夢商い 御伽屋 綴


 「当店の斎子が作った悪夢祓いの守り札ですね」
 客人の差し出した箱の中を一瞥して、綴は他所向きの笑みを浮かべたままそう断ずる。
 「尤も、既に効力は切れかかっているようですが」
 繻子の張られた内箱の中には、1枚の紙札が恭しく収められていた。
 流暢な手蹟の文字はカイロで一般的に使われているものではなく、効き目が弱っている事を示すかのようにほとんど消えかかっている。
 「やはり」
 綴の答えに、男達は得心の視線を交わした。
 口外無用と念押しをした上で、年少の神官がより踏み入った話題を切り出す。
 「実はここ1年程前から玉鳳猊下はお体が優れないご様子であらせられます。特に、最近はご公務の時間を除いてほぼ浄室にて臥せっておられるような容態でして…」
 「それが、この札の所為だと?」
 「いや、その逆なのです」
 冷ややかな綴の問いに慌てて首を横に振って、男は更に詳細な事情を語った。
 「初めは猊下が何か重篤な病に罹られたのかと思われました。我等鳳鸞の神官は、仮にも天意の下に癒しの業を扱う身。天命に逆らって命を留める事は叶わぬまでも、病や傷の重さを量る事はできます。ですが、猊下の御身からは如何なる病も見出されませんでした」
 「魔物か左道の輩の仕業を疑い、破邪の法や呪詛返しも行いましたが、効果は上がらず…」
 年嵩の男は、年齢の刻まれた額に皺を寄せて口惜しげに唇を噛み締める。
 鳳鸞教国に於ける聖皇玉鳳は、天の神を宥め、地の穢れを浄め、人に癒しを齎して邪を祓う神聖な存在だった。
 邪法に堕ちた者共からは、さぞ多くの恨みを買っているだろう。
 立場上、心労という線もあるが…そう内心で思い巡らす綴の思考を遮るように、年若い神官は真摯な面持ちで言葉を重ねる。
 「それでも、この護符を身につけておられる間は幾分顔色もよろしく、民の前では常と変わらぬご様子で振舞っておられました。おそらく信者の誰かから贈られた物だったのでしょう。しかし、その効力も喪われつつあります。我等は、猊下をお救いすべく唯一の手がかりとなるこの札の出所を追い求めて参りました。そして、漸くこちらに辿り着いたのです」
 「つまり、猊下の不調の原因と思われる悪夢を祓う事をお望みだと」
 「然様」
 感情を挿まぬ綴の確認に、客人は簡潔に頷いた。
 綴は、僅かな逡巡の後に口を開く。
 「聖皇猊下にこちらにお出でいただく事は可能でございましょうか?」
 「それは出来ませぬ。それ故、この札を作った斎子とやらを鳳鸞に招き、其処で術式を執り行っていただく事になるでしょう」
 「お断りしたします」
 今度は、綴が即答する番だった。
 驚愕と怒りに目を剥く男達を真っ直ぐに見返して、綴は毅然とした態度でこう告げる。
 「心身に障りが出る程の悪夢を祓うには、まずその夢を読み解かねばなりませぬ。ですが、夢解きを得手とする斎子は繊細な身故、鳳鸞まで派遣するわけには参りませぬ。そちらとしても、聖皇猊下のお体を癒すのに外の手を借りたと知れれば外聞がお悪うございましょう?」
 「しかし、」
 「せめて猊下をこの国までお連れくださいませ。お話をお伺いするのはそれからです」
 男達は懸命に何かを言い募ろうとしたが、綴は取りつく島もなくそれを退けた。
 しかし、そこに何者かの高い声が割って入る。
 「待って」
 「蜻蛉、胡蝶」
 綴が視線を巡らせた先、精緻な細工の施された衝立の奥から現れた2つの人影に、男達は束の間激情も忘れて息を呑んだ。
 白磁の肌に蒼氷の瞳で長い銀の髪をまっすぐに下ろした儚げな面差しの少女と、毅い光を宿す緑の瞳に代赭の巻き毛を大きな絹布でふたつに結い上げた華やかな容貌の少女。
 陰と陽、静と動。
 同じ白の狩衣を身に纏っていながら見る者に対照的な印象を与える2人の斎子を、綴は静かに窘める。
 「来客中ですよ、控えなさい」
 だが、胡蝶は大人しく引き下がりはしなかった。
 「空蝉はこの仕事を請けるって言ってるわ」
 負けん気の強そうな顔立ちのままの口調で、自らの言い分をはっきりと口にする。
 「蜻蛉なら、その札に残った痕跡からでも夢の欠片を解く事が出来るわ。あたしが空蝉と聖皇様の夢を繋ぐ。それで問題はないでしょ」
 「でも、それでは貴女達の負担が重過ぎる」
 彼女達の身を案ずる綴は、胡蝶の提案に重ねて難色を示した。
 夢読みの為に想いを込めた品ならともかく、ただ身につけていただけの護符から夢を読み解くのは容易い事ではない。
 胡蝶にしても、同じ斎子の夢に介入するのは相応の危険が伴う。
 尚も躊躇する綴を他所に、蜻蛉は札の入った桐箱を持つ神官に音もなく近づくと、言葉少なに語りかけた。
 「札を」
 一瞬びくりと身を竦ませた青年が、畏怖にとりつかれた眼差しを逸らす事も出来ずに蜻蛉に木箱を差し出す。
 蜻蛉は、男の反応を気に留めるでもなく板張りの床に座り込むと、しばらくの間じっと守り札を見つめ続けた。
 ややあって、銀色の髪がふわりと揺れたかと思うと、華奢な身体がゆらりと崩れ落ちる。
 傍に控えていた胡蝶の腕に身を預けた蜻蛉は、か細い声で切れ切れに言葉を紡いだ。
 「歪みが…たくさんの想いの残滓が澱んで、歪みを生んでいる…早く祓わなければ、この人の魂も虚無の闇に取り込まれてしまう」
 「…なるほど」
 蜻蛉の夢解きを聞き終えた綴は、物憂げな表情でそう呟いた。
 「人の念が凝った夢が相手では、破邪も呪い返しも効かぬ筈ですね」
 それから、大きく息をついて気持ちを切り替えると、客人に向かって口を開く。
 「仕方ありませぬ。蜻蛉の尽力を無にしない為にも、ご依頼をお受けしましょう」
 「おぉ、感謝します」
 喜色を浮かべる男達を尻目に、綴はどこか晴れない様子で秘かに溜息を落とした。