chapter 1

戦場よりも、路地裏のバーが似合いそうな軍医だ。


はじめて見たときそう思ったが、腕は確からしい。ロイが青くみえるほど白い腕を差し出すと、医者は肘の内側を軽く撫でて、皮膚の下の血管をすぐにみつけた。天幕の中、ロイの腕と横顔だけが揺れる灯りに白く映えて、他のすべては薄茶色にくすんで沈む。


注射針は戦場に似つかわしく武骨に太かった。消毒液の匂いが鼻腔を緊張させたかと思うと(恥ずかしながら俺は注射が嫌いだ。地雷撤去の方がマシ)、医者は何も言わずに透明なアンプルの中身を針で吸い上げ、ロイの腕に注ぎ込んだ。ロイは自分の腕に刺された針を、まるで不感症の女のような冷たい無関心さで眺めている。むしろ医者の方が辛そうに見える。


ロイは最初、白い錠剤を飲んでいた。「睡眠薬だよ」と俺に言っていたが、つまりは麻薬に近い精神安定剤だった。その数が一錠から二錠、そして三錠になると注射に切り替えられた。意識が拡散し、感覚が鈍り、ぼんやりと、深く物事を考えられなくなる。十数分で眠気に襲われ朝までぐっすり…ならいいが、最近は夜中に目がさめてそのまま眠れない様子だ。ときどきふらっとテントを出て、青白い月を見上げて戻ってきたりする。

それでも明け方には、律儀に寝袋のなかで寝たふりなんかしている。俺に気をつかったりすんじゃねえ、馬鹿。でも横になっているだけでも、少しはマシなはずだ。だから俺は、狸寝入りを暴いたりしない。悔しさを飲み込んで「おはよう」と笑いかける。


「どうだ、体調。なんか変わったことは…、昼間に眠くなったりしねえか?」


針を抜き、ちいさな傷口の処置をしてやりながら医者が訊く。ロイは曖昧に首を横に振って、それからちょっと微笑って言った。


「朝、勃たなくなったんですけど。副作用ですか」


ロイがそんなことを言うのに、医者も俺も面喰らった。突然吐かれた切実な冗談は、何だかとてもロイに不似合いで、笑いではなく微妙な間を生んだ。

多分それは、二人揃って神妙な顔をするなというロイの気遣いだったんだろう。そう、俺が起こすときに、いかにも寸前まで深く眠っていたように目を開くのと同じ。「おはよう」とこたえて、まだ眠そうにゆっくりと、天幕のなかをたゆたう空虚な黒い眸。


「勃たねえほうがラクでいいだろうが」


医者はすこし遅れて苦く笑うと、注射器のシリンダーから針を外してアルミのトレイに捨てた。性交の後、使ったゴムを放り捨てるような気怠い手付き。くだらない俺の連想。ロイは宛てがわれた止血綿を指で押えながら、淡い笑みのままに立ち上がった。


「酷いな、戦争が終わったら軍を訴えよう」
「ああ、間違っても俺を訴えんなよ。軍を訴えろ」


医者がちらっと俺へ視線を寄越した。しっかりテントまでつれてけと目で言った。言われるまでもねえ、と俺は口を歪めた。軍医が可笑しそうにふっと笑うのを目の端に、俺は天幕の出口を上げて、もう少しぼんやりしはじめたロイの腕を取った。






外は明るくなりはじめていた。東の山端が白く浮かぶ。
ロイは俺に手をひかれるままついて来ていたが、足取りはだんだん重くなり、ついに止まった。

「…ローイ、だるいか?」

そろそろ夕飯だって頃に、突然引っぱりだされて行ったんだから、疲れて倒れても不思議じゃない。ロイが「一仕事終えて」帰ってきたんだってことは、泥だらけの軍靴と独特の匂いで分かった。人の焼ける独特の…、吸い込んだ肺の奥に張り付くような粘っこい匂い。飯もろくに食わせねえで、武器並みに便利に引っぱり出して、それで将校扱いだとはまったく馬鹿な話だ。


おぶっていこうかと振り返ったが、ロイは立ち止まって、山端から光が生まれるのをじっと見ていた。敬虔な宗教者のような眼差しで。こんな顔をしているときは、邪魔できない。俺も黙って、今日の太陽が吐き出されるのを隣で眺めた。世界に光が、少しずつ充ち渡る。


「あの向こうに、クセルクセスがある」


静けさを破ってぽつりと、憧れを含んだ声でロイが言った。イシュヴァールの向こう、東の大沙漠にある、遥かな王国の遺跡。そこには、いにしえの錬金術の痕跡を抱いたまま、砂に還ろうとする廃虚があるという。

行きたいな、と、またロイが言ったような気がした。強い風が渡って、よく聞こえなかった。






「マース、ここ、これ」


まだちいさいロイの手が、厚みでうまく開けないような本をめくって、その頁を俺に見せたことがある。世界の遺跡や、それにまつわる伝承が詰まった学術書。そのなかに、クセルクセスを訪ねた人間が撮った古ぼけた写真があった。それから、最盛期の王国を想像して描かれた細密画。

錬金術師にとって、その国は理想郷に見えるんだろうか。その術によって滅んだと伝えられていても?ロイは目を輝かせて図版に見入った。特に、誰もが錬金術の恩恵に与って豊かに暮らしている様子を描いた絵や、砂が飛んでよく見えない、王宮の壁に刻まれた錬成陣の写真を。


「ここから来た東の賢者が、アメストリスに錬金術を伝えたんだ」


嬉しそうに語るロイを見て、幼い俺はおもしろくなかった。東の賢者とやらの想像図も、やたらにカッコ良く描かれていて気に食わない。まだどこか頼り無いロイの指が、賢者とやらの顔を憧れるようになぞるから、俺は思わず「賢者ってんならもっとじーさんだぜ」と、その気取った肖像画に、横から盛大に髭と皺を描き足した。それから三日、ロイは怒って口をきいてくれなかった。






今だって、そいつのことは好きじゃない。
その賢者がいなければ、ロイはきっと今、戦場になんかいない。
錬金術なんか、伝えてくれなくて結構だ。無ければ無いで構わないものだ、と俺は思う。そんなものに、眠れないほど苛まれるロイを見るのはやりきれない。

それでもしかし、錬金術師でないロイというのはピンと来ない。ごく普通の学者になったりしただろうか。花には根があるように、ロイは出会ったときからずっと錬金術師だった。錬金術から生まれたと聞いても、納得してしまうような。


…花?またとんだ例えだ。

自分のとりとめのない思考に黙ったまま苦笑すると、今度は明らかな声がした。


「見たかったな」


ロイの視線はとおくへ投げられたまま戻らず、抜殻のように無表情だった。喋るのが不思議なぐらい空っぽだった。握ったままの手も冷たい。


「これが終わったら、いつでも行けるさ」


手を握りなおすと、ロイは薄目をひらいて俺を見上げた。それからすこし笑って「戻ろう」と言い、俺の手を離して国旗が翻る兵舎の方へ戻っていった。ふらふらと風に煽られるロイの、擦り切れたコートの裾。俺は、ありきたりな、何の慰めにもならない台詞を吐いた自分にうんざりした。マース・ヒューズは、あの糞っ垂れな錠剤以下だ。

















懲りずに続きもの(本人がいちばん不安です…)(2005.04.21)