“わたし”形成過剰の不幸(対人恐怖・対人不安との対比から)。
(2002.3.31〜)
参考図書:『講座・臨床心理学3:異常心理学1』(下山晴彦・丹野義彦編/東京大学出版会)
「対人恐怖症」というのは、本当は「自閉症」と最も遠い精神疾患だと思う。でも、アスペルガー症候群の範疇に入った自閉症者の多くは、「対人恐怖症」の人と非常に似通った自己意識を持っているのではないだろうか? そしてそれは、一過性のものとも言い切れない。もしかしたら、生きている限り続くものかもしれない。ここには、二つの異なる「対人恐怖」と「対人不安」の形がある。
「対人恐怖症」の概念。
対人恐怖研究の歴史 | 日本における独自の臨床実践の中から研究がなされている、非常にユニークな問題。 |
森田の記述(1932) | 周囲に対する対人関係で、種々の苦悩を起こす者が多いことから、近ごろある人はこれを対人恐怖症と名付けたことがある。 |
新福の定義(1970) | 対人恐怖とは、「ひと」恐怖ではなく、むしろ「おのれ」恐怖である。しかもただのおのれ恐怖ではなく、「ひとに対するおのれ」恐怖であり、「おのれ」と「ひと」が錯綜し、混合し、未分化であることが本質ではないか。 |
笠原の定義(1975) | 他人と同席する場面で、不当に強い不安と精神的緊張が生じ、そのため他人に軽蔑されるのではないか、不快な感じを与えるのではないか、いやがられるのではないかと案じ、対人関係からできるだけ身を退こうとする神経症の一型。 |
笠原による症状の分類(1975) | ||
1 | 対人緊張 | 人前で緊張することを気に病む |
2 | 赤面恐怖 | 緊張し赤面することを、人に見られることが恥かしくて思い悩む |
3 | 視線恐怖 | 人の目が気になる場合と、自分の目つきが周りの人を不快にしているのではないかと悩む場合がある |
4 | 表情恐怖 | 自分の表情がこわばり、ぎこちなく、自然に振る舞えない |
5 | 醜貌恐怖 | 自分の容貌が醜いために周囲の人に嫌な思いをさせているのではないかと思い悩む |
6 | 自己臭恐怖 | 自分の身体から出る臭いが周りの人を不快にさせているのではと思い悩む |
ここまでのところを見る限り、「対人恐怖症」とは、他者に見られている自分を過剰に意識するあまりに起きる精神疾患(あるいは神経症)で、“わたし”発達不全の「自閉症」とは双極をなすものだと言えるのではないだろうか。
これらについて、日本では独自の研究がされており、独自の療法が編み出されている。さもありなん哉。
「対人恐怖」の心理状態。
安田による、対人恐怖症者が訴える共通する悩み(1955)/頻度の高い順に列挙 | |
1 | 人と円滑にまじわっていきたいがうまくいかない。 |
2 | 自分の表情や態度が変だから、他人が変に思ったり嫌な顔をするので苦しい。 |
3 | ときどき他人に悪い感じを与えたような気がして苦しい。 |
4 | 他人の見ているところで動作するとき、自分の動作がいちいち気になり、ぎこちなくなる。 |
5 | よそに出ると、あるいはおおぜいのなかに出ると、他人が常に自分の顔や動作を注目しているように思う。 |
6 | 少し親しくなった人、初めて会った人、異性、目上に対して恐怖を感ずる。 |
7 | 人にバカにされないか、軽く扱われはしないかという気が強い。 |
8 | 視線のやり場に困って苦しむ。 |
9 | 人と対立的になって苦しむ。 |
10 | 人が集まって話をするとき、いつも話ができなくて孤立して苦しむ。 |
対人状況における行動・態度の諸特徴 | |
1 | 人が大勢いるとうまく会話の中に入っていけない。 |
2 | 対人関係がぎこちない。 |
3 | グループでの付き合いが苦手である。 |
4 | 仲間の中にとけ込めない。 |
5 | グループの雰囲気になじめず、違和感を感じてしまう。 |
6 | 人との交際が苦手である。 |
7 | 集団の中にとけ込めない。 |
8 | 多人数の雰囲気になかなかとけ込めない。 |
9 | 人と自然に付き合えない。 |
10 | 人がたくさんいるところでは気恥かしくて話せない。 |
11 | 大勢の中で向かい合って話すのが苦手である。 |
12 | 人前に出るとオドオドしてしまう。 |
13 | 人と目が合わせられない。 |
14 | 人と話をするとき、目をどこにもっていっていいかわからない。 |
関係的自己意識について | |
1 | 自分のことがみんなに知られているような感じがして思うように振る舞えない。 |
2 | 他人に対して申し訳ない気持ちが強い。 |
3 | 人と会うとき、自分の顔つきや目つきが、その人に悪影響を与えるのではないかと不安になることがある。 |
4 | 職場、学校のクラス、近所の人に自分がどのように思われているのか気になる。 |
5 | 友達が自分を避けているような気がする。 |
6 | 自分のことが他人に知られているのではないかとよく気にする。 |
7 | 人と会うとき、自分の顔つきが気になる。 |
8 | 人と話をしていて、自分のせいで座が白けたように感ずることがある。 |
