時折、手首に巻き付けては、ポケットに戻す銀鎖の由来を私は知っていた。
休日、軍装を解いてもそれを必ず、癖のようにどこかへ忍ばせるのも。







「あなた、そこ」


新聞を片手に下げて、リビングをうろうろする彼。眼鏡を探しながら目をショボつかせる彼の胸元を笑って指差した。パジャマの胸ポケットから覗く銀のフレーム。マースは「ああ」と目尻を下げて笑い返し、それを掛けた。


第五研究所の事件は、初日こそ新聞の一面を独占したが、今はもう三面にすら記事が無い。新聞を広げる音を背中にキッチンへ入り、彼の好きな加減に卵を焼いて皿へ滑らせた。トーストに会心の出来のマーマレードを添えて、それからコーヒー。

紙面を捲る音を、カウンターからちらりと窺う。

マースは最近、ふとした瞬間に深く考え込むような顔をする。担当する事件が多いのだろうか。しかし、そんな事は今に始まったことではない。話してくれたらいいのにと思うと、少し寂しい。彼は案外強情で、必要があると思わなければ仕事の話は一切しないし、決して愚痴を零したりはしない。それはとても頼もしいのだけれど……。サラダにドレッシングを回し掛けたとき、ダイニングから眠そうな声が聞こえた。





「…パパあ」


エリシアはいつも、もう少しゆっくり眠っているのに。どこか具合が悪いのかしら。慌てて朝食をトレイに揃えて運ぶと、愛娘の声にさっさと新聞を畳んだマースが、相好を崩してエリシアを膝へ抱き上げていた。


「どうした、エリシアー。早起きちゃんでちゅねー」
「…パパ、お仕事いっちゃうの?」
「行っちゃいますよー、本当はエリシアちゃんと遊びたいですけどねー」


まだ眠いのかぐずるような顔のエリシアは、すこし膨れたような顔をしているが、どこかが痛む様子は無い。「お早うエリシア。早いのね」と私も声を掛けて、テーブルへ皿を並べていく。白い皿の上に嫌いなアスパラガスを見つけて、渋い顔を背けるエリシア。髪を撫でる大きな手。



「どうした、怖い夢でも見たかな?」


マースがエリシアの口にスクランブルエッグを運ぶと、珍しく首を横に振って、いらないという仕種をした。「我が家のお姫様は御機嫌斜めだ」と私に笑ってみせて、彼はそのスプーンを自分の口へ銜える。慎重なぐらいに完璧な優しい朝。なのにエリシアだけは、どこか落ち着かない。旋毛をそわそわと動かして、何度も父親のパジャマを握り直す。



「ねえ、パパ」
「んー?」
「おしごと、たーいへんなの?」



まだ半分寝ているような口調。子供なのに。子供だから。小さな魂は敏感に何かを感じ取っていたのかもしれない。マースは緑の目を丸くしてからゆっくりと微笑み、大変だよ、と素直に言った。きちんと大人に話す声で。エリシアはじっとその眸を見上げて、それから小さい手をいっぱいに伸ばして顎髭を撫でた。


「おしごと、なくなりますように」
「無くなるのもちょっと困るなあ」


笑うマースが可愛くて、私も夫の頭を後ろから抱き締めた。


「お仕事、無くなりますように」


彼が、ハ、と笑う息を吐いて、私の胸に旋毛を擦り付ける。


「…多数決か、…さあ、困った」






あの時、貴方が私達の裁決を受け入れてこの家を出ていかなければ。
そのときの頭の重みは、いつまでもこの両手に残って私を泣かせた。










軍服に着替えて部屋から出てきたマースの手を、エリシアはぎゅっと握って玄関までついていく。


「どうした、今日は」


離れようとしないエリシアを、マースは膝をついてあやすように抱き締めた。エリシアはその腿に登って首にぎゅっとしがみつく。


「エリシア、パパはお仕事に行くのよ」


だから下りてと横に座って顔を覗き込むと、「や」とぐずって首を振る。眼鏡越しに目を細めたマースは私に苦笑して見せて、「ならパパと一緒におしごとに行くか?」なんて聞いた。「いや」エリシアはマースの膝に上で足をばたつかせて、「パパはエリシアとお家にいるの」と口を尖らせた。


エリシアが暴れると、チリチリと微かな音がした。丸い目をもっと丸くして、エリシアは試すみたいに、もう一度父親の脚の上で身体を揺らした。チャリ、とまた小さな音。


「…ああ、これだ」


マースはエリシアを膝から降ろし、ズボンのポケットに手を突っ込んで、銀の鎖を娘の前へ翳してみせた。「ほら」と揺らすと、エリシアは目を輝かせて掴もうとする。


「なあに、これ」

「これ?これは、なあ…。お守り、みたいなもんだ」


綺麗だろう。そっと手渡された白い輝きに、エリシアは見入って何度もおおきく頷いた。きれい。きれい。夢中なちいさい手が、銀の連なりを引っ張ったり撓めたりした。


マースは暫くそれを見ていたが、大きな手で娘の頭を撫でて「あげるよ、エリシア。きっとお前を守ってくれるから」と言った。


私は驚いて「あなた」と思わず咎めたが、マースは「いいさ」と笑って、私にキスをして立ち上がった。でも、と続ける私にこっそり顏を寄せて「エリシアは飽きるのが早いから。放り出してたら、ぱっと返して貰う作戦」と耳打ちして親指を立てた。「了解。中佐殿」私もくすくす笑って親指を立て返した。







