chapter 2

ロイの送られる戦場は、沙漠から市街地に移っていった。武装していない子供や女も一網打尽に「殲滅」する錬金術師は、自軍の兵士からも冷ややかな目で見られるようになった。戦争の意義を誰もが多かれ少なかれ疑い始め、厭戦の渦はひそやかに、それでもたしかに前線に拡がっていった。






「きっと爆風のせいだと思う」

ロイは右の耳を軽くさすって、まるで悪戯がみつかったみたいに上目遣いにそうっと俺を見た。さとられまいとしてきたことを謝るような、淡い笑みで目のふちを膨らませて。

「いつからだ」

ロイはこの数日様子がおかしかった。呼び掛けても反応が鈍い。疲れているのかと思っていたが、あまりにも続くので訝しみ、問いつめるとあっさりと、片耳がどうも聞こえづらいと白状した。

「…三、…四日、前かな…」

その日の作戦には俺も同行したが、それほど大規模な戦闘にはならなかったはずだ。ロイは訊問を受けるようにちんまりと、寝乱れた寝台の上に座っている。短い前髪のはえぎわが、汗でうっすらと光る。沙漠の昼は耐え難く暑い。テントのなかにいても消耗する。額の汗を手のひらで拭ってやる。熱はないが、頬は上気し、赤みをおびている。


確かに、戦場での轟音も一因だろうが。

俺はロイを横たえながら思った。手を差し入れた首の裏側は、熱い汗に濡れている。青がかった黒い髪が、白い首筋に張り付いて緩い渦を描く。

あの薬の副作用じゃないだろうか。アレ系の薬は、乱用すれば視覚や聴覚に影響すると聞いたことがある。何を打っているのか問いただそう。

「どうすりゃいいか、あのオッサンに訊いてくる」

そう言って立ち上がる俺に、何かいいたげなロイが手を伸ばした。その手はのろのろと俺の袖口を掴んだ。

「…何か欲しいか?水?」

大きな黒い眸が笑った。天幕の隙間から差し込む夕陽の欠片が、こめかみに浮いた汗を光らせた。

「喧嘩、するなよ。軍医殿と」

見抜かれて思わず短く押し黙った。俺を見上げるロイの眸は、熱気と疲労で半ばとろけるように潤んでいて、「しねえ」と言ったつもりだったが、喉にひっかかって掠れた。

「怖い顔してるぞ、ヒューズ」

どうせ元々だ、と言い捨ててテントを出ていく俺の後ろで、困ったような、笑うような溜息がゆっくり漏れた。







夕陽が沈みはじめると、一帯は急に冷え込む。砂を含んだ風がひやりと頬にあたる。軍医のテントは宿営地の端にあり、俺は歩いているうちに、あの目つきの悪いオッサンが悪いわけじゃないなと少しは冷めた頭で思った。夕飯の配給があるのか、誰もが逆方向に急ぎ足に流れて行く。風邪薬を飲ます前に、飯も食わせなきゃな。

戦場で、よく他人の世話をそんなに焼けるなと言われることがあるが、それは逆だ。自分のことだけを考えていれば、すぐに滅入って参ってしまう。ときどき、ロイはわざと少し、俺に甘えてくれているのかと思うことがある。


ずいぶん前を行く将校らしき後ろ姿が二つ、軍医のテントへ入っていった。遠慮すべきか、とも思ったが、ぼうっと俺を見送ったロイの眸が思い出された。何か処方してもらって、さっさと退散すればいい。テントからこぼれた光が軍靴の先を照らし、天幕の外から声をかけようとしたとき、中から漏れ聞こえた名前。


「……スタングくんはどうだね」


聞き覚えのある声だ。尊大で威圧感がある。俺は、足音を消して半歩下がった。


「…別に変わりなし、ですがね」


渋々といった風に答える声は、低くしわがれたあの軍医の声だ。もう一人、今度は甲高い声の男が喋る。

「管理が面倒ですな、学者あがりの頭でっかちが多くてたまりません。戦闘のたびにクスリじゃ、錆びつくのも早い」
「そう高い薬じゃなかろう、戦果からすれば安いものだ」

ああ、ロイの…錬金術師が配属された部隊の大隊長と副官、だ。見つかると少々面倒だと思い、テントの横に積み上げられた木箱の影に身を隠した。

「薬が要るほど辛いでしょうかね、あいつらがやってるのは戦闘というより工事現場の発破のようなもので…。ナイフや銃で殺してるわけじゃない、距離感があるでしょう」
「手を汚していないと?」
「そうです、パチン、とかポン、で、ドッカーン、と」
「はは、君が言うと手品のようだな」
「ああも簡単に派手な戦果を上げられては、兵卒はとても適いません。戦意を下げるばかりであります」

