粉コーヒーは不味くて飲めたもんじゃないと言う古参兵も居るが、ヒューズはこの薄い味が嫌いでもないなと思う。
ヒューズが平気で飲んでいるのを見て、大袈裟に眉を顰め、「よく飲めんなあ、小便でも飲んだ方がマシだ」と言い捨てていく奴も居るが、まったく贅沢だと思うのだ。確かに丁寧に挽いた豆(丁寧に挽いたところで、雑に挽いた豆とどう違うのかも疑問だ)で、じっくりと抽出されたコーヒーはこれより旨いだろう。しかし戦場でコーヒーが飲めるだけでも有り難いんじゃないか?
つまり味覚なんぞ気の持ちようだ。行軍の休止に飲む水は、呆れ果てるような値段のワインよりも遥かに旨い。こんな粉コーヒーでも、俺にとっては格別の一杯だ――、そう、ひとりごちてヒューズが持つアルミのカップに、人影が落ちた。
「よくそんな不味いコーヒーが飲めるな」
ああ、世界一贅沢で我侭な奴が来た、と。
カップのなかの褐色に映るロイの姿に、ヒューズは肩を竦めた。
土嚢の上に腰を下ろしているヒューズを、ロイは立ったまま見下ろす。その視線が肩で止まった。言い惑うときに微かに唇を開くのはロイの癖だ。ヒューズが調子にのっているときは、しばしば塞がれることもある薄い唇。
「昇進、おめでとう」
結局告げた一言に、ヒューズは拗ねた目をうっそりとロイへ向けた。
「たまたま生き残っただけの男を昇進させるなんざ、どういう了見…」
「地雷で小隊が全滅した、だけでは志気が下がるが、感心にも自主的に偵察に出た小隊長が激戦の末敵兵を殲滅、なら少しは景気が良く聞こえるからな」
「…分かってるって、皆まで言ってくれるな…」
ガックリと落としたヒューズの肩章に、星がひとつ増えている。口調と仕種に彼らしい戯けを感じて、ロイの口元に笑みが浮いた。
「恥ずかしい話だが、貰える物は貰っとく」
そう言って向ける眸は、病舎で見たよりずっと明るい色の緑だ。彼のなかであるべき位置へ、あの戦闘の記憶は落ち着いたのだろうとロイは思う。シャツを着るのが面倒なのか、包帯で巻かれた上半身の上に軍服を引っ掛けている。ヒューズはその肩を横目でちらりと見て静かに笑った。
「奴がくれた星だと思うさ」
「ああ」
やけに優しい声が出てしまって、ロイは不本意そうに眉を寄せ、今度は少し意識して素っ気無く言った。
「その調子でせいぜい出世しろ」
ヒューズはそんなロイの取り繕うような付け足しが可笑しくて、思わず鼻で笑ってから「おう、すぐに追い抜く」と返して、また不味いコーヒーを啜った。ロイは憮然としたまま「無理だな、それは」と、傾けられるあちこち凹んだカップを眺めて言った。
カップを空にして地面に置き、ヒューズはポケットに手を突っ込んで銀時計を取り出した。国家の紋章が鎖の先でくるくると回る。
「俺も午後から前線復帰だ。無くしちまうといけねえからな」
返す、と差し出した銀時計とヒューズの顔を、ロイは少し戸惑って眺めた。
「早いな、…まだ痛むんじゃないのか」
ヒューズは笑って横に首を振った。「いや。増えた星に相応しいぐらいは働いてみせねえと、…落ち着かねえし」ヒューズは柄の悪い古参兵に囲まれて、どうも最近いきなり喋り方がオヤジ臭くなったとロイは思う。舐められたくないのか、それともそういう喋り方が性に合っているのか。逸れた思考を元へ戻して、ロイは一歩ヒューズに近付くと、包帯の上から腹を叩いた。ヒューズは腹筋に力を込めて、手のひらを弾き返し、ふふんとどこか誇るように笑った。
「な。御心配には及びません、マスタング少佐」
戯けてちゃっと敬礼して見せるのがどこか癪で、脇腹に蹴りでも入れてやろうとロイが脚を浮かすと、ヒューズは察して土嚢から立ち上がり、ひょいひょいと数歩逃げる。
「おい、それよりこれって」
握ったままの銀時計を揺らして、ヒューズが促す。午後からの作戦、ヒューズの小隊はどこへ配属されていただろうかと、何故かそれを受け取る気にならなくて、ロイはそんなことを思う。その鎖が、そろそろいちばん高くなる陽を弾いて、白く光った。
「綺麗だな」
ヒューズは少しこそばゆそうに目を細めて、チラチラと光を吸う銀時計を掲げた。
「貸してくれて有難うな。
…あー…、何、何て言うか…、何かお前が一緒に、」
「何だ」
「………、恥ずかしくて寿命が縮むような事をほざくが覚悟はいいか」
「大凡分かった。絶対言うな」
ロイは鉈を薪に振り下ろす勢いで拒絶し、揺れる銀時計を奪い取った。気を削がれたヒューズが深く沈黙し、ロイはさらに四方八方を地雷に囲まれた気分で押し黙った。
「ヒューズ…、隊長ーう」
少し離れたテントから呼ぶ声がして、ヒューズはよっこらせといよいよオヤジ臭いかけ声で、カップを拾い上げた。拾い上げながら「この前のあのロマンチックな雰囲気はどこへ行っちまったのか…」とぼやくから、ロイも頬を引き攣らせながら「優しくしないと死にそうだった、ドシリアスな男もな」と苦々しく吐き捨てた。
二人はお互い、最悪に不味いコーヒーを飲まされたような顔で見合っていたが、先に折れるのはいつもヒューズで、へらりと気の抜けた笑みで目尻を下げた。それから上着の前を合わせて包帯を隠すと、もう一度ロイに敬礼を送った。
「俺は絶対死なねえからよ。お前も俺の知らないとこで死んだりすんな」
ロイは返す言葉がまた見つからず、言うだけ言ってすっきりした顔のヒューズが、自分勝手にさっさと踵を返して行くのに、手のなかの銀時計を強く握った。お前だけ、そんなに鮮やかに、心に残るのは悔しい。
「おい」
怒ったような声に振り返ったヒューズは、ロイが自分の手を掴んで何かを握らせるのに足を止めた。手のひらを開いてみなくても分かった。これは鎖だ。銀時計の。
「……、お前、」
いいのか、こんなの外して。そう言いかけると、さっさと行けと背をやたらに叩かれた。何だこいつは。何だ畜生。ヒューズは追い立てられて歩幅を広げながら、戦場には居ないはずの神に懺悔した。ああ、戦友を失ったばかりだというのに、こんなに頬が緩む罪深き俺を赦して下さい。
ヒューズはなだらかな勾配を下りて行きながら、途中でくるりと振り返った。そしてこれ見よがしにゆっくりと指に巻いた鎖にキスしてから、もう小さく見えるロイに声を張り上げて訊いた。
「お前、ジンクスを信じるか?」
ロイは仏頂面のまま、仁王立ちで叫び返した。
「あるかもしれんが、ジンクスを信じる男は信 じ な い !」
ひゃっひゃっと笑いながら肩を揺らして下りていくヒューズに、ロイは「死ね」と呟いて、その姿がテントのなかへ入っていってからようやく微笑った。それから、握り過ぎて温くなった銀時計を、上着の中へ滑り込ませた。
(2004.09.06)
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