9 | 相手にイヤな感じを与えられるような気がして、相手の顔色をうかがってしまう。 |
10 | 自分が人にどう見られているのかくよくよ考えてしまう。 |
11 | 自分の弱点や欠点を他人に知られるのが怖い。 |
12 | 人の笑い声を聞くと自分のことが笑われているように思う。 |
13 | 他人が自分をどのように思っているのかとても不安になる。 |
14 | 自分が相手の人に嫌な感じを与えているように思ってしまう。 |
内省的自己意識について | |
1 | 気持ちが安定していない。 |
2 | みじめな思いをすることが多い。 |
3 | すぐ自分だけがとり残されたような気分になる。 |
4 | 他人のことが良く思えて自分がみじめになる。 |
5 | 不安が強い。 |
6 | 気分が沈んでしまって、やりきれなくなるときがある。 |
7 | いつも何かについてくよくよ考える。 |
8 | 何をするにも自信がない。 |
9 | 何をするにも集中できない。 |
10 | ものごとに熱中できない。 |
11 | 根気がなく何事も長続きしない。 |
12 | ひとつのことに集中できない。 |
13 | すぐ気持ちがくじける。 |
対人状況における行動・態度 | 対人状況における自らの行動・態度・話し方・振る舞いなどにおける支障に関する訴え。「・・・・ができない」という悩み。 |
関係的自己意識 | 他者からどのように自分が見られているかという問題意識。ただ単に見られている自己というよりも他者からの評価的観点を含んでいる。 |
内省的自己意識 | 自分自身を内省的に見たときの自己意識の問題。上の二つの対人関係の問題意識を強く持つ結果として、このような内省した自己意識を強く持つことになると思われる。 |
ところが、上記のような病的状態では明らかに自閉症とは無縁だったはずのものが、一般的な「対人恐怖」の心理のレベルでは、アスペルガー症候群者の主観的な悩みと非常に似通った部分が多くなっている。これは、アスペルガー症候群の本人の訴えが、単なる情緒的な「対人恐怖」と解釈される可能性を物語っているともいえるのではないだろうか?
しかし、一方では、言葉の不自由さが少なく人との係わりを持てる自閉症であるアスペルガー症候群者の苦悩そのもの、という面もあると思う。 つまり、“わたし”発達がどのような段階にあろうとも“わたし”があるかのような振る舞いを要求され、他者との付き合いをしなければならなくなったが故に、外来の知識として「ソーシャルスキル」を「習得」し、それを「使用」しなければならなくなった苦脳。もしかしたら、気づかないでいられたほうが幸せだったかもしれない…。
これこそ、王子様(社会)に係わるために魚の尾を人間の足に替えて、普通に見える外観を持ってしまった人魚姫の両足の痛みではないだろうか? 人魚姫でいた時には、人に対してこれらの恐怖心を全く持っていなかったがために、周囲の人々に羞恥心を抱かせるような行動や発言をしてどぎまぎさせてしまっていた。これだけのことを自然に恐怖している人達にとっては、これらのことを全く気にしない存在というのは、目障りで仕方がないのだろう。魚の尾ひれを失ったら、本人がこれらの痛みを感じるようになったのは、ある意味では当然なのだろう。でも、元・人魚姫には、他の人達と決定的に違うところがある。それは、いつになっても擬足は擬足であって、本当の足になる保証は無いということ。
「対人不安」の機能とは。
原因 | 対人不安の分類 | ||||
激しい公的自己意識 | ⇒ | 恐怖 | ⇒ | 観衆不安 | 観衆の前でスピーチする場合などの“あがり”の感覚 |
自己嫌悪 | ⇒ | 恥 | 道徳的な規範などを犯した場合の強い恥の意識 | ||
抑圧 | ⇒ | シャイネス | 初対面や目上の人との会話場面での緊張や気後れ | ||
愚かさ | ⇒ | 恥かしさ | 服装の乱れを指摘されるなど、軽い失敗に伴う恥かしさ |
羞恥 | 所属集団から排斥され社会とのアクセス権を失うことは、個人にとって生存を脅かす大ダメージとなる。「羞恥」とは、こうしたサバイバルシステムから自己が疎外されてしまうことへの「赤信号」。人間が集団を形成維持するために備わった、生得的、根源的な警戒反応といえる。 |
対人緊張 | 社会恐怖の中核をなす不安感は、実際に失態を演じたことへの羞恥心ではなく、「恥をかいてしまう可能性」への懸念としてとらえられる。「対人緊張」とは、「恥をかくことへの不安感」として位置付けられる。羞恥が社会的適応への赤信号だとすれば、対人緊張はその赤信号への警戒感。すなわち、社会不適応への「黄色信号」と表現できる。 |
「対人不安」と「対人恐怖」が社会的動物としての人間の警戒信号だとすれば、これが欠けても過剰になりすぎても社会に適応できなくなる。「恥かしさ」を感じないと、その集団が期待する行動が全くできない。「恥かしさ」を感じ過ぎると、集団に参加することが恐くなる。「恥かしさ」を観念で理解し、社会的な振る舞いや会話を人からの借り物でまかなう自己内緊張には、長くは耐えられない。人工的に形成した“わたし”は、やっぱりいつか破綻する。