RACING SIDECAR, Machine & Frame History    Jan.19/2000
 

 

 サイドカー世界選手権として開催される以前のレースは、2輪車に側車を付けたものであります。年代は違うのですが、海外等でクラシックレースで使われているのが右写 真です。マシンイメージはこの様な物でありました。
 ここではレース車両としての歴代マシン、フレームを紹介していきます。
 

   

 

二−ラ−の登場

 俗にレーシングサイドカーは「二−ラ−」とも呼ばれています。その訳は、ドライバーがマシンを膝(Knee(二−))でグリップする事からその様に呼ばれたのです。その発端は、世界選手権が始まった1949年から3年間チャンピオンを獲得したエリック・オリバー選手(イギリス)が椎間板ヘルニアを患い、少しでも姿勢的に楽な負担のかからないポジションが必要になった為と言われています。
その結果、オートバイのお尻で着座する姿勢から、四つん這いになり、膝でマシンをホールドするように改良されたのです。

 
  初期に時使われたそのマシンは「Norton」製であり、1949年から6年間チャンピオンマシンとして活躍します。残念ながらここで画像でご紹介する事はできませんが、膝でポジションをとる事から必然的に車高が低くなり、街乗り車両より低重心な車両へと進化したのです。
 それ以降現在まで、その基本骨格が守られたまま進化してきました。
 
 

BMW製マシンの独断場

 BMWマシンと言っても、使用エンジンがBMW製である訳ですが、この「BMW」が1954年以降21年間に渡り、チャンピオンメーカーとして活躍します。
 右の写真にご紹介するのがその当時の典型的なマシンです。
街乗りサイドカーとは似ても似つかないスタイルになっています。ここで先にお話した様に、膝でホールドする姿勢をとることから低重心化されている事が判ります。この時代のマシンの特徴としてはドライバーの腹部下にエンジンが配置されている事です。つまりオートバイを押しつぶした様なイメージです。
 この低重心化できた要因には、BMWのフラットツインエンジン(エンジンの紹介は、エンジンのページで記述します)があった為と言われています。

 

 


 BMWと共に活躍したのがドイツ人チームでした。その背景にはドイツが国威をかけてこのレースに取り組んだと言われています。その為数多くのドイツ人チャンピオンを生み、このパッケージ以外は全く歯が立たないくらいサイドカークラスを支配し続けたのでした。

 
 

BMW打倒への道のり

 勝ち続ける者がいれば、それを打ち崩そうとする者が現れるのは必然的な事です。まず連勝ドイツ人チームからタイトルを奪おうとする勢力が現れました。スイス人の「フリッツ・シャイデッガ−」と言う人物でした。マシンはBMWではありますが、ノーマルに近いエンジンで立ち向かい、65、66年にスイス人としてチャンピオンを獲得しドイツ人からタイトルを奪います。

 その時に製作、使用されたマシンが右の写 真のものです。
フリッツ・シャイデッガ−、設計者であるルディ・カース彼等の意欲作であるこのマシンは、従来も車高から更に低く製作され、他の者の度胆を抜いたのです。
ルディ・カースは更なる開発を進めます。現在はモノコックフレームですが、この原形ともいわれるフレームをステンレス鋼板でこの頃から製作し始めます。

 


更にBMWエンジン打倒にその技術を注ぎ込んだのでした。使用したエンジンはここで初めて2サイクルエンジンが使用されます。そのエンジンは船外機用クレッセント製3気筒でした。これを上図マシンに搭載した結果 、その効果を発揮し始め各サーキットでレコードを塗り替え、遂に75年BMWからタイトルを奪取、チャンピオンマシンとなったのでした。
 この年をもって、長年21年続いたBMW帝国は幕を閉じる事になります。

 
 
 

2ストロークマシンの発展

 BMW時代を終わりを告げた76年、これまで活躍してきた2ストロークマシンが更に発展をしていきます。

 76年からはTZ750をベースとした2サイクル500ccが使用され始め、サイマツ製作によるフレームに搭載され登場する。
また同時期に先にBMWを打ち崩したルディ・カースが開発したマシンが活躍する。左の写 真にあるエポックマシンがそのマシンです。このマシンの特徴は、エンジンに2サイクルTZ350+1気筒=500ccを搭載している事と、カー側(側車車輪)もステアさせる機構を持たせた事にある。革新的技術であったと共に、これにより飛躍的にタイムが向上したのでした。

