呉要塞区域標石 | ||
呉要塞区域標石は安芸区・熊野町境の洞所山系で一基確認することができ、西区の鈴ケ峰山にも同じような標石が一基ある。また、「広島を繞る山の研究」の挿入絵地図によると極楽寺山の南面に三ヶ所あったことが記されている。
この標石は花崗岩製で15p角、70〜80pの高さで建立されている。標石の銘文は一面に「呉要塞区域標」、二面に「明治三十二年六月」、三面に「陸軍省」、四面に「第〇〇号」と通し番号が刻されている。鈴ヶ峰山の標石は一面と四面の刻字部分の一部が剥がれているが、後掲する呉要塞地図の区域線上に位置しているので同一の標石とみても間違いないと思われる。 広島湾要塞第一地帯標石は呉市の入船山記念館内に一基移設されているがどこに建立されていたものかは不明である。この標石は荒仕上げの花崗岩製であり、18p角で100pの高さのものである。標石の銘文は一面に「□廣島湾要塞第一地帯」と刻してあり、上部に第一地帯を表わす記号が「SM 1ST Z」とある。二面に「明治三十二年五月」、三面に「陸軍省」、四面に「第五十九号」と刻されている。 広島湾要塞第三地帯標石は廿日市市大野町高見川上流に架かる地蔵橋の脇に建立されている。この標石は前者と異なって丁寧な仕上げがしてあり、15p角で下部は折れたものとみられ全長78pのものである。標石の銘文は一面に「□廣島湾要塞第三地帯標」と刻してあり、上部に第三地帯を表わす記号が「SM 3rd Z」とある。二面に「明治三十二年六月」、三面に「陸軍省」、四面に「第五号」と刻されている。 これらの標石には要塞区域・要塞地帯とあるが要塞の定義をみると永久の防禦工事を以って守備する地を称するとある。明治28年(1895)3月30日勅令で要塞司令部条例が公布されており、明治31年(1898)7月27日の勅令で要塞近傍に於ける水陸測量等の取締に関する件が公布され、9月28日陸軍省告示で呉要塞地近傍区域(図5)が制定された。 この区域は要塞に於ける各防禦営造物の周囲より外方に5750間(10.465q)以内に設定されており、これらの区域内で水陸の形状を測量したり模写、撮影、筆記するには許可を必要とした。 明治32年(1899)7月14日要塞地帯法が公布されており、要塞近傍に於ける水陸測量等の取締に関する件は一部廃止された。8月11日には要塞地帯法施行規則と陸軍・海軍省連帯告示で呉要塞地区域(図6)が制定されている。 要塞地帯は国防のために建設した防御営造物の周囲の区域をいい、これらの区域を三区に分けている。第一区は防禦営造物より250間(455m)以内、第二区は750間(1365m)以内、第三区は2250間(4095m)以内で、これらの区域内では様々な禁止事項が制定され制限が行われていた。なお、これらの詳細については要塞地帯法や要塞地帯法施行規則を参照されたい。 入船記念館内にある広島湾要塞第一地帯標石は呉軍港を守備するための防禦営造物周辺250間(455m)の区域線上に建立されていたものであり、また、大野町の広島湾要塞第三地帯標石は大野瀬戸に設置された室浜砲台からの距離2250間(4095m)の区域線上に建立されたものである。 また、第三区の外方3500間(6370m)の区域内でも制限が行なわれており、この外周区域内が呉要塞区域として設定された。鈴ヶ峰山や洞所山系でみられる標石はこの区域線上のものである。 これらの標石は同じ法令で制限区域などが設定されて建立されたものとみられるが、名称の違いや建立月のずれなど疑問点があり、これらについては現在のところ明らかでない。 呉要塞地区域は明治36年(1903)5月1日に陸軍・海軍省連帯告示で広島湾要塞区域と改称され、大正15年(1926)7月31日に広島湾要塞区域は廃止されて新たに呉要塞地帯区域が制定された。これにより10月末日までに標石は現場にて破壊又は引き倒して海中又は谷地に投棄するか埋填されており、これらを免れたものがわずかに残されているのである。 |
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呉要塞区域標石(明治32年6月) | ||
標石番号 | 所 在 地 | 備 考 |
第?号 | 廿日市市原 | 広島を繞る山の研究 |
第?号 | 廿日市日市市上平良 | 広島を繞る山の研究 |
第?号 | 広島市佐伯区 | 広島を繞る山の研究 |
第?号 | 広島市西区 鈴ケ峰山標高312mケ所 | |
第93号 | 安芸郡海田町・熊野町 洞所山系標高500m付近 | |
広島湾要塞第一地帯標石(明治32年5月)(明治39年3月改築) | ||
第59号 | (現在呉市幸町 入船記念館内) | |
第112号 | 呉市 灰が峰山系 | |
広島湾要塞第三地帯標石(明治32年6月) | ||
第5号 | 廿日市市大野町 高見川地蔵橋脇 |
近代戦争制限区域標石