こんな罵言はもう聞き慣れた。だけど、上官までこんなクソ野郎じゃやりきれない。パチンと指を鳴らす音まで演じてみせたのは、まぎれもなくロイを揶揄してのことだ。ロイが手を汚していない?返り血も浴びず、スコープで狙いもしないから?怒りが気配に出ないよう、意識を散らそうとした、その時。


「武器に命があったら」


ずっと黙って二人のやりとりを放っていた医者が、凄みのある声で言った。


「どんなに辛いか、あんたらに分かりますか」


将校二人は揃って黙り、わざとらしい咳払いをしてから口を開いた。

「…いや、まあ…、」
「ちと言葉が過ぎましたかな」

宥めるような卑屈な声の後、書類が机の上に投げ出される音がした。

「御所望のカルテだ」

隊長は何も言わずにカルテを取り上げて捲った。張りのある紙が鳴る音。


「…ゾルフ・キンブリーは、何も服用していないのかね」


意外そうな隊長の声。天幕に移る医者の影が、揺れながら頷いた。勘に触る声が続く。

「最近、度を越しておりますな。薬を飲ませたら少しは落ち着きますかね」
「…いや、奴はもう…、」
「そろそろ、ですか。大人しく撃たれてくれるタマですかな」

副官が忍び笑うと、隊長はカルテの束で男の頬をはたいた。余計なことを言うな、という風に。嫌な声はそれきりしなくなった。

「マスタングくんも、思いの外安定しているようだ。引き続き宜しく頼むよ」

隊長はカルテから数枚を抜き出し、残りをテーブルの上へ戻した。医者は何も答えず、頷きもしなかった。抜き取ったカルテを副官へ渡すと、隊長は先に天幕を出ていく。副官があわてて後を追う。






二人が遠ざかってから俺がテントの幕を捲りあげると、医者は驚きもせず面倒そうに座ったまま目を上げた。きっと気付いてたんだと直感する。俺が背にした月光が、オッサンの眼鏡の上、片方のレンズに白く反射した。


「…よォ、何か用か。兄ちゃん」


男は机の上のカルテを、急ぐでもなくもっさりと集めはじめた。


「ロイの耳が聴こえなくなった」


医者はカルテをまとめると、揃えもせずにファイルに突っ込んだ。それから凹んだカップに半分ほど残った、埃の浮いたコーヒーを啜って俺を眺めた。

「両方か?」
「…右だけ」
「ならいいじゃねえか。片方聴こえりゃ問題ない」

目の前のオッサンの胸ぐらを、掴み上げてやりたい衝動を何とかやり過ごした。それはただの八つ当たりだ。こいつは軍医として俺より遥かに発言力がある。面と向かってロイを庇えるほどの力がある。俺はこうやって、薬や食事を取りに回るのが精々だ。そう思うと情けなくて腹立たしい。

「…問題だ、あの薬の所為だろう」
「疲れてんだろ、放っときゃ治る」
「四日も治ってねえんだ」

たたみかけるように言うと、医者は片眉を上げて冷たい一瞥をくれた。


「四日も気付かなかったのか。たいしたお目付役だな」


俺は返す言葉を失って、悔し紛れに噛み付いた。

「ロイのカルテも渡したのか」

男は「いいや」と肩を竦めてまたカップに口を付けた。ぞぞぞ、と泥水を啜るように飲む暢気な音が、俺を余計に苛立たせた。


「あのカルテで何を選別してんだ、あんたは医者の癖に知ってて、…撃つって」


思わず声を荒げた俺の額に、いきなり鋭い衝撃が来た。一瞬撃たれたかと思った程の。硬い音を立てて地面に転がったのは、ブリキのコーヒーカップだった。
飲み残しの温いコーヒーが、目眩の後に顔に掛かった。それは血のように顎から喉の隆起を伝い、襟首へ沁みた。


「デカい声でわめくな、馬鹿。
 それでも士官学校の首席か、テメエの脳味噌で考えろ」


考えるまでもない。カルテに処方された薬の量を見て、あいつらは暴走しそうな術師への監視を強め、あるいは処分する。ガタが来た武器は廃棄する。俺だって当然の判断だと思うだろう。そのなかに、ロイがいなければ。

