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「森が憩いの場所だなんてのは都会人の幻想だよな」 大振りのハンティングナイフで道を塞ぐ木の枝を切り開きながら先頭を行くアルが誰にともなく零した呟きに、こちらは腰に下げた剣の柄に手を掛け油断なく周囲を窺うフィンがのんびりと応じる。 「普通の人が思い描く「森」なんて、遊歩道が整備されちゃってるような森林公園かご近所の雑木林くらいでしょ?身の危険とかあんまり感じないんですよね〜」 現在彼等がいるのはリアノンの森、別名エルフの森と呼ばれる大森林地帯だ。 先に訪れた「始まりの地」リース・ティルノンで妖精王の神器の1つである神鳴の槍【クーメイル】を守っていた黒竜が、次の目的地として示したのがこの森だった。 黒竜曰く、この地を治めるエルフ族の女王が残りの神器の在り処について何らかの情報を握っているというのだ。 だが、道中補給と休養の為に立ち寄った町の人々は、リアノンの森への道を尋ねるアル達を口々に制止した。 「あそこは魔法の森だよ。エルフ達が自分達の棲み処を護る為にいろんな罠を仕掛けてるんだ」 「いやいや、最近じゃ魔物の森って言った方が良いんじゃねぇか?」 「どっちにしろ、人間が足を踏み入れて良い場所じゃないよ」 そういった噂を耳にしていなかったとしても、この森を進んで訪れたいと思う者は殆どいなかったろう。 鬱蒼と生い茂る枝葉に覆い尽くされた上空からは木洩れ日すら碌に射さず、立ち込める靄の所為もあって森の中は昼間でも常に薄暗い。 この分では、夜ともなれば視界は限りなくゼロに近づくに違いない。 ひんやりと湿った大気には、清涼さよりも薄気味の悪い肌寒さを覚える。 フィトンチッドとかマイナスイオンとか木々の香りとかいった所謂「癒し」の要素は全く感じられなかった。 更に、普段から旅人さえ近寄りもしない地だけに当然地図など存在しないし、申し訳程度の獣道以外辿るべき道筋も定かではない。 一度迷い込んだら最後二度と生きては出られない禁断の樹海――そんなイメージがしっくりくる。 だが、人間には危険な土地でも、動物達にとってはそれなりに棲み易い場所ではあるらしい。 姿こそ見えないものの、森の其処彼処から生き物の気配が伝わって来る。 闇の向こうから忍び寄る足音や荒い呼吸音、窺うような視線、息を詰めて身を潜めているのは草食の小動物か…。 緊迫感のない会話とは裏腹に、アル達はリアノンの森に足を踏み入れてからずっと全身の感覚を研ぎ澄ませて周囲の様子を探っていた。 そうして張り詰めた緊張の糸が、遂に異常を捉える。 「おいでなすった!」 アルが低く警告を発したのと時を同じくして、立ち並ぶ木々の間から獣の群れが姿を現した。 小柄な2人を与し易いと見たのだろう、群れの内の2頭がミトラとフィンを獲物と定めて飛び掛かる。 ひゅんっと風を切る音、それから、聞き苦しい悲鳴。 ミトラに襲い掛かった1頭は、精確に眉間を射抜かれた勢いで地面に叩きつけられて絶命した。 「動物保護団体辺りに怒られそうだなぁ」 疾風の如き容赦のない速射で敵を退けておきながら場違いな感慨を述べるレイに、肩越しに振り抜いた【クーメイル】で残りの1頭を叩きのめしたアルはうんざりと反論する。 「こいつらは野生動物なんてカワイイもんじゃねぇだろ」 アルの言う通り、彼等を取り囲んでいるのは間違いなく魔物の類だった。 一見すると野犬か狼の群れのようだが、それにしては明らかに様子がおかしい。 闇の中でぎらつく眸は狂気に血走り、汚らわしい牙の間からはだらだらと唾液が垂れ流しになっている。 大地を抉る爪は異様に長く、体格も通常の獣と較べて一回り以上大きい。 何より、その身を取り巻く殺意の邪悪さが尋常ではなかった。 思いの外強力な反撃に警戒感を抱きつつじりじりと間合いを詰めて来る魔獣の群れと武器を構えたアル達との間で、互いの力量を測る睨み合いが生じる。 一瞬の後にアルが下した判断は、蛮勇の愚行ではなく賢明な撤退だった。 「走れ!」 鋭く放たれた一言を合図に、一行は身を翻す。 同時に、彼等を取り囲んでいた魔獣の群れが一斉に追跡を開始した。 森の中の逃避行は、部外者であるアル達にとって分が悪い。 張り出した木の根や降り積もった落ち葉の所為で頗る足場が悪い上に、入り組んだ木々と薄闇が視界を奪う。 魔力によって高められた感覚を頼りに進むべき方角を定めようにも、こうも身の危険が差し迫っていたのでは悠長に選択している余地はない。 このまま走り続ければ、いずれ道に迷う事になるだろう。 しかも、見透かす事の出来ない闇の先に新たな脅威が潜んでいないとも限らないのだ。 そんな悪条件ばかりが重なる中、先程までとは逆にフィンが先陣を切って立ち塞がる敵を斬り伏せ、殿を務めるアルが追い縋る相手を打ち払う形で、一行はリアノンの森を駆け抜ける。 魔獣の群れを振り切る事に専念していたアル達は、期せずして森の奥深くへと追い込まれている事に気付いていなかった。 |