依頼を受けて遠野家に来て、数日が経とうとしていた。
その間、志貴の部屋には話に聞いてた女性は姿を見せず秋葉も少し安心していた。

「そう……でも、油断は出来ないわ」
「大丈夫ですよ」
「その根拠は何かしら?」
「えー、決まっているじゃないですか」
「…………」

琥珀が微笑むのを横目に秋葉が向かいで座っている自分の兄と頬を赤くして話をしている翡翠を睨んだ。

「はぁ〜」

自ら招き入れてしまった不運に秋葉はため息を付くしかなかった。
人、それを自爆と言う。
『ミイラ取りをミイラにしてしまった』とも言ったりするかもしれない。






洗脳探偵 翡翠 brainwasher-hisui



第二話「わたしは猫じゃないよ」







夜も更けて人通りが少なくなった住宅街を一人の女の子が歩いている。
なにやら気分が良いのかニコニコして、その足取りは軽いようである。

「ふふん、あの妹も油断しているだろうし……今夜こそは志貴はわたしの物ね」

まーるい月に向かって宣言すると、意気揚々に坂の上の遠野家に向かった。
正面の門ではなく、志貴の部屋に一番近い塀際に来ると近くの電柱を器用に上ってあっという間に
敷地内に降り立ち忍び足で窓の下まで走る。

「やっぱり油断しているようね、可愛いとこあるじゃない」

ひゅ〜っ。

がん。

「にゃあっ!?」

ニヤリと笑いその手を壁の出っぱりに掛けてすっと登ろうした時、上から大きな物が落ちてきて
彼女の頭を直撃してそのまま一緒に地面に落っこちた。

「ん、何か変な音しなかった?」
「いえ、近くで猫が騒いでいたようです」
「そっか」
「はい」

窓辺で下を見下ろしていた翡翠は雨戸を閉めて窓に鍵を掛け、更に厚手のカーテンを閉めて志貴に
振り返る。

「それではお休みなさい、志貴さま」
「翡翠?」
「あっ」
「じゃあもう一回?」

はにかむように微笑んで志貴を見つめて小さな声で呟いた。

「お休みなさい……志貴さん」
「うん、お休み翡翠」

お辞儀をして自分を見ている志貴の視線を気にしながらも翡翠は部屋を後にした。
ばたん、とドアを閉めると表情を消して歩き出し一階に下りて外に出る。
そして庭を横切り志貴の部屋の下辺りに来ると、大きなタライのそばで目を回して気絶している女の子の足を掴んで
ずるずると引きずり出した。

「志貴さまには絶対に近づけない」

そう呟きながら翡翠は家の裏にある勝手口の方に向かって歩いて行った。
翌朝、ゴミ集積場で大きなゴミ袋に首から上を出して寝ていた彼女は朝日の照らされて目覚めた。

「な、なによこれ!?」

袋の中でもがいてあらん限りの力で引き裂くと、仁王立ちになって拳を握りしめた。

「やってくれたわね、妹……このまま諦めると思ったら大間違いよ!」

朝から大声で叫んでいる彼女を道行く人はほとんど同情って言うしかない目で横目に通り過ぎていった。






「翡翠ちゃん、ちょっといいかしら?」
「何、姉さん?」

掃除が終わって道具をかたしている翡翠に、琥珀が手に何かを持ちニコニコして近づいてくる。

「実は志貴さんがお弁当持たずに行ってしまったから届けて欲しいんだけどお願いしても良いかしら?」
「えっ、お弁当?」

と、翡翠の返事を待たずに琥珀は一人分にしては大きい包みを手渡した。

「いくら何でもこれ多くない?」
「ちゃんと翡翠ちゃんの分も入れてありますから志貴さんと一緒に食べてきてくださいね」
「わたしの分って……姉さん!?」
「ゆっくりしてきて良いですよ……あ、帰りは志貴さんと一緒かなー、ふふふっ」

と、微笑みながら静かに去っていく琥珀であった。

「…………」

暫くお弁当を見つめたまま立ちつくしていた翡翠だが、小さく頷くと歩き出し屋敷を後にした。
その彼女の様子を窓から見ていた影一つ。

「さあ翡翠ちゃん、ばっちり学校の皆さんに志貴さんとの仲を見せつけるんですよ」

くっくっくっと妖しさたっぷり含んだ笑顔と笑いが一人残った屋敷に浸透していった。
そしてその頃、午前中最後の授業を受けていた志貴は……空腹のため今にも死にそうだった。

