Tir na n-Og



 水面を渡る潮騒に紛れて、幽かな歌声が聞こえてくる。
 海鳥の鳴く声にも似たその歌に明確な詩はない。
 ただ、時折ぽろん、ぽろんとかき鳴らされる琴の音と共鳴して、耳にする者の心を騒がせる。
 歌声の主は、緑森教団のマントに身を包んだ小柄な少女――ミトラだった。
 彼女を乗せた小船には、舵も櫂もない。
 ただ、檣に掛けられた褪色した帆だけが、不自然に風を孕んで船を動かしている。
 凪いだ波間を滑るように進む船の舳先に立つミトラの後姿を眺めつつ風の魔法を操るフィンは、手持ち無沙汰な様子のアルにこう問いかけた。
 「魔女の眠りってどんなもんなんですかね?」
 「さぁな」
 檣に背を預け、神鳴の槍【クーメイル】を抱えて座り込んだアルは、さして興味もなさそうにフィンの相手をする。
 「とりあえず、リアノンのエルフが使った眠り薬の類とは違う種類の魔法が使われてるんだろ」
 その事を指摘したのは、ハーフエルフの精霊使い《エレメンタリスト》レイだった。
 レイは、人々の口の端に上る断片的な情報から、西の海に浮かぶセーン島を「眠りの島」と呼ばしめている事象の正体を一種の結界と断じた。
 不用意に境界を越えて島に近づけば、眠りの魔法によって意識を奪われる事になる――そうやって、その島は侵入者を拒んでいる、と。
 だからこそ、こうしてミトラが術封じの歌を詠唱して一行の乗る船を護っているのだ。
 それは解っていても、旺盛なフィンの好奇心は留まるところを知らないようだった。
 子供が戯れ歌を口ずさむように、フィンは思いつくままを口にする。
 「安眠、仮眠、昼寝にうたた寝、微睡みとか昏睡とか爆睡とか、狸寝入りとか」
 そこに、船の最後尾で魔物避けの為に竪琴を爪弾いているレイが茶々を入れてきた。
 「永眠、とか?」
 「コワイコト言わないでくださいよ」
 半分くらい本気で怯えるフィンに、レイは形の良い唇を軽く吊り上げて意味深な笑みを閃かせる。
 「あとは冬眠、なんてのも良い線かもね」
 退魔の剣【ベルテーン】を守護を務めていたエルフの王子の勧めに従って西の海を訪れたものの、一行が船を仕入れた海沿いの町では月零の杖【ディアンセット】に関する情報は得られなかった。
 代わりに彼等が小耳に挟んだのが、魔女の眠りの噂だ。
 曰く、「眠りの島セーンには魔女の呪いがかけられている」。
 船乗りを惑わせる魔性の伝説はよく聞くが、どうも話を聞く限りではその手のお伽噺とは少々趣が違うらしい。
 魔女の呪いによる眠りの魔法はセーン島へと向かう道中だけでなく、島そのものにも効力が及んでいるというのだ。
 それ故、元々島で暮らしていた住民達も醒めぬ眠りに就いて久しく、謎に挑んだ冒険者達も魔法に囚われ誰一人として戻っては来ないのだとか。
 それが事実なら、セーンを眠りの島たらしめている現象は、やはり旅人を水底へ誘う海妖の伝承とは一線を画するのだろう。
 どちらかと言えば「セイレーン」より「眠りの森の美女」だ。
 おまけに、陸と島を隔てる海峡は岩礁等の難所こそないものの年中海霧に覆われている上、波が荒れる事がない代わりに風も禄に吹かないらしい。
 風が吹かなければ当然帆船は進まないわけで、本来なら人手に頼らざるを得ないのだが、地元の人間は呪いを恐れて船を出そうとはしなかった。
 だからといって潮任せで波間を揺蕩っているわけにもいかないから、仕方なくこうして魔法で船を動かしている、というわけなのだが。
 「眠りの島の魔女かぁ…どーせなら美人だと良いなぁ」
 「おまえなぁ…」
 能天気な感想を述べるフィンを前に、アルは呆れ混じりの溜め息をつく。
 得体の知れない魔法に支配された地へ乗り込もうとしているとは思えない緊張感のなさも、片恋相手の前で美女との出逢いに期待を寄せているかのような発言をするその心情も、アルには理解が出来ないものだった。
 若さ故の無謀と言ってしまえば簡単だが、それでは如何にも年寄りじみているようで抵抗がある。そもそも、アルとフィンはそれほど年が離れているわけではないのだ。
 アルが無駄に煩悶している間にも、船は海峡を越え、目的地へと進んで行く。
 やがて、一行の視界に、切り立った崖に囲まれた島影が現れた。



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