『自閉症児との接し方』

思えば、私が長男の療育をしていた頃には、ウイング博士のこの著書は日本でとっくに出版されていたのだった。といっても、長男の「自閉症」の症状が最も顕著だった時、私は誰にも相談していない。当然、病院にも行っていない。だって、私には彼が何をやっているのか、手に取るように分かっていたから。当時、軽度の「自閉症」やアスペルガー症候群などというものがあることさえ、知らなかったけれど…。

それで、何もこの本について述べようというのではない。この本を読んで思い出したことを、ちょっとメモしておこうというのが、ここでの狙いなのだ。(以下、文字色が変わっているところが、引用部分を示します。)同朋のカンしかなかったとはいえ、あまりにも類似点が多いので。


しばしばこの子どもたちは、ある特定の行動ににたいして、よく反応するものです(P47)。私は、とにかくよくわき腹をくすぐった。これは、くすぐられることによって起きる不随意運動が良い刺激になると、東洋医学の本に書いてあったためでした。(一日に一回はやるように、と書いてあった。)抱っこされるのが下手だったり、触覚過敏があったりしても、特定の刺激を好むことはよくあります。かく言う私も、足の裏をくすぐってもらうのが好きで、何度も何度も父に要求した覚えがあります。

しかし大切なことは、子どもが十分に経験をしないうちに、次々と新しいものを与えるのではなく、徐々に与えていくべきだということです(P50)。なにしろ、興味の対象が極限されていたので、それを利用して関連するものごとに経験を広げて行きました。自動車・パワーショベル・電車・ザリガニ・・・、興味を持ったものは毎日見せて、好きなだけとことんやらせました。かといって、他のことに目を向けさせたり、いろんな経験をさせようとあっちこっちに連れ回すことが無意味だというわけではありません。ただ、どこに連れて行って・何をさせても、結局は自分の興味の対象しか見ていないということは、覚悟しておいた方がいいでしょう。

まず最初に必要なことは、その子ども固有の問題を注意深く観察することです(P52)。これは、本当にこの通りです。相手が混乱したり、指示に従えないのは、未だ相手がその段階に達していない不当な要求をしているのだとみなすべきです。

子どもの注意と興味を呼び起こすものであればなんでも、価値のある手がかりとして、まずやってみるべきです(P54)。マンガだろうが、オモチャだろうが、ゲームだろうが、石のカケラや虫の羽根だろうが、何でも教材になります。絵本や知育玩具だけでは、子どもは育ちません。

子どもが、親の手をとってなにか禁じられている所へ行こうとするなら、「だめです」とはっきりいって、子どもの関心をなにか別のものに向けさせるのがよいでしょう(P57)。自分の欲求を通そうと暴れたり騒いだりするのは、幼児期の内に突っぱねておいた方が良いと思います。こういう手段を用いれば成功すると一度でも味をしめさせてしまうと、何度でも使ってきますから。

かれらに特徴的なことですが、進歩がまったく停止したように思われる長い時期があります(P60)。これは、本当にそうでした。ある日突然、何かが出来るようになったり、一つ上の段階に急に飛んでいたりしました。でも、それはハッと気が付くとやっているものです。逆に、毎日教え続けていることは、出来るようになったと思うとぬか喜びだったということが多いものです。

自閉症児は、外部の世界にたいしてもそうですが、自分のからだにたいしてもバラバラで歪められた知識しか持っていないように思われます(P62)。これが実感できると出来ないのとでは、彼等の行動の奇妙さや不器用さや物事の理解の仕方への「共感」の度合いが全く違ってくるでしょう。

自閉症児は、過去に多くの失敗をくりかえしていますので、新しい状況を学ぶことに強い抵抗をしめすものです(P63)。「出来るのにやらない・やろうとしない」のではなく、本当に「出来ない」と思っていることが多いのです。具体的に指示したり、見本を示したり、ステップごとに区切ったりしてあげると、案外すんなり出来たりします。時には、「出来ると思って、やってみろ!」と言い放ってみることも必要です。

あまりおしつけてもいけませんし、かといってあまりほったらかしにしておいてもだめです(P64)。この辺のバランスが難しいところです。でも、その匙加減が、療育の醍醐味でもあるのです。

