画家渡辺対岳
 画家の渡辺対岳は当市地御前の出身で対岳の父親である甚兵衛は伊予屋を称しており、母親歌との間に長兄、次兄と生年月日が不詳の哥六(画名対岳)がいた。甚兵衛は紺屋を兼営していたといわれ哥六の家庭環境は筆画技能や色彩感覚などを身につける素地は整っていたものとみられる。
 伝承では対岳は京都に上り四条派画家に師事していたといわれるが定かではない。
天保3年(1832)頃に刊行された厳島絵馬鑑の中で、厳島神社に奉納された絵馬73点のうち43点の模写縮図を描いている。また、天保13年(1842)に刊行された厳島図会では大内義隆公甲冑図と小桜威甲冑図の模写縮図を描いている。対岳は天保9年(1836)3月14日に病没している。

  厳島神社絵馬縮図については 『厳島神社絵馬模写縮図について』 (広島県文化財ニュース 第148号 平成8年3月 広島県文化財協会)にて詳述しているので参照して下さい。
 厳島神社に奉納されている玄徳躍馬跳檀渓図絵馬で本殿の廻廊に掲額されていたが現在は千畳閣に掲額されている。文化8年(1811)に楠亭が描き奉納されたもので、この絵馬を渡辺対岳が模写縮図した。
 渡辺対岳が模写縮図した玄徳躍馬跳檀渓図で、この模写縮図を版木に転写して彫師が彫る。
 渡辺対岳などが模写縮図をしたものを版木に転写し、彫師が彫って摺師が刷り上げたものが「厳島絵馬鑑」で天保3年(1834)に刊行された。以降弘化4年(1847)版、嘉永元年(1848)版、明治28年(1895)版、明治37年(1904)版など刊行されている。
はつかいち点描