アスペルガー症候群の生き難さ(現象学との対比から)。

(2002.3.30〜3.31/2002.4.3追加


参考図書:『「自分」を生きるための思想入門−人生は欲望ゲームの舞台である−』(竹田青嗣著/芸文社)

自閉症でない“人”の在り方を知らなければ、自閉症のことはわからない。だからといって、こんな本を選ぶ必然性があるかどうかは疑問だ。しかも、巻末の略歴に書いてあること以外に、私は、この著者がどういう人なのか知らない。キーワードで検索し、目次を見て注文したらこういう本だったので、必ずしも的を得た選択ではないかもしれない。でも、いちおう哲学書(ただし、ヘーゲル現象学)で、哲学科の授業はもれなく聴講し、卒論の指導教官も哲学科の助教授だった私としては、哲学史の知識は多少なりともある。というわけで、上記のテーマについて考察する素材として、使わせていただくことにする。(ただし、この著者の論旨とは無関係に、“わたし”の発達不全に関連する部分と、現代を知るための思想史の部分だけを引用。)

本文より 私的感想
19 【エリクソンのアイデンティティ概念】

大きくいえば、人間は、何らかの形で自分が優越感や役割関係を持っているという意識によって、「私は私である」というアイデンティティを得る。そして、こうしたアイデンティティが確認できないと人間は不安になり、分裂する。私は私であるという確信が持てなくなるのです。

いやいや、身体的にも心理的にも“わたし”が曖昧なままで、“わたし”があるかのように振る舞わされ、役割関係を持たされるのも、ものすごーく不安です。
21 【岸田秀の「自我論」を要約】
  1. 自我というのは「欲望」である。しかもそれは、自分の自我を安定させようとする欲望である。
  2. 欲望というのは「物語」の形をとる。物語というのは、「私はこれこれこういう人間である」という自分なりの自己認識だが、その物語を認めてくれるのは他人であり、他人が認めてくれることによってその物語は安定する。従って、自我とは、自分についての立派な物語を作ろうとする欲望である。
  3. 人間の欲望とは物語を作ろうとする欲望だが、自分勝手に物語を作ることはできない。その物語は基本的に他人の物語の借り物である。
  4. 人間の物語の欲望というのは、実はどんな物語を実現しても、本当には自我の安定にはならない。どんな欲望を模倣しても、それは所詮「幻想」であって人間は最終的な自己安定には決して至らない。だから、人間の欲望というのは、いわばみんな嘘の欲望である。
まあ、“わたし”の発達不全状態では、その先のことがうまくいくはずないと思いますが。

ただ、最近になってやっと、自閉症者として、それなりのライフサイクルの見通しが立つようになって来た段階に入ったところなんでしょう。(ただし、これから成長する子ども限定。)

しかも、何の療育もなかった時代に成人してどうにかなっている人をモデルにしたらどうか?という程度かも。

24 ふつう自意識が出てくるのは思春期、中学生前後の頃です。この頃になると、学校の中で、他人が自分をどう見ているのか、自分がどのくらい人から認められているかということが、だんだん気になってきます。自分が他人から見て、長所を持った優れた人間でありたいという欲望が出てくるからです。こういう欲望は自意識的な欲望のはじめの現われです。

それまでの子供時代では、オモチャが欲しい、おいしいものを沢山食べたい、お母さんに褒められたいといった欲望で生きている。しかし、思春期の頃になると、自意識が出てきて、自分のアイデンティティを求めるようになるわけです。つまり自分の「アイデンティティ」を得ることが大きな欲望の的になるのです。

みんなが「人と比較する」のを見ていて、おかしなことを考えていると思っていた。中学生時代は、合併症の抑うつ状態がひどい時期だったので、自己否定ばかりしていたが、最終的には「人と違う自分」を肯定するようになった。

