「グロールフィンデル」
突然名を呼ばれ、驚いて口付けを交している唇を離してしまった。
背後から私の名を呼んだのは、ここ裂け谷の主・エルロンドだった。
「こんな所に居たのか。間もなくスランドゥイル殿が到着されるぞ。出迎えの準備を」
怒りを押し殺した様にそれだけを言うと、彼はくるりと向きを変え、館の方へ去って行った。
「………」
折角、これから良い所だったのに。
私は身体を起こし、顔に掛かった髪を掻き上げ、肩を竦めた。
「――と、いう事で、埋め合わせは、また今夜にでも」
私は裂け谷の小道に備え付けられたベンチに横たえ、口付けを交していた女性の手を取り、そこにおわびのキスをした。
「気長にお待ちしておりますわ」
そう言って、彼女は私の頬に柔らかい唇を軽く押し付けた。
着替えを済ませ、『最後の憩』館のエルロンドの私室へ向かった。
途中、アルウェン付きの侍女の一人と擦れ違い、その唇が誘う言葉を形作ったが、「今夜はダメだ」と目で合図を送った。
「お待たせ致しました」
愛想笑いを作って部屋に入ると、エルロンドが眉間に皺を寄せ、実に不機嫌そうに顔を向けて来た。
「客人が待ち兼ねておられるぞ。今度、そなたの病を治す薬を煎じて進ぜよう」
「……ははは。エルロンド、その話はまた後程。で、そちらの方は?」
テーブルを挟んでエルロンドの向かいに座って居る二人の人物に、目を向ける。
一人は闇の森の王・スランドゥイル殿。私も旧知のエルフだ。もう一人の若いエルフは初めて見る顔だった。
「グロールフィンデル、先日の夕食の時、話したであろう?」
エルロンドの言葉に、その時の記憶を辿ってみて、そう言えば、彼がそんな話をし始めた時、給仕にやって来た館の侍女に、夜のお誘いをしていた事を思い出した。
「あーぁ、あの時の…」
とは言ってみたものの、全く覚えが無かった。
スランドゥイル殿は私とエルロンドの会話のやり取りを、苦笑混じりに聞いていたが、若いエルフの方は眉一つ動かす訳でも無く、一切の表情を消して私を見つめていた。
感情を表さない所為か、このエルフは酷く両性的で、しかしその顔は、隣に座る人物によく似ていた。
「レゴラスと申します」
そのエルフは立上がり、右手を左胸の上に当て一礼する、エルフ式の挨拶で名を名乗った。
「申し遅れました。グロールフィンデルです。以後、お見知りおきを」
私もエルフ式の挨拶で自己紹介をし、エルロンドの隣へ据わった。
「――“緑葉”ですか。闇の森が緑森大森林と呼ばれていた頃を思い出させる、良い名ですね」
微笑みながらそう言ったが、相手は伏し目で一言礼を言っただけだった。
…………。
何と愛想の無いエルフなのだろう。
「正しくその通りです」
喋ろうとする気の全く無いレゴラスの代わりに答えたのは、父親のスランドゥイル殿だった。
「これの名は、妻が当時の我々の森にちなんで付けたのですよ。私は伝説の宝石の名を付けたかったのですが」
そうスランドゥイル殿が言った途端、レゴラスは自分の父親を横目で睨み付けた。
「何とも、あなたらしいですな」
エルロンドはそれに全く気付かなかったのか、意に介していないのか、そのままスランドゥイル殿との会話を楽しんでいた。
結局、レゴラスは時折投げ掛けられた質問などに、素っ気なく答えるだけで、殆ど話す事は無かった。このエルフが男なのか女なのかも、判らず終いだったのだ。
夜も更けた頃。
昼間、良い所でエルロンドに邪魔をされ、中断せざるを得なかったお楽しみの時間の続きを過ごし、私室へ戻る途中。『イシルドゥアの禍』の壁画の前で、その絵をじっと見つめている人物が目に止まった。
裂け谷のエルフが、この絵の前で足を止める事など滅多に無いし、第一、私以外で金の髪色をしたエルフは珍しいので、この人物が闇の森のエルフである事は容易に判った。
「その絵に興味がお有りですか?」