
梅琳、と熱に浮かされたかのような声音で呟いて、玉鳳はふらりと席を立った。
「どうして此処に…?」
夢見心地といった風情で空蝉に歩み寄る玉鳳の表情からは、困惑と歓喜が見て取れる。
だが、彼の指先が仮面に触れようとした瞬間、空蝉は僅かに身を退いて距離をとった。
伸ばされかけていた玉鳳の手が、所在無げに宙に浮く。
どことなく傷ついた表情の玉鳳に構わず、空蝉は端的に名乗りを上げた。
「私は空蝉。夢商いの御伽屋「綴」が斎子にして夢を導く者。御身を案じた教団の方の依頼により夢祓いに参りました」
「夢祓い?」
玉鳳は、ぼんやりと空蝉の言葉を鸚鵡返しにする。
どことなく虚ろな玉鳳の様子を、状況についていけない所為と判断したのだろう。
空蝉は、淡々と事情を説明する。
「猊下は身体の傷や病のみならず、心の痛みをも癒す業を揮われるとか。ですが、深い傷が時に癒しがたい痕を残すように、激しい感情は気づくと気づかざるとを問わず人の精神に歪みを遺すもの。そうして凝った想いの残滓が虚無の夢となって御身を取り込もうとしているというのが夢読みの見立てでした。それ故、悪夢祓いを得手とする私が猊下の夢に送り込まれたのです」
仮面越しのくぐもった声からは感情らしきものは窺えない。
だが、続く言葉には、偽りのない気遣いが込められていた。
「とりあえず猊下を取り巻いていた悪夢は祓いました。しかし、このまま放置すればいずれ同じ事の繰り返しとなりましょう。差し出口を承知で忠告申し上げる。御身の潔斎の為に、定期的に祭儀を執り行われよ」
「…そうだね…」
整った口許に淡い苦笑を浮かべて、玉鳳は静かに目を伏せる。
「数年前までは、この神楽殿でよく神楽舞の奉納が行われていたんだよ」
そう言って顔を上げた玉鳳は、どこか遠くを眺めるような目をして空蝉に微笑みかけた。
「その頃の鳳鸞には、とても優れた神楽女がいてね。名前は梅琳。その名の通り、清々しくも仄かに匂い立つ梅の花のような、清廉な少女だった」
柔和な笑みは、純粋に昔を懐かしむ者のそれだ。
空蝉は、「幸せな記憶」という七星が紡いだ夢の表題を思い出す。
「神楽舞は、普通の歌舞のようにただ舞の所作をなぞれば良いというものではない。天を宥め、邪を祓うのに相応しい穢れのない毅さと気高さが求められる。先程の貴方の剣舞のように」
他意のない風を装いつつも探るように空蝉を見つめてそう言い添えた玉鳳は、だが、すぐに鋭い視線を和らげた。
「彼女は舞い手としての才だけでなく巫女としての素養にも恵まれていた。何より、彼女は誰よりも私の魂と深く共鳴する存在だった」
空蝉の仮面に触れる事のなかった右手が、そっと自身の左胸を押さえる。
大切な、大切な思い出を抱き締めるように。
しかし、幸せそうな彼の表情は長くは続かなかった。
「私達は互いに惹かれ合った。私は彼女を愛していたし、彼女も私に想いを寄せていてくれているのだと思っていた。けれど、彼女はある日突然私の前から去った。「神楽女を務める資格を喪った」という言葉を遺して」
突然の破局を告げた玉鳳は、空蝉から目を逸らして顔を伏せる。
俯く端整な横顔には、哀しみと自嘲の入り混じった昏い笑みが浮かんでいた。
「後に、私が彼女に心を寄せる事を好ましく思わなかった教団の幹部等が彼女を追い遣ったのだと知ったよ。私は手を尽くしたが、彼女の消息を掴む事はできなかった」
何かに耐えるように服の胸元をきつく握り締めて、玉鳳は終ぞ語る事のなかった苦悩を独白する。
「私の力は人々を癒す為に天より与えられたもの。この身をただ1人の人に捧げる事は赦されないのだろう。でも、それならば、私の癒しは何処に見出せば良い?」
再び顔を上げて空蝉を見つめた玉鳳の眼差しは、見る者をたじろがせるほどの凄絶な翳りを帯びていた。
「貴方は、私を襲った夢を虚無と呼んだ。だとしたら、その虚無は私の心が呼び込んだものだ」
重い沈黙が、2人の間に下りる。
ややあって、視界の端に木々の間から射す淡紅の光を捉えた玉鳳が再び口を開いた。
「あぁ、夜が明けようとしているのだね」
直前の激情が嘘のように穏やかな声音でそう呟いて、玉鳳は天を仰ぐ。
それから、改めて空蝉に向き直ると、おっとりとした口調でこう切り出した。
「貴方にお願いがあるのだが」
無言を貫く空蝉の態度を先を促すものと取って、玉鳳は続ける。
「私の神楽女は梅琳以外には在り得ない。かといって、民を癒す事を止めるつもりもない。だから、今回のような事が起きないように、折を見て悪夢祓いの護符を送ってはもらえないだろうか」
気安い玉鳳の申し出に、空蝉は当然のように難色を示した。
「猊下のお心を慰めるのに我々のような者の力を借りたとあっては、教団の中には快く思わない者も在りましょう。教国の外聞にも関わります」
だが、玉鳳は朗らかにこんな提案をしてのける。
「では、凌霄の名で遣いの鳥を送ろう」
「凌霄…」
「今はもう呼ぶ者のない私の名前だよ」
貴方の、本当の名前のように。
その言葉を飲み込んで、玉鳳は真摯な表情で彼に赦されたただ1つの願いを繰り返した。
「鳳鸞教国の聖皇玉鳳としてではなく、凌霄個人としてお願いする。私の為に、貴方の手で護符を作って欲しい」
まっすぐに向けられた双眸に秘められた想いの強さに、空蝉の肩が微かに揺らぐ。
だが、何かを言いかけた空蝉の目の前を、不意に色鮮やかな翅を持つ揚羽蝶が過ぎった。
「潮時よ、空蝉」
頭の中に響く胡蝶の声が、空蝉を現実へと呼び戻す。
腰を上げ、姿勢を正した空蝉は、朝日を背に立つと白い仮面に手を掛けた。
「…もしも私を捜し出す事が出来たなら」
逆光に包まれる空蝉の姿は、玉鳳の目には映らない。
それでも、曙光に消え行く空蝉に向かって、玉鳳は懸命に呼びかける。
「必ず貴方を見つけ出すよ」
梅琳。
声にされる事のなかったその名を、和えかな花の馨を纏った風が何処へともなく攫って行った。
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