「褒められる」ことが目的ではなく、「褒められる」ことが、「それはしていい」という許可になっていた。

26 【ヘーゲルの『精神現象学』のおける青年期のアイデンティティ論】
  1. ストア主義の哲学は、周りの世界からわずらわされないで自分の「心の平安」をたもつことこそ真の幸福な状態だと考えます。自分は自分だけでちゃんとした私なんだというアイデンティティを支えにするのです。だから他人の承認などはいらない。他人の承認などなくても私は私だと、ひそかに思っているわけです。
  2. 懐疑主義とは次のような態度です。たとえばみんなで議論しているとき、本人は何か決定的な答えを持っているわけではないのですが、「おまえはこれが正しいと言うけれど、そんな保証はどこにあるのか」と揚げ足をとって、どんな言い方に対してもわざと疑って、相対化してしまうのです。
  3. 大きな理論でもいいし、立派そうな人間をモデルにしてもいいのですが、外から「強い物語」を借りてくるのです。・・・(略)・・・ところが、誰でも生身の人間として生きているので、ただ自分のアイデンティティを相対化したくないという欲望だけで、現実的な生活の条件をすべて捨ててしまうことはとても難しい。そこで大なり小なり自己の分裂が起こります。物語が要請する理想的な人間像と、現実の自分との間で、彼は「引き裂かれ」てしまうのです。この引き裂かれのことを、ヘーゲルは「不幸の意識」というわけです。
  1. 相対化を恐れて「孤立」するのではなく、もともと他者との「関係」がないために、自己自身で自己を否定したり承認する以外の方法がなかったと言える。
  2. 人に対して何かを言うというのではなく、自分の持っている「知識」を披露することは、「あらゆる意見を相対化する」結果となり、結局のところ「すべてにイチャモンをつけようとしている」と見られていたのではないかと思う。
  3. 物語ではなく、その場その場での「振る舞い」をいろんな人から借りて乗り切っていた。しかし、自分自身の物語を持っていることが普通で、他者の物語にも興味関心を寄せたり、各々の物語を語り合うことで成立している「社会」を渡って行くのには、あまりにも基盤が脆弱。いつかは限界を迎え、破綻する。
30 青年にとっては、まずたいてい「私」の立派さが最も「大事なこと」ですが、少し歳をとるとわが身一身のことより、たとえば、家族のことがもっと「大事なこと」になるということもあります。これはほかのことでもいいのです。ある人は、自分自身よりも「信仰」のほうが大事になったり、またある人は「国家」の運命がいちばん大事なものになる。そういうこともあるわけです。

(中略)

この場合、アイデンティティの中心は「自意識」から「関係の意識」に重心を移していると言えます。

(中略)

わたし〔注:著者〕の考えでこれをまとめると、「私」とは、生きる上で自分にとって最も大事な関係の「可能性」のことだと言えます。「私」というものの根拠は、自分自身の関係の「可能性」のうちにあるわけです。

その「関係」を持つ対象が人に向かわないというだけで、何らかの「可能性」は絶対にあるはず。でも、人に対する処理がうまくいかないと、そこから先に進めなくなってしまうのですわ。
33 ある頃から幼児は、自分の要求が通らないときでもうるさく泣かないで我慢することを覚えます。このとき、お母さんから褒められる自分が嬉しい。つまり直接的な欲求を一旦断念して、自己感情として、お母さんから褒められる自分が嬉しいということが起こります。これが、つまり「よい自分」、「可愛い自分」、「美しい自分」を自ら愛するという、人間のナルシシズムの起源です。

こういう意味でのナルシシズムは、動物にはないものです。だから、幼児期にすでに人間は、動物の欲望の形とは違った「私」というものを作るのです。ナルシシズとは、基本的に他人から愛されることを覚えて、その自己像に対して愛を向けることです。つまり愛するという行為を、他人に向けないで自分の中に振り分けるわけです。だからそれは、単に「他人を愛する」でも「自分自身を愛する」でもなく、「他人に愛される自分が快い」ということです。

わお! 初耳、いや、初目(初見)。知らず知らずの内に、こんな人たちと一緒に生きてきたのかと思うと、寒気でゾッとする〜。最近、健常とよばれている子どもの様子を、オカシイ子どもだと思わずに観察するようになって、健常であることのすごさを、そら恐ろしいまでに実感しているところ。
38 それでは、人間の物語(欲望)とはどのようにして成立するのでしょうか。基本的に、人は他人のいろいろな欲望の形を見てその中から面白そうなものを自分の欲望の対象として選ぶのです。動物と違って人間にはもともとの欲望の形というのはありません。