迎えの車へ歩いていく姿を、扉口に二人並んで見送った。
その永決の朝を、私は一生忘れないだろう。

いつもとまったく同じように、車に乗り込む前に私達を振り返って、淡い色の眸を優しく細める。



「今日は早く帰って来るよ」



そう言って私達に手を振った、空気に溶けるようなあの笑顔を。












葬儀の準備はとても慌ただしかった。

親戚は集まり口々に悔みを言うし、セントラルのホテルを紹介してくれだの、献花の順番はどうしたらいいだの。

忙殺されながら、それでもその煩わしさが有り難かった。
もし何もせずにじっとしていたなら、私は追憶に殺されてしまっただろう。葬儀というのは、遺族の気持ちを四方へ振り分けるためにあるのかもしれない。




あの人の身体はすっかり綺麗に整えられて、生前と変わらない姿で柩に横たえられていた。人を驚かせるのが好きな人だったから、今にも生き返りそうに見えたけれど、触れた頬はただ冷たかった。

どうして私は柩に取りすがって泣かないのかしら。私はぼんやりと自問した。きっとそれは、あの人が死んだなんて認めたくないからだ。この儀式が終わったらあの朝の続きで、マースはいつものようにあの家に戻ってくるような気がしていた。飛び出していくエリシアを抱き上げて、「ただいま、早く帰っただろう」と自慢げに笑うんじゃないかと。


ぼんやりと柩の横に突っ立っていると、何人もの軍人が私達――私とエリシアに目礼してから柩に花を捧げていった。


私達の生活はもっと続くと思っていたわ、マース。一緒にもっと年をとって、満足して、お互いの腕に抱かれて眠るように息を引き取るのだと信じて疑わなかった。覚悟の無い軍人の妻だと笑われそうだけれど、本当にそう思っていたわ。


目の前を誰かが通り過ぎるたびに、からくり人形のように頭を下げた。じっと立っているのが辛いのだろう、エリシアは義母の膝に甘えに行ったり、それにも飽きて戻ってきたりした。



「ロイ・マスタング大佐」



隣で名簿を読み上げた女性の声で、虚ろだった私の眸に焦点が戻った。椅子から立ち上がり、前席と後に礼をして、渡された白い百合を手に歩いてくる。いつか見たような正装、いつもは目許に掛かる前髪を後ろに流して。

ああ、彼のこんな姿を見たのは、たしか結婚式だったわ。

あのときもあんな風に、髪を流していて。




彼は目礼ではなく、私の前に立つと深く頭を下げた。微笑って顏を上げたかったのに、私は頭を下げた途端、突然湧いた涙を零してしまった。俯いたままの私の肩を、少し躊躇いがちに彼は抱き締めてくれた。ああ、彼はきっと唯一、私と同じぐらい彼を悼んでいる存在だろう。しがみついて泣き崩れてしまいたかったが、耐えてその腕を押し遣った。礼を言ってから、ふと思い出した。



「…あの、…あの人が貴方から、ずっと預っていた鎖を」



エリシアはなぜか飽きずに、それを毎日持ち歩いていた。由来を知っていれば返さずにはいられない大切な物だ。あの人ならまだしも、子供の玩具にしていいような物ではない。

彼は黒い眸を瞬いた。あの人の眸の色とは全く違うのに、どこか似ていると思うのは、映っている自分が囚われる気がするほど、真直ぐに凝っと見返す眼差しの所為だろう。それから、ほんの少し目許を緩め、懐かしそうに微笑して言った。



「あれは、ヒューズの物ですから」



揺らがない静かな眸を見ていると、マースは今も彼を支えているのだと判った。彼は、静かにもう一度私に頭を下げてから柩の前へ立った。物言わぬあの人と短く言葉を交し、白い手が胸の上へ花を手向けた。席へ戻る彼に、私はずっと頭を下げていた。



私も強く生きなくては。彼ほどにはなれないまでも。

あの日からすっかり失せていた強い気持ち――生命力のようなものが、ゆっくり湧くのを感じながら、彼の綺麗に伸びた背中を見詰めた。

私も一生分の幸せを貰ったから、きっときちんと生きていける筈だ。



いつの間にか隣に立っていたエリシアが手を引いて、「ロイと何のおはなししたの?」と掴んだ手を揺らした。お気に入りの銀鎖が、喪服の浅いポケットから零れそうになっている。私はそれを引き出して、エリシアの手のひらへ置いた。

これを手放したからあんな事件に遭ってしまったのではないかと思ったこともあったけれど、もしかしたら彼は何かを予感して、自分の遺愛の品を娘に渡しておきたかったのかもしれない。


「とても大事なものなのよ。失さないで」



幼い手に戻された鎖は、飼い主に懐く犬の尻尾みたいに丸まった。
エリシアは銀の重みが立てる音が好きなのか、何度も揺らして優しい音を鳴らした。そうしながらゆっくりと父親の柩に手を掛け、白い花に囲まれたその顔を神妙に覗き込んでから、笑って振り返った。




「わかってるわ。パパが起きたら、かえしてあげるの」




決意したばっかりなのに、本当に駄目だわ。
やっぱりまだ、何度か泣きそうだけど赦してね。

マースの声の代わりに、ちいさな手のなかで銀鎖が一度、鳴った。
















(2004.09.07)