医者は机の下から錠剤の瓶をいくつか取り出して、ちいさな黄色い錠剤を突っ立ったままの俺に握らせた。

「安心しろ、ただのビタミン剤だよ。カルテにも書かねえ」

自嘲を含んだ声が耳障りで背を向けた。俯いた弾みで、額がズキと痛んだ。何だもう、何なんだ、畜生。わめき出したい自分をかろうじて抑えた。


「それからな。
 俺はもう、とっくに医者じゃねえ」


そんな言い訳じみた懺悔は聞きたくない。特にあんたの口からは。
俺は振り向かず、軍服のポケットへ錠剤をしまうと、その袖で顔のコーヒーを拭ってテントへ向かった。








テントのなかには、まだ灯がともされていなかった。もう寝ただろうかと思ったロイは、寝台にうつぶせて月明かりで本を開いていた。


「目も視えなくなっちまうぞ」


苦笑して呟いた声は、こちらに右を向けているロイには聞きづらかったらしい。それでも天幕の中へ外の明るさが飛び込んできたのに気付いて、首を傾げるようにしてこっちを向き、「おかえり」と笑った。俺はポケットから黄色い錠剤を出し、炊爨所で貰ってきた水と缶詰と一緒に渡した。ロイは寝台に座って薬を飲み、ナイフを握って缶詰と格闘しはじめた。芸術的に蓋を開けるのが下手だから、いつもしばし鑑賞してしまう。


そのあぶなっかしい手許を、隣に座って眺めながらまた思う。
ロイは、そう簡単に処分の対象にはならないだろう。


戻ってくる道すがら、俺はそう結論を出した。これまでの戦果、術の威力、そしてもともと軍人であるという点において。しかし戦局が終盤を迎え、大規模な戦闘が無くなったらどうだろう。錬金術師の力がいらなくなったら。ロイはこの虐殺の責任を被されるかもしれない。手柄を掠め取りたい奴も多いだろう。排除される理由なんて何だっていいんだ。考えれば考えるほど、ロイが無事に帰還できる可能性は低く思える。

軍人でありながら、軍からも疎まれる。いっそ錬金術の国家資格など取らなければよかったのに。ただの軍人であれば、形だけの少佐扱いよりももっとマシな、普通の


「コーヒーの匂いがする」


急に言われて、「オッサンの所で飲んできた」と少し慌てて答えると、ロイは可笑しげに「掛けられたんじゃないのか」と言って笑った。俺はきまりわるく笑い返して、ロイの手から缶詰とナイフを取り上げ、交代した。シロップの甘い香りがして、その中にとぷんと桃が沈んでいる。それを蜜のなかで切ってから、ナイフの先へ刺して口許へ運んでやる。夕食代わりに桃を半分。本当に安くつく最新兵器だ。泣けてくる。


ロイが残したもう半分を一口に食べて、俺はカンテラに灯を入れ、自分の寝袋を引き寄せた。今できることは明日の戦闘を生き抜くために泥のように寝ることだけだ。ありあまるほどの憤懣や不安を、俺はまだ解決できない。解決する力がない。士官学校にいたころは何でもできると思っていた。あの浮き足だつような万能感が少し懐かしい。今や、ただ耐えて進み、運に縋るしかない。覚悟していた以上に、生死を分ける網の目は粗い。

それでも俺がここにしがみつくのは、耐えた先に、もう少しマシな自分がいると思うからだ。せめてあのオッサン並みに嫌味のひとつも吐けるような。

けれど、戦場に等価交換など存在しない。払った苦渋に相応しい対価など用意されはしない。
これほど戦果を上げた錬金術師が、使い捨てにされるのだから。


「…どうかしたか?」


ロイが横になったまま、俺の眉間に指で触れる。知らず、刻まれていた皺を伸ばす。「やっぱり喧嘩したんだろう、瘤が出来てるぞ」、と言って指は、痛まないように額を撫でた。風に強く弱くなる灯に、枕元に置かれた本の表紙が映る。よれた革の上に花文字のタイトル。失われた砂の王国。読みこまれてボロボロになったお伽話。

まるで錬金術師そのものだ。
無力感が俺を、ひどくセンチメンタルにしていた。俺もきっと、戦争の不条理に倦きたのだ。


「…クセルクセスに、行こうか」


馬鹿に甘えた声が出た。驚いたロイは、一呼吸おいてから静かに笑った。

「ああ、これが終わったら」

戦場では手袋に覆われる、陽に焼けない白い手。もう子供の頃のようにちいさくはないが、それでも不思議にやわらかい。はじめて焔を錬成した日の誇らしげな笑顔が目に浮かび、俺の両手は衝動的にロイの腕を掴み、ごわつく寝袋ごと引き寄せた。強張る身体に構わず、聴こえる左の耳へ吹き込む。




「今、すぐだ」

















まだまだ続く模様…。(2005.04.24)