時折、流木が絡み合うようにして眠る夜に。
鼓動も呼吸も俺より早いな、と肌で感じる。
そんなに何を急いでるんだ、お前は。
もっとゆっくりしてくれ。生き急がないでくれ。
自嘲も湧くほどに女々しい心細さで、その背を掌で宥める。
背骨を辿る指の腹が、隆起の滑らかさに蕩けて、寂しさが胸に詰まる。
もっと深く、長い息を、どうか。
祈りは瞼の裏へ、幻影を浮かび上がらせる。
一歩ごとに薄れながら、流砂の上を歩いていくお前。
砂礫が黄色い靄になり視界を覆う。
眩しさと、痛ましさと、秘やかな羨望をもって俺はその手を引く。
するとお前は振り返り、やけに赤い唇を歪めて笑う。
眸は冬の星のように気高いのに、唇だけが娼婦のように崩れている。
その矛盾をこの腕に抱き潰して蕩かしてやりたくなる。
風のような呟きが、ヒュッと鋭く鳴って鼓膜を震わす。
水が欲しいんだ、マース。
この果てのない沙漠を一心不乱に踏破する為の、怒りが欲しいんだ ――例えばお前の死。
灰色の天井が遠く、近く。
焦点が合わないままに、夢が輪郭を失う。
ぐらりと揺れる視界の端に、吊られた点滴袋が見える。目に入ってくるすべてが疲弊しきった神経に触る。そのまま手放そうとした意識を、耳馴れた声が引き止めた。
「ヒューズ」
強張った声が、遠慮がちに触れてくる。
「…どこか痛むか」
窓に溢れる白い光を背に、ロイは堅い表情で俺を見下ろした。ロイが居るなんて卑怯だ。誰が知らせた。怪我に甘えて自堕落も出来ない。こんな顔で覗き込まれたら、たとえ死んでたって起き上がってやるしかない。俺は薄く笑ってから首を否定の方へ振った。ロイはゆっくり頬を緩めて、残量を確かめるのかちらりと点滴に目を遣って言った。
「脇を掠っただけだ、すぐ治る」
多分、生理食塩水だろう透明な大きいボトルと、小さい輸血のボトル。鼓動に合わせて落ちる雫。その一滴ごとに思考が戻る。輸液に鎮痛剤が混じっているんだろうか、脇腹は疼くが酷い痛みは無かった。
「骨は」
「やってない。そう長く此処に居なくてもいいようだ…、まだ動くな、馬鹿」
腕を押さえる手。その言葉に安堵して目を閉じかけ、違う、と思った。そんなことじゃない。それよりも確かめるべき事がある。見えない糸で吊り上げられたように、後ろへ吹っ飛んだ男。スローモーションフィルムの残像。
「クロフトは」
俺の腕を押さえたロイの指先が惑った。そしてその逡巡を読み取られまいとするように、腕を放して胸先へシーツを掛け直す。自由になる方の手で、その手首を掴んだ。短い前髪の下、ロイの眉が浅く寄った。
「…痛い、マース」
「死んだのか」
ロイは掴まれた自分の手首へ視線を落としたまま、口角を下げて頷いた。俺が戻ってもいいと言わなければ。戻るにしても、もう少し慎重であれば。握っていた手首を離すと、逆にロイが俺の手を取って握った。静かに、柔らかく。
「マース」
「いいから」
俺はクロフトの家族に伝えなくてはならない。あの写真の優しげな人に。そして可愛らしい娘に。ロイは躊躇ってから、それでもはっきりと告げた。
「地雷が周到に仕掛けてあった。お前が見つかったときには、もう」
どうせなら死は一瞬で訪れるといいと、戦場にいる者は誰しも思う。脚を失い、腕を失い、膿や蛆にまみれてじわじわと死ぬ事を思えばずっとマシだと。それでも故郷で帰りを待つ人間には、告げられる死の痛みに変わりは無い。突撃して銃弾に倒れようが、地雷を踏もうが、病舎で繃帯をぐずぐずにして苦しみ抜こうが、家族を失う辛さに変わりは無いのだ。どう告げても救われることは無い。言葉は無意味だ。
俺はクロフトの顔を思い出すのが怖くて、奴の家族のことだけを考えた。あいつは最後に俺に何て言っただろう、俺に担架を取りに出て、それで。そんな風に思いが揺らぐと、慌てて違うことを考えた。俺が不用意に立ち上がらなければ。撃たれなければ。いや、最初からあんな場所に行くべきじゃなかった。
ロイは黙り込んだ俺の手を握ったまま、傍らの椅子の上から何かを取り上げて、俺の寝台の上へ乗せた。それはクロフトのカメラだ。手入れの良さを感じる深い黒。
「お前が持ってると嬉しいと思う」
いや、あいつがずっと持っていた写真と一緒に、家族に返すべきだろう。そう言うとロイはまた軽く口を歪めてから、「家族はいない」と小さな声で告げた。血が足りていないのかもしれない。言葉の意味が、すっと頭に入ってこない。