(中略)

だから、どういう欲望を持ちたいかは、人それぞれが置かれている状況や、彼がわれ知らず持っている身体性や無意識にかかわっています。

しかし注意しなければいけないのは、厳密に言えば、この人がこういう欲望を持ったのは、これこれこういう理由からだと言い切ることはできない、ということです。人間の欲望の形は、一般的には、彼が置かれている環境に作用されると言える。しかし、個々人の欲望は決してその生まれや育ち、環境などに還元することはできないのです。

自閉症だということを知らずに「普通」のニンゲン物語を読んでしまうと、そこからつまはじきにされたりもするし、入って行くのはゴメンだとこちらからやめてしまって当然なのかも。

でも、元の状態だけでは、将来どうなっていくかは本当に判断がつかないもの。環境との相互作用による影響は普通以上に大きいし、発達して行く潜在的な力も人それぞれに違っている。それは、成長しながら発達する動物の強みでもあるし、弱みにもなるのでは。

41 自分の物語とは、わたし〔注:著者〕の言葉でいうと、一種のロマン性ということになります。「私がこうありたい」という゛憧れ゛です。子供の頃には親との関係が大きいので、親から褒められて「おまえはいい子だ」とか「おまえは可愛い」と言われていると、ロマン性は長生きします。小さい頃から「おまえはどうしようもない」と言われて自分でもそう思ってしまえば、ロマン性は早く挫折してしまいます。 言葉が通じているようでも、実質は異文化コミュニケーションになっていることに気づかないと、ものすごくズレたロマン性が成長しちゃっているかもよ〜。
51 自己主張は「欲しいものは欲しいと言った方が勝ち」ということですね。自分はこれがしたいとはっきり態度表明して、その努力を惜しまないことです。これに対して、他人を利用して自分の思いを通すこと、自分の思いを満たすのに他人を利用してもかまわないし、他人は自分のために尽くしてくれるのが当然だと無意識に思っているのがわがままです。 “わたし”という極がなければ、“あなた(他者)”という極もないはずなんですが…。そういうところが理解されていないと、普通に解釈されてしまって、「わがまま」と言われてしまう。そして、二次障害の原因になるという悪循環を繰り返す。
53 関係的な幻想における美醜は、簡単に言って人間が自分のロマン性をどのように関係の中で生かすかというその態度によって決まります。人間関係において親和的であり、聡明であること、エゴイスティックでないこと、自分の気持ちと相手に対して率直であること、ルサンチマン〔注:反感・恨み・嫉妬〕の中で生きないこと、「よいもの、美しいもの」にいつも憧れていること、これらは人間関係の中で「美しく」感じられることの基本的な源泉です。 とにもかくにも、不安材料を減らしていただかないことには…。
57 人間が生まれてくるということは、人生という欲望ゲームに参加することです。ゲームには、ルールとアイテムがあります。つまり、ゲームのルールをきちんと把握し、どういうアイテムをつかめば得点が上がるかということを知らなくてはならない(アイテムという言葉はファミコンゲームで使うのとほぼ同じ意味、つまりゴールに達するまでに得なければならない節目節目の目標とでも考えればいいでしょう)。そのことで人間は世の中を生きていくことができるのです。

(中略)

人間がこの世界を生きることは、世界という欲望ゲームの場で、まずルールを身に付けるということ、それからさまざまなアイテムを知ることからはじまります。そして他者とは、まず基本的にはルールやアイテムを教えてくれる人なのです。

ふつう他者は、まず親としてとりわけお母さんとして現れます。人は誰でも生まれてくると、まず他者を通じて、この世界のゲームのルールやアイテムを習う。そのことによって、人間は世界というゲームを楽しむ条件を身につけるわけです。

ところが、他者とはまた、ゲームのルールを教えてくれる相手であると同時に、自分の対局者でもあります。ゲームというものは、対局者である他者がいてはじめて成立するのだから、人はやがて必ず他者と相克することになります。