「腹減った……けど、今日は金無いんだよなぁ〜」

などと、真面目に受けている振りをして窓から青空を見て眠そうにうだうだしていた。
しかし、そんな眠気を吹っ飛ばす出来事が自分の身に起こるとは予想すらしていないのは当たり前である。
まさにその時、志貴の運命を大きく左右するベルが鳴り始めた。

き〜んこ〜んか〜んこ〜ん♪

「よお親友、お昼になったぜ」
「あー、今日は金無いんだ……」
「それは残念だな、俺も貸してやりたいのだがあいにく今日は帰りにCD買うから貸せん」
「期待してないからいい」
「さすが心の友だ、親友」
「いーから早くいっちまえよ!」

がははと購買に向かう有彦が教室のドアを開けようとしたら、控えめなノックの後にがらがらと開いた。

「失礼します」

その声に教室に残っていた生徒は皆入ってきたメイド服の少女に釘付けになり固まった。

「え、翡翠?」
「お待たせしました、志貴さま」
「どうしたの?」
「お弁当を持ってきました」
「お弁当……ってこれ全部?」
「いえ……あの……わたしの分も……」
「あ、なるほど、じゃあ翡翠も一緒に食べようね」
「宜しいのですか、わたしと一緒で?」
「うん、一人で食べても味気ないしね、それとも翡翠は迷惑だったかな?」
「そ、そんなこと有りません!」
「じゃあ天気も良いから中庭で食べようか」
「はい」

そこで立ち上がった志貴だったが、クラスメイトたちの視線を浴びている事に漸く気が付き事態を把握した。

「親友・・・この娘はおまえの何なんだ?」
「翡翠のこと?」
「呆けるんじゃない、さあきりきり言うんだ」

詰め寄る有彦に困った顔して答えようとした志貴に代わって翡翠が先に答える、しかもストレートに。

「わたしは志貴さま付きのメイドです」
「な、な、なにぃ〜っ!?」

そして教室の中は有彦の悲痛な叫びに合わせて騒がしくなった。

「おまえって奴はそんな嬉し楽し日々を過ごしていたのか、ああっ?」
「なに興奮しているんだよ、有彦?」
「志貴さま、昼食の時間が無くなってしまいますが?」
「ああ、すまん有彦、話は後で……」

すっぱりと自称親友の話をそこに置いて、翡翠を連れて志貴は教室から中庭に移動していった。
芝生の上にシートを広げてその上に翡翠と向かい合ってお弁当を堪能する志貴の姿が教室に残っていた
生徒たちの嫉妬心を煽るのには充分だったと言えよう。

「今日の帰りは予定を変更して親友の家に遊びに行かなくては……」

親友としては抜け駆けされたと思っている有彦はその後熱い思いを胸に抱いて放課後を待っていた。
有彦の思惑に気が付くはずもなく、お弁当を全部平らげた志貴は満足したのかそのまま芝生に寝ころんで
昼寝の体制に入った。

「志貴さま」
「ん〜、な〜に翡翠?」
「あの……失礼します」

目を閉じているとそっと自分の頭を持ち上げる翡翠の手の柔らかさに満更でもなかったが、
それよりも下ろされた後頭部に感触の方がもっと気持ちよかった。

「いいの、翡翠?」
「はい、寝るときは頭を高くした方が良いです」
「ありがとう、翡翠……」

ほとんど眠りかけていた志貴は翡翠に膝枕をされて満足そうに微笑むと、つかの間の昼寝を始めた。

「お休みなさい……志貴さん」

二人だけの時の呼び方で志貴に語りかけ、翡翠は軟らかくちょっとだけ頬を赤くして微笑みその眠りを見守り続けた。
余談であるが結局午後の授業を寝過ごしたのは熟睡した志貴が起きなかった為と補足しておこう。

「まったく遠野くんたら授業をサボるなんて関心しませんね」

また一人、志貴を狙っている女の子が二人の様子を授業の合間に見下ろしながら眼鏡の下にあるその目を
妖しく光らせていた。

「にゃ? 私の出番は?」
「残念です、今週はここまでですー、また会いましょう♪」
「なんでわたしの名前が出てこないのよー!」
「わたしの紹介も無いですね、この女と同列に扱うなんて許しません」
「にゃにおー!」
「お黙りなさい」






つづく。