「クロフトに家族はいない。
従軍手帳を確かめた、妻子も無い」
ああ、そうなのか。朴訥な笑顔が胸に浮かぶ。「早く帰りてえな、畜生」「早く帰らねえと、女房に浮気されちまうよ」見せられた写真のブロンドは、瞼も唇もぽってりとした官能的な、それでいて愛嬌のある女だった。こりゃもうとっくに浮気してんぞと皆に冷やかされて、死なない程度に撃ってくれねえかな、イシュヴァールの奴ら、と大真面目に唸った。
あの写真は、本当に奴の支えだったのだ。あんな女を見つけて結婚したかったんだろうか。それとも、知った誰かなのか。希望でも欲でも、この世に自分を貼付ける未練が無くては戦場で日々を送れない。
生と死を分けるものは何だろう。何度も思ったことを、死なない程度に撃たれた俺はまた思う。ほんの一歩、ほんの数メートル。普通に生きていれば、気にもしないような僅かな差。そこに見えない生死の境界線が幾重にも敷かれている。今、こうして手を繋いでいる、俺とロイの間にすら存在するのかもしれない。
それでも俺は、それを運命だと言える立場ではない。クロフトを危険に晒したのは他でもない自分なのだから。膿よりも濃くじわりと胸に湧く自責を、見て取ったのだろうか、ロイが少し明るい声を出した。
「血が足りないと聞いて、お前の部隊の奴らが此処に押し掛けて」
礼を言っておけよ、と微笑んで、また輸血ボトルへ軽く視線を流す。身を乗り出して、使え使えと腕を出す顔のなかにクロフトが浮かんで、消える。ほんの些細な判断の誤りが、不注意が、あるいは愚かしさが、容易く命を奪っていく。強く両の目を瞑ると、ひと呼吸置いてベッドが軋んだ。言い訳じみた悔恨が口をついた。
「…気が、弛んでた」
体温の甘い気配に目をあげると、ロイがベッドの端に座っていた。その白い手が、俺の額を撫でて、垂れた前髪を後ろへ梳き流す。
「そうだな」
何故か、ロイの方が辛そうな気がして、丸い頭を軽く抱き寄せた。不安定な姿勢で、それでも鎖骨に額を擦り寄せるから、まるで甘やかし合っているみたいで、それが少し可笑しくて。可笑しいのに泣きそうになる。士官学校の寮でじゃれあってた頃を思い出す。もう遠い、たった半年前の。男ばかりでムサ苦しくて、鬱陶しい規則に嫌な教官。それでも、どんなにいつも笑っていたかと思えば、天国に近い場所だったかもしれない。
「学校出たからって、理屈しか知らねえ俺がな。
親父みてえな年の奴らに進めだの退けだのって、その上殺しちまったり」
「…愚痴か」
「弱音だ」
「珍しいな。聞いてやる」
ロイが低く笑って、先を促すのか胸に巻いた包帯を指で掻く。その柔らかい前髪を指に挟んで、梳いた。青臭い矜持のようなものが、その柔らかさに溶けた。取りかえしのつかない失策を犯す、己の才覚の無さ。戦争そのものよりも、俺はそれを呪った。
「俺はまた、…多分、殺す」
呟くと、胸元でロイが吐息を零した。
俺は馬鹿だ。いちばんこんなことを言ってはいけない奴に泣き言をぶつけている。
いちばん大事にしたい物の上に、反吐をぶちまけてしまう。
俺より痛む、俺より細い腕を掴んで何を。
「あいつらを…誰かを、俺の間抜けさが」
でも、クロフトに家族が居ないというのなら。
俺はこの弱さを、誰に責められるべきだ。
「怖くなったか」
甘ったれた事を言うなと。
部下を一人も殺さない将校なんかいない。
こんなことなんて、士官学校に入った時から分かっていただろうと。
そう言われると思ったのに、ロイの口から漏れたのは宥めるような静かな声で。
「お前は、悪くない。
…お前が悪いなら、俺は?」
詩でも読むような静かな声が、胸に沁みた。
「戦友を一人殺したお前と
顔も知らない人間を街ごと焼き払う俺と」
呟きが、沁みた胸にひりついた。
痛みが怖れと厭戦という俺の傷を灼いて、壊死から救う。
ロイは上手く出てこない言葉を無理矢理引っぱりだそうとするのか、何度も口を開いては躊躇った。どうして俺は、お前にこんなことを言わせてしまっているんだろう。
「どっちが…、
赦されるか、なんて…、」
そんな物は必要無い。
正しさも、罪も、裁く神も戦場には存在しない。
ただ恐怖と後悔があるだけだ。
手探りで握った指は、酷く冷たかった。
ロイはまた、少し躊躇ってから告げた。
「午後から、前線に出る」
冷たい指先に、微かに力が篭った。
全く俺は何をしてんだ?
