廃光代寺観音堂の千手観音像
 この千手観音像は廃光代寺の本尊とみられ、彫技より室町時代後期の製作とみられている。光代寺は広大寺、広代寺、光大寺などとも記されており、厳島社の末社天王社の別当職を勤めていた。 光代寺の初見は天文20年(1551)で以降史料で散見されるが寺歴は定かでない。
  戦国時代末ごろ光代寺の住持は廿日市の鋳物師山田次右衛門の弟の山田林斎で、この林斎に嫁いだのが宇佐村(山口県錦町)の刀祢職を勤めていた宇佐川雅之助の娘であった。この夫妻には嗣子がなかったので文録3年(1594)に雅之助の孫である喜左衛門を養子に迎えている.
  慶長6年(1601)に広島藩に入部した福島正則によって光代寺は取り潰しにあい、林斎は還俗して宮内村庄屋役を命ぜられている。宇佐村の喜左衛門弟である宇佐川長兵衛は山田次右衛門の娘を妻としているが、この夫妻にも嗣子が無かったので喜左衛門の長子善兵衛が宇佐川家に養子に迎えられている。
  このように中世末期から近世初頭にかけて宇佐村宇佐川氏と廿日市の鋳物師山田氏との深い関わりが伺われ、宇佐の鉄燈籠もこのような背景から廿日市鋳物師によって鋳造されたものとみられるのである。
はつかいち点描