『他人を平気でいじめる人困らせる人』
身近にいるトラブル人間の撃退法教えます。
−PAINFUL PEOPLE And How to Deal with Them−
ジョセフ・ダン著
これは、最近読んだ本のタイトルです。私の気がかりをズバリ言い当てたような邦題に騙されて(?)、ついつい買ってしまいました。
日頃、自分が直面する出来事に振りまわされていると、どうしても「自閉症」「アスペルガー症候群」「注意欠陥障害」‥といった言葉にこだわりがちになってしまいます。確かに、私を悩ませるのはほとんど、「自分が自分の体と折り合いがつけられない」ことから起きる内部的な問題です。なんでもない普通の人との会話だったはずなのに、その声や顔の表情といった肉体的な接触がとんでもない影響を及ぼして、突然、嫌な気分になるなんて、私以外の誰に分かるでしょうか? しかも、ほとんどの人は良識のある普通の人です。
中には「明らかに困った人」もいます。その人は私だけでなく、他の多くの人々を困らせます。そして、私という「困った人」にとっても、最も「困った人」になっています。
そこで、本の目次に従って「困った人」の分類を紹介してみます。それぞれのパラダイム(枠組み)にはわかりやすい<質問>がついていて、人のパーソナリティを見分けるための参考に使えると思うので、併せて載せます。
「困った人たち」を分ける10のパラダイム
1.苦痛のパラダイム
この人は苦痛を外に吐き出すタイプ(他人を困らせる人)、それともなかにためるタイプ(自分をいじめる人)?
2.病理のパラダイム
この人のパーソナリティは病的なのだろうか?
3.医学のパラダイム
この人は精神に問題があるのだろうか、それとも脳にだろうか?
4.タオイズム(老荘思想)のパラダイム
この人は、思い遣りと支配のバランスがとれているだろうか?
5.境界(ボーダーライン)のパラダイム
この人は境界線をもっているか、またその境界を尊重しているか?
6.秩序のパラダイム
この人の防衛機能は洗練されているだろうか?
7.愛のパラダイム
この人はどんなふうに人を愛するのだろうか?
8.洞察力のパラダイム
この人の行為の表の意味の裏に隠された真意はなにか?
9.組織のパラダイム
この人はどんな組織に属しているか?
10.分類のパラダイム
この人のパーソナリティはどこに分類されるか?
@この人は親しい人間関係を築く努力をしているだろうか?
イエスなら「自分をなかにおく人」
ノーなら「自分を外に出す人」自閉症‥
Aもし親しい人間関係を築く努力をしているなら、この人はその関係のなかで人の上に立とうとするだろうか、それとも服従しようとするだろうか?
前者が「自分を上げる人」
後者が「自分を下げる人」
それから、ここは大切なので引用します。
じつは、本書に登場するすべての人が「困った人(painfull)」というわけではありません。「困った人」というのは、まわりの人たちに苦痛をあたえる人のことです。自分のなかに苦痛を抱え込むタイプの人は、「困った人」ではなくて、「自分をいじめる人(pain−full)です。」「困った人」は「外罰型」と呼ばれ、「自分をいじめる人」は「内罰型」と呼ばれます。「外罰型」はすべてを他人のせいにし、「内罰型」はみんな自分が悪いのだと考えます。前者は騒々しくて、すぐにかっとなり、後者はじっと堪え忍びます。 (23pより)
だれでも「困った人」になる可能性はあるのです。でも、この人達はたまりにたまった苦痛を吐き出しているだけです。身近にいる「困った人」にほとほと嫌気がさして、いっそ崖から突き落としてやろうかと思う前に、彼等もそれなりの苦痛を感じているんだということを思い出してください。 (25pより)
「困った人」として自分を考えると、
- 苦痛を外に吐き出していると言うより自分をいじめる方が強いような気もするけど、けっこう攻撃的で人に当り散らしたりもするからやっぱり「困った人」なのかな? と思うし、
- 病気なんだか・性格なんだか・人格障害なんだかワカンナイから、病院に行った方がいいのかどうか迷っているのだし、
- 脳に異常があるとしたらがっかりすると同時に、気張らなくて良いから楽になるだろうし、
- 私が「思い遣って」みんなのために考えてあげることはほとんど「人を支配している」ようで楽しくない・ついて行けないと言われてしまうし、
- 境界線がないから、人工的でおかしなひとりよがりの境界線を作って死守しているようなところがあるし、
- 防衛機能がないから苦労しているのだし、
- 観念的な「愛」以外は醜くて煩わしと思っているし、
- 洞察力はあっても、判断力がないから役に立たないし、
- どんな組織に属していても、帰属意識がないから困っているのだし、
- 完全に自分は外にいる・そう思っている・そう思い込んでいる・そのように思い知らされている・そう思ってしまう。真実はそのうちのどれかなのだろうけど、全部だと思っている。
なんて考えると、十分に「困った人」なのだろう。だからこそひとり浮いているわけだ。でも、自分と違う人に遭ったり意見が衝突するなんていう日常茶飯事ぐらいで、普通、人は困らない。それは、ちょっとしたイライラの原因程度でしかない。「困った人」である私を困らせるのは、確かに、やはり「明らかに困った人」なのだ!