自閉症児は、ものを彼固有の見方でみてしまいます。その結果、なおしてやらなければならないような誤まりをしてしまいます(P66)。これは、ありとあらゆる事柄で警戒しなければならないことです。特に言葉の意味を間違って覚えていたり、突拍子もない定義付けをしたりしています。で、それそのものはユニークで大胆で面白かったりするのですが、コミュニケーションの妨げになっていることが多いものです。

もっとも良いやり方は、これまですでに獲得している知識とか技術を基礎にして教えることです(P67)。これは、本当にそうです。これは、何かを教える時に限らず、自閉症者との交流を図る際の大原則とも言えるものです。

自閉症児の、もっとも一般的な特徴としては、単純で、自分のよく知っている日常生活がいとなまれており、安定した環境の中にいる時、かれらは、もっともあつかいやすいということをまずあげることができます(P68)。「これをやっていれば精神的に安定できる」という事柄を、基本的な生活の枠組に組み込むことが必要です。"こだわり"と"繰り返し"は、自閉症者にとってとっても大切なことです。決して罪悪感を持たせないように、自然な形で続けられるように工夫してください。

[↑の続き]いつまでもそうさせておいてはだめだ、ということです(P69)。制限付き、条件付きにしておかないと、そこから抜け出せなくなってしまいます。だって、いつまでもずっとそうしている方が楽しいですから。むやみやたらに禁止すれば反動が出ます。でも、だからといっていつまでもやらせておくと、今度は社会生活に著しい支障をきたしてしまいます。

子どもに、社会的に受け入れられないことをするのをやめさせ、またほかの人に受け入れられることをするようにいいきかせることも、時にはできるものです(P79)。その行動そのもの変えていくのは、一朝一夕には出来ません。それこそ、何年掛かりの根気勝負です。どうしてもダメな場合は、対象から引き離すことで行動を起こさせないようにするという手段を用いるしかありません。でも、根本的な解決になっていないことをお忘れなく! その場合でも、ただ「悪いこと」として禁止するのではなく、何故そんなことをしてしまうのか理解を示しながらも、「いま・ここで」すべきではないとか「社会的に許されない」ことだというような説明を、キチンとしましょう。

しかし変化が必要な時には、子どもにたいしてはっきりした態度をとらなければなりません(P80)。世の中全てが自分の思い通りになるわけではありませんから、どうしようもないことには毅然とした態度で臨まないと、結局は本人を不幸にします。その際も、何故これが良くてあれがダメなのかという理由を考えて、本人に納得のいく説明をしてあげましょう。(或いは、何か他の人格を用意してあげるという方法を使ったり、掛け声をかけて勢いで乗せることが有効な場合もあります。)

こういったものとか状況にたいする恐れは、自閉症児にはひじょうに一般的にみられ、またかなり長期間続くものです(P83)。普通なら何でもないような、とんでもないことを恐がったり嫌ったりするというのはよくあります。でも、気のせいなんかではありません、本当に恐いのです。だから、バカにしたり無視したりしないで、しっかり受け留めてあげてください。でも、だからといって後生大事にし過ぎるのもいけません。ちょっとした言葉かけやキッカケで、変わって行く可能性もあるからです。

子どもがまだ小さい時には、いくら罰したりなおさせようとしても、おそらく時間の浪費となるだけです。私たちにできることは、こどもをよく見まもり、子どもが害を受けたり、害を与えたりするような状況に放っておかないようにすることです(P84)。典型的な自閉症児の幼児期は、〈かかわり・ことば・こだわり〉の三要素ともに強く、また神経症的な症状が強かったりパニックを頻繁に起こしたりして、手に追えないものです。自分の世界からなかなか出てこないおとなしいタイプの子どもでも、世の中と係わりたいのに上手く出来なくて暴れるタイプの子どもでも、それぞれに自閉症らしさがよく現れています。問題行動を起こす場合でも、逆に良い子過ぎる場合でも、この時期は親の出番が多く最も育て甲斐があると言えます。

自分が何を期待されているかを正確に知ることが自閉症児にはもっとも大切なことなのです。かれら自身も、それを知ったほうがずっと行動しやすいでしょう(P85)。社会的な構図が普通に備わっている子どもなら、自分の自然な欲求が大人を含む他の人たちのそれとほぼ一致しているので、「いま・なにを・したいか」と「いま・なにを・すべきか」とを調節すれば事足ります。しかし、自閉症児の「いま・したいこと」は周りの状況には無関係、「いま・すべきこと」は皆目見当がつかないか表面上は合っているけれど全く違う解釈をしているかのどちらかです。それは、自然に身につくことではないので、"教えて"あげる必要があるのです。

