大事なこと

小児期には、正常範囲の能力と行動は、極めて幅広いものです。多くの子どもが内向的性格をもち、会話が上手ではなく、また変わったものに興味をもったり、多少は不器用なこともあります。実際のところ、極めて異常なほど内気になる子の例もあります(略)。しかし、アスペルガー症候群では、そうした特徴に質的な違いがあります。彼らは、通常範囲を越えたところに、独特のパターンを作るのです。その症候群は、正常範囲の末端部に融け込んでいく、継目のない連続体上にあることが知られています。そうすると、その変わった性格と能力範囲が、現在の診断基準を用いた診断に合うだけの独特の質と水準に達しているかどうかはかなり疑わしい「グレーゾーン」の子どもたちが出てくるのは、極めて当然のことです。こうした子どもたちは、この障害の「幻影」や「気配」を浮かべています。いずれにせよ、アスペルガー症候群の子ども向けに開発された教育方法を彼らにも修正して用いることができ、たいていは同じプログラムからも利益を受けられます。こうしたプログラムに参加した子どもは、急速な進歩を始めることは注目に値します。

『ガイドブック・アスペルガー症候群』トニー・アトウッド著  P224

そう、確かに、異常でもないのに異常だと思い込んだり、異常なのに正常だと思い込んではいけないから、医師による診断は必要です。でも、いちばん大事なことは、診断がつくとか診断をつけるとかいうことではないのです。「無知」のために犠牲になること、そして、それを知ってしまった時の後悔の念と怨み、そして、それがどんなに恐ろしいことか知らないこと…。


 

そういえば、私は最近、愚痴をこぼすようになりました。「そんな当たり前なこと!」と思う人もいるかもしれない。「そんな人のどこが自閉症だ!」と非難する人もいるでしょう。でも、私はずっと、愚痴をこぼしてはいけないものだと思っていました。何故でしょう? 愚痴そのものが醜くてイヤなものだったから、そして、自分みたいな人に出会ったことがなかったから。

でも、毎日、日記に書いていました。といっても、いつ・どこで・だれが・どうして・どう思ったというのではなく、そこでもやっぱり一般論でした。今日一日の出来事で感じた「自己嫌悪」を上げ連ねることから始まって、いつも最後は「自己肯定」で終わるから不思議です。それでも、紙に向かってならば吐き出せるけれど、人に対してはずっとしまっておくものでした。

それを出さなかったから、ニンゲンに接した時の自分と相手の言動がゾンビ化して、いつまでも記憶されてしまっていたことに、最近気づきました。どうしてわかったかというと、掲示板のお陰です。アスペのことが堂々と言える所で、今日あったイヤなこと・イヤな気分になっていることを打ち明けると、その日はゾンビが襲ってこないことを学習しました。そう、やっぱり、共感できる仲間というのは必要だったんです。私は、確かにニンゲンはキライで親しくなれないけれど、孤立してしまったのは解ってくれる人がいなかっただけで、本当の「人間嫌い」ではなかったんです! 今は、本人なんだか親なんだかわからない中途半端な立場なので、そういうところにお邪魔しています。でも、中学生の時にそういう場があったら、例え、グレーゾーン程度の軽いものであったとしても、こんなにこじれることはなかった、と思うのです。

「私のまわりにはカベがあって、そこから出なければいけない」と言ってくれた人は、みんな「自閉症」のジの字も知らない人でした。(「アスペ」ならアの字ですが…)。こういう、人間としての基本的なことが出来ていないことが解るかどうかというのは、知識ではなく直感のような気がします。

学校とは、勉強をしに行くところで、先生の話は聞くものだと思っているイイ子ちゃんが、「人間は、ニンゲンの真似をして、ニンゲンと共に生きるものだ」ということを知らなかったなんて、誰も気づかなかった。そして、そういう人が普通になろうとして「自分をゼロにして、他人の真似をしていたこと」にも、誰も気づいてくれませんでした。そして、自分で気づいたら、今度は「ただの思い過ごし」ですって!

診断は羅針盤のようなもので、方向を定めてくれるかもしれないけれど、救いにはなりません。助けてくれるのは、いつも、仲間なのです。

おかげさまで、社公辞令のお礼としてではなく、いろんな人に「ありがとう」と素直に書けるようになってきました。でも、今まで私にしてくれたいろんなことに感謝を込めて、この言葉が言えるようになる日は、まだまだ遠いカモ…。それじゃあいけない、とは思うんだけど…。


      

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