ロイの初陣に、のうのうとベッドに寝っ転がって弱音か?
情けなさに眉を寄せて握り返すと、少し弾んだ声で言った。
「お前が出したい命令を、出せるようにしてやろう。
もう解散していいって
お前の大事な部下達に笑って言えるようにしてきてやる」
この手で。
ロイの指先から力が抜けた。
そんなことはしなくていいと。
そう言う権利も俺には無いのだ、今は。
そして、そんなことは望んでいないというのも虚しい。
この戦争の終結するところは、ロイの言う通りになるしか無いのだから。
ロイはゆっくり顔を上げた。指から髪がするりと逃げた。
顔を上げて正面から俺を見た。
生まれる前から覚悟の決まっているような。
これから自分のすることを全部知っているような、瞬かない黒い眸。
俺がイシュヴァールに来てから見聞きした物の、桁違いの惨劇を知るだろう。
この白い右手が。
「だから」
ロイは強い光を眸に宿したまま、ほんの少し睫を伏せた。
「離脱は許さない。戦線からも、俺からも」
返事の代わりに、その手を取って中指の付け根の節に唇を宛てた。
俺は生涯、この手を赦し続けるし
この手以外に赦して貰おうとは思わない。
ロイは黙ってそれを見ていたが、コートから銀時計を取り出すと俺の手首に鎖を巻き付けて握らせた。冷やりと手首の内側をくすぐるその鎖が、ロイの指のようだと思った。
「落とすと面倒だ、預れ」
素っ気無くそう言うと、ロイはベッドから腰を上げた。それから襟元を軽く直し、また何か言葉を探す目で真直ぐに俺を見た。俺も何かが言いたかったが、言葉を列ねるより簡単な方を選んだ。笑みに細めた目で、顎を軽く上げてやると、ロイは少し怒ったように眉を寄せてから、首を傾けて唇を重ねた。唇の端から端までをそっと擦りあわせると、不機嫌な唇がほどけて笑った。下唇が噛まれて、その痺れを薄い舌が舐めて離れた。
「…悪い、見苦しかったな」
「お前を馬鹿だと思ったことはあるが、見苦しいと思ったことは一度も無い」
言ってから照れくさげに視線を外すから、可愛いなんて思うけれど。
お前の方が本当は強い芯を秘めている。
「遠慮なく酷い目にあって来い。
慰めさせろ、俺に」
馬鹿、と小さく笑って、ロイは吊ったカーテンを開いて出ていった。
足音が去ってから、置かれたカメラをベッド下の私物の横へ並べた。
戦争が終わって、もしいつか自分が家族を持つことになったら、このカメラでたくさん写真を撮ろうと思った。クロフトが教えてくれた通りに。笑顔を撮りたきゃ撮る奴も笑うんだ、だったか。
あいつが命と引き換えに見つけた写真は、どうなったんだろうと考えた。その身体と共に埋められているといい。写真を胸に、満足そうに笑って横たわる姿が浮かんで消えた。有難う、とその残像に心から告げた。もっとマシな隊長になるから、見ててくれ、と。
仰向けに寝直して、唐突に夢を思い出した。
クロフトの死が俺の横っつらを叩いたように、俺がもし死ねばそれはロイにとって動力となりえるのだろうか。
そうなればいい。
そんな死ならば、誇らしい。
憧れに似た気持ちで、思ったより重い掌の銀時計を握った。
秒針の時を刻む音が、誰かの少し早い鼓動を思い出させて、知らず口許が緩んだ。
眠りは速やかに訪れた。もう夢は見なかった。
(2004.09.03)
|