では、多くの人に迷惑をかけている「明らかに困った人」と「困った人」である私を識別する指標は、どこにあるのだろう? 結局は、下の1と2とのバランスなのではないだろうか。
- 「困った人」の為に困っている被害者の数。
- 「困った人」に共感し、理解している仲間の数。
たとえ仲間がどんなに沢山いても、被害者が多ければ十分に「明らかに困った人」だし、言動の真意をわかってくれる「理解者」=医者・学者・親・本人・友人は少なくても、それほどの害がなければ「明らかに困った人」とは言われない。
人は誰しも何らかの欠点を持っているけれど、ほとんどは無害です。誰もが「困った人」になり得ると言っても、必ずしも「明らかに困った人」になるわけではありません。それに、自閉症や注意の欠陥などの原因で社会性が無くて"してしまう"「困ったこと」は、私に言わせればかわいいものです。でも、私を困らせる「いじめ」という「困ったこと」は、ちっともかわいくない。それは、社交性と感情という、大多数のニンゲンが持ち合わせている能力を意図的に駆使して、徒党を組んで仕掛けてくる攻撃だからです。
でも"むこう"にすれば、常識(一般的な良識ではなくローカルな「郷に入れば郷に従う」と言う意味での)もないのにお高くとまって・頭ごなしで・打ち解けない<私>をかわいいなんて思うはずもない。お互いが相手を理解するためのカギもカギ穴も持ち合わせていないのだから、すれ違いは永遠に続くでしょう。だから、私はHPを作ってネット上に「理解者」を求めました。むこうはむこうで、飲み会や井戸端会議のネタにしているでしょう。お互いに自分の守備範囲でしか考えられないから、会えば会うほどあちらは感情を暴走させ、こちらは厭世観に走るのです。そう、いくら相手の事情や立場を考慮しても、トンチンカンの見当はずれなのです。そういう人達とは係わらないのが無難と言うものです。
今回、敢えて「人格障害」全般に言及して、人種が違うニンゲンに「思いやり」を見せているのは何故かと言うと、私が一貫して≪本人≫にこだわっている理由がここにあるからです。
今現在、既に、親や医者・学者の立場から「理解」を求める「障害」関係のHPは数多くあります。子供はそういう庇護者に守られています。しかし、病名や症状を口に出せる状況に常にいられるわけではありません。世の中には、言って分かる人とそうでない人がいるからです。分かる人には何でも言えば良いけれど、分からない人に下手に言うと、こじれます。医者や学者は子どもの育て方を間違えないように心配して、親に説明してくれますが、相変わらず≪社会≫は無知なままです。実際に接したことのない人・関心のない人にいくら説明しても理解されるはずもありません。それに、報道される情報が必ずしも的を得ていないことだってあります。明らかな「誤解」がまことしやかに語られる危険もあります。
≪本人≫は、そういう≪社会≫にひとりで投げ出されます。幼稚園・保育園から始まって小学校・中学・高校・大学等を経て、本当の社会人になります。≪親≫は「理解」と「無理解」の間を行き来しつつ、その時までに"どれだけのことができるようになるか"心配します。馬鹿にされないように基本的な知識を身につけて欲しいし、生活に必要な技能も必要だと思うのは、当然の親心です。しかし、≪本人≫にしてみれば、辛らつな言葉を浴びせられた時・失敗した時・思い通りにならない時・まわりとのギャップを感じた時・孤独と疎外感にさいなまれた時に、どう自分を立て直して心の平静を取り戻すかといったことの方が大切なのです。
親の立場からすれば、「あれができない」「これができない」「こういうことがあった」「ああいうことがあった」「こう言われた」「ああ言われた」ということが気掛かりで、それを解決する方法を求めたくもなるし、同じ悩みを持つ≪親≫同士の情報交換が必要になるでしょう。そうして≪親≫としての気持ちを落ち着かせるのは良いことです。でも、大切なのは≪本人≫にどう話すかです。「どうしてもできないこと・わからないこと」を無理強いしてはいけない、かといって「やらなくていい」と思わせてもいけない。せっかく知識があっても、その使い分けができなければ宝の持ち腐れです。
それから、≪本人≫の気持ちを考えずに安易に「告知」するのはいけません。「告知」するには親子ともにそれなりの覚悟が要ります。「障害」を持って生まれたからといって「もう、人生は終わりというわけではない」「気長にじっくり付き合っていこう」「だからこそ人一倍努力しなければいけないこともある」「良いところもたくさんあって、好きだよ」といったフォローもできないのに「宣告」してしまうのは酷というものです。
たとえ障害の程度が重くても、二次的な障害を起こさなければ活路は見出されます。二次的な障害は、「無理解」から起きます。まさに、≪本人≫の一生を左右するのは、「何ができるか」ということより「どういう人に出会うか」、つまり、何人の「理解者」に会えるかなのです。あれもこれもできたって、「生きる基盤」がなければ不幸です。逆に、できることは少なくても自分に自信が持てるなら、「生きる力」につながります、きっと。
大切なのは、「何も言われない人にする」ことではなく、何か言われた時に、「私はこういう人なので」とひとこと断れる人になることです。そして、どうしても理解してもらえそうにない人には近づかないことです。
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