したがって、一方で他者は、人間が世界というゲームを楽しみ、世界からエロスを汲み取る上での源泉です。他者がなければ人間は世界からどんなエロスも汲み取ることができません。他者は一緒に世界を遊ぶ相手であり、また他者自身が大きなエロスの源泉でもある。しかし、もう一方で他者は、このゲームの競争者でもあり、自分が打ち負かされる脅威の源泉でもあるのです。

それは、ごっそり欠けている部分の全てです、と言っても過言ではないかも。
65 友達同士のエロス関係は、親と子のエロス関係とはまったく違ったものですが、特筆すべきなのは、大人の決めた規範(ルール)に対して共犯関係を持てるということです。・・・(中略)・・・そして、自分たちだけで自分たちのルールを作って゛遊ぶ゛のです。

(中略)

友達との関係というのは、一方で友達同士のエロスはあるけれど、つねに自分の「私」を弁明し、かつ正当化し続けなければいけないということでもある。つまりそこには、「私」のアイデンティティを他者に向かって維持しなくてはいけないという緊張があります。この緊張が、友達という他者と「私」の基本の関係です。

(中略)

しかしふつうは、子は親のルールを受け入れ、次に徐々に友達とのルールによってそれを相対化していきながら自分なりのルールを作っていきます。子が成長するプロセスは、こうして自分なりの「善し悪し」、「美醜」の秩序を作り上げることです。これに失敗して二つのルールの間に引き裂かれると、人は自分の現実の秩序というものをはっきり作れなくなるのです。というのも、人間はもともと幻想的な欲望によって生きているので、「現実」というものもじつは確固たる実在ではなく、゛作り上げられる゛秩序だからです。

↑と同じ。
69 世間はじつは、人間の一般的な価値観の源泉です。これはつねに向こうからのみやってくる関係、関係なき関係です。 人は人に対して相互に関係を持つのが普通のようですが、それが↑と↑↑のような有り様なので、関係なき関係(ただし、世間の目とか人様の評価ではなく、一般常識やあるべき姿)との関係を結ぶ方がはるかに楽なんです。
76 関係というものは、そもそも実体的なものではありません。人間が欲望する存在であること、何かを目指したり、目的を持ったりする存在であること、このことが、世界を「関係化」するのです。 自分と関係が持てる範囲でしか生きられないというのは、どんな人でも同じなのでしょう。たとえ、自分で自分の世界を狭くしていると言われようと、人はそれなりの世界しか持つことができないということかも。
85 もし人間の欲望が、いわば機械のような必然的な因果関係によって出てくるもので、意識がそれをすべて理解できるとします。ここにコーヒーと紅茶がある。このとき意識はどちらかが「欲しい」という欲望を感じないでしょう。このとき意識が自分の身体の状態をはっきり認識する力を持っていれば、糖分とかアミノ酸とかビタミンCなどの欠如の状態から判断して必然的にどちらかを選ぶだけです。

(中略)

欲望の理由が、因果的な系列として全部理解されたら、世界は2×2=4の世界、すべてが必然の世界になってしまう。そこでは選ぶということは無意味です。ただ合理的な判断があるだけです。おれは「これなんだ」「これが欲しい」という「自由」の意味がなくなってしまいます。つまりそこでは、エロスということ、「味わう」ということが存在しないのです。

こっちに近いみたい。こんなにはっきりと自分の身体状態を自覚していない時には、ただの「こだわり」と解釈されるだけですが、その理由が解かるようになると「屁理屈」に昇格するだけなのでは? でも、何と言われようと、合理的な方がいいのだ〜。
91 自己理解は、「私」が「私」に与えているアイデンティティの形、こういう人間でありたいという自己像から出ています。ある同じような欲望にとらえられたとき、この自己理解の違いによって、彼がその欲望をどう生きるかが違ってくる。・・・(中略)・・・この態度を、普通わたしたちは、その人の「人格」とか「精神」などと呼んでいるのです。ですから、欲望そのものがその人が何であるかを決めるのではなく、欲望に対する自己理解が、その人の態度や精神やその人の人間が何であるかを決めるわけです。 ふむふむ、それで、よく人格障害として説明されてしまうのですな!
93 自分がどういう人間であるかという自己理解が、その人の生活上の関係の態度を規定する。つまり自己理解は他人との関係の取り方を規定します。

