「性格」と「障害」のはざま

 

このHPで終始一貫、私は、「自閉症」は「社会性」の障害だから「障害者としてノーマライゼーションのための努力を惜しまないとともに、障害者を≪個性≫と認めて欲しい」と主張している。しかし、だったら、すべての個人の≪個性≫が≪社会≫との折り合いをつけなくて良いというかというと、そういうわけでは決してない。あくまでも、「社会性」の欠陥にに基づく困難さを障害として認めていくだけで、個人が社会を否定してよいという議論とは無縁の"発達上"のことがらに限定して受けとって欲しい。

どんなにひとづきあいが良い社交的な人だって、嫌いな人とはつきあいたくはないし、我慢するのは誰だっていやだ。みんな自分のしたいように≪自由≫に生きていたい。人と人・個人と社会との葛藤がなかったら、テレビドラマも映画も芝居も歌も、ありとあらゆる文学や演芸、ひいては文化だって生まれはしない。まさに、

愛別離苦(あいべつりく):好きな人と一緒にいられない。

怨憎会苦(おんぞうえく):嫌いな人に会わなければならない。

求不得苦(ぐふとくく):欲しいものが手に入らない。

のが世の常で、それは「障害」のあるなしにかかわらず、万人に共通する悩み・苦しみです。

ちなみに、もうひとつの五蘊盛苦(ごうんじょうく)=煩悩・欲望が盛んなのに叶えられない苦しみ、を加えて「四苦」といいます。


1、では、再び、「社会性」とは何だろう? ここで、改めて「自閉症」の診断基準を見てみましょう。

  1. 社会的相互作用
  2. コミュニケーション
  3. 想像力

「自閉症」と診断されるのは、これらが全く欠けているか著しい発達上の遅れが見られなければなりません。

しかし、この「三つ紐」が無いわけではないけれど、非常に下手という人はザラにいます。特に、下の二項目がほとんど無いのではないかとさえ思えるような人は、近年増えているような気がします。人と話したり係わったりするのが面倒だとか、思いやりがなく人の立場をまるで無視するというのは、現代人のありかたそのものとも言えます。自分の思う通りにならないとキレルとか、自分の気持ちのままに人にまとわりつくストーカーなどは、まさにコミュニケーションと想像力の欠陥そのものです。

そういう身勝手な人と「自閉症者」を区別する決め手となるのは、「社会的相互作用」=心理学用語としての「社会性」があるかないかだと思います。そして、それは

とを識別する基準にもなります。「注意欠陥障害」は、「社会的相互作用」はちゃんと機能していて人格形成上の障害はないけれど、注意が偏向していたり・散漫だったりして正常な情報のインプットがされない為に社会的な認知に不都合が生じて問題行動を起こしてしまうものです。そして、「内向的性格」は、形成された人格が内向的というだけで、人格形成上の障害ではありません。

人は、[意識する主体としての自己意識]の他に[社会的な存在として人との関係の中で位置づけられる自己意識]を持っていて、その二つが自然に絡み合って一つの人格を形成するのが通常です。「社会的相互作用」が正常に機能しないと、そのうちの前者はあるけれど後者が無いか著しい遅れや歪みが生じることになり、「自閉的な人格障害」あるいは「自閉症」と呼ばれる一連の障害や症候群になるのです。

 

2、では、人格形成に影響を与えるほどの「社会的相互作用」の障害とは何でしょうか?

通常、人の「心」は「体」におおわれて、「体」は「心」を隠すとともに現わすものでもあります。人の「心」は、顔の表情・身のこなし・言葉・外見といった「体」を通じて表されます。それは表裏一体をなすもので決して別々にはなりません。ここまでは、「自閉症者」も同じことです。

しかし、普通なら「体」によって守られているはずの「心」が、「体」の感覚知覚やそれを統合する意識の働きの弱さとアンバランスのために、むきだしになっているのが「自閉」の正体だとすれば、「心」のむきだしの度合いがそのまま「自閉」の障害の程度になると、私は考えています。むきだしの「心」は、自分の体内感覚や脳内情報にとても敏感に反応します。

その反面、「他者」の「体」との接触を嫌がり、「他者」の「体」から得られるはずだった有益な情報をつかみ損ねてしまうのです。「社会的相互作用」に欠陥がある人というのは、自分の「体」と「他者」の「体」とを通して係わってくる「他者」の「心」をまるで認識できないか、認識は有るけれどとても不快なものとして感じてしまっています。だから、その「他者」の「心」が自分の「心」に干渉してくることを拒むのです。

従って、社会的に認知される態度や「他者」と係わり合う為の適切な行動を身につけることができないのです。当然、自分以外の別の人格である他者に自分の意思を伝えて働きかけること(コミュニケーション)も困難だし、他者からの視点に立って思いやったり、その場の状況に合うように行動を制御できるはずもないのです。ましてや、自分の外見を「よそおう」ことで自分を社会的に価値が高いものに見せかけるなど、とんでもない話です。だから、「自己」の存在基盤は常に不安定なままなのです。

知能が低機能で学習能力にも障害がある「自閉症者」は言葉や学力の遅れがみられることが多いので、一見して「障害者」と認定されてしまうでしょう。特に、他人との接触に強く抵抗するなどしてコミュニケーションが全く取れないような重症者は、残念ながら「社会」から隔離されてしまう可能性があります。それほど重くない中程度の者は、「社会」の一員として留まることができても、就職口を探すのに苦労するでしょう。

