発達課題

"非・社会的"で、社会的相互作用が欠如している「ワタシ」とは何か? 

それを確かめるために、どうしても知っておきたいことがある。それは、「アイデンティティがない」とか「自我基盤の脆弱性」とは何か?ということだ。

自我意識の特性(南、1973)と、それに対する私の評価
    主観的な体験意識の特性  
独自性 自分が独自の存在であるという意識
連続性 自分という意識に断続がないという意識 ×
同一性 自分は部分的な変化が起きても全体としては同一だという意識 ×
統一性 外部、内部環境の変化にもかかわらず、統一された機能体系を保っているという意識 ×
動機性 つねに新しい行動への動機をもっているという意識
能動性 能力を動員して行動しているという意識 ×
感情性 自分の精神的な状態について評価しているという意識 ×
生活性 具体的・現実的な生活をいとなんでいるという意識 ×

自我というのは、"その人らしさ"のことだけれど、難しく言うと「その人独自の刺激の受け方とそれへの反応の仕方」だ、と発達心理学の教科書に書いてある。

その自我が、独自性と動機性だけあって他がないので、私は常に「次の話題を探しては、勝手なことを書きつけ」て、何かの役に立っているように錯覚しようとしているわけだ。

その主体としての自我(I)意識に連続性・同一性・統一性がなければ、他者から観られている自分という公的自意識がなくて当然だ。そして、客体としての自己(Me)を過剰に意識して、「ああしなければ・こうしなければ」と自分自身を縛ってしまう。だから、能動性・感情性・生活性もない。

好奇心旺盛でオリジナルだから、勉強熱心。しかし、自分でやっているという意識がなく、常に何かに憑き動かされているように感じている。その時は、ただただ追われるように、「やらなければ!」と思っているだけで、本当に「やりたくてやっている」かどうかさえ分かっていない。それに、それは必ずしも仕事でも義務でもない。多くの場合、選んで・飛びついているのは自分自身なのに、その結果について評価された時そこにいるのはもう別のワタシ。だから、「ワタシは何をやったのだろうか?」⇒「何もしていない!」という、自問自答を繰り返している。

しかも、傍から見て「ちゃんとやっている」というのは、自分が安定しているかどうかのバロメーターには、決してならない。本人は、常に不安なのだ。私自身を振り返ってみると、「社会的にしゃんとしていた」時ほど、チックがひどかった。ということは、本人は自覚していないけれど、精神的にはかなり負担になっていたのだろうと思う。だって、そういう時ほど、核となる自分の考えというのはかなり強固で、他人に合わせることは絶対にしないし他者からの影響を受け付けていないから。必ず、本当の自分を"括弧に入れて"、大事にとっている。それは、決して外に出してはいけないものであり続けていた。

私は、随分と長いこと、自分の中にいる「もう一人の自分」をあたかも実在する人物のように感じていた。それから、どこかに書いてあったこと・だれかが言っていたことは、客観的な事実であり、必ずその通りに実現するものだと思っていた。それは、単なる意見や願いであって、現実に存在するのはそういう「言葉」ではないのだということを知らなかった。また、どこかに行った感想を聞かれても、「面白かった」「キレイだった」「楽しかった」としか答えられなかった。つまり、見たものの印象とその感想しか思い浮かばなかった。こういうことも、バラバラの自己意識に関係した現象だったのだろう。

本当の自分自身には社会性がないのに、言葉を獲得し・心の理論を持ち・ソーシャルスキルを習得して、社会的な振る舞いができるようになると、周りの人は喜ぶ。が、本人は逆に不幸になった。だって、それはほとんど脅威・強迫・義務でしかないから。そして、いつでも「逃げられる」ように用心していた。逃げ場がなくなったら「死ねばいい」、さもなくば「この世が終わってしまえばいい」と、ずっと思って来た。しかし、本当の自己意識は十分に社会的なのに(公的自意識はちゃんとあるのに)、社会的に非難される行動や発言を繰り返してしまうことに悩んでいる人たちほど、人は怖くなかった。人が恐怖対象になったのは、自分が人と違う「理由」をハッキリと目の前に突き付けられてからだ。


そもそも、全く野放しにされたワタシが達成すべきだった課題とは何だったのか?