(中略)

さて、人間が他人との間に「関係」を作り上げることは、その人同士にとっての共通の現実(他人との共通のルール)を作り上げることです。ここで、人間の自己理解は、他人たちの間で゛試される゛ことになるのです。

人との間に関係を作り上げることができないという「関係」の持ち方があることを、是非とも承認していただきたいと思います。
109 人間の欲望が何に向かうのかは、だからまず、それが多くの人々の認めることかどうか、次にその才能(可能性)が自分にあるかどうかで決まるのです。 アスペの人たちは、言葉が使えるし人と係われないわけでもないということで安心されてしまうので、そのどっちも確かめる力がないことに気づかれない。となれば、その可能性を育てることもできないわけです。
122 人は、権力関係、利害関係とエロス関係の二つの契機を、他人との間では持っているのです。もちろん、友達関係の中でも「あいつよりおれのほうが偉い」といった自我の張り合いがありますが、一方で「あいつといると楽しい」という、エロス関係が自ずとできてきます。

(中略)

親子の気遣いの関係は、どうしても親から子へのベクトルが大きくて、このアンバランスが子にとって重荷になることがある。ところが、友達同士の気遣いの関係はほぼ対等です。

(中略)

むろん、現実の友達関係はこれほどいい面ばかりではない。とくに思春期から青年期にかけては「自我」を承認させる闘争の最も激しい時期です。自意識上の優越を競い合うのも友達関係においてです。しかし、人間は友達関係の中で、はじめて右〔注:ここでは↑〕に述べたような、対等のエロス的な気遣い関係の芽を育てていくのです。この関係は、人間の関係原理にとってとても重要なものです。

仕事を覚えることができても、人間の関係原理にとってとても重要なものが欠けていると、仕事もできなくなってしまう。
147 かつては哲学でも、世界には世界それ自体の客観的な秩序があって、人間はその世界の秩序の中で生きている、この世界の客観的秩序のありようを正しく認識しようという考え方をしていました。「世界とは何か」という伝統的な哲学の問いは、そういう意味を持っていました。 こういう時代に居合わせるのは、不条理な秩序に支配されている社会を生きなければならないことに比べれは、かなりマシなのではないかとも思う。けれど、秩序がつかみ難くなると、生き難くなってしまう。
148 ヴィトゲンシュタインは初期には、世界は客観秩序があり、言葉の秩序というものは本来それに対応している、だから世界の秩序は全部言葉によって記述できると考えていました。言葉によって語られないものは存在しないという考え方です。しかし後期になると彼はガラリと考え方を変えます。世界の客観秩序というのはどこにもない、むしろ、すべて世界の秩序は言葉によって編み上げられたものだという考え方を取ります。このことをヴィトゲンシュタインは、「言語ゲーム」という考え方で表現しています。

「言語ゲーム」とは、世界は、要するに言葉によって作られたさまざまなルール(暗黙のうちに作られた)によってだけ分節され、秩序づけられているということです。

(中略)

こう考えると、現象学とヴィトゲンシュタインの世界像は、その根本的な発想としてまったく同じ形をとっていることが分かるでしょう。世界というものは「もともとこうだ」という決まった形、根拠を持たない。それは人間が言葉の中で作り上げる集合的な「意識」(無意識)のありようによってその秩序が定まっていくのです。

私がここでこうしているように、{言葉や論理で世の中を把握しようとし⇒一度は把握できたと思い込み⇒現実という壁に衝突して挫折する}という道筋は、もしかしたら、ほとんどのアスペの人が一度は通る道なのかもしれない。アスペだった可能性が高いと言われているヴィトゲンシュタインも、「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない。」と『論理哲学論考』を締めくくらなければならなかった。

しかし、「現実」は、言葉ではないもの(身体・暗黙の内の了解・行間・感情)で動き、言葉にならないもの(従って、秩序も意味づけもないこと)の比重の方が大きかったりするのではないだろうか。

話をするのが不可能なことや言語にならないもの上に成り立っている「言語ゲーム」を有利に進めるには、言語能力が高いか非言語的な魅力がたっぷりあることが必要条件になるのかも。

