ここではない、どこかへ

こんな日本的な価値観などとっくに無くなっている場所も、日本列島のどこかにはあるでしょう。でも、ほとんどの地域には、まだこの考えが根強く残っています。たとえ、こんな人が近所にはいなくても、親戚の中には必ずひとりはいるでしょう。それに、アニメやゲームの筋立てでも、必ず一匹オオカミ的なキャラクターは登場するけれど、最終的には仲間を信じて団結するオチになるのがお決まりです。

「体が丈夫なこと」「人と仲良くできること」という二大資本に恵まれずにこの国に生まれて、「ここではない、どこかへ」行くことばかり考えている人がいます。でも、その人は、愚痴を言わないし、表面上はとってもうまくやっているように見えます。ただ、構造的に≪群れ≫ることが出来なくて、人と打ち解けることが出来ないだけで、普通の人です。それなりのやり方で人に関わっているので、誰もその人の≪孤独≫に気づきません。

ひとつひとつ 仕組み(もの)を知れば 子どものままではいきてゆけないと

変わりゆく他人(ひと)を遠くに見ては 時代の息吹に身をさらす

ここではないどこかへと 胸を焦がすよ

無邪気な季節(とき)を過ぎ 今誰もが戦士達

2度とはない風の香り あといくつもの

扉をたたいて この痛みを和らげる

GLAY『ここではないどこかへ』より

と、歌詞ならこう続きます。大人に成りきれず、戦士に成り切れてもいないのに、ワガママを言えず、そんな素振りも見せられないでいる。そんな人の存在を認めてしまったら、きっとこの国は国として成り立たなくなってしまうでしょう。反抗できたり、次から次へと問題を起こせる人の方が、ある意味では得をしているような気がします。

もし仮に、そんな人達が本やHPの情報を見て、どんどん病院に行くようになり、世の中にアスペな人が溢れ出したら、私はそっぽを向くでしょう。だって、もう、私が叫ばなくても、こういう人がいることを伝え・説明し・支援してくれる人たちがいるのですから…。私は、ただ、私でありつづけるだけです。そして、書きたいように日記を書き続けるでしょう。

今まで、たくさんの人に関わり、助けられながら、意識の上では"ひとり"で生きてきたように、これからも日常生活においてはその意識のまま、ただ、完全に"ひとり"ではないと知って生きていくでしょう。今まで、愛しているというサインをたくさんたくさんもらいながら拒絶し、群れたくないというサインをたくさん出しながら拒絶されてきたように、これからも同じことの繰り返しになるでしょう。

そのことを人に認められようと認められまいと、私は私であることに何の変わりもないのですから。


           

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