Tir na n-Og



 躊躇いがちに踏み出した足下で、細かな白砂がきしりと啼く。
 そんなささやかな音さえはっきり聞こえるような、耳が痛くなるほどの静寂が辺りを支配していた。
 立ち枯れたまま炭化したかのような煙墨の色の木々が疎らに生えている以外にこれといった起伏もない白い大地は、無数の鈍色の墓標に埋め尽くされている。
 音も、熱も、彩りさえもが死に絶えた世界。
 「死者の国、カエール・シディね…」
 ぐるりと周囲を一望したアルが、墓標の群れの中心に聳える巨大な建造物に目を止める。
 「どうやら、目的地はあの塔らしいな」
 一切の光を吸収する漆黒のその塔は、灰色の雲が垂れ込める重い空の下にあって尚冷え冷えとした威容を誇っていた。
 その不気味な存在感は、まさに死者を統べ世界の支配を目論む悪の巣窟と呼ぶに相応しい。
 セーン島の魔女シールセはアル達をカエール・シディの付近まで転送すると言っていたが、どうやら随分と敵陣深くまで送り込んでくれたようだ。
 或いは、彼女が眠りについていた間に、冥主メディールの版図が広がったという事か。
 一行は、庭園墓地か霊園といった風情の敵地に慎重に足を踏み入れる。
 彼等が近づくと、その熱量につられるように墓標の上に鬼火が灯り、立ち昇る煙のようにぼんやりとした人影が現れた。
 おそらくは、それぞれの墓の主なのだろう。
 武装した兵士の姿が多いのは、大規模な戦闘の後に戦死者の魂を一斉に攫って来た為か。
 或いは、このカエール・シディそのものがかつての戦場なのかもしれない。
 虚ろな顔つきの死者達は、遠巻きに一行を見ているだけで、攻撃を仕掛けるどころか近づいて来る気配すらない。
 その様子を薄気味悪そうに見遣りながら、フィンは少々拍子抜けした調子でこう呟いた。
 「何て言うか、もっとおどろおどろしいトコロなんだと思ってた」
 煮え滾る溶岩に囲まれた炎熱地獄とか、苦鳴と怨嗟の声に満ちた毒沼とか、氷の煉獄コキュートスとか。
 思いつくままに不穏な想像を並べ立てるフィンを、先を行くアルが苦笑混じりに振り返る。
 「それじゃ地獄絵図だろーが。いくら自ら冥主を名乗る変わり者でも、そんな住みにくい場所に本拠を構えるほど物好きはそういないだろ」
 更に、ミトラも肩越しに不吉な事実を告げる。
 「それに、心配しなくても死の痕跡なら其処此処に在るわ。この砂はたぶん風化した骨だもの」
 「それはそれでヤダけど」
 何食わぬ顔で怖い事を言うミトラに眉根を下げて情けない顔をしたものの、フィンのお喋りは止まらない。
 「それにしても、死者達にも覇気がないていうか…骸骨とか、ゾンビとかが襲い掛かってくるんじゃないかって覚悟してたんだけど」
 そんなフィンに深々と溜め息を吐いたミトラは、足を止めてフィンに向き直ると真顔でこう忠告した。
 「そういう事は、思ってても口にしない方が良いわ」
 「何で?」
 首を傾げるフィンを呆れと憐憫の合い混じった目で見遣って、ミトラは辛抱強く懸念を指摘する。
 「お利口なAIが、バカ正直に現実化してくれたら困るでしょ?」
 フィンは、げ、と顔を蒼褪めさせたかと思うと天に向かってばたばたと両手を振って声を張り上げた。
 「今の無し!無し!どうせなら天国とか極楽希望!」
 その隣で、ミトラは頭痛を堪える仕草で再び溜め息を落とす。
 賑やかな年少組の遣り取りを生温い笑顔で眺めていたアルは、ふと何とも言えない寂寞感に触れた気がして辺りを見回した。
 「レイ?」
 僅かな感触を辿って視線を動かした先に、能面のような無表情で墓標の群れを見つめるレイの姿を見出して、アルは訝しげに眉を潜める。
 そういえば、この地に着いてから何だかレイの様子がおかしかったような気がする。
 先刻からの会話にも加わっていななかったし、そもそも此処に来て以来一言も発していないのではなかったか?
 「どうした?」
 背後からそう声を掛けると、レイは「いや」と首を振って目を伏せた。
 そうして、端整な男装の麗人としての横顔に淡い笑みを刷いて、静かにこう呟く。
 「随分と寂しい景色だと思って」
 そんなレイの振る舞いは、アルに微かな違和感を抱かせた。
 まだまだ子供じみたところのあるフィンや無風流を自覚しているアル自身と違って情趣にも通じているレイだが、一方で任務には誰よりシビアでもある。
 感傷的とも取れるようなその発言は、どうにもらしくないように思える。
 だが、その違和感がアルの中で具体的な形を成す前に、レイの表情は穏やかなのに挑発的で謎めいたいつもの笑顔で、未だに騒いでいるフィン達の方へと戻って行った。



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