 

 

幻のマシンBEO77A

 いつの時代にも余りにも斬新すぎる為、闇に葬りさられる物があるものです。レーシングサイドカーの世界でもそのようなマシンが存在したのです。そのマシンが78年に登場した「BEO77A」と言うマシンです。

右の写真がそのマシンです。
御覧の様に、後輪とサイド車輪が同軸上に配置され、その2輪が駆動されるといった物です。車輪のレイアウト上、二等辺三角形になり、パッセンジャーの過重移動なくとも安定した走行ができるようになったのです。パッセンジャーは着座したままであるので、従来の車輪配置マシンでブレーキング時等に呼吸が合わなくなった時、スピンする事もあったのですが、その心配もなく二等辺三角形の車輪レイアウトを持つだけに左右のコ−ナリング特性も変わらず、高速なコーナリングが実現。加減速の際も直進性が損なわれないマシンであり、車重は230kg(現在は190kg以下)と重かったので直進での最高速は劣るものの、コ−ナリングを生かしたその戦闘力は他を圧倒したのでした。
 それ故に初登場したシーズンにも関わらず、その年のシリーズチャンピオンを獲得してしまいます。ドライバーは、通 算5度の世界チャンピオンを獲得し、サイドカーの帝王と称されたロルフ・ビランド。元WGP GP−1Muzチーム監督その人です。
しかしながら、レギュレーションにも合致、理論的にも認められたものの、パッセンジャーが過重コントロールするサイドカーとしては認められないとの論議になり、この年をもって姿を消す事になります。

 

 


 このマシンを開発した人物は、スイスの大学研究生であり学位 論文のテーマを探していた時、たまたま見た不安定な乗り物サイドカーレースを見て、もっと安定な乗り物として開発する為に生まれたマシンでした。それをスイス人であるロルフ・ビランドの為に製作したのでした。

 翌79年、研究心旺盛なロルフ・ビランドは側車ホイールもステアでき、ドライバーが4輪のように座るタイプのマシンを投入し、チャンピオンを獲得しますが、このタイプのマシンはこの年をもって廃止となる。
これを期に、モータサイクルの基本思想を改めて定義される事になります。
 ・ステアするホイールは、前輪のみ。
 ・前輪と後輪は前後同軸上に配置される事。
 ・駆動輪は後輪のみ。
以上、基本的レギュレーションとして定められたのです。

 

 
 

LCRのフレーム革新

 79年頃からLCR製(ルイ・クリスチャン・レーシング)フレームが登場します。現在ではLCR製モノコックフレームが主流ですが、どのような進化をしてきたのでしょうか。サイドカーの技術としては大きく進展する事になります。

 右上にある写 真はLCR初期型ですが、今迄の技術からすれば後退したようになります。フレームはチューブパイプフレーム。右下はロルフ・ビランド80年号、フレームはセミモノコックを採用していますが、エンジンはドライバーの腹部に配置され古いデザインのものであった。

 81年LCRから新しいタイプのフレームが投入される。現在のスタンダートであるフルモノコックの初期型である。この開発には76年からサイドカー世界選手権に参戦している日本人ドライバー熊野氏の協力があった。

 これまでエンジンはドライバーの腹部配置されていたが、より早く走る為より低重心化が望まれるサイドカーでは限界が見えていた。それを解消すべくとられた配置は、ドライバーの後ろにエンジンを配置するというもの。
これによる効果は、ドライバーがエンジンを抱える事がなくなったので、ポジションがより低く設定できた事。エンジンは後方に配置され、ホイールベースが長くなったので、加減速時の前後重量 移動配分が減少した事、直進安定性が増した事。以上の要素から、より高速で安定して走行可能なマシンになったのである

 モノコックフレームの材質は硬度アルミニウム。タイヤはこれらを生かす為、4輪用幅広トレッドをもつ物(フロント6.9〜8.0inch,リア9.0〜11.0inch)が採用される。タイヤメーカはAVON,M&H製。

