻ってきた人とか、一家離散になった人とか、破
産して夜逃げした人もいる。とはいえ、おおかた似たもの同士だった。

 一方、ここの家系の人にはADHDが多いが、それは亡くなったおじいちゃんの遺伝子による
ものだ。このおじいちゃんは、典型的な起業家タイプのADHDで、とっても素敵な人だった。
私は、この人が大好きだった。
 しかし、私がここに来てすぐにそのおじいちゃんは他界し、伴侶だけが残った。その伴侶が曲
者なのだ。能力的にできることと好きなことしかしないのは分かるのだが、誉められると分かっ
ていることしかしない。わざわざ人に見せて、誉められて喜んでいる。人に非難されるのがイヤ
だし苦手なので、社会的場面は一切回避する(子どもの参観会やPTAも一切やらず、すべてお
じいちゃんが行ったそうだ)。なのに、地域社会からはずされることを極端に嫌う(聴覚障害が
あるのだが、「障害者にはなりたくない!」と手帳などもとろうとしない)。それが、どう考え
ても食べきれるはずのない大量の野菜を作る。しかも、ケチなので、100円市に出したり人に
くれるくらいなら、自分と身内で食べると言い張る。
 この遺伝子が、何故か男子(3人いる)にだけ受け継がれている。そのまた子どもに発達障害
があって情緒障害もからんでいたが、どうすれば良いかは明白で、その子の相談事案は学校の方
に手を打ち、私と母親とで解決した。けれど、中間の男子に自覚が全くなく、逆の対応ばかりし
ている。
 
 つまり、何が原因で、どうすれば良いかも分かり切っているのに、人的資源の方に問題が
あってできないことがあるということ。

 発達障害の問題には、こういうことが絡んでいる。これは、大学の研究室や診察室でクライア
ントが来るのを待っている人たちには、決して解決できない問題なのだ。(少なくとも、“研
究”や“診察”では処理できない問題があることは、自覚して欲しいものだと思う。)
[2003年6月3日 8時3分57秒]

テーマ: 元気になりたくなかったけれど…。   
 起きていると、「今日はナメクジを何匹殺した」だのという話を聞かされ、どう考えても食べ
きれるはずのない大量の野菜をとれたからという理由で「食べろ食べろ」と押し付けられる事は分
かっているので、元気になりたくはなかったけれど…。(身の毛もよだつこの一言で、すでに自
律神経がめちゃめちゃになってしまった。今、あわてて2階に逃げてきたところ。)
 昨日から、仕事再開! 見るもの聞くものすべて鬱の原因になる“ここ”のことは完全に透明
化して、なんとか鬱から脱出せねば。
[2003年6月2日 7時45分4秒]

テーマ: 接近方法違反。   
 どこどこの・だれそれで、「ワタシとアナタは一緒です」とばかりに、いきなり電話で親しげ
に話しかけてくるのは接近方法違反です。
 一番最初は、どこの・だれでもなく、事務的に接触して来るのが、正しいやり方です。(だか
ら、メールが良いのです。)
 最初に侵入されると、警戒するどころかシャッターを降ろしてしまいます。一番最初の接近方
法を誤らなければ、ボチボチお付き合いができます。

 そういうわけで、よろしく!
[2003年6月2日 7時35分50秒]

テーマ: 日本自閉症協会が!   
 日本自閉症協会が、初めてまともな本を出した。

 『自閉症ガイドブック』 シリーズ2 学齢期編
 
 申し込みは、協会本部へ!
[2003年6月1日 10時53分58秒]

テーマ: 「共感」のワナ。   
 よく、“分かち合う”ことが大切だと言われる。普通なら、“愚痴をこぼし合う”ことが“分
かち合い”になるのだろう。だから、ちょっとしたことでも誰かに言ったり、電話したり、メー
ルしたりすることで、感情を精算できる仕組みになっている。
 しかし、同じ状況に置かれていても、相手がモノの見方・感じ方・考え方が全く違う人種だっ
た場合、“愚痴をこぼし”て“分かち合い”をしようとすることが、必ずしも「共感」を呼ぶと
は限らない。私の方は、傷口にからしを塗りこまれたようなもので、せっかく透明化していたト
ラウマをイヤというほど目の前に突き付けられて、大うつ病状態に戻ってしまった。←これは、
断じて元々の私ではない。
 とにかく、今は、あっちこっちに対してシャッターが降りている。なのに、電話をかけるのを
やめて欲しいと言ったところで、あちらにも相談相手がいないので、やはり電話がかかってく
る。しかも、一番考えたくない事柄についての相談だった。それから、体調が戻れば、野蛮人が
何を要求してくるかもわかっているので、ビクビクしている。もし、今日また電話がかかってき
たら、きっと癇癪起こして怒鳴ってしまうだろう。(モノの本に曰く。「癇癪は、どうしようも
ないという絶望の裏返しである。」・・・本当にその通りだ。)
[2003年6月1日 7時29分8秒]

※本人以外の書き込みはできません。
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