
「本当に良かったの?」
梅の古木の意匠を透かし彫りにした欄間からうっすらと朝の光の射す梅の間で、胡蝶は身支度を整える空蝉に問いかける。
「あの人は、空蝉の事気づいていたわ。名乗るくらいは名乗っても良かったんじゃない?」
勝気でませた口を利く事の多い胡蝶だが、一方では年頃の少女らしい感性の持ち主でもある。
たった一度の再会、それも夢の中でしか叶わぬ逢瀬に名を告げる事も出来ない2人の在り様が、もどかしく思えるのだろう。
だが、鏡の前できっちりと髪を編み上げながら、空蝉は淡々とこう応える。
「彼の捜し求めている神楽女の梅琳は、もう何処にも存在しないんだよ」
その声音から、感傷的というのとは違う自嘲の色を感じ取って、胡蝶は訝しげに眉を寄せた。
鏡越しに問うような眼差しを受けた空蝉は、理知的な口許に薄く笑みさえ刷いて、残酷な事実を告げる。
「彼女は自らの意志で神楽女を下りた。教団の長老達の差し金で身を穢された彼女は、巫女たる資格を喪ったんだ」
「そんな!」
彼女の言葉が意味するところを悟った胡蝶の口から、悲鳴にも似た非難の声が上がった。
教主の寵愛を受ける巫女を退ける為に男達に乱暴させる――後継者争いに喧しい何処ぞの国の宮廷の裏側もかくやという醜悪なその仕打ちは、仮にも聖職者の集団である筈の教団の行いとしては論外のものだ。
しかも、彼等は彼女を国から追うだけでは飽き足らず、刺客を差し向けさえしたのだ。
深手を負った空蝉が綴と出逢った当時の経緯を聞き知っている胡蝶は、年相応の潔癖さもあって激しく憤る。
しかし、当事者である筈の空蝉は、意外にも教団幹部を弁護する発言を口にした。
「確かにやり方は非道だし、赦されるものではないだろう。でも、彼等の選択自体は理解できないものではないからね」
嫌悪も露に顔を顰めている胡蝶を宥めるように、殊更冷静な口調で彼の国独自の事情を語って聞かせる。
「鳳鸞教国における聖皇玉鳳の存在は絶対だ。その行いは倣うべき範であり、その言葉は遵うべき法である…清く慈愛に満ちた御心を持って癒しと恵みを齎し、高潔な志の下に教国を治める聖皇を人々は神にも近いものとして崇め、彼への信仰を心の拠り所としている。対外的にも、けして大国とはいえないあの国が平穏を保っていられるのは鳳鸞教の教主国であるという事実に拠るところが大きい。それが解っているからこそ、彼も皇位を投げ出してまで梅琳を追おうとはしなかったんだろう」
それに、慈悲深い玉鳳には、民を見捨てる事など出来よう筈がない。 法を体現する国主として常に身を律し、救い主たる教主として等しく民に愛を注ぐ。
そんな彼を敬慕すればこそ、「梅琳」は恨みを抱く事もなく自ら身を退く道を択んだのだ。
小国とはいえかつては王家に連なる姫君として母親から教育を受けていた胡蝶には、王としての在り様は理解出来てしまう。
それでも、彼女の情の深さは、心の自由を奪われてまで民の為に癒しの力を揮わなければならない玉鳳の立場を理不尽なものと感じさせた。
「愛する人を想う事さえ許されないのが天より与えられた力の代償だなんて、遣りきれないわ」
胡蝶の屈託の裏には、人間の青年と淡い想いを交わす蜻蛉を案じる気持ちがある。
仲間内で最も人ならぬ物に近い彼女と青年の恋はままごとのように微笑ましいもので、だからこそ胡蝶達は秘かに2人の幸福を願いつつ見守っていた。
その成就が、夢物語のように儚い可能性でしかない事を、誰もが薄々悟ってはいても…。
愛用の太刀を腰に佩いて仕度を終えた空蝉が、中庭を巡る渡廊に続く板戸を開け放つ。
降り注ぐ陽射しに手を翳しつつ天を仰いだ空蝉は、澄み渡った空に浮かぶ黒々とした点に気付いて双眸を眇めた。
やがて、その目が大きく瞠られる。
高く響く声で一啼きしつつ優雅に空を旋回したその影は、空蝉目指して颯爽と舞い降りて来た。
梅の間から顔を覗かせた胡蝶が、近づくその姿に驚きと疑問の声を漏らす。
「神鷹?」
胡蝶の呟きを耳にした空蝉の脳裏に、かつて何気なく交わされた会話が蘇ってきた。
「凌霄という名は、鳳鸞の言葉で鷹の事を指すんだよ」
そうする間にも、神鷹はばさりと大きな羽音を立てて渡廊の欄干へと降り立つ。
見れば、猛禽類独特の鋭い爪を持つ脚には、小さな銀筒が括りつけられていた。
胡蝶の視線に促されて、空蝉は躊躇いがちに銀筒に手を伸ばす。
筒の中には、鳳鸞教国の神代文字が書かれた紙札と共に、紅梅の薄様の紙に綴られた文が収められていた。
墨でしたためられた文字を追ううちに、怜悧な空蝉の横顔が泣き笑いのような表情に歪む。
端整な手蹟で綴られた文には、こう書かれていた。
「約束通り、貴方を見つけ出しました。私の為に夢を祓う護符を作ってください。対価として、私からは護り札を送りましょう」
「…敵わないな」
目を閉じ、深々と吸い込んだ息を吐き出して、空蝉は苦笑混じりにそう呟く。 「商談成立だ」
物怖じする様子もなく小首を傾げて見上げてくる鷹の羽をそっと撫でてやる彼女の眼差しは、それでもどこか幸せそうだった。
※※※
夢解き夢占夢違え、夢見合わせに夢詣で。 凡そ夢に纏わる万象に於いて右に出る者はないと評判の店、夢商いの御伽屋「綴」。
板塀に囲まれた広大な敷地に建つ木造平屋建ての古風な佇まいのその屋敷では、その日から時折梅の間に通う神鷹の姿が見られるようになった。
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