 右2段め画像にもあるように、タイヤ幅が広くなった時オートバイの様なキャスター角が大きいと操舵した際、タイヤの設置面 積が減少してしまう。その為4輪に近い5〜7度で設定される。ステアリング機構としても2輪の機構は背が高くなる為、投影面 積が大きくなり不都合。
結果4輪のダブルウイシュボーンを応用したフロントサスペンション機構を持つ。
 サスペンションユニットは前後に装備、フロントはモノコック内に納められる。側車はリジットマウントである。

 


 

 
 

 結果、概観は下写真にあるようになり、従来のスタイルから一新されたマシンになった。(写 真は82年チャンピオン、シュバツエル組、サイマツ製マシン、エンジンは2ストロークTZ500ベース)

 これだけのフォルムを備えると、4輪レーシングカーの様に空力を取り入れる動きも出てきた。ボディ下部の面 積が広くなったので、負圧を利用し荷重を増加させる方法である。だたウイングカーの様に積極的に負圧を利用するものではない。何故ならば、サイドカーの場合パッセンジャーの動きにより過重コントロールする要素があるので、過重差が大きくなってしまい、路面 ギャップなどによりジャンプした際、宙に舞う危険性があったからである。
 その為、車体下部の負圧を利用した安定性を更に向上させる方法として、ホイールストロークを限りなく小さくし姿勢変化を抑え、車体下部の整流効果 を促進させる方法をとっている。

 その結果コーナリング特性を生かし、この時期で区間タイムが2輪500ccよりが速い場合もあった。また最高速は250km/h前後を記録していた。

 

  上の写真は83年サンマリノGP。現在の基本的フレーム骨格はこの時期に完成され、以降細かな改善がされて行く事になる。

 その一つ、空力を利用する試みは研究心旺盛なロルフ・ビランドにより以降テスト的にトライされる。
 しかしいずれもシーズン通して使用される事はなく、断片的にウイングを備えた物が使用されるに止まっている。
写真下は、フロントノーズ部にウイングを備えたマシン。ドライバー後方にあるものは、エンジンへのエアーインテーク。

 

LCR時代

 81年にモノコックタイプを投入したLCR製マシンは、94年迄16回程シリーズタイトルをとり続ける。他にサイマツ製、Windle製フレームなど存在したが、その中でWindleがタイトルを手中にするのが95年。LCRはBMW時代に続き、安定したマシン(フレーム)となったのである。
 コンストラクターさえ違えど、モノコックの基本的構造は変わらない。

 マシン・パッケージとしては、LCR−Yamaha(1979〜1986),LCR−Krauser(1987〜1994)がタイトルを獲得します。LCRフレームに各チームがチューンしたエンジンを搭載する。

 右写真は93年チャンピオンを獲得したロルフ・ビランド組マシン。このマシンのカウリングは風洞実験でテストされ、Cd値を限り無く低く実現しています。ロルフ・ビランドの空力に対する意欲が伺えます。このマシンは170ps、トップスピードは280km/hを記録しました。

 

 93年末には日本来日し、富士スピードウエイにて日本人世界選手権ドライバー熊谷氏と共にその走りを披露してくれました。

 
 

発展とその後

のように、レーシングサイドカーは劇的な発展を遂げてきました。得に70年代から80年代にかけての進展には、ヨーロッパのモータースポーツ文化の技術と共に、その情熱を伺い知る事ができます。しかもメーカーが一切介入していない中でです。

 そしてまた1998、99年を期に、新たな取り組み、フレーム構造があみ出されています。
詳細は、次の
Machine & Frame 2 ページで紹介します。

   
 

世界選手権での、LCRフレーム諸スペック

       

Chassis: Aluminium Monocoque.

Suspension: Centre Hub Wishbone,
       steel sprung with oil damping.

Steering: Multi link LCR design.

Brakes: Dual circuit system,
     carbon fibre fully floating disks,
     using titanium multi piston calipers.

Fuel Tank: 43 litre fuel cell,
      constructed within the monocoque.

Bodywork: Carbon / Kevlar.

Passenger Platform: Honeycomb Carbon / Kevlar.

Weight: 165Kg.

Tyre & Wheel: FRONT 210-515-13 YOKOHAMA
         REAR 240-515-14 YOKOHAMA
         SIDE 225-515-13 YOKOHAMA