152 ですから人間がこの世界に生まれて育つということは、すでにあるルールの中に投げ出され、このルールを徐々に身につけていくことによって、自分も欲望のゲームに参加する資格を得るということを意味しています。

これを現象学的に考えると、人間は誰でも、まず家庭の中で世界とはこういうものだというルールの網の目を習い覚え(何より言葉そのものが一つのルールです)、やがてそれをさまざまに修正しながら自分なりの「世界像」(社会におけるルールの網の目)を作り上げていく、と言うことができます。現象学とはこの「世界像」の成立の条件を確かめる学なのです。

「世界像」というのはまず「世界とはこういうものだ」というその人の了解であり、また「私とはこういうものだ」という了解でもある。自=他関係の「物語」と言ってもいいでしょう。ただ「世界とはこういうものだ」という世界像は、その人間にとっては集合的なルールの了解としてではなく、自分の内的な「確信」として現れるのです。

ある人間の世界像がその時代の共通理解となっている一般的な世界像と大きく食い違っていると、彼はこの社会で生きていくことができないか、あるいはとても生きにくいことになります。

ふむふむ、お説ごもっとも!
154 【ニーチェ的発想】

つまり、問題は「真理」や「客観」を゛発見゛することではなくて、どうやって異なったルール(世界像)を持つ共同体や人間の「間」から、新しいルールを合意として導くことができるか、ということなのです。

今という時代は、あっちこっちでこれをしなければならない時代。制限や制約がなくなって楽になった反面、混乱も大きくなってしまった。
206 エロスゲーム(金を儲ける)を柱とする資本制社会では、個人の生の目標は「社会的な存在」になることであるより、「自分の欲望の追求に成功すること」です。 こんな社会に放り出されていたのかと思うと、ゾッとする。「自分の欲望の追求に成功する」ためには「他人を騙してでも利用する」人ばかりではないとは思うけれど、形而上的なこと(形にはならない大切なこと)を見ようともせずに、形而下のこと(物・金・欲)ばかり追い求めている人がたくさんいる理由が、やっとわかった。そして、「悔い改めの時はやって来ない」ことも知ってしまった。
246 【ニーチェ/永遠回帰の思想】
  • 人間というものは、自分の望みを決して十全には実現できない。そのために、どんな人間でも世界と自分自身に対してルサンチマン(恨み)を抱く。自分が「こういうふうにしか生きられない」ということについて、世界に対しても他人に対しても憎悪を抱き、恨みを持つ。そのことがますます人間の生きることの意味をスポイルする。
  • 個々人が自分の生を肯定できる原理は、ルサンチマンを乗り越えることであり、そのための原理は、自分にとってのギリギリの「ありうる」をつねに求めて生きることだ。
中途診断だから、ということでもないのだろうと思う。誰しも、「もっと他の生き方があった」と考えることはあるだろうし、「何とかする方法があった」となれば尚更そう思うだろうということなのかもしれない。

増してや、“障害”として支援を求める根拠があるのだし、社会に対して訴えるべきこともたくさんある。でも、生活・生存の不安を抱えているとなったら、「ありうる」を求めるどころではない。今現在は、「無」からのスタート。

では、誰がやるのだろうか? 「誰かがやってくれるのを待っていては、何も始まらない。」と人は言う。けれど、何かをする余力のある人ばかりではない。ただ、今は、個々人が、それぞれのルサンチマンを乗り越える方法を暗中模索している真っ最中なのかもしれない。

私はいままで、自分の喜びを人と共有する体験(=つまり、「共感」)をほとんどしたことがなく、「人といて楽しかった」という思いをしたこともほとんどないままに、タテ方向の言葉(真理・正しさ)だけに従ってきた。

お互いがお互いの「物語=生活史・欲望・希望」を読み合うことなく過ごして来た時間というのは、全く通じ合うことの無い「言語ゲーム」でしかなく、そこには「人」が全く存在していなかった。

「うつ」は、そんな私から私自身に発せられた危険信号だったと同時に、私を私の「言語」の中に閉じ込めて「現実」を見えなくする防護壁の役割も担っていたのではないかと思う。

(2002.4.3追加)


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