五体満足に生まれたにもかかわらず、脳の微細な機能に異常を持って生まれる「発達障害」などというものがあり、しかも医学の進歩のお陰で一人前に成長してしまうのが当たり前になってしまったことに医者たちが気づいたのは、つい最近のことです。

今現在は、こういう「生き難さ」を抱えたまま生きていかなければならないのは分かっていますが、どうすればいいのかは分かっていません。さしあたって、子どものうちに発見して「そういう子ども」として育て、「そういう大人になるもの」として準備しておけば、自己効力感(自己有能感)を持つことができて、幾分か楽に生きられることが分かってきたところです。

しかし、こういう「障害」があることさえ知らない人には、目に見えて分かる「障害」ではありません。今のところ、「軽度発達障害」に詳しくなればなるほど、「目に見えない敵に向かって闘っている」かのように言われてしまいます。奇異な行動や発言は、「躾がなっていない」と非難されます。これは「障害」だから「受容」するように叫ぶ度に、キチガイ呼ばわりされます。「こんなものが障害であるはずがない。」「どこにでもいる普通の子だ。」「みんな一生懸命に努力しているのに、この子たちだけが免除されるのはオカシイ。」「こういう子がいると、勉強が遅れて迷惑だ。」というのが、一般の見解です。しかも、見た目が普通だから、「成人するまでになんとかしてしまえばバレずにすむ」という計算と、公表したくないという心情がはたらいて、家族も本人も隠したがります。

確かに、そのままの形で「受容」される可能性はほとんどありません。かといって、「普通」にもなれない。そこで、それぞれの「障害」に相応した、それなりの発達課題を立てる必要があります。

ADHDやLDでも、通常のカリキュラムと教え方が通用しないので、学習・生活習慣・作業遂行能力・社会性などの多方面にわたって、特別な指導が必要になります。

しかし、自閉性障害(PDD)があると、もっともっと基本的なところから配慮が要るのです。

発達段階 主導的活動 自閉性障害者の発達課題
乳児期 大人との直接的情動的交流 手がかからない・おとなしいからといって、放置しない。
幼児前期 対象的行為 「こだわり」を認めてあげる。

が、社会的に妥当でない行動に対しては、徹底的に対決する。

幼児後期 ごっこ遊び(役割遊び) 侵入的介入をせず、間接的な交流を通して愛着を形成する。

本人の発達に応じたコミュニケーション手段を獲得する。

学童期 学習 生活に必要な基礎学力の習得。島状に突出した特性を活かす。

手伝いなどを通して、「役割」分担と作業を遂行する喜びを知る。

護身のための基本的なソーシャルスキルを学習する。

青年期 親密な個人的・人格的交流

職業・専門への準備活動

親密さや、個人的・人格的交流を要求されない環境に置くこと。

不得意な面が強調されない職種を選ぶこと。

壮年期 労働 余暇活動も、意識して持たせること。
(心理科学研究会の作成した表に、自閉性障害者の発達課題を付け加えたもの。)

この表の左側の部分、つまり、健常者の発達課題を達成させようと思っている人も多いことでしょう。

でも、本人自身の発達レベルに相応していなければ、まず、達成させようとしても無理だし、達成させても無意味です。例えば、無理やり「ごっこ遊び」をさせたところで、何も身につかないことは目に見えています。見かけ上の達成を狙うと、できているようで全く分かっていなかったり、逆に反発されて退行してしまいます。強制的な行動療法をすると、後になって想起パニックを起こしたり、精神的に破綻する危険があります。


さて、自閉性障害があっても知的障害を伴っていなければ障害者ではないし(障害者と言われたくないと思っている人の方が多い?)、いつまでも親の庇護のもとに置かれているわけにはいかないので、いずれは自立しなければなりません。しかし、大人になるというのは、経済的に独立するだけではありません。社会的な責任も負わなければなりません。それに付随して、さまざまな人間関係がくっ付いてきます。それは、一番苦手なことをしなければならないということです。

上辺だけ一人前になったからといって、決して喜ばないで下さい!

本当に、本人が「生き辛さ」を感じていないかどうか、確かめてください!


      

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