幕末期における水戸藩の背景

水戸藩の派閥抗争を見守った樹齢300年のケヤキ 常陸三宮吉田神社: 水戸城を目の前にして天狗党はここに陣を張ったが交渉決裂、那珂湊へ移動する。

ペリー提督の率いる黒船が、相州浦賀へ来航したのは嘉永6年(1853)、今から150年ほどのことであるが、このときから我が国は「世界の中の日本」として、国際社会の荒波に乗り出していかざるを得なくなった。

西洋列強は、圧倒的な軍事力を背景に、すでにアジア諸国を次々に植民地としていたのであったが、ペリー来航によっていよいよその危険性は我が国にも迫ってきたのである。

しかし、ペリー来航と同じ年、地中海への南下を目指すロシアと、イギリス・フランスとの間でクリミヤ戦争が起こり、列強は東方へ関心を集中できず、戦後も列強の相互牽制が続いて、我が国の独立が脅かされるという事態には至らなかった。

とはいえそれは、結果から見てそういえるのであって、幕末の時代に生を受け、とりわけ国政に責任を持つ立場に立たされた人々にとっては、我が国の独立と安全をいかに確保するかという課題をいつも強く意識していなければならなかったに違いない。

これまでの幕末史の研究は、ともするとその「外圧」を軽く見る傾向があるように見えるが、それでは当時の歴史を正しく理解したことにはなるまい。

実は、ペリー来航より30〜40年も前から、全国に先駆けて「外圧」に警鐘を鳴らし始めたのが、御三家水戸藩の藤田幽谷とその子東湖、幽谷の門人会沢正志斎らの、いわゆる水戸学を唱えた人々であった。正志斎は、早くも文政8年(1825)、『新論』を著し、列強の迫りくる国際情勢を説き、内政改革の必要性を訴えていた。

正志斎を侍読として学んだ九代藩主徳川斉昭は、就任と同時に藩政改革に着手し、その改革は全国有識者の視聴の的となったが、その思想的裏付けとなったのが水戸学である。

水戸学の思想は、吉田松陰をはじめとして各地の志士たちの行動指針となったのみならず、明治以後の人心にも多大な影響を及ぼしていく。藤田東湖の『回転詩史』や『正気歌』などはその代表作といえる。

このように、水戸藩はいち早く内憂外患の体制的危機を自覚し、御三家の矜持から、その危機克服に立ち上がったのである。しかし、その過程で深刻な派閥抗争を引き起こし、そのうえ幕府のたびたびの干渉を受けて、ついには名伏しがたいほどの苦境に遭遇し、多大の犠牲さえ払わなければならなかった。そして大混乱のうちに藩そのものの解体を迎える。

討伐運動の主力となった外様の薩摩・長州の両藩が明治新政府の中で重要な位置を占めたのと比較して、水戸藩の末路はあまりに哀れであった。斉昭の七男で最後の将軍となった徳川慶喜は、朝敵となって上野の寛永寺に謹慎中、

      花もまた哀れとおもへ大方の 春を春とも知らぬわが身を

と詠んだ。この歌は、水戸藩の悲劇性を象徴しているかのようである。


  流星の如く  瀬谷義彦・鈴木暎一著 NHK出版 端書きより抜粋