家で生活していくうえで、子どもは、多くのことを習慣として身につけなければなりません。べつになぜ身につけなければならないかの理由を知っておく必要はないのです(P85)。身辺自立に必要な最低限のこと、生活習慣上出来ていた方が良いことは、本当には分かっていなくても生活上の技術として覚えていけば良いのです。でも、汎化ができないので、その都度その都度、状況が変わる度に、何度も何度も同じことを言い続けなければいけません。「何度言ったら、分かるの!」「昨日、出来たじゃない!」という言葉は、そっくりそのまま自閉症を理解しない親たちに向けて言い返すべき言葉です。

ときどき、自閉症児は、自分はほかの子どもたちとは違っているということに気づくことがあります。それに気がつくとかれらはたいへんなやみます(P85)。そう、たいへん悩みます。でも、違いは違い・事実は事実として受け留めていった方が、後々の幸せのためになると思います。臭い物にフタ・その場しのぎの上辺だけの取り繕いは、絶対にやめましょう!

どの自閉症児も、それぞれ異なっていますので、すべての子どもに適用できる一般的な接し方についての助言を与えることは不可能なことです(P87)。「一人一人みんな違うから、一人一人に合った接し方がある」というのが、非情だけれど模範的で一般的な解答です。本に書いてあること、他の子どもにあてはまったことをそのまま適用してはいけません。もし、本や他の人の体験談から何かを学ぶとしたら、それはその方法ではなく、いかにして"その子"という暗号を解読して、"その子"に通じる通信手段を開発したかという手腕の方です。ただ、それが分からないからといって、むやみやたらに試したりなんかすると、本人を著しく混乱させるだけです。

自閉症児は、ふつうの子かあるいはそれ以上に利口そうでかわいらしく見えますので、ひどいふるまいをした時には、ほかの人たちは、「あまやかされた」子と思ってしまいます(P90)。そうなんです、これが一番困るのです。自閉症のことを知らないほとんどの人の誤解の原因になるだけでなく、時には親さえもそう思ってしまって、社会性の欠如に気づかないという重大な見落としをさせてしまう原因になるのです。

しかし実際には、この子どもたちを育てるのはまったく苦労の連続です。これを完全にやっていくには「超人的な親」でなければできないことです(P92)。これは、こういう子どもを持って育ててみないことには、決して分かることがない苦労です。だから、知らない人は勝手なことばかり言います。でも、負けるな!!!

もし彼がそれほどひどい障害がなく、感情を表現し、家族の努力によってよくなっていくのがわかり、人前とか家の中で問題を起こさなくなってくると、家族の者の苦労は、ずっと少なくなってきます(P93)。まっ、実際は、ここから本人の苦労が始まるといっても過言ではないのですが…。つまり、教育的指導を受けずに済むようになったからといって、自閉症が治ったわけではないのです。ただ、他力を借りなければ出来なかったことが、自力で出来るようになっただけです。むしろ、チェックがしづらくなって、とんでもない勘違いをしていても分からなくなってしまう危険さえあります。

どんな親も自分の子どもの自慢話をしたがるものですが、自閉症児をもつ親たちには、自慢できる材料はなに一つないのです(P95)。もし、自分の子どもが自閉症だと知らずに親が自分の子どもを自慢していたとしたら、その子にサヴァン能力があるか、単に記憶力が物凄く良いというだけのことかもしれません。行動障害のある子どもは、「私は自閉症だ!」と強力に主張して必要なケアを勝ち取るだけの能力が備わっている「良い子」だと思って下さい。


ウイング博士がこの本を書いたのは1964年、日本語に翻訳されたのは1972年のことです。でも、この本に書かれていることは、今でも立派に通用します。さすが、自閉症児の母!といった感じです。もっとも、原本にはこんな穿ったコメントはついていませんが…。入手し難い本ですが、ウイング博士の名誉の為にも、是非とも買ってちゃんと読んで下さい。(ルガール社/1100円)

それから、この精神の延長線上にあって、もっと具体的にわかりやすく自閉症児・者への対応の仕方を書いた本が、最近出版されました。

『自閉症・成人期にむけての準備』−能力の高い自閉症の人を中心に− P・ハウリン(ぶどう社/2700円)


      

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