一方、知能が高機能で学習能力に障害が無く、何かの特殊技能があるとか仕事ができるという人は、人格的には「自閉」であっても「社会的」にはそれなりの位置を確保する事ができます。あるいは、人と打ち解けることはできないけれど、「社会的」に認知される「ふるまい」を学習できる人もいるし、失敗経験を繰り返しながら人に非難されないように行動を制限したり、「相手」の気持ちを「自分」の気持ちに置き換えて共感できる人だっているのです。

こういう人達は、ひとづきあいの下手な人・常識を知らない人・かたくなな人・凝り固まった人と見られる程度で、ちょっと変わった「性格」と区別がつかないでしょう。「障害者」だと思われにくい為に、一見「社会的」な困難さというハードルをクリアしているようですが、人との関係は相変わらず希薄なままであり、心理的には常に一点の支点だけでかろうじてバランスを取っているヤジロベエのような危なっかしさを抱えています。

こういう人のことを「障害者」と言うべきでしょうか。誰もが自分の「性格」と限られた能力を引き受けて生きているのに、「何故、あの人達だけが‥」と思われてしまうのが関の山かもしれません。しかし、人格上の「障害」があるのに「障害」だと認めずに「性格」と思ってしまったが故に、それを≪個性≫化できずに「社会」に生きる場所を失ってしまうケースが多いのもまた、悲しい事実です。

別に「社会性」に「障害」があるから、直ちに「障害者」というわけではないのです。ただ、それなりの対処法がわかっているのにそれをしない手は無いということです。確かに、「人格障害」というのは精神医学上の用語で、日常的にはそれを「性格」と呼ぶことに全くさしつかえは無いと思います。大切なのは呼び名や診断ではなく、具体的にどのように接するかです。

たとえそれが"困った性格"であっても"人格障害"であっても、ただただ「いけないこと」「悪いこと」と強引に封じ込めようとしたり、逆に無関心で野放しにしてしまうのがいけないのです。人が「社会的」に妥当でない行動をするのは必ず何か理由があるのです。その理由を尽きとめる為に「どうしてそんな行動をしたのか」考えながら日々を送らずして、問題の解決はあり得ません。


私がこんなHPを作って、自分を「自閉症」と言う時、自分を「障害者」として扱って欲しいと言っているわけではありません。こういう人格的な障害を持った人の≪個性≫を≪個性≫として認められるように育てる方法を提示しようとしているのです。「自閉症者」の身内には「自閉」的な人が多いのはよく知られています。親が「自閉」的傾向や特性を持っているとわかったら、それを子育てに活かして欲しいと思います。

たとえほんの少しだとしても本人の立場がわかる人が訴えていことは、こういう≪個性≫を認められる「社会」を作っていく始めの一歩になると信じています。私はたまたま、「自閉」的な要素を持っているので「自閉症」について語っているだけのことです。他の「学習障害」「注意欠陥障害」などの、研究が進んでわかってきた「障害」についても、いや、あらゆる立場の人についても同様にしていくべきだと思っています。

いままでじっと耐えてきた≪本人≫たちが主張することが、「人並み」「世間並み」という旗印の元に≪個性≫を踏みにじってきた"この国"のあり方を変えていく原動力になるはずです。そして、それは既に始まっています。インターネットはそのステージとして十分に活用できる"場"なのです。

既に≪個性≫化が始まっている子供達に大人達が手をこまねいている現象の一つに、今問題になっている「学級崩壊」があります。既成の価値観を変えられずにいる大人達が、肥大してしまった子供のエゴに対応しきれていないのです。子供達の≪個性≫化は、思ったより進んでいます。これだけ物が溢れているなか、子供達は小さい時から自分で自分の好みに合ったものを選び、自分なりに組み合わせて自分らしさを主張しています。逆に言うと、子供向けに何かを売ろうとしたら、「自分だけのオリジナルができる」「他には誰も持っていない」といったキャッチフレーズが不可欠なのです。

しかし、≪個性≫を主張することは≪わがまま≫を容認することではありません。我慢したり・人を思いやったり・人に感謝する気持ちを育てないまま子供の言いなりになってしまったら、子供達のエゴは「自己満足」を求めてどこまでも暴走してしまうでしょう。

よく、2〜3才の幼児が「あれが欲しい」と人前をはばからず店の中で大声でわめいている光景を見かけるでしょう? その時に同伴者の大人達はどう対処していますか? きちんと叱っていますか? 自分を主張し始める「第一次反抗期」に、自分の欲望と社会的な制約との折り合いをつけ損ねてしまった子供は、赤ちゃんの心のまま大人になります。こういう大人子供たちの前途もまた多難なものになるでしょう。

また、コミュニケーションと想像力を養わないまま「社会性」だけがやたらと良い、要領よく表と裏を使い分ける「みせかけだけのいい子」も増えています。せっかく健常に生まれた普通の子供達なのに、≪共に生きる≫という真の社会性を育てそこねたまま大人になってしまうのは、「社会」にとって重大な問題に進展するのではないでしょうか。その犠牲者に「自閉症